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「20世紀のシッポ」



『芸術の世界は今も「20世紀のシッポ」を引きずってるなぁ』という風に感じることがよくあるわけです。

 ※一応念のためにお断りしておきますけど、これは『自分だけは「20世紀のシッポ」
  なんて、トックのトウに切り捨てて、引きずってなんて居ないよ』という話ではな
  く、自分も含めた「いまの人」が全体として「20世紀のシッポ」をひきずってい
  るなという話でございます。

  私は、「芸術の20世紀を喪失する」という考え方をしていますが、だからと言っ
  て「芸術の20世紀の影響」から逃れられていると思っているわけではありません。
  できるだけそうしたいと思っているだけです。
  そして、それで十分だと思っているわけです。
  この記事に書いてあるのもそんなことでございます。


人間は「継承すること」なくしては、何一つ成し遂げることが出来ないと思いますから、前の時代からナニカを受け継いだり、それを守ったりすること自体を悪いことだと思う気持ちはカケラもありませんし、「継承」は、むしろ必要不可欠のことであるとすら思います。
(ナニも受け継がずに、ナニにも影響されずにできることなんてほとんどないと思いますから)

にもかかわらずですね、やっぱり、『「20世紀のシッポ」を引きずってるなぁ』と思ってしまうわけですね。


つまり、それが「継承」と言えるものに成っていないという印象があるということです。


『じゃあ、どういう印象なんだ?』と聞かれるなら、『抜け出せなくなっている』という印象です。
(しかも『抜け出そう!』という意識自体が無い?)


これは「芸術」の世界に限ったことではなく、科学の領域全般にも当てはまることがあると思いますし、医療や産業の分野でも同じようなことを感じることがあります。


たとえば「精神医学」の世界に「フロイト」と言う人が居らっしゃいますが、その「フロイト」から抜け出せていません。

19世紀~20世紀にかけて「フロイト」が研究した「精神分析学」がいかに優れたモノであったとしても、なにせ百年以上も前のものです。
これだけ世の中が変化しているのに、『今だに「フロイト」ですか?』という印象は否めないと言えるでしょう。
   
 ※専門家は『そんなことは無い!』と言うかもしれませんが、「フロイト」が完全に「精神
  分析学の祖」と言う位置に置かれたわけでもないようですから、やはり影響力がそれ
  なりに残っているということなんでしょう。
  要するに「フロイト」が「過去の人」に成ってないんですね。


また、医療においては、「抗生物質」と言われている薬なども、そこから抜け出せません。

抗生剤は使い方によっては効果があるでしょうが、現在の医療はそこに依存してしまっています。
結果的に「耐性菌」と言われるものを生み出してしまいましたし、人間の中にある治癒力を弱めてしまっていることも否定できないと思います。
    
 ※おそらく、この状況は、今後深刻化していくんじゃないでしょうか?もしかすると、この
  「免疫力の低下」という現象は、原子力なんかよりも、大きな「人類の脅威」に成って
  行くのかも知れないなと思います。
  まぁ、厳しい言い方をするなら、『今、アナタが使う抗生剤が、人類の子孫を滅亡させる
  のかも知れませんよ!』と言うことですね。

  実際は、、薬を使うことが問題なんじゃなくて、”使い過ぎ”が問題なわけですけどね。

また、産業にしても、「大規模工業化」という流れが出て来たのは18世紀~19世紀あたりでしょうから200年以上も前のことです。
それを20世紀になって完成形と言えるものにまで到達させたのは(本当のことを言えば「完成」というより「打ち止め」なんでしょうが)、『人間ってけっこうガンバッタんじゃないの?』と思います。

でも、やっぱりそこから抜け出せません。
技術面で言えば、20世紀に開発された「原子力」が「最後の一手」だったように思います。

確かに、今も「技術革新」は続いていますが、それらは「リスク」を伴うようになってきています。
というより、「リスク」の方が上回るようになってきているわけです。
そういう意味で「原子力」が「ギリギリの所」だったように見えるわけですね。
(あくまで「ギリギリ」であって「安全圏」とは言えないと思いますけど)

いま必要なのは「新しい技術」ではなくて、200年も前から続いている「大規模工業化」という「流れ」に替わる「新しい流れ」を見つけ出すことなんじゃないかと思うわけですね。


それから、「アインシュタイン」なんかも「抜け出せない」の一つですね。

あくまで、『「物理学」ってナニ?』みたいな人間から見たらと言う話ですけど、今の物理学者の人たちって、『自分がどこまでアインシュタインについてウマク説明できるか』みたいなことを競っているように見えるわけです。

やっぱり、『抜け出せていないなぁ』と思ってしまうわけですね。
(まぁ、これも『チガウ!』と言うんでしょうね)


まぁ、こういうのがけっこうたくさんあるんですね。

その中の一つが「芸術」っていうことです。
そして、「芸術」の場合、それがヤタラメッタラに多いんですねぇ。


たとえば公募団体の公募展の入選作なんかを見ても、「20世紀のシッポ」を引きずっている作品がほとんどだと言っていいと思いますね。

そういう作品じゃないと入選し辛いという公募団体も多いんじゃないでしょうか?
つまり、「すでに価値の確定している作品」を評価する傾向があるわけですね。

 ※「芸術」の世界は、一見すると、いつも「新しいモノ」を提示するように要求している
  ようにも見えますが、本当はかなり保守的でもあって、そこで言う「新しいモノ」と言
  うのは、あくまでも、「新しいモノと認められているモノ」であり、「過去において、より
  古いモノを破壊したモノ」であるわけです。
  つまり、「20世紀よりも、さらに古いモノ」を前提とした上での「新しいモノ」である場
  合が非常に多いということですね。

