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「考えること」≠「頭を使うこと」



「考えること」と「頭を使うこと」と言うのが微妙に違うと思っているわけなんです。


よく、『シゴトで動いているから運動なんかしなくても運動不足にならないんだ』と言っている人が居ますけど、たぶん、間違っていますよね。
(「たぶん」です。科学的裏付けなどはありませんので、アシカラズ)

仕事でかなり動いていても、ほとんど「運動」の代わりにはならないと思います。
仕事は「労働」ではあっても「運動」ではないんでしょうね。


それと同じように、「〇〇で頭を使っているから」と言って、「考えている」ということlにはならないような気がするわけです。


たとえば、仕事で頭を使っても、それはほとんどの部分が、「ルーティン・ワーク」であって、その都度、一から考えているというわけではないので、「頭は使っていて」も、意外と「考えてはいない」んじゃないかと思うわけです。


また、それが、仕事以外のことであっても、何かの必要に迫られて考えたことと言うのは、実は、どこかが単純化されていて、「際限なく考える」ということがないわけで、目的さえ達成されれば、それでいいわけですから、「純粋な好奇心」から考えられたこととは違って、意外なほど「単純な思考」しかしていないんじゃないでしょうか?

これは、「必要は発明の母」と言うのとはチョット違うことなんじゃないかと思いますね。
(こちらは一から考えているんでしょうね)


つまり、「考えること」が「脳の運動」に当たるものだとすれば、

「頭を使うこと」は「脳の労働」に当たるものということですね。

だとすれば、やっぱり「労働」では「運動」の代わりにはなりませんから、

「頭を使うこと」では「考えること」の代わりにはならないということに成るのでしょう。


この「脳の運動」が、「体の運動」の場合よりも、もっと区別されていないと思うわけです。

だから、「考える人」が少なく成っているような気がしますね。

「頭を使う人」はたくさん居るみたいなんですけどね。

    ※例えばの話ですが、「脳トレ」と言われているものがありますけど、
      あれは、たぶん「脳の運動」に当たるものということに成っているんでしょうが、
      実際には、どちらかと言うと「脳の労働」に近いものに
      成ってしまっている場合の方が多いような気がします。


現代人を見ていると、むしろ「考えないようにしている」と言う風に見えますね。それなのに、「頭を使っている」から、「考えている」と思ってしまっているんですね。


「頭を使うこと」に追われていて、疲れてしまうので、「考える」ヒマなんてないんですね。

だから、もう少し、脳も体も「ヒマ」にして、考えたり運動したりする余裕を作ってやったほうがいいんじゃないのかなと。

そんな風に思いますね。


まぁ、メンドクサイですけどね。


現代人は「運動」や「考えること」自体よりも、「ヒマ」を作ることがメンドクサイと思っているんじゃないか?と感じることがありますね。

「ヒマ」が「メンドクサイ」のっておかしいですよね。
「ヒマ」って一番メンドクサク”ナイ”ことのような気がするんですけどね。


「考えるヒマもなく働いている」のは、メンドクサク”ナイ”のに、「ヒマ」に成ることは、メンドクサイと思われているみたいですね。


なんとなく、何かを避けているように思えるんですよね。
その為に、忙しくして「ヒマ」を作らないようにしているようにも思えて来るんですね。


まぁ、そういうのは、ウガッタ見方なんでしょうけど、「考えること」と「頭を使うこと」は違うことだと思いますから、頭に「運動」させるなら、無目的に「考えること」がイイんじゃないかと思います。

あんまり実利的な目的をもって「頭を使う」と「考えるヒマ」が無く成って、けっきょく疲れるだけなのかなと。


そんな風にも考えられなくはないですね。



「死ぬ日」



『「死ぬ日」が幸せだったら、まぁ、けっこう「イイ」んじゃないかなぁ』と思ってしまうわけです。

少なくとも、そこまでの人生がそれなりに幸福でも、「死ぬ日」が不幸だったら、だいぶ「イヤ」なんじゃないかと思ってしまうんですよね。


それは、必ずしも最後にいいことがあるとか、すごく満たされて充実した気持ちで「死を迎える」といったことではなくて、どちらかと言うと、「スンナリト死んで行ける」と言う感じですか?


