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「芸術の20世紀」と言う「洗脳」



このブログは「芸術の20世紀喪失宣言」というタイトルなんですが(この前まで、もっと長かったんですけど、最近になって短くしました)、なんで「20世紀喪失」なんて言うことをやっているかと言えば、『受け入れられなくなったから』ということなわけです。


つまり、私は20世紀」という「時代」を受け入れられなく成ってしまったわけです。
(「芸術」に限った話でもなくてですね)

そして、その「20世紀」の発端にあるのが「芸術の20世紀」だと思っているわけなんです。


なんで受け入れられないのか?というと、「オカシイこと」が多すぎるからです。
もちろん、いつの時代にも「オカシイこと」なんて山ほどあるでしょうが、「20世紀のオカシサ」は別格だと思うのです。


たとえば「20世紀」以前の時代は、封建的で身分の格差なんかも大きかったわけですから、そういった意味では「20世紀」はずいぶん良くなっているわけですし、いろいろな文明の利器も開発されて科学も進歩していますから、『「いいこと尽くし」じゃないか!』ということに成るはずなんでしょうが、なぜかそう成っているようには思えないということです。


間違いなく、進歩していますし、間違いなく、発展しています。
これだけ「いいこと尽くし」なのに良く成らないとすれば、『ナニカ決定的に足りないことがあるんじゃないか?』と思うわけです。


私は「20世紀以前」と「20世紀以降」の決定的的なチガイは、「人間が置き去りにされるようになったこと」だと思うわけです。


つまり、人間が創っているはずの「時代」に人間自身が置いて行かれるようになってしまったわけです。


「20世紀以前」の「オカシイこと」に関しては、『人間が、まだその程度だった』ということによるものだったと思います。
要するに、人間が「発展途上」の部分に「オカシイこと」が起きていたわけですね。

そういうことについては、『ある程度諦めるしかないだろう』と思えるわけです。


要するに、その時点で、人間に与えられた分際がそのくらいの分際だったということで、諦めが付いていたわけですね。
そして、その後、人間が進歩した分だけ「オカシイこと」が少なく成っていくだろうから、なるべく、そういう方向でやっていこうじゃないかということだったわけです。

そして、その後その通りに成って、「進歩」については、行き過ぎなくらいに進歩したわけです。
でも、「オカシイこと」は減ったんでしょうか?

いや、むしろ、「オカシイこと」は増えていないでしょうか?


「20世紀」以降は、ほかのことの「進歩」に合わせて、「オカシイこと」も、そのバリエーションを増やし続け、「オカシサの度合い」もさらに増してしまっていないでしょうか?

つまり、「オカシイこと」も「進歩・発展」してしまったのではないでしょうか? 


要するに、それまでの「オカシイこと」が、「人間の発展途上の部分」に起きていたのに対して、「20世紀以降」は、「オカシイこと」が、「人間が十分に進歩・発展した部分」でも起きるように成ってしまったということではないかと思うわけなのです。

そして、現在に至っては、明らかに「成熟した部分」においても、頻繁に「オカシイこと」が現れて来ます。


たとえば、非常に高度に発達した医療において、最も多く達成されているのは、『人間の「不健康で不幸福な時間」を、より長く伸ばすことだ』と言えば言い過ぎに成るでしょうか?

たとえ言い過ぎだとしても、ある程度は事実でもあります。


確かに「医療」は高度に発達して成熟しているわけですし、その結果『人間の「平均寿命」は伸びた』と言うことは出来るわけですが、その場合の「平均寿命」を「健康寿命」に置き換えた場合どうなんでしょうか?

『いや、それでも伸びているだろう!』

そうかもしれませんが、少なくともただ単に「平均寿命」で比べた場合よりも、かなりその差は縮まってしまうんじゃないでしょうか?その「差が縮まった部分」というのが「不健康寿命」の長さなわけです。

そして、それは、ほぼ「不幸福期間の長さ」でもあるわけです。


もしも、このようなことがあるとすれば、「長生き」と引き換えに「不幸」も手に入れてしまっているわけで、トクしたのかソンしたのかよくわかりませんね。

いや、間違いなくソンしているでしょう?

