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「思想や思考を持たないモノ」を「芸術」と呼べるのか?



はたして、「思想」や「思考」を持たないモノを「芸術」と呼ぶことが出来るんでしょうか?


たとえば「作品」を見る限り、ナカナカ素晴らしいんだけど、その「作品」を作った人が、ただ、なんにも考えずに作ったんだとしたら、
それでも、それを「芸術」であると言うことができるのでしょうか?

というよりも、もう少し極端な話として、その作者が、ナカナカ品性下劣な考えの持ち主で(「芸術からかけ離れた考え」と言う意味で)、そういう人が作ったものでも、その作品さえ素晴らしければ、「芸術」と呼ぶことは出来るのか?ということです。

『なんにも考えずに、いい作品なんてできるわけないだろ!』っていうことじゃなくて、もしも、そう言う「作品」があったとしてという話ですね。


私は、そういうのは、「芸術」としては『アウト!』だと思うわけです。

もちろん、そういう「美術」や「作品」があってはいけないということではないです。
そういうモノが、有ることを否定するつもりはありません。

ただ、『私はそれを「芸術の中心」から遠い位置にピン止めします』ということですね。


「思想」や「思考」をダイレクトに表現した作品を創らなければいけないとは思いませんし、作者が持っている「思想」と、その作者の「作品」が直接的に関係なくても、何の問題もないと思います。

また、その作者が自分の「思想」を言葉では表現できない(しない)としても、それも、大きな問題ではないと思います。
(だからこそ、「芸術」で表現しようとするわけですから)


でも、その作者に、何の「思想」も「思考」もなく作られたものは、現在においては「芸術」とは言えないと思うわけなのです。


要するに、「現在の芸術」には「作者の思想や思考を前提として表現するもの」という設定があると思うわけですね。

だから、その設定を無視したものを「芸術」と呼ぶことに、「意味」もないし、「必要」もないけど、「害」はあるということです。


『そんなのは、世間が勝手に決めた設定だから知ったことじゃない!』と言うのは、「自由」ではなく「無理」だと思うわけです。 
そして、さらに言えば、「自己正当化」でもありますね。

「犯罪者」が、法を犯した後で、『そんな法律は、オレが決めたわけじゃないから知ったこっちゃない!』というのと同じです。
その法律に、自分が守られていながら、それを言っても説得力はありませんし、それ以前に、ほとんどの場合、犯罪を犯した後から、その自分の行為を「自己正当化」するために、そういうことを言っているにすぎませんから。

「芸術」において、そういうことを言っている人というのは、自分自身が、「現在の芸術」に与えられている「自由」を使っているからこそ、そういうことを言うことが出来ているわけで、もし、その「自由」がなければ、そんなこと言っても、誰にも相手にされないでしょうし、「ちょっと、オカシナ人」というレッテルを張られるだけです。

つまり、自分が「その自由」に守られながら、「その自由」を生み出している「思考や思想」を無視しているわけですから、意味がありません。
その上、実を言えば、「思考や思想」を、あえて無視しているのではなく、自分が「力を持った思考」を構築せずに、貧弱な姿勢で制作しているということを「自己正当化」するために、そういった、「無理」を押し通そうとしているだけなんだと思うわけです。
(もしも、あえて無視しているのであれば、それも「一つの思想」でしょう)


「現在の芸術」を、すべて受け入れなければならないとは思いませんし、すべて拒否しなければならないとも思いませんが、「受け入れるため」には「受け入れる理由」が求められますし、「拒否するため」には「拒否する理由」が求められるわけで、「その理由」が、「単なる自分の都合」であってはならないという事だと思います。


もしも、どうしても「思想なき芸術」を実践したいならば、その作品が「思想を持たない作者」によって作られたものであるということが、見た人に十分にわかるような作品を作る必要があるわけです。
つまり、「内容が無い作品」を作る必要があるということです。
そして、それが「内容が無い作品」であるということが、見た人に十分伝わっていれば、いいんじゃないかと思います。

それでも、その作品を支持する人が居るのであれば、そこから先は見る側の問題ですね。
そこで、初めて「自由」な選択であると言えるようになるんだと思います。


いずれにしても、「芸術者」は(私は芸術に関わる人を鑑賞する側も含めてこう呼んでいます)、思考していてほしいなと思ってしまいますね。
(もちろん、自分のことも含めて)


なにも頭がよくないといけないとか、ましてや、いろんな本を読んでいないとダメなんだとかいうことじゃないです。

ハッキリ言えば、そんなことドウデモイイと思いますし、むしろジャマなくらいかもしれません。


そんなことじゃなくて、強く思考するっていうことですね。
たとえば、すごく単純な考えであっても力強く思考すると言うことです。

私といたしましては、そういう力強く思考された「思想」をもって、「芸術」と関わりたいと思いますねぇ。


本なんか読んでる暇ないです。
(実際、ほとんど読まないし)

こういうこと言うと、叱られるかもしれませんけど、現代人は、文字情報に振り回され過ぎていると言う気がします。

どんなに「知識」を増やしても、「思考」しないなら「意味」無いですね。
そういうのは「知識」はあっても「智恵」はないということだと思うわけです。


「本」や「勉強」なんて、「思考」することのキッカケに過ぎないと思います。

そのきっかけが、「仕事」であっても、「スポーツ」であっても、「生活体験」であっても、いや、それどころか「ナニもしないこと」であってもですね、結果的に「思考」に至れば、それでいいんじゃないかと思うわけです。


さらに言えば、その「思考」には「結論」は必要ない、「思考」自体が「目的」であり「手段」であり、「結論」でもあると、そう思います。


そして、そういうことの先端にあるのが「現在の芸術」だと思うんですね。

だから、『「思想や思考を持たないモノ」を「芸術」と呼べるのか?』と聞かれたら、私の場合、答えは『ノー!』ですね。


それどころか、もしも、『「作品」と「思考」のどちらを取るか?』と聞かれたら、「思考」を取りますね。


私の場合、「作品」が作れなくても生きられますが、「思考」も「思想」もないなら、生きられないです。

生きる「意味」を感じません。
当然、「作品」なんて作る気もなくなるでしょうね。


だから、「思考」あっての「作品」だよなと。
そんな風に思っておりますです。


逆に、「作品」あっての「思考」だとは、
そんな風に思っておりませんです。


つまり、「芸術」も、また、「思考」のキッカケに過ぎないということですね。

「芸術」や「芸術作品」と言うのは「行為」や「モノ」であって、そういった、すべての「物質性」は「精神性」に従属していると。
それでなければ「意味」が無いと。


つまりは、そんな風に思っているわけです。



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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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