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「長い題」=詩のような題(その1)



先日このブログの記事で、「無題と言う題」はなるべくなら使いたくないので、「秘題」という考え方をしていきたいというようなことを書いたので、それとは、やや反対方向の話に成ってしまうんですが、ここでは「長い題」について考えてみました。

 ※「秘題」と言うのは、「テーマ」=「タイトル」=「題」がないわけではなく、でも、それを
  言葉にするのは難しいので、『題はあるけど隠されている』というような意味です。
  そちらも「姿勢」としては持ち続けていきたいと思っています。

「長い題」と言っても、ただ単に”「題」が長い”というのではなく、どちらかと言うと、「文章」としてある程度の独立した内容を持った「題」と言うことです。

イメージとしては「詩」に近いと思います。


必ずしも「絵」の内容と一致しているということではなく、それでいて「絵」とも、つながりを感じるような、そういう「文章」を「題」として考えているわけですね。

私の場合は、このことに限らず、いろいろな方向からの「芸術の多重化」と言うのを考えているので、このようなことを、ついつい考えてしまうというわけなのです。
と言っても、「絵」がなかったら、なにを言っているのかわからないでしょうね。 
まぁ、そこのところは、ご勘弁ください。



もともと、この「長い題」の発想は「額」からきています。

私は、「芸術」は「多重化」していく方向に向かうしかないと思っているので、いろいろな意味での「多重化」を考えていて、その一つが「額と絵の間の多重化」なんですが、「多重化」の中で、比較的難易度が高いのが「美術」と「言葉」との間の「多重化」だと思うわけです。

でも、もともとあった「額と絵の間の多重化」という考えの中で、「額」を使えば、「絵と言葉の間の多重化」も可能なんじゃないかと思っていたわけです。

「美術」は「視覚的な芸術」ですから、視覚的な表現を含まない「言葉」とはギャップが大きすぎて、「多重化」することが「わざとらしさ」になってしまうような気がするわけですね。
(これは「音楽」などの「音響表現」にも言えることかもしれません。そちらはまだ考えてませんけど)

たとえば「絵」の中に文字が書き込まれていることがありますけど、その「言葉」に意味があればあるほど、どうしても、『純粋な絵と言えるのか?』というような「違和感」が出てきてしまうと思います。

そこで、『額になら文字を入れてもいいんじゃないか?』と思ったわけです。

当初は、「額」に着色する予定でしたから、その塗装に紛れたような形で、『読もうとすれば読めるけど、敢えて読もうとしなければ「額の塗装」に見える』と言うような、そんな感じで「文章」を入れてみようかなと思っていたわけです。
(これも一種の「秘題」ですね)

ところが、実際に「額」を作ってみたら、そんな余裕は木っ端みじんに吹き飛んでしまって、とても塗装まで辿り付けずに現在に至る、というところです。

しかも、その過程で、「額」自体の構想がどんどん「多重化」していって、「文章」の入り込む余地はもう無く成ってしまいました。

それで、しばらくの間「言葉との多重化」については、ホッタラカシにしていたんですね。
でも、ある時、描いていてどうしても気に入らない絵があって、その絵は、ボツにしようと思っていたんですが、なぜか、その絵の「題」だけが唐突に浮かんで来たということがあって、その「題」が「長い題」だったというわけです。

その「長い題」は「手紙」のようなもので、十数行ほどの文でできていました。
その「手紙みたいな題」っていうのが、気に入ったので、『こういう題も悪くないんじゃないの?』と思うようになったというわけです。

でも、いくら「題」が気に入っても、絵は気に入らないままだったので、他の絵にも「長い題」を考えたんですが、そういう「手紙みたいな題」は、今のところ出来ていません。

まぁ、それでも二十数編ほどの「詩」のような「題」が出来ています。

なんとなく、これらも気に入っています。
何よりも、悩まないのがいいですね。

私の場合「抽象画」に「題」をつけようとすると悩んでしまうんですねぇ。
『抽象は題がつけられちゃダメなんじゃないか?』みたいなところから抜け出せなくなるわけです。
ところが、独立した「詩」だと思うと、意外と悩まずに思いつくんですね。
そして、その思いついたことが割とスンナリと「文」に成るわけです。

