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『どうして「天才」は、今も出現し続けているように見えるのか?』



私は、このブログの中で再三『もう天才なんて居ないでしょ?』と言っているんですけど(『そうだ、そうだ!』と言う人は誰一人いませんけど)、じゃあ、どうして「天才」が、今も出現し続けているように見えるんでしょう?


それは、人が「天才」だと思いたい人を「天才」と呼ぶからです。
しかも、「人」だけじゃなくて「マスコミ」や「社会」も同じように、それぞれ「天才」と呼びたいものを「天才」と呼んでいます。

だから、「天才」は今も出現し続けているように見えるわけです。


要するに、現在の社会全体が「天才」という言葉に依存してしまっているわけですね。
(依存させられているといった方がイイのかもしれません)


「カルト宗教」に依存してしまっている人は、その「カルト教」の実体がどんなに「神格性」と程遠いものかがわかった後も、必ず「教祖」のどこかに「神格性」を見つけ出して、その「カルト教」や他の「宗教」の中に自分の居場所を作ろうとします。

つまり、自分が「神」だと思いたいものを「神」と呼ぶように成るわけですね。

そうしないと、自己のアイデンティティが失われて、自分の存在が希薄になってしまうという不安にさいなまれ、とても堪えられないというような精神状態が出来上がってしまっているわけです。


「カルト教」のことだと、特殊な環境の下でそういう心理状態が作られてしまうように見えますが、実は、こういったことは人間の心理の中で常に起こっていることであって、決して特殊なことではないと思います。

特殊な「洗脳教育」などを受けたことで、そういう心理状態が出来上がってしまうと言うよりは、もともと、その人の心理の中にある「依存性」に、「洗脳」が滑り込まされてしまうわけです。

そして、それが「洗脳」であっても「社会的な情報」であっても「親の教育」であっても、結果的に、それらが「依存」に成ってしまえば、はまり込んで抜け出せなくなってしまうわけです。


どんな人も、必ずと言っていいほど、何らかの「論理」や「思考」などに頼って生きています。

その「論理」や「思考」が穏健なモノであるか過激なモノであるか、また、その「依存性」を本人が認識しているか否かといったことで、その「依存」の様子がだいぶ違うモノに成るということだと思います。


そして、現在は「時代」や「社会」そのものが「天才」に依存してしまっているわけです。
つまり、全ての人の心理の中に「天才」という「キーワード」が刷り込まれているということですね。


私は、「天才」は「神」の代替物だと思っています。

かつて人間は、宗教を通じて「神」を「よりどころ」としてきたわけですが、その「神」への信仰が揺らがざるを得ないような時代に成ったことで、「よりどころ」を失った人間が、その代替物として「天才」を欲するように成り、最終的には、それに依存するように成って行ったということだと思います。

 ※つまり、「神の原理」と「自然科学の原理」が整合しない部分が出てきたということです。
  実際には、強い信仰心があれば「科学」との矛盾など、どうということでも無いんでしょう
  が、やはり、普段の生活においては「自然科学の原理」に基づいて生活しているわけで、
  そこに矛盾があると「疑い」が生じてしまうわけです。
  その「疑い」が「信仰の揺らぎ」を生み出してしまうわけですね。
  つまり、強固な信仰心が築きあげられる前の段階で、「ある程度の疑い」が社会の中に
  存在するということです。
  自分が生まれる前からある「疑い」は一人の人間にはどうすることも出来ないわけですね。
  既に存在している「疑い」を無視して、「信仰」に突き進めば「盲信」に成りますし、「疑い」
  を差し挟んでしまえば、「信仰の揺らぎ」は避けられません。
  そういう状態が「現在の信仰」が置かれている状態だと思います。

  このようなことから「宗教の時代」は終わろうとしているわけですが、それは人間が「神へ
  の依存」から抜け出そうとしているということだと思います。
  ところが、一方で、「天才への依存」からは、まだ抜け出そうともしていない状態だというこ
  とです。
  でも、その時期が来ているのも間違いないことでしょうね。
  「天才」が「神」の代替物であると考えれば当然ですね。

といっても、現在に至っては社会全体が「天才」に依存してしまっていますから、こういう話を、受け入れる人はほとんどいません。

『そんなこと言ったって、「天才」は確かに居るじゃないか!』
『ほら、あのスポーツ選手を見ろ!あれを「天才」と呼ばずして何と呼ぶというんだ!!』
『あの芸術家だって見て見ろ!あんな作品を、「天才」でなくて誰が創れるというんだ!?』