また、いわゆる「プロの作家」の方の作品でも、ほとんどの場合、どこかしらに「20世紀のシッポ」を引きずっています。


見てわかりやすいのは「キュビズム」と「シュルレアリズム」です。

今でも、「キュビズム」や「シュルレアリズム」を引きずっている作家は意外なほど多いと思います。


それから「ポップ・アート」ですね。

「ポップ・アートの焼き直し」、これが今の主流の一つだと言っていいかもしれません。

「ポップ・アート」には、その当時の「現代美術の先」的な側面があったと思いますから、今だにそれを引きずっていても「古臭い」という印象があんまりないんですね。
むしろ、ウマク焼き直しさえすれば、とても「新しいモノ」のように見えます。

でも、それは「ポップ・アート」がとてもスバラシイからと言うよりは、「ポップ・アート」と同時に「より古いスタイル」が、常に存在し続けているからです。

 ※これも、また「古いモノ」を前提としているということですね。
  その「古いモノ」を前提とした「ポップ・アート」を前提として、それをまた、さらに
  ”焼き直し”ているわけです。
  「新しさ」が生まれるわけがありませんね。

いくら「新しいモノ」に見えても、あくまで「半世紀以上前のモノ」ですから、「シッポを引きずっている」ということにかわりはありません。


「抽象芸術」にしても「表現主義」などは常に引きずられています。


これらのことに限らず、「芸術の20世紀」において無数に出現した、ありとあらゆる「スタイル」が「シッポ」として引きずられ続けています。


それらは、なぜ「継承」とは成らないのでしょう?
どうして、「シッポ」として引きずられてしまうのでしょう?


それは「芸術の20世紀」が「継承」を拒絶しているからです。
そして、その「継承の拒絶」が「芸術の20世紀」の根本的な性質でもあるわけです。


だから、「芸術の20世紀」を「継承」することが、「芸術の20世紀」を否定することにも成ってしまうわけですね。
だから、「リスペクト」できないわけです。

それで、「引きずる」しか無く成ってしまうんだと思います。


このような流れの中で、「20世紀」が「シッポ」として引きずられているように、私には見えるわけです。


じゃあ「20世紀以前の芸術」に関してはどうなのか?というと、「印象派以前の芸術」に関しても、「継承できない20世紀」で時代が分断されていることで、結果的に、それらは「古典」に位置づけられてしまいます。


要するに、あまりに古く感じられてしまうために、やはり、「継承」することができなくなってしまうわけです。

いま「印象派以前」を受け継ごうとすれば、「伝統の踏襲」にしか成らないということですね。
それもまた、「継承」とは違う作業になってしまうわけです。

つまり、「抜け出せない」という点で、同じようなものだということです。


要するに、産業において必要なのが「新しい技術」ではなく、「大規模工業化という流れ」とは違う「新しい流れ」であるのと同じように、「芸術」において必要なのも、そういった根本的な方向転換なんだと思うわけです。


たとえば、産業において「エコロジー」とか「リサイクル」と言うモノがありますけど、それらはあくまで「大規模工業化」の「裏面」として存在し得るものだと思います。

つまり、「大規模工業化の流れ」が前提になってしまっているわけです。
だから、根本的な方向転換にはなっていないということです。


言ってみれば、「ポップ・アートの焼き直し」が、一見すると目新しいものに見えるのと同じですね。
実体としてはまったく「同じ向き」を向き続けているわけです。


そういうことではなく、「20世紀」において、欠落していた部分を補填していく必要があるということです。


私は「20世紀」において、最も切り捨てられ続けたものは「人間」だと思います。


だから、「芸術」も「他のこと」も「人間性」を重視して、それを回復させることが出来れば、「20世紀のシッポ」を切り捨てて、新しい時代に移行することができると思うわけです。


「表現形態」で言えば、二極を融合することですね。

たとえば、「抽象と具象」とか、「動と静」・「有(存在)と無(非存在)」・「立体(空間)と平面」・「色と形」・「物質と精神」などですね。
そういった、これまで両極に分かれた位置にあるモノとして捉えられて来たために、融合しようという考え方がされていなかったモノを(というよりも、極化することばかり考えられてきたと言ってもいいでしょう)一体化する方向で考えていくことが「脱・20世紀」につながると思っています。


こういうことを言うと、『そんなこと、オマエ出来んのかよ?』という方がよく居らっしゃいますけど、そういう人には、『出来ないからヤラナイのかよ?』と言いたいですね。

まして、『ヤロウともしない』だとしたら、『そういうアンタに、そんなこと言う資格あんのかよ?』と思ってしまします。


「出来そうもないことを、無駄だと思っていてもヤロウとすること」
これこそが「芸術と言うモノ」だと思いますよ。


必ずしも「新しいこと」がイイとは思いませんし、「新しさ」を提示しなければダメだとも思いませんけど、ナニカに「依存」したり、ナニカに「固執」したりすると身動きができなくなってしまうんだと思いますね。


すでに固着してしまった「過去の流れ」に身を任せているということには「意味」が無いと思うわけです。
それは、もう「流れ」ですらないわけですから。


実際は、「新しい流れ」が動き出したときには、それも、もう終わりかけているわけですから、「現在」にのっとった考え方をしていると、結果的には「過去」に捕らわれてしまうわけです。


そういった意味で、、自然な形で「新しい流れ」が出来ていくといいなと思いますね。


その時、その場所で、どういうことが起きるのか、私は見てみたいですね。
だから、「20世紀のシッポ」は切り捨てていこうかなと。


そんな風に思ってやってるわけなのです。





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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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