「芸術」には「世の中をニュートラルな状態に保つ機能」があると思うのです
「芸術」は「極めるもの」という意味から、極端な方向性を持ったものとして扱われることが多いと思いますけど、実は、「芸術」の社会的な機能として最も大事なのは、「世の中をニュートラルな状態に保つこと」なんじゃないかと思っているわけです。
※ここで言う「ニュートラルな状態」とは、必ずしも「中立的である」と言うことでは
なく、「無理な力がかかっていない状態」というような意味です。
つまり、「社会」が生み出す「抑圧が少ない状態」ということであって、「二つの
主張」や「二つの方向性」の「中間」という意味ではありません。
(そういうものは、それ自体「一種の抑圧」だと思うので)
むしろ、一人一人の人間が、そうした外部の情報の圧力に左右されることなく、
最も自由に意見を持ったり、その意見を表明したりできる環境を、ここでは「ニュ
ートラルな状態」と言っております。
つまり「普遍性」ですね。
「芸術」が示す「普遍性」が「世の中をニュートラルな状態に保つ働き」をすると思うわけです。
「普遍的なモノ」と言うのは、一見「極端」に見えていても、本質的な意味では、必ず「中庸的なモノ」でもあると思います。
つまり、本質的に「極端なモノ」は「普遍性」を持つことができないということですね。
いろいろな性質を兼ね備えていることで、はじめて「普遍的」と言えるわけですから、
まぁ、当然だと思います。
本来、「芸術」における「極める」と言うのは、そういう「普遍性」を極めることであって、必ずしも「極端なこと」をするという意味ではないと思うわけです。
ところが現在の「芸術」に限っては、その辺のところがかなりアンバランスになっていて、むしろ、「普遍性」はそっちのけで「極端なこと」が「芸術の本質」であるかのようになってしまっていると思いますね。
そして、そういう「芸術の極端さ」が、世の中に波及していった結果として、現在、社会の中に「極端なこと」が多々起きてきているという風に思うわけです。
「芸術」の本来の目的が、「社会に対する影響」だとは思いませんが、結果的に「芸術」が「普遍性」を追求していくことで、その「芸術が示す普遍性」によって「社会の中庸性」が維持されていくという働きがあるんだと思うわけです。
そして、更に言えば、そういう「ニュートラルな状態」の中で、人間の自由な意思が一番ストレートに反映されるような空気が生みだされるというのが「芸術」にとって、「一つのイイ・カタチ」なんだと思うわけですね。
そういうわけで、「芸術」が生真面目に「普遍性」を追求すれば、少し世の中が暮らしやすくなるんじゃないかなと。
そんな風に思っているわけです。
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