ということですよね。


でも、そういうことを言っているわけじゃないんです。

「そのスポーツ選手」がスバラシイと言うことを否定しようということでも、「その芸術家」がスゴイと言うことをコケにしようということでもありません。

そうではなくて、「スゴイこと」や「スバラシイこと」の意味が違ってきているということを言っているわけです。


大昔には、地震も日蝕も雷も干ばつも、みな「神の為せる業」だったわけです。
それが、「科学」に成ったということですね。

つまり、そこは、もう「神の領域」ではなくなったということです。

そういうことが積み重ねられてきて、現在「神の領域」がほとんどなくなってしまったために、「神の時代」が終わったことを人間が受け入れようとしてきているわけです。

 ※もちろん「科学」を超越したモノとしての「神」や「絶対者」を想定することは出来ますが、
  それは、空想の領域でしかなく、まして人間にそれが把握できるということはあり得ない 
  話なわけですから。


でも、地震も雷も昔とナンニモ変わっていません。

それを人間が勝手に「神の業」と言っていたり「科学」と呼ぶように成ったりするだけです。

それと同じように、「スゴイこと」も「スバラシイこと」もナニモ変わりありませんが、それを人間が「天才」と言ったり「凡人」と言ったりするだけなのです。


ただ、「神の領域」が無くなってしまった後も、地震や雷を「神の業」と呼び続けていると、そこに「依存」が生まれて、人間はそこにはまり込んでしまい抜け出せなくなってしまうわけです。

それが「宗教のカルト化」の実体だと思います。


これと同じように、「天才」も、また「その領域」が無くなってしまっているのに、それを「天才」と呼び続ければ、必ず「依存」が生みだされて、そこから抜け出せなくなってしまうわけです。

それが、現時点での「天才」の位置ですね。


でも、その「天才」達は、どうして「天才」と言われているのか?といえば、ただ単に、「世間の要求するもの」を提示して見せたからです。

「スポーツ選手」でも「芸術家」でも、「世間の要求」に応えれば「天才」と呼ばれますし、それに応えていなければ「凡人」です。
しかも、それを最も若いうちにやってのけた人こそが「天才」と言われるわけです。


つまり、最も端的に切り詰めていうなら、「大人社会の要求に一番うまく対応できた子供」これが、現代における「天才」の真の姿です。


これは、現在マスコミが提供してくる情報をもとに判断してしまうと、非常に見えにくくなってしまうことだと思います。


たとえば、「スポーツ」で言えば、オリンピックの種目にあるようなメジャーな「スポーツ」で、『スゴイ!』といわれるような記録を立てた人は「天才」と言われますが、誰も知らない「スポーツ」や、非常に軽く扱われている「スポーツ」(たとえば「指相撲」とか、「エクストリーム・アイロン」とかですね)などで、それと同じぐらい『スゴイ!』記録を立てた人が居たとしても、その人が「天才」という言葉で語られることはほとんどありません。
(まぁ、語られたとしても誰も見向きもしませんけど)

なぜなら、世間がそれを要求していないからです。


そして、それらはマスコミの情報に乗ることはありませんから(あったとしても、シリアスな扱いを受けない)、誰にも気づかれずに、消えていくわけです。
そして、「メジャー情報」だけが大量に流されて、ますます、それらが「天才」であると信じ込まれていくわけです。

しかし、実際には「メジャー組」と「マイナー組」の本当の「天才度」は同じなハズです。

『それなら、そっちも「天才」なんだろ!だったら、やっぱり「天才」は居るってことじゃないか?』

その通りです。


ところが、そうなると、「もっとマイナーなモノ」についてはどう成るんでしょう?
たとえば、「世界で一番、石に蹴躓いたときに転ばなかった回数が多い人」とかですね。

そういうのも「天才」と呼ぶのか?ということです。


それも「天才」ということは出来なくはないんでしょうが、そうなると、全ての人が何らかのカタチで「天才」ということに成ってしまいます。
ある意味、これが本当のことなのかも知れませんが、そうなると、それを「天才」と呼ぶ意味が無くなってしまうわけです。

 ※この「みんな天才」というのが、現時点での「天才」の真の姿ではあるんでしょうが、
  「みんな天才」が実際に受け入れられることはありません。
  なんだかんだ言っても、必ず「天才」と「凡人」とか「才能」と「努力」という二極に分け
  られて、「天才」を祭り上げないと、誰一人納得しないと言うように成っているわけで
  すね。
  これこそ、まさに「社会全体」が「天才」に依存しているということです。
  なにせ、「神の代替物」ですから、「みんな神」ではどうにも役に立ちません。

しかし、もう一方で、『そういうクダラナイモノは「天才」ではない!』と言ってしまえば、けっきょく「世間の要求に応えた者」という路線に戻ってしまうわけです。


つまり、「天才」=「天から授かった才能」という言葉と、「世間の要求に要領よく答えた」というイメージがかけ離れているわけですね。
「世間の要求」は「天性のモノ」ではないでしょうから当然だと思います。