こんな事を言うと「詩」を真面目に書いている人には怒られてしまうんでしょうが、「文学」として「詩」をやろうと思っているわけでもないので、そんなにこだわらずに、書きっぱなしでもさほど気に成らないので、気が楽です。
(気が付くとけっこう直したりしてますけどね)

さて、このまま終わるのは、さすがに気が引けるので、最後に「長い題」の例を挙げておきます。
これらの「題」は必ずしも一つの絵に一つの「題」と言うことではなく、
入れ替え可能な場合もあると思っています。

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」のようなものだと思ってください。

それから、最後のが最初に思いついた「手紙みたいな題」です。
その絵はいまだに気に入らないので今のところボツですね。
「題」だけ残っちゃいました。

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『ひかりとは』
ひかりとは いったい なになのか


すべての ものを みえさせる

ひかりとは 
ひかりとは いったい なになのか


すべての いろを みえさせて
すべての かたちも みえさせる

ひかりとは 
ひかりとは いったい なになのか


すべての かげを つくりだし 
すべての かげを きえさせる

ひかりとは 
ひかりとは いったい なになのか


ぼくの なかを てらしだし 
きみの なかも てらしだす

あぁ ひかりとは 
そんな ひかりとは いったい なになのか

それがしりたい

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

くらくて どんよりして いるけど
これは 『きぼう』を えがいた えなんだ

だから あおときいろの わくが えのなかで おどっているだろ

そのせいで このえが かえって くらく みえるとしても
それは ぼくのせいじゃないし もちろん きみのせいでもない

それは みんなのせいなんだ 


そのみんなって だれなんだろう

このえの なかには きみと ぼくしか いないというのに

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

もえるような いろ
もえるような くうき
もえるような せかい

じかんも くうかんも ほかのものも みんな もえつくしてしまう

そんないろ
そんないろに さわったら こおるほど つめたかった


もえるように つめたいいろ

そんないろが
えのなかでは 『ちょうどいい いろ』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

よのなかは うつくしい

しんじられないことだけど
すべてのものは うつくしい

しんじられないことだけど
すべてのひとは うつくしい

しんじられないことだけど  


『それが ほんとうのこと』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

きみは このえに なにをみるのか?
 

このえに なにかが かいてあるわけじゃない

きみがみたものは きっと きみがかいたんだ
きみが すばらしいとおもうとき それは きみがかいたえだ
きみが つまらないとおもうとき それも きみがかいたえだ


いま きみは

このえのなかに 『なにかを みつけださなければならない』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

もしも あなたが しょくぶつだと おもわないで みたとして      
もしも あなたが ひとだと おもわないで みたとして
もしも あなたが くうきやひかりだと おもわないで みたとして

それでも なにかが つたわるでしょうか


それでは
『ひとや しょくぶつや ひかりやくうき』として みたなら どうですか


それでは

もしも あなたが あおとしろの わくを とおして  
このえの なかに はいって みたなら どうでしょうか

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この さびついてしまった ふうけいを みてくれ

うみも そらも じめんも うずをまきながら ながれこんでいるものも
すべてのものが さびついてしまっている

これを ふうけいと いうのだろうか


こんなところには ぜったいに いきたくない


でも えの なかだったら 

『いってみたいと おもう ばしょ』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『ゴッホへの てがみ』


ヴィンセント 

きみの えが ふつうに なったよ
おかげで ぼくたちは こんなに じゆうに なれたんだ 

ありがとう


ぼくたちも まだ なにかに しばられているけど 
あと ひゃくねんもしたら みんな また すこし じゆうに なれると おもうんだ 

だから ぼくは きみよりも すこし じゆうな きもちで しんで いけそうだよ
 

もういちど いうよ

ありがとう ヴィンセント

そして もうひとりの ゴッホへ 
もっともっと たくさんの ゴッホたちへ


これは きみたちの えだ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ついしん : ぼくは もう すこし ちがう えを 
        さがしに いこうと おもっている

        ぼくも ひゃくねんごの だれかから 

        こんな てがみを もらいたいから

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きっと、文学的には、オソマツな詩なんでしょうが、自分では気に入っています。
たぶん、足りないくらいで丁度いいんだと思います。

このスタイルの「題」でいこうと思っています。



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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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