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「複雑明快」 (その2)



だいぶ前に書いた記事で、「複雑明快」ということを目指していると書いたことがあるんですが、その「複雑明快」についての話です。


「単純明快」というのはあるのに、「複雑明快」や「複雑難解」や「単純難解」などはないですよね。
でも、その中で「複雑難解」と「単純難解」は無くてもイイかな?とも思うわけですが、「複雑明快」だけはあってもイイだろうと思っているわけです。

というか、私の場合は『あってもイイかな?』というだけじゃなくて、むしろ、そういう「複雑明快」を積極的に目指していきたいと思っているわけです。


確かに、「単純明快」はわかりやすくていいんですが、「単純明快」に現せることっていうのが、どうしても限られてしまうわけです。

当たり前ですが、「単純なこと」しかあらわせませんからね。


どうしたって「複雑なこと」をあらわそうとすれば、やはり、「単純明快」というわけにもいかなくなるということですね。


もちろん、「複雑なこと」を「単純明快」に表現出来たら一番いいんでしょうが、実際は、なかなかそうもいかない事の方が多いわけですよね。


それで、どうしても「複雑」に成らざるを得なくなるわけですけど、そこで、なんとかその「複雑」をチョットでも「明快」に表現できないだろうか?

というのが、私が目指している「複雑明快」ということなわけです。


そこで、実際の表現において、どういうことを「複雑明快と言っているのか?ということです。
私の場合は、「絵」を描いていますので、「絵画表現」における「複雑明快」についてということになります。


まず、「複雑」の部分ですが、「絵」に限らず、「芸術」がわかりにくくなる時というのは、ほとんどの場合「抽象表現」が関係していると思うわけです。

こういうことを「抽象がワカル人」と「抽象がワカラナイ人」が居るということにしてしまいがちですが、実際は、「誰にもワカラナイ」というのが本当だと思います。


具体的な表現力のないモノを『ワカレ!』というのは、「無理」と言うモノです。
そして、そういう「具体性のないモノ」を「抽象」と言っているわけです。

 ※少なくとも、現在、芸術の場において「抽象」と言われているモノは、
  「具象性を排除したモノ」ということに成っているわけで、表現としての
  具体性を持つことを、封じられてしまっているわけですから、仮に、作
  者にはワカッテいても、見た人には、まぁ、伝わりません。

  それでも「抽象がワカル人」が居るのは、一見、具象性が排除されて
  いるように見えている作品の中にも、目立たないように、かすかに具象
  性が隠されていることがあるからで、それを見逃さないように目を凝ら
  して見るような、そういう人も居るということに過ぎないわけです。
  その場合は、その人がワカッタのは「抽象」ではなく「かすかな具象」の
  部分ですね。「かすかな具象」を見つけ出す眼力には価値があると思い
  ます思いますけど、「抽象」がワカッタというのとは違うと思います。

  あとは、その人が、「抽象であること」それ自体を「芸術表現」であると
  考えている場合ですね。そういう場合は、作品の内容ではなく、「それが
  抽象であること」自体で、その人は『ワカッタ!』と思うわけですから、
  「抽象であること」を示しさえすればいいわけです。
  その場合は、その人は「抽象」を作品とは無関係に受け入れているわけ
  ですから、作品の中の「抽象表現」をワカルか否かということとは無関係
  に、はじめから「抽象」を受け入れているということですね。
  そんなことをする意味はないと思います。

「抽象表現」自体は、決して「複雑なモノ」とは限らないハズなんですが、それが、「誰にもワカラナイモノ」に成ってしまっているので、見る人は、「複雑な思考」を要求されてしまうわけです。

こういうのが、ここで言うところの「複雑」に成ってしまっているわけですね。


と、まぁ、こんな風に言っているんですが、私の場合は、「抽象画」をやっているわけです。
それで「複雑明快」が必要に成ってきたわけなんですねぇ。


「芸術表現」を推し進めるために「抽象表現」が必要だったのは間違いないことだと思います。

「具象」に固執していたんでは、「現実」の範囲から出られませんし、現在は、「現実」を「芸術」で表現する必要性が薄くなっているわけですから、「現実ではないナニカ」を表現するしかないわけです。

それで、物事の本質を表現しようという「抽象表現」が必要に成ったということだと思います。


まぁ、そこに、やや面倒な「複雑」がついて来てしまったということですね。


さて、そこで、今度は「明快」の方ですが、「複雑なモノ」をどうやったら「明快」に現すことができるだろうか?と考えたわけです。
そして、先ほど述べたところの「具体性」を見直してみようと思ったわけなのです。


「抽象」がわかりにくくなるのは、「抽象」だから仕方ないことなのではなく、「具体性」が排除されてしまうからではないか?と思うわけです。

つまり、「抽象表現」の中に「具体性」を取り込むことができれば、「ワカル抽象」に成るんじゃないか?と思ったわけですね。


「抽象」と「具象」を二極対立的な構図で捉えてしまうから、「具象」を排除しなければ「抽象」ではない!ということに成ってしまいますし、「具体的な表現」を使うと「抽象」ではない!ということに成ってしまいますが、実際には「抽象」と「具象」は両立してきましたし、むしろ、どちらも単独では成り立たないと言ってもいい程なわけで、無理矢理に、一方を排除しようとしてきたことの方がよほど不自然であったわけです。

だったら、「具体性のある抽象」があってもいいだろうと思うわけです。

つまり、「抽象的なモノ」を「具体的」に現わせたら、それが「複雑明快」に成るだろうと思っているということですね。


現時点で国語の辞書を引けば、「抽象」については、『物事の特殊な性質を除き、共通した性質を抜き出して概念を作り上げること』というようなことが書いてありますが、「抽象画」に成ると、『具体的な対象を描かず線・面・色などの総合関係の美を追求する絵画』となっています。

これ、微妙にズレていると思うんですよね。

本当は、『具体的な対象を描いても』イイと思うんですよね。
それが、『共通した性質を抜き出して』いれば「抽象」と言っていいハズですから。
つまり、普遍的で本質的なモノを現そうとしたのであれば、「具体性」があっても、それを「抽象」といって差し支えないと思うわけです。


そう言うのを「モノ」として現せば、少しは「明快」に成るんじゃないのかなと。

まぁ、そういうことを「複雑明快」と呼んでいるわけですが、そういうことを書いているこの文章自体が、まったくもって「明快」ではない!ということですから、「努力目標」ということです。

よろしく。                                                                                                     


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