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『自分を愛せるように成ると幸せになれる』ということについて



『自分を愛せるように成ると幸せになれる』と言われることがありますよね。
あれは、半分は当たっていると思いますけど、半分は外れていると思いますね。


本当のことを言えば、自分を愛していない人なんて、ほとんどいないと思うんですよね。

本当の問題は、「愛し方」なんだと思います。


どこかで「愛し方」が屈折してしまう人が居るということだと思います。
そうすると、人から見れば「自分のことを愛せない人」のように見えてしまうんですね。

でも、実際には、それも「自己愛」の一種なんだと思うわけです。
むしろ、「自己愛」が強いからこそ、そういう状態に陥ってしまうんだと思います。

ただ、その「自己愛」が屈折しているわけです。


要するに、『自分を愛せるように成ると幸せになれる』と言っている人は、その『「屈折」が無い(少ない)「愛し方」ができれば幸せになれる』というようなことを言っているんじゃないかと思います。


なぜ屈折してしまうのか?と言えば、「ほとんど」というより「すべて」と言った方がイイくらいに多くの場合、「抑圧」があるからということですね。

さらに言えば、圧倒的に多いのが「幼い時期の抑圧」だと思います。
まぁ、いちばん多いのは「親から子への抑圧」ということでしょう。


そういう、「親から子への抑圧」というものは、「親の愛情のユガミ」から発生すると言っていいんじゃないでしょうか。


「人間」の場合、「親の愛情」が、他の動物のようにストレートじゃないんでしょうねぇ。

「動物の親」が持っている「愛情」は、つまり、「本能的な愛情」ですね。
「無条件の愛情」と言ってもいいでしょう。

これが、「最もストレートな愛情」なんだと思うわけです。


でも、「人間の親」の場合、「条件付きの愛情」になってしまうことが多いんですね。
(〇〇ができた子は愛してあげるけど、出来ない子は愛してあげないということですね)

「人間の親」は、自分の子が社会の中で生きていけるように教育するという「課題」を課せられていますから、その部分ではどうしても「条件付き」に成らざるを得ないんだと思います。

そういうことを「しつけ」と言うんだと思います。

「しつけ」をまったくしないのも一種の「愛情のユガミ」と言えるでしょうし、「しつけ」をすれば、「条件付きの愛情」が「抑圧」を生み出してしまうわけです。

どっちに転んでも「愛情のユガミ」が避けられないように成っているわけですね。


もちろん、そこのところを上手く子供に伝えられる親もいるわけですけど、『お父さんもお母さんも、おまえのことを無条件に愛しているんだよ』でも、『それと「しつけ」は別のことで、それだっておまえのためを思ってやっているんだよ』なんてことを乳幼児に対して上手く伝えられる親って、限られていると思います。
(みんな、こんなことを言うわけですけど、なかなか上手くは伝わりませんよね)

べつに「親」に成るのにムズカシイ試験があるわけでもないわけですから、仕方ないことだと思います。


そんなことで「条件付きの愛情」が、「抑圧」を生み出してしまうケースがけっこうあるんだと思うわけです。


ここで問題なのは、『自分を愛せるように成ると幸せになれる』と言っている人が、それを割と簡単にできることのように言っていることが非常に多いことです。

『考え方を、少し「前向き」に変えるだけでいいんですよ』とか、『自分の好きなことだけをやって、嫌なことはやらなければいいだけです』というように、「気の持ちよう」ひとつで人生が180度変わるという言い方に成っていることが多いような気がします。


確かに、そういう人もソレナリに居るとは思いますけど、そういう人は、「幼い時期の抑圧」を受けていなかったということだと思うわけです。

「幼い時期の抑圧」を受けた人が「気の持ちよう」だけで180度変わることは稀だと思いますね。


こんな風に言うと、「幼い時期の抑圧」を受けた人と言うのが、特別なケースのように聞こえてしまうかもしれませんが、実際は、「現代社会」で育つ人の大半が、この「幼い時期の抑圧」を受けていて、むしろ、「無条件の愛情」を受けて育つ人がとても少ないんだと思うわけです。

確かに、そういう人は、屈折しないで「自分を愛せる」ように成るんでしょう。


ただ、ここで『自分を愛せるように成ると幸せになれる』と言われることは多いですけど、それとは逆に、『「自分に対する愛情」が屈折してしまった人は幸せになれないのか?』ということが語られることはあまりないんですねぇ。


だから、「自分を愛せない人」つまり「自分への愛情が屈折してしまった人」が、そこから抜け出せなくなってしまうんじゃないかと思います。


実は「自分への愛情」が屈折していても幸せになれないわけではないと思います。
ただ単に、「自分への愛情が屈折していない人」の方が『より簡単に幸せになれる』というだけのことだと思うわけです。


「自分への愛情が屈折してしまった人」は、少し手間をかけて幸せに成ればいいだけのことです。
というか、もしかしたら、その方が結果的には、より大きな幸せを手に入れられるのかも知れません。


要するに、簡単で「やや小ぶりな幸せ」を手に入れるか、それとも、手間をかけて「少し大きめの幸せ」を手に入れるか、ということじゃないでしょうか?
(まぁ、手間をかけた分チョットだけ大きめになるという程度だと思いますけど)


ただし、「自分への愛情が屈折してしまった人」の場合は、その「手間」の部分に「自分を愛せるように成れば」に替わるような「~さえすれば」という答えが無いんですね。

つまり、一人一人全部チガウ答えに成るんだと思います。
(屈折の仕方も一人一人違いますからね)

だから、自分で探し出さないとならないわけですね。
それが「手間」なわけです。


いずれにしても、『自分を愛せるように成ると幸せになれる』ということは、『自分への愛情が屈折していない人は、割と簡単に幸せになれるよ』と言うことで、『自分を愛せないと幸せになれない』のではなく、『自分への愛情が屈折してしまった人は幸せになるのに手間がかかる』と言うことだと思います。


実際は、「自分への愛情」が屈折したままでも幸せに成れると思いますし、現に、そういう人が幸せになっている例は意外と多いと思います。

ただ、そういう人は「自分が幸せだということ」をストレートに表現しないことが多いので、あまり幸せそうに見えないんだと思います。

本人が「自分が幸せだということ」に気づいていないことも多いと思います。
そういう人も、もう少し「自分が幸せだということ」に気づいてもいいような気がしますね。


そんなことを考えてみました。




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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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