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「タブロー」であるということ(つづき)



前の記事の続きです。


「タブロー」と言うのは「背景」を必要としない「独立した絵」のことだと思う、ということを書いたんですが、その「タブロー」とは具体的にはどんなモノなのか?と言うことです。
      
 ※ここで言う「背景」は「絵の中の背景部分」ではなく、「その絵の意味や根拠」です。
  つまり、「その絵がその絵であること」以外の「根拠を必要としない絵」=「表現とし
  て独立した絵」が「タブロー」であるということです。
  その逆に、何か他の要素を持って「補完されないと表現として成り立たない絵」は
  「タブロー」とは言えないということです。

まず、はじめにお断りしておきますが、『「背景」を持たずに存在する』と言ってしまうと、とても難しいことのように聞こえてしまうかも知れませんが、実を言えば、「背景を持たずに存在すること」自体は、特に難しいことでもありませんし、むしろ、「背景」を持っていることよりも「普通のこと」なのかも知れないというくらいのモノだと思いますから、決して、「タブローであること」が『とても”スゴイ”ことなんだ!』とか、『大変なことだから、そうヤスヤスとはできないことなのだ!』というようなことが言いたいわけではありません。


「タブロー」であっても”スバラシイモノ”もあれば”そうでもないモノ”もあるでしょうし、何らかの「背景」を持ったうえで成り立っている絵にも”スバラシイモノ”もあれば”そうでもないモノ”もあるでしょうから、どちらがイイという話でも、どちらがタイヘンと言う話でもありません。

要するに、『チガウものはチガウ』と言うだけのことです。


そして、どういったものを「芸術表現の中心に近い位置」に設定するか?という話です。
(これも、また、「中心に近い」=「エライ」ではないですけどね)
つまり、ジャンルの問題ですね。
「上・下」ではなくて、「横並び」のチガイと言うことです。


どうも、現在の「芸術の場」では、「ジャンル」の話をすると、『「芸術」を枠にはめて見ている』とか『そういう見方をすると「芸術の自由」が妨げられる』というような、考え方があると思います。


しかし、現在の「芸術の場」において、「不必要な枠」や「妨げ」に成っているのは、むしろ、「ジャンル」や「カテゴリ」をあまりにも排除しすぎているために、「自由」が「不自由」を生み出し、「解放」が最もタチの悪い「拘束」となっているという状況であり、また、その状況を盲目的に擁護している「そういう考え方」の方だと思います。


この点について、私は「カテゴライズ」と言う作業は、文化の基本を成す作業の一つだと思いますので、ナイガシロにしてはいけないように思っているわけです。

それは、「重箱の隅をつつくようなジャンル分け」とは根本的に性質の違うものだと思います。

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さて、前置きが長くなってしまいましたが、ここから本題に入ります。


「背景を持たずに存在できる絵」と言うのは、具体的にはどういうものを指すのか?ということですね。


たとえば、「宗教画」は「タブロー」と言えるのか?
「イラスト」や「マンガ」は「タブロー」と言えるのか?


「宗教画」は「宗教」と言う「背景」を前提としていますし、「イラスト」は「説明する対象」を前提としていますし、「マンガ」は「ストーリー」を前提としているわけですから、それぞれ「背景」を持っているわけです。

でも、だからと言って、即、『それはタブローではない』と言うわけではなく、その「背景」を取り除いた場合も成り立つだけの要素があれば、それが「その絵のタブローとしての意味」に成るんだと思うわけです。


そう考えれば、「タブロー」であることは、それほど特別なことでも無いということに成るわけです。

要するに、「背景」となるような「情報」や「予備知識」などがない状態で見たときに、その絵に惹きつけられる要素が残って居れば
『その絵は独立している絵である』と言えるような気がしているわけですね。私は。

と言っても、すべての人を”惹きつける”ことは出来ませんし、また、その逆にすべての人を”惹きつけない”ということも、そうそうあることではないでしょうから、実際には、「タブロー」と「タブローではない絵」の間に境界線を引くことは出来ないわけですが、あくまで、考え方として、「背景を取り除いた後も人を惹きつけるだけの要素がある絵」を「タブロー」と言うんじゃないか?と言うことに成ります。

 ※要するに、その絵が何らかの「背景」を前提にして描かれた絵であるのか、それ
  とも、「その絵であること自体」を前提にして描かれた絵であるのか、というところ
  のチガイで、「絵」が区別されていた方が、創作者にとっても、鑑賞者にとっても、
  やりやすくなったり、見やすくなたりするんじゃないかと思うわけですね。
        
それでは、そういう「背景を取り除いた後も人を惹きつけるだけの要素がある絵」とは、いったいどういうものなのか?

私は、それを一言で言うなら、その絵の持っている「物質的な存在感」ではないかと思うわけです。
つまり、「物質的な存在感のある絵」が「タブロー」で、「物質的な存在感のない絵」は「タブロー」ではないということです。


ここで、大事なのは「物質的な存在感」と「物質としての存在感」のチガイです。


「物質としての存在感」と言うのは、まさに、その絵を物質として見た場合の「存在感」に成ります。
つまり、「大きさ」や「厚み」や「素材」などと言うような、「モノ」としての「存在感」ですね。
これと「タブローであること」はあまり関係ないと思います。


一方、「物質的な存在感」と言うのは、「絵の中の世界」で表現された「物質性」によって生み出されている「存在感」と言うことに成ります。

要するに、本当の物質であることとは無関係に、「絵の中で創り出された存在感」と言うことですね。

こちらが、「タブロー」の条件だと思うわけです。


「圧力」を感じる絵っていうのがあると思うんですね。
というか、『イイな!』って思う絵は、だいたいそういう絵なんじゃないかと思うわけです。
少なくとも、「タブロー」として見た場合に『イイな!』っていうような絵は、そういう絵だと思います。


「背景」を持たないということは、「その絵」が「その絵」であること以外に、拠りどころがないということですから、「その絵」の中に「存在感」がないと、「チカラ」が出てこないということだと思います。


この「その絵の中で創り出された存在感」と「他の場所から持ってこられた存在感」が区別されていないような気がするわけです。
その「他の場所から持ってこられたモノ」が「背景」にあたるわけです。


そこを区別しておかないと、もっとも純粋に「絵であること」があやふやになってしまうような気がするんですね。


やっぱり、「絵」の中心には、最も純粋に絵であって、最も根源的に絵であること、つまり、「背景を必要とせずに独立した絵」であることが置かれていたほうがいいんじゃないのかなと。

これも「横並びのチガイ」ですけどね。


そんな風に思ったというわけなのです。



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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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