これは「カルト教」の実体が「神格性」とかけ離れているのと同じことです。
そして、かけ離れていても「依存」している人にはわかりませんし、絶対に認めようとしません。


どっちにしても、「天才」と言うモノの実体が見えてこないわけです。
マスコミによって刷り込まれた「誰かにとって都合がイイ天才情報」以外にはですね。


このことは、社会の中で出来上がってしまっている「固定観念」や「マスコミ」が提供している情報などを、一度頭の中から一掃して、白紙の状態にしてから考えてみるとよくわかることだと思います。


たとえば、「スポーツ」でも「芸術」でも、また、どんなジャンルでも、「マスコミ」を通じて、「天才」だという情報が一般に流布された人というのは、もう、その「天才性」を否定されることがほとんどありません。

これ、実はとてもオカシナコトだと思うんですね。
だって、いくら「天才」でも、その人が嫌いな人だっているハズだし、その人のことを評価しない人だっているハズです。

だとすれば、少なくとも「芸術」などの「嗜好性が高い分野、」においては、『そんなモン「天才」でもなんでもない!』ということに成るはずです。

でも、『彼は天才だけど、私は嫌い!』ということは出来ても、『彼は「天才」なんかじゃないよ』ということは出来ません。
というか、言っても意味をなさないんですね。

とにかく、現代社会においては、一度世間に流布された「天才」という情報の前には、それに対する「否定」が全く意味を持たなくなってしまうわけです。

たとえば、何らかの形で「化けの皮が剥がれた」としてもです。

要するに、「天才」というイメージが「神格化」してしまうわけですね。


宗教的信仰を持っている人にとっては、「神の行い」は、それが、一見すると人間を害するようなことであっても、『きっと、神様には「崇高な理由」があってのことに違いない』ということに成ってしまいます。

それは「信仰」であれば当然なのかもしれませんが、「天才」を「信仰」しているという認識がある人は、ほとんど居ないわけですから、やはり、やや「オカシナこと」に成っていると言わざるを得ないですね。


もしも、『そんなことは無い!』と思うならば、思い出してみてください。

「マスコミ」を通じて「天才」という情報が流布された人が、その後、『あー、あの人は「天才」じゃなかったねぇー』と言われたことがあるのか?

おそらく、ほとんどないと思いますよ。

実際は、「天才」と言われた人が、その後「鳴かず飛ばず」のまま終わることはけっこう多いのに、その人が『「天才」じゃなかったんだ』とは言われずに、あくまで『「天才」だったのに、オシイかったよねぇ』ということに成ってしまうわけです。

つまり、一度「天才」と言われてしまうと、それに誰一人逆らえなくなって、従うしかなくなってしまうということです。

どうして、そんな「依存状態」が出来上がってしまったのかと言えば、「神」と同じように「天才」という概念には、もう「絶対性」がなくなってしまっているからだと思います。
(というよりも「絶対性」自体の意味が、無くなりつつあるということでしょう)

これは、考え方が、「多様化」したり「相対化」したりしたことを考えれば当然のことです。
そこで、「天才」や「神」という言葉に含まれている「絶対性」との間に矛盾が生じてきているわけです。

そして、人間が、まだ、その「絶対性」を捨てきれずに追い求めてしまうために、「神」や「天才」のような「絶対性という幻想」を見せてくれるものに「依存」するようになってしまうんだと思います。

実のところ、「天才」と言う概念の実体は、もう消滅していて、それが、あるように見えているのは社会がそれに依存しているからだと思うわけです。


実際、一元的な考え方をすることが「正しい」とされていた時代には、「天才」というモノが存在していられたわけですが、現在のようになんらかの形で多元的な考え方が求められるようになった時代においては、ひとつの方向に固定した考えと言うモノは意味を持たないように成っているわけです。

しかし、前述のようにある特定の方向(たとえば世間の要求のような)を設定しないと、「天才」という言葉は意味を持つことができないわけで、ある方向で考えた場合「天才」だけど、違う方向から考えた場合「凡人」だった、というのは「天才」とは言えないわけですから、多元的な考え方をした場合「天才」は存在しえないということに成るわけです。
(または、『全ての人が天才』のどちらかに成るわけですね)


まぁ、こういうことを書いても、誰一人『そうだ、そうだ!』ということは無いでしょうが、それはまさに、「天才」という言葉に社会全体が依存しているということなんじゃないのかなと。


まぁ、そんな風に思っているわけです。

 ※これは、けっして『自分だけは「依存」してませんよ』という話ではありません。
  私も「スバラシイ人」を見れば「天才」と呼びたくなることもありますし、それは
  現時点では「シカタナイコト」だと思います。

  ただ、私は「裸の王様」を見たときには、『王様、お召し物がきれいですね』と
  は言わずに、『王様、お肌がきれいですね』と言うようにしているということで
  す。

  


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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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