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「多数決」と言う「催眠術」



このブログでも何度か書いたんですけど、現在「多数決」というシステムはまったく機能していないと思うわけです。


とにかく、国会議員の選挙から家族会議に至るまで、「多数決」というシステムがうまく機能していることがほとんどないと言ってもいいくらいに、全く役に立っていないというのが実体じゃないでしょうか?

そして、更に言うと「多数決」が最もおかしな方向に迷走した場合、「多数決」は人間に対して「催眠術」のような作用を持ってしまうのではないかと思うわけです。


要するに、自分たちで決めているので、どんなに納得のいかない結果が出てきても、従うしかないということに成ってしまうわけなのです。

そして、そのようなことが繰り返されていくうちに、『多数決には従わなければいけない』という定型文が、呪文のような作用を持つようになって、『みんなで決めたことですから』と言われてしまうと、どんな人も逆らえなくなって、最終的には、『誰一人望んでもいないことを全員一丸となってやり続ける』という、まさに、戦前の日本が陥っていった落とし穴に、世界中がハマってしまっているというように思うわけです。


戦前の日本とは全く正反対の「多数決・民主主義」をやっているハズなのにです。


なぜ、自分たちで決めたことなのに「そんなこと」になってしまうのかと言えば、『多数決が機能していないから』
いや、『多数決が催眠術のように機能してしまっているから』としか言いようがないわけです。


これを、最も単純化して言うならば、『多数決が大規模な社会には向いていない』ということなんじゃないかと思います。


現代社会のような「大規模な社会」においては、全員がお互いのことを知り合うことも、全員が納得いくまで意見を交換することも不可能です。
そこで、どうしても代表者を介して意見が交わされるという形をとるようになるわけです。


そういうことが次から次へと伝言ゲームのように成って、結果的には「トンデモナイ結論」が導き出されてしまうわけです。


例えばの話、マスゾエさんが「あんな人」だということを、一千万人を超える都民全員が、都知事選の前に知ることは不可能ですし、彼に投票した人は、『テレビで見てなんとなく頭のよさそうな人だったから』とか、『親の介護とかやってて苦労した人らしい?』という程度のことで投票しているにすぎないわけです。
(その話自体も怪しいらしいですけどね)

・・・・・いい結果が出るワケがありません。


でも、それが現在の「多数決・民主主義」の実体でもあります。

国家元首でさえ、元をたどれば、全てこのようなテキトーなシステムの下に選ばれているわけで、言ってみれば、バイトの採用面接で、イイカゲンに書かれた履歴書一枚で、『まっ、いいんじゃね?採用で』というぐらいの適当さが、国の最高機関にまで及んでいるということですね。


実際には、このようなことは「大規模な社会」だけのことでも無くて、家族会議などの「小規模な社会」においても、『全員が納得いくまで意見を交換する』という前提が成り立っていなければ同じことで、けっきょく『まっ、いいんじゃね?』の部分はまったく変わらないわけです。

そして、現代人は「大規模な社会」の中で、『まっ、いいんじゃね?』というスタイルに慣れきってしまっていますから、『全員が納得いくまで意見を交換する』ということをメンドクサイと感じるようになっていて、それで、「小規模な社会」でも「多数決」は機能しなくなっているわけです。


実際、テレビや新聞と言ったマスコミが提供できる情報は、「自己申告の履歴書」とそう大差はないわけで、一般市民はいつもその「テキトーに書かれた履歴書」をもとに多数決に参加させられているわけです。


そして、「多数決」が決した後は、『みんなで決めたことですから』という呪文によって、催眠状態になってしまうために、「スキャンダル」や「よほどひどい失態」という「催眠術を解くための合図」が出されるまで、それを『全員一丸となってやり続ける』ことに成るわけです。


「多数決」に頼っている限り、この状態は絶対に抜けられないと思いますね。

とにかく、「形だけの全員参加」をやめる必要があるでしょう。
大規模な社会において、頑なに「全員参加」を守ろうとすると、必ず「伝言ゲーム」が始まります。

人数を絞って、「少人数の中での多数決」を、徹底した意見交換の中から導き出すようなシステムを創り出す必要があると思うわけです。

当然、このやり方でも「おかしな結論」は多々出て来るでしょうが、数をこなしていくうちに、徐々に修正されていくと思いますね。

 ※これは、長年「陪審員制度」が機能し続けていることで、ある程度、実証されて
  いると思います。
  逆に、裁判で国民全員や地域全員参加の多数決で判決を下すとしたらどうなる
  でしょうね?そういう裁判に自分がかけられることを考えてみれば、それが如何
  に恐ろしいことかがわかると思います。
  でも、国家的規模で毎日その「恐ろしいこと」をやっているわけですけどね。


まぁ、いずれにしても、「多数決を疑ってみる視点」を持つことは損にはならないと思います。

そして、その「視点」で世の中を見ると、「現在の多数決」が如何に「おかしな結論」を導き出していることが多いかということが、見えて来るんじゃないのかなと。

っていうか、「誰も賛成してない多数決」って「多数決」って言えるんですかねぇ?
『まぁ、いいんじゃね?』は、「賛成」でもないんじゃね?


そんな風に思います。



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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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