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「異・リアリズム」と「シュルレアリスム」(つづき)



前の記事の続きです。


私が考えている「異・リアリズム」と「シュルレアリスム」のチガイについて、「表現形態」としては「現実」を使うか使わないかというチガイ、「思考」的には、「人間の潜在意識の探求」と「世界の有り様の探究」というチガイがあるということを前の記事に書きました。


そして、もう一つ、これも「表現」についてのチガイなんですが、「リアリズム」と「異現実のリアリズム」のチガイについて書いておこうと思います。


一般的に言うところの「リアリズム」は「写実」ですね。

つまり、「現実」を写し取ることです。
でも、私の場合、「異現実」を創り出そうとしているわけですから、当然、写し取るべき対象が存在していないわけです。

だから、創り出さないとならないわけですね。


それで、その「創り出す作業」にすごく時間がかかってしまうわけですが、さらに、その創り出した「世界」や「空間」や「モノ」を現すのに、「現実」を現すのと同じ「リアリズム」でいいんだろうか?と考えたわけです。

それで、「リアリズム」自体も創り出すハメになったということです。


つまり、「写実」ではなくて、「写・異現実」ということです。
その「異現実」の部分だけでなく「写」の部分も創り出そうということですね。

と言っても、前述のように、「写し取るべき対象」がまだないわけですから、「出来たモノ」を「写し取る」というよりは、「創り出しながら現わしていく」ということに成ります。

そういう作業を「異・リアリズム」と呼んでいるわけです。

 ※これを「抽象」と呼ぶか「具象」と呼ぶかは、見た人の自由だと思いますが、
  私自身はどっちでもいいと思っています。
  ただ、『抽象寄りかな?』と言う程度の意味で、『抽象なんだけど、モノを描
  こうと思っているんだよ』と言っているわけです。


その「異・リアリズム」の特徴を言うと、前にも記事に書いたことがある【絵画空間における「空」と「壁」】とか、【絵画空間における「接地」と「浮遊」】とかといった、「現実の世界」では、どちらかに決まっていることを曖昧にすることで「現実感」から離れた「異現実感」を生み出そうとしていることです。


「空と壁」というのは「抜けていく空間」と「行き止まりの空間」です。

「接地と浮遊」は文字通り「着地している」か「宙に浮いている」かということです。

これらのことは、「現実の世界」では物理法則などの自然の法則が支配していますから、必ずどちらかにカッチリ分かれているわけです。


だから、そこを曖昧にすることで、『これは現実じゃないぞ』という「異現実感」が生みだせるわけです。
これは「平面(絵の中の世界)」でしかできないことだと思っています。

 ※「写真」や「映像」で、これをやると「トリック」=「だまし」になってしまうと思います。
  「絵」でも、やっていることは「トリック」なんでしょうが、「絵」自体が一種の「トリッ
  ク」なので、「絵の中の世界」という約束事の中で、それをやっても、「だまし」には
  ならないということだと解釈しています。


また、「質・量」というのもそれらと同じような性質があると思います。

「モノ」を描くときに、その「モノ」の「質感」や「量感」を曖昧にすることで、やはり「異現実感」が生まれると思っています。


「リアリズム」では、「モノ」を描くときに、その「モノ」の「質感」や「量感」を上手く現せると、「リアル」に成るわけですが、それとは逆に、「質感」や「量感」を曖昧にすることで「異・リアル」に成るわけですね。

つまり、「リアリズム」では、布を描くときは「布らしいソフトな質感」を描き出せば「リアル」になります。
金属を描くときは「金属らしいハードな質感」を描き出せばいいわけです。

「量」で言えば、「小さいモノ」が小さく、「大きいモノ」が大きく見えれば「リアル」になるということです。


でも、目指すのは「異・リアル」ですから、そこを曖昧にするわけです。
(と言っても、まだ名前が無いモノを現すわけですから、それ自体が曖昧とも言えるんですけどね)

ただ、そこで、ただ単に曖昧にしたんでは、表現としての力が弱くなってしまうので、その「曖昧さ」を「リアル」に描き出そうとするわけです。

それが、「異・リアリズム」に成ります。


こういう、二極を成していると考えられているような「遠・近」とか「大・小」などだけでなく、「陽と陰」・「物質と精神」・「定型と不定形」なども含めたさまざまな意味で、二つのモノを一つに出来たらいいなと思っているわけです。
(なかなかうまくはいきませんけど)


「臨場感」や「ナマナマしさ」はあるのに、「現実感」はない。
そういう「異・現実感」を創り出したいわけですね。


敢えて言えば、この『生々しいのに現実感はない』というところが、「シュルレアリスム」との共通項かも知れませんね。


以上が、「異・リアリズム」と「シュルレアリスム」のチガイについての大マカな説明です。


そのうちに、今度は「抽象表現主義」や「アンフォルメル」とのチガイを書こうと思います。

『いえ、もうケッコウです!』

どうも、ご意見ありがとうございます。

ではまた。




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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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