FC2ブログ

「利ザヤレス・経済」



現在、経済の中で一番根本的な部分にあるのが「利ザヤ」と言う考え方だと思うわけです。
でも、その「利ザヤ」という考え方をなくせたら、「経済」が少しだけ”マシ”になるような気がするわけです。


「経済」って、本当は「等価交換」でも成り立つんじゃないかと思うんですよねぇ。
いま現在、既に回ってしまっている「経済の流れ」と言うモノを、まったく抜きに考えたらという話ですけどね。


つまり、「おカネ」ですべてを回しているから「利ザヤ」が発生するわけで、「おカネ」を「モノ」に置き換えて考えたら、「利ザヤ」はどう考えてもほとんど発生しなくなると思うわけです。


だって、「鉛筆一本」と「鉛筆一本+消しゴム」を交換する人っていないですよね。
自分が既に「鉛筆」持ってるのに、「鉛筆」を手に入れるために「消しゴム」もつけちゃう人が居るわけありません。

交換する可能性があるとしたら、「赤い色の鉛筆」と「青い色の鉛筆」ぐらいでしょう?

つまり、「等価交換」です。
たとえば、「鉛筆」と「消しゴム」を交換することがあるとしても、やっぱり、ほぼ「等価交換」が原則に成るでしょうね。


ところが、ほとんどの「経済活動」において、行われているのが、「鉛筆一本」と「鉛筆一本+消しゴム」の交換なわけです。
「消しゴム」の分が「利ザヤ」っていうことですね。


これ、厳密に言ったら「詐欺」だと思うんですよ。
「法律的に」ではなくて、「道徳的に」でもなくて、「私的に」ですけどね。

積極的な意味での「嘘」が入っていなければ、法律上「詐欺」にはなりませんが、「利ザヤ」には、消極的ではありますが「小さい嘘」が含まれているように思います。
(あくまで、話です。別に「商売」すべてを本気で否定しようということではありませんので)


つまり、「ごく普通の一本の鉛筆」を『これはただの鉛筆じゃないんだから、「+消しゴムの価値」があるんだ』と言って売れば、「詐欺」に成りますが、だまって売れば「詐欺」にはなりません。

要するに、『なんとなく「鉛筆+消しゴム」くらいの価値があるんじゃないか?』という雰囲気を醸し出しただけなら、「詐欺」にはならないわけです。


その「雰囲気づくり」を「商売・営業」とか「広告・宣伝・PR」等と言っています。
そこに「小さい嘘」があると、私は思うということです。

その「小さな嘘」が「詐欺」的になっているわけですね。
(だから、話だけです)

でも、それが「経済の根本」でもあるわけです。


だから、常に「モノを売っている人」がお金持ちになって、「モノを買っているだけの人」が貧乏人に成っているわけですねぇ。

「モノを買っているだけの人」ていうのは、要するに「労働」を売っているわけですが、そこでも「等価交換」は成り立っていませんから、二重に「利ザヤ」を取られているわけです。

お金持ちになれるわけないですよねぇ。


つまり、資本主義経済の下では、常に「労働者」は二重に「利ザヤ」を取られているということに成るわけです。

それに対して、「資本家」は「労働者」から「利ザヤ」を取る権利を与えられていますし、「商売」でも「利ザヤ」を得る権利を与えられています。

自分が「消費者」に成った時だけ「利ザヤ」を取られる側に成りますが、取る機会が二倍に成っているので、ソコソコ上手くやっている程度でも儲かるようにできているわけです。

まぁ、「資本主義」ですから「資本家」に有利にできているわけですね。
当然と言えば当然なんですが、「資本」を持たない人にとっては当然でもないわけです。


もともと「資本」に恵まれていない環境に生まれても、「資本」を稼ぎ出すことは出来るでしょうから、そこはそれほど大きな問題でもないと思いますけど、実は、もっと大きいのは「資本家に向いている人」と「資本家に向いていない人」が居ることだと思います。


「資本主義社会」で最も不平等なことがあるとすれば、「資本家」と「労働者」が対等ではないということだと思うわけです。

その「不平等」を生み出しているのが「二重の利ザヤ」と言うわけです。


「資本」を持っていることで有利になることは仕方ないとしてもですよ。
生まれつき「お金持ちの人」と「ビンボー人の人」が居るのはイカントモシガタイという前提で考えて、そこのところの「不平等」に目をつぶったとしても、この「職業選択の自由」が「不平等」に直結しているということは、「自由で平等な社会」としては、マズイんじゃないかと思うんですがどうなんでしょう?


要するに「やりたい仕事」が「資本家的な仕事」じゃない人は、ほとんどの場合自動的に「ビンボー人」を選択させられることに成るわけですねぇ、「資本主義社会」では。


でも、みんなが「資本家的な仕事」をやりたいわけじゃないと思うんですよね。

まぁ、自分のことで言えば、私なんかも『まったく興味ないです』
ただ、私の場合は「ビンボー」も嫌いじゃないんで、あまり困っていないんですが、それでも、もう少し”マシ”なぐらいには成ればいいなと思ってますね。


それに「資本家系の仕事」は好きじゃないけど「ビンボー」も嫌いという人も居るでしょうから(いや、それが普通だろ!)、そういう人たちにとっては、「資本主義社会」が「自由でも平等でもない社会」になってしまっていることは、気の毒な気がしますし、自分自身も「ビンボー」は嫌いじゃないですが「自由や平等」は好きなので、そういった部分でも「自由で平等な社会」に成ったらいいなと思うわけです。


そんなわけで、経済の中から「利ザヤ」という考え方をなくせたら、少しイイかなと。

そんな風に思ったわけですね。


もちろん、「現行の経済」と言うモノを全く無視して、チャラにしたところから始めるという話ですが、実際に、「利ザヤレス・経済」は不可能ではないような気がします。

完全な「利ザヤ0・経済」は難しいでしょうが、現在の「利ザヤ」を前提にした経済から、考え方として「利ザヤレス」を前提にした経済への移行を考えることは可能だと思います。
(まぁ、考えるだけならできるっていう程度ですけどね)


実際は「青い色の鉛筆」と「赤い色の鉛筆」を交換していけばいいだけのことですから、出来ないことでも無いはずなんですが、「利ザヤ」が絶対に「あるべきモノ」という固定観念が出来上がってしまっているために、それが出来なくなっているという部分はあると思います。


ただ単に、「100円のモノ」を100円で売ればいいだけなんですけどね。
『それじゃあ、利益が出ないだろ!』となってしまいます。

要するに『利益が無ければいけない』という思い込みが邪魔しているわけです。
本当は余剰な利益が出なくてもうまくまわっていればいいんじゃないかと思いますね。

「企業」っていうのは。


これは、現在の「おカネ」という概念が介在すると、どうしても成り立ちにくく成ることだと思いますが、考え方としてだけでも「利ザヤレス・経済」はアリなんじゃないのかなと。


『それ「社会主義」なんじゃないの?』
いや、根本的な概念が違うということだと思います。

「国家」や「社会」が管理しなければならないということ自体が「利ザヤ・経済」であることを前提としてしまっているわけですね。

「利ザヤレス・経済」を前提に考えれば、「国家」や「社会」が管理していなくても、自由な経済の中で「等価交換」が自然に循環するはずです。


そんなことを思いつきました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『いや、だから話だけです』

『別に頭がおかしい人間が言っているわけではありません』

『オカシイとしても少しです』



関連記事

管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

QRコード

QR