私には、これを「オカシイこと」と言わずにはいられません。


そして、さらに「オカシイ」のは、そういうことが「オカシイこと」だと自覚している人が非常に少ないということです。


これは一種の「洗脳」だと思うのです。

おそらくは、マスコミによる影響が最も大きいでしょうね。
(教育も大きいですけど)
とにかく、現代人にとって、マスコミが流した情報は絶対的で逆らえないモノに成っているわけです。
それが、「洗脳」された状態の人と同じくらいに成っているように思えるわけです。


でも、「洗脳」されてますから、誰も気が付きませんし、認めません。
そして社会全体が「洗脳」状態なので、それを修正する人が居ないわけです。

これが「20世紀以降」の「オカシイこと」の「オカシサ」なんだと思います。


「20世紀」までは、そういう「オカシサ」を「長足的な進歩・発展」によってカバーしてきました。
でも、「進歩・発展」がやや頭打ちの状態を迎えた現在に成って、その「オカシサ」が浮き彫りになって来ているわけです。

それで「受け入れられなくなった」と言うわけですね。私の場合は。



さて、ここで『なんで、芸術なのか?』ということですね。

それは、「20世紀の芸術」には、「オカシイこと」が圧倒的に多いからです。
というよりも、むしろ、「オカシイこと」こそが「芸術的であること」と思われているようなところもあります。


これが「芸術の20世紀」における「オカシサ」の特異な部分です。
つまり、「オカシイこと」こそが「芸術の本質」であるかのような、すり替えが出来上がってしまっているわけですね。

これは「芸術」における「オリジナリティ」と関係があると思います。

「芸術の20世紀」においては、「オリジナリティ」こそが「芸術性」であると考えられていたところがありますから、当然、それを追いかけることには、皆が必死だったわけでしょう。

そこで、「オリジナリティ」について、「自分であること」ではなく「他人と同じでないこと」と考えられてしまったことが、「オカシイこと」の始まりだったんだと思います。


「オリジナリティ」が「自分であること」であれば問題はなかったのかも知れませんが、「他人と同じでないこと」としてしまったために、逆に「自分であること」が踏み倒され続けることに成ってしまったわけです。

つまり、「自分であること」を、そっちのけにしてでも「他人と同じでないこと」をやらなければならなく成ってしまったということです。


その結果、「オカシイこと」が次から次へと生み出されていくことに成って(「オカシイこと」であればあるほど「誰もやってない」可能性が高いわけです)、それが、更に、マスコミに乗ってしまうと「洗脳」に成って、誰も逆らえなくなっていきますから、もう、誰にも止められません。


現に今でも、その当時生みだされた「オカシイこと」が、ウヤウヤシク美術館に展示されていたりします。
現在の視点で見て、明らかに「オカシイ・モノ」でも、誰にも止められません。
刷り込まれてしまっていますから、そう簡単には戻れないわけです。

それが「洗脳」と言うモノなんでしょうね。


そして、そういう「芸術」が生み出した「オカシイ感覚」が、社会全般に徐々に普及していってしまったわけです。


まぁ、これを読んでいる人でも、『そんなことは無いだろう?いくらなんでも言い過ぎだろう』と言う人がほとんどでしょうね。
「時代による洗脳」ですから、そこから抜けるには、「社会」から、少なからず逸脱しなければならなくなりますからね。
そういう人は、めったにいません。

「マトモな人」ほど抜けにくいと思います。


あとは、「キーワード」や「合図」が必要なんだと思います。
催眠術を解く時に「パチンッ!」と指を鳴らす「アレ」ですね。

そういう「合図」に成るようなものに、たまたま気づいた人が抜けられると思います。
と言っても、社会全体が洗脳されていると、その「合図」を出す人が、ほとんど居ないんですけどね。


まぁ、社会がこの「洗脳状態」から抜け出さないと、全てのことが始まらないと思いますが、どっちみちいつかは抜け出すのでしょうから、出来れば早い方がイイと思うんですけど、それがいつに成るかはわからないので、何ともやりきれない気持ちなわけですね。


「芸術」が「社会」の一歩先を行っているのは、悪いことだと思いませんけど、「オカシイこと」まで先を行ってしまっているのは、どんなもんなんでしょうか?と。


そんな風に思いながらやってるわけですね。




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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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