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「日常空間で見る絵」と「非日常空間で見る絵」



現代の絵画は、「日常空間で見る絵」と「非日常空間で見る絵」という二つの路線に、かなりクッキリと別れてしまっていると思うわけです。

 ※この記事は「美術館で見る絵」VS「家で見る絵」という形で書いていますが、
  私自身は「芸術が創り出す幻想」を「日常空間」に持ち込むことで、「日常空
  間」の中に「非日常空間」を生み出すことが出来れば、それが理想的だと思
  っております。
  つまり、「美術館=非日常空間で芸術を鑑賞すること」と「家=日常空間で芸
  術を鑑賞すること」が、いろいろな意味でミックスされていけば、面白くなるん
  じゃないか?と思っているわけなんですねぇ。

要するに、「家に飾るような絵」と「美術館で見るような絵」と言うことになるわけですが、この二つは、「インテリアとしての絵」と「芸術表現としての絵」と言ってもいいと思います。

これをさらに言い換えれば、「何の気なしに見ても疲れない絵」と「見るとチョトつかれる絵」と言うことになります。


この二つが、別れてしまっていることは、ある程度仕方がないことだと思うのです。

やっぱり、目的が違うというところがあるわけですし、目的が違うものは、ある程度は別れていたほうがイイような気もします。
(やや、離れ過ぎのような気もしますけど)


しかし、この「二種類の絵」が、実際には「違うもの」に成っているのに、混同されていることが非常に多いと思うわけです。


これは、「芸術」や「絵画」の歴史を考えれば当然のことで、もともと「絵画」は「インテリア」などの装飾品の一種として成り立ってきたわけで、そこから、徐々に「芸術(表現)」としての性質を持つようになっていったのでしょうから、ある時点から、突然「芸術」に成ったということでは無いわけで、「芸術性」を持つようになった後も、長い間「インテリア性」を同時に要求され続けてきたわけです。


それが、「芸術の20世紀」に入ったころからは、「絵画」などに「純粋な芸術性」が求められるようになっていったことで、徐々に「インテリア性から離れた絵」が現れてきたんだと思います。

と言っても、「インテリア性から離れた絵」が出てきた後も、「インテリアとしての絵」は存在し続けていたわけですし、需要もあるわけですから、当然高く評価されるものも出てくるわけで、現在に至るまで、常に「芸術の流行」はこの「二種類の絵」の間を行ったり来たりしてきたと言ってもいいと思います。

まぁ、そんな状態ですから、この「二種類の絵」が混同されているのも当然と言えば当然ですのことですね。


いずれにしても、この「純粋な芸術性」という需要を満たすために、「美術館」と言う「非日常的な空間」が、一般化していったんでしょう。


そして、こんどは、その建てられた「美術館」に見合うような「作品」が、「創作者」の側に要求されるようになっていったというわけです。


その後は、「美術館」が巨大化すれば、その「巨大化した美術館」に見合う「作品」が、「美術館」が近代化すれば、そういう「近代的な空間」に見合うような「作品」が要求されるようになっていくという状況に成っているともいえるわけです。


つまり、もう「芸術」が主導しているのではなく、「メディア」が主導しているというくらいで(これは、「美術館」に限らず、「画廊」でも「マスコミ」でも同じようなことが言えると思います)、「芸術」は、それに合わせてついて行くのに精いっぱいというような状態と言えば言い過ぎかもしれませんが、「創作者」が「メディア側の要求」に影響されている、あるいは、「メディア側の期待」に応えた「創作者」が生き残っていくというのは事実でしょう。


そして、この「メディア側の判断」が、やや「客観性」や「純粋性」を欠いている場合があるわけです。

つまり、もともと「純粋な芸術性」という需要を満たすべく建てられた「美術館」であったハズが、その「美術館」によって「芸術の純粋性」が損なわれようとしているというところがあるわけです。


「インテリアとしての絵」に「芸術の純粋性」を求めるのには、もともと無理があるでしょうし(目的からして違うわけですから)、「芸術表現としての絵」は「非日常空間を必要としますから、そういう空間を運営している「メディア」の影響を避けられません。

しかし、そうなると、どちらにも「純粋な芸術」は無く成ってしまうわけです。


「美術館」はもう少し「開かれた空間」であってもイイように思います。

例えば、「無選別の作品」を展示するような日があってもいいと思いますし、価値の確定していない作品を買い上げる勇気を持つべきだと思います。


その為には、「美術館」が「新たな市場」を創り出す必要があります。

閉鎖的になっている「絵画市場」をオープンにして行くためにも、「美術館」のような公共性を持った機関が「新たな市場」を作り上げる必要があると思います。


また、「キュレーター」や「学芸員」と言った考え方も変えていった方がイイんじゃないでしょうか?

高額な有名作品を買うよりも、安い「価値の確定していない作品」をたくさん保有して、ランダムに展示していくという考え方であれば、専門知識を持っていない人間が選んでも問題ないわけで、ある程度のレベルにある作品をたくさん展示するというやり方もあっていいように思います。


選別の規準は「非日常空間で見る絵」ですね。
(絵に限りませんけどね)

この規準で選んでいないからツマラナクなるんだと思います。
この規準を打ち出すだけでかなり面白くなると思いますよ。

まぁ、ツマラナイ時も多くなってしまうでしょうけどね。
それは、有名な画家の展示でも同じでしょ?


少なくとも、そういう「ハズレ」を楽しむっていうのも「芸術的な視点」なんじゃないのかなと。
いや、それどころか「ハズレ」こそが、実は最も「非日常的」と言ってもいいんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。

※ここに書いたことは「芸術の現状」を踏まえた上でのことで、私個人といたしましては、「日常的な空間」の中に「非日常的な芸術」(これを「幻想」と言ってもいいと思います)が持ち込まれるように成ることや、そういうことが常識になっていくことを希望しておりますです。ハイ。




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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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