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「多重化」は「芸術に残された最後の領域」かも知れない



このブログでも何度か書いていますが、私は、今後「芸術」は「多重化」していくしかないと思うわけです。
つまり、「芸術に残された最後の領域」が「多重化」だと思うわけなのです。


ここで、「芸術の多重化」と呼んでいるのは、(出来る限り)既存の表現形態の中で、複数の独立した表現を重ね合わせていって、一つ一つが、ある程度まで、独立した表現としても成り立っていながら、全体が一つのまとまった表現としても成り立つようにすることで、重層化した世界感を生み出すというよなことです。


その「多重化」がどうして「芸術に残された最後の領域」なのかと言うと、他のことはぜんぶ出尽くしてしまったとしか思えないからです。
だから、あとは”組み合わせていく”しかないんじゃないかと思うわけですね。


そういうと、ナントナク”仕方なくそっちに行く”ように聞こえてしまうかもしれませんが、必ずしもそういうわけではなくて、「組み合わせ」は、他の分野においても行われていることでもあり、しかも、とても有効な方法でもあると思っていますので、むしろ、積極的にそちらに向かうことはイイことだと思うわけです。

もちろん、「多重化」なんて必要ないような「純粋でストレートな表現」もあっていいでしょうが、その領域が残っていないのに、そこに固執することはあまりイイことではないと思うわけですね。


なんで「純粋な表現の領域」が、そんなにも少なく成ってしまったかと言えば、「芸術の20世紀」において、あまりにも精力的に刈り取られてしまったからだと思います。


つまり、「芸術の20世紀」においては、一人一人の創作者が、それが本当に「自分のスタイル」であるのかどうかを吟味することなく、次から次へと新しいスタイルを作りかけては完成させずに放りだすということを繰り返していたために、「人間の世代交代のサイクル」を「新しいスタイルが創り出されるサイクル」が追い越してしまったわけです。

 ※これは、必ずしも「力不足の作家」が、そういう中途半端なことをやったと言う話
  ではありません。
  「力のある作家」も「ごく普通の作家」も、やっていたことに大差はないと思います。
  違うのは「「力のある作家」は、よりたくさんの「スタイル」に手を出すことが出来て
  しまうということです。
  つまり力がある人ほど、たくさんの「スタイル」を刈り取ってしまったと言うことに成
  るわけです。

  「芸術の20世紀」においては、「本当の自分のスタイル」を時間をかけて見つけ出
  すことが出来た人は少なかったと思います。

たとえ未完成の状態でも、一度提示されたスタイルと言うのは、「スタイル」としての位置を持ってしまうようで、それを、ちがう人がやれば「モノマネ」のように見えてしまうわけです。

ハッキリ言うと「芸術の20世紀」において提示された「スタイル」は、実際には、ほとんどすべてが未完成であったと言ってもいいんじゃないかと思うわけです。

だからこそ、恐ろしい勢いで大量生産されてしまったんだと思いますが、その結果、それが「人間の世代交代のサイクル」を圧倒して、現在の「芸術の場」には、「純粋な表現の領域」がほとんど無く成ってしまったんだと思うわけなのです。


本当は「新しいスタイル」がそんなにたくさん量産されることはあり得ないことで、一人一人の創作者が生涯を通じて一つの「スタイル」に到達するというのが本来の姿だと思います。
というよりも、すべての人が「独自のスタイル」を獲得できるわけではなく、そこに到達できる人は、そう多くは居ないはずでしょう。


それならば、「スタイル」が出尽くしてしまうまでには、「人間の世代交代のサイクル」が何世代も入れ替わるくらいかかるわけですから、一通り出尽くしたころには、はじめの頃の「スタイル」は、もうとっくに忘れられているでしょう。

だから、また、その「スタイル」に近いものが生みだされても「モノマネ」のような違和感を感じないわけです。
(あくまで、偶発的に似かよった「スタイル」になってしまった場合ですが)

そういう循環が出来ていれば、常に「純粋な表現の領域」が確保されていたんだと思います。


でも、実際には、そうならずに、「純粋な表現の領域」はどんどん狭められてしまったということです。

そんな中で、極端に狭くなってしまった領域の中で足の踏み場を探して、ちょっとでも早く着地した者だけが、なんとか「表現の領域」を確保するというような状態が、今の「芸術の場」の状態だと思うのです。


そういった状況から抜け出すために、私は「芸術の20世紀を喪失すること」を選択したわけですが、『喪失しました』と言っても、キレイサッパリ消すことが出来るわけでもないので、やはり、「一度提示されてしまったスタイル」はもう「足の踏み場」とはならないわけで、そこで、ギュギュウ詰めになってしまった「芸術の場」に「空き領域」を作るためには、当然のこととして、「芸術の領域」自体を広げなければならないということに成るわけです。

それには、「多重化」することしかないように思うというわけです。


さて、そこで、『なんで、既存の表現形態の中で多重化しなければならないのか?』ということです。

現在、多くの創作者が、表現形態を組み合わせることを模索していると思いますが、私が知る限りでは、「既存の表現形態」の枠を外すような試みが多いような気がしています。

つまり、まったく違う表現形態との間で「コラボレーション」するということですね。

そういうのがワルイと言うことではありませんが、ただでさえ、「純粋な表現」と言う「枠組み」を、やむを得ず部分的に崩しているわけですから、出来るだけ、その「崩し」を少なくしたいと思うわけです。


それで、私の場合は「既存の表現形態の中での多重化」にこだわっています。

 ※「既存の表現形態の中での多重化」と言うのは、要するに「絵」なら「絵の中で
  の多重化」ということです。
  つまり、「絵と、絵と無関係のモノとの間での多重化」ではないということです。

  私の場合、「額や題」を使って「多重化」することを考えていますが、「額や題」
  はもともと「絵」を前提にして存在するものだということで、「絵の中」として
  扱っています。
  私自身は、「絵の中での多重化」を中心に考えていますが、必ずしも、ほかの表
  現形態との間で「多重化」することを否定的には考えていません。
  ただ、範囲を際限なく広げてしまうのは避けた方がいいと思っています。
  
これは、広げられる「領域」は少ないかもしれませんが、最低限の「純粋性」は保存されるんじゃないかと思っています。
逆に言うと、「表現形態の枠組み」まで崩してしまうと、最低限の「純粋性」までも失われてしまう可能性があると危惧するわけですね。


「領域を広げること」は悪いことではないと思いますが、「領域を際限なく広げること」は、結果的に内容を薄めることにしかならないと思うのです。

どんなに濃い一滴の「純粋性」であっても、限りなく広い海に落とされてしまえば薄まってしまいます。
そこは、やはり、限りある「領域」の中での「多重化」を何とかして成し遂げなければならないんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。



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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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