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「抽象」とは「濃縮すること」



「抽象」と言うと、決まって「具象」との比較で考えられてしまう傾向があって、「具象」とは無関係のところで「抽象」を考える機会が意外なほど少ないわけです。
(評論家のような人以外では、『ほとんど無い』と言ってもいいかもしれません)

でも、本当は「抽象」というのは「具象でないこと」ではないと思うわけです。


確かに、「抽象」という概念には、「具象の不自由さから逃れるためのモノ」とか、「具象の不必要な部分を切り捨てるためのモノ」と言うような、「非具象」としての意味があると思いますが、それは、あくまで、現在言われているところの「抽象」が発生してきたときの状況から(「具象」が定型化しすぎて抜け出せなくなっていた状況から)、そういう意味付けが主流になっていただけなんだと思います。

だから、それから100年以上も経った現在に至って、まだ、その考え方を維持している必要はないと思うわけです。
つまり、もう、「抽象」を「具象」との対比で考えるのはやめた方がイイんじゃないかと言うことですね。

もう少し、純粋に「抽象」とはどういったことなのか?ということが考えられてもいいような気がするわけです。


本当の意味の「抽象」は、読んで字のごとく「抽出」して「表象」することなんだと思います。

それは、みんなわかっているはずなのに、いざ『抽象って何なんですか?』ということに成ると、「具体性を排除すること」というイメージから逃れられないということがあるわけですね。


実は、「具体性」と「抽象性」は正反対ではなく、むしろ、近い所にあるモノだと思います。

「抽象表現」のために、「具体性」を一部分切り捨てる必要があったのは事実なんでしょうが、それは何のためだったのか?ということが抜けてしまって、「具体性を切り捨てたこと」だけが強調されて、刷り込まれ続けてきたということなんじゃないでしょうか?


実を言えば、大事なのは「なんのために?」の部分で、「具体性を切り捨てること」ではなかったように思います。


その「なんのために?」を一言で言えば、「濃縮するため」だと思うわけです。
つまり、「現実を写し取るという意味の具象では不可能な濃度」を、表現の領域に持ち込みたかったということじゃないでしょうか?

手短に言えば、「赤い花」を描くときに、さらに濃度を高めようとすれば、「現実より赤く描く」と言うことに成るわけで、そこで、「現実」を無視する必要が出て来るというようなことだと思います。

これぐらいだと「抽象」とは言われませんが、そういうことを、やり続けていけば「抽象」と言われるようなものに行き着くということです。

「より赤く」と言うのと同じように、「より花である」と言うことをやっていくと、なぜか「現実の花」から逸脱していかざるを得ないということでしょう。


この「現実からの逸脱」と言うのが「非具象」という考え方につながってしまうわけですね。


しかし、「具象」=「現実」ではありませんし、「具体性」=「現実性」でもありません。
さらに、「現実からの逸脱」は結果であって、目的ではないわけです。


目的はあくまで、「濃縮」ですから、「濃縮するための逸脱」でなければ意味がありません。
そして、その「濃縮」には「具体性」も必要だったんだと思うわけです。

というよりも、「具体性」こそが必要なモノであったと言ってもいいんじゃないでしょうか?


要らなかったのは、「拘束となっている現実」であって、「その現実を写し取るという意味の具象」だったわけで、「全ての現実」が無用のモノであるとは限らなかったと思いますし、まして、「全ての具体性」が要らないなどと言うことは有り得なかったわけです。


「抽象」=「非具象」=「具体性を破壊すること」という間違った解釈が成立してしまった結果として、「抽象」の本質である「濃縮」は、ごく初期のころには追求されていたと思いますが、確たる成果を見ないうちに、いつの間にか「抽象」自体が追求されることは無く成り、「具体性を捨てること」だけが追求されるようになってしまったんだと思うのです。


言葉の上では「似たようなモノ」に聞こえるかもしれませんが、「抽象を追求すること」が「濃縮」であるのに対して、「抽象を追求せずに具象性を捨てること」は、「得るモノ」(抽象)は無く、「それまであったモノ」(具象)は捨ててしまうわけですから、「濃縮」とは逆の「薄めること」になってしまうわけです。

当然の結果として、一時期「抽象芸術」においては、『非常に内容の薄い』としか言いようのない作品が多発した時期があったと思いますが、そこのところの明確な解釈が成されていないと思うわけです。

そして、『ただ、ナントナク』その「薄さ」を繕い続けているというのが現状なんじゃないかと思います。

でも、もうとっくに擦り切れてしまっている布地を繕い続けているわけですから、すぐに、また違うところに穴が開いてしまいます。


もう、そろそろ丈夫な布地が必要なんじゃないかと思います。


そういうわけですから、取り敢えず、「抽象」は「濃縮すること」だということを念頭に置いて行きたいもんだなと。
それから、「具象性」も「具体性」もムキに成って捨てる必要なんてないでしょう?と。

いや、まさに、それこそが「丈夫な布地」なんじゃないのかなと。


そんなことが言いたいわけなのです。



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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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