まぁ、そんな風に言うと「厭世的」に聞こえてしまうかもしれませんけど、そういうことではなくて、「心残り」みたいなものは、出来るだけ少なくしたいということだと思います。


ところが、なかなか「スンナリト死んで行く」のって出来ないんじゃないかと考えてしまいますね。


そして、この「死ぬ日」を意識して生きていると、わりと簡単に出来ることなのに、やっていないことが、実に多いことに気が付いてくるんですねぇ。

「大したことじゃない些細なこと」の場合もありますし、「人生の中で、ずっと気にかかっていたこと」なんて言う場合もあります。

どっちにしても、やる気さえあれば出来るようなことが多いですね。
と言うか、『できないことは、どっちみち出来ない』って言うことかもしれませんけどね。


要するに、「生きる日々」を中心に考える時と、「死ぬ日」を中心に考える時で、「やること」の「優先順位」が変わって来るって言うことなんでしょうね。

だから、「簡単に出来ること」が、後回しにされて、そのままホッタラカシになってしまっていたんでしょうね。


「生きる日々」から考えた場合、実際に「トクかどうか」が大事になりますけど、「死ぬ日」に至っては、今さら「トク」しても、あんまり意味ないんで、そういうことはどうでもよくなってきて、『スンナリト死んで行けるか?』ということが大事になってくるわけです。

つまり、「チョットした気がかり」なんかが、急にクローズアップされてくるわけですね。


それから、「生きる日々」から見ると、「できないこと」が「できたらいいのに」ということに成りますけど、「死ぬ日」から見ると、「できないことは今さら無理してもできない」ということで、出来なくても、あんまり「悔い」を残さないような気がするので、「出来るかどうか」は、ほとんどどうでもよく成ってくるということなんでしょうね。

諦めやすいって言うことでしょうね。


反面、出来るのにやらなかったことや、やろうともしなかったことがあると、とても気に成るんですねぇ。
むしろ、簡単にできることほど気に成るのかも知れません。


それから、とても多いのが、『本当はこっちの方が正しいことなんだけど、なんとなく周りの状況からして、こっちにしといた方が無難かな?』っていう、有りがちなパターンです。
これが、すごく気に成って来るんですね。


「死ぬ日」を中心に、物事を見るようにすると、『そんなことに何の意味があるのか?』と思えてくるわけですね。


なんで、そういう考え方に成ったかと言えば、「生きる日々」の中の「幸せ」って、チョット興味が薄く成って来ちゃったんですよね。


これもまた、「厭世的」に聞こえてしまうかもしれませんが、けっして『「幸せ」なんてもういらない』と言う話じゃなくて、「幸せ」は、相変わらず大好きなんですけど、「生きる日々」の中の「幸せ」は、意外と小さいような気がしてきたということかもしれないですね。


「幸せ」って、カゲロウみたいに「追うと逃げていくモノ」だと思うので、達成するって言うことは無いんだと思うわけですね。
でも、「死ぬ日」だけ「幸せ」ならイイっていう考え方だと、少し「達成」が見えて来るんじゃないかなと思えるわけですね。

しかも、それが、割と簡単にできることをするだけでいいとなれば、もう、これは、やらない手はないということに成るわけです。

しかも、そういう感じでやっていると、「生きる日々」の中でも、意外な満足感を得られたりするっていうのは不思議なことですね。


なんだか、これって、かなり「おトク」なんじゃないのかなと。

『おススメ・・・かな?』

『んっ?・・・そうでもないか?』

そんな感じ。





「物語り」はソコにある



人の「人生」には、それぞれの「物語り」があると思うわけです。
でも、時々、そういう「人生の物語り」が、軽んじられているように感じてしまうことがあるわけですね。


つまり、何か特別なことをやり遂げた人の「人生」にある「物語り」と、ごく平穏な「人生」を送った人の持っている「物語り」の価値が、随分と違うものとして考えられているように感じてしまうわけですね。

でも、実際は、「物語り」と言うのは、「視点」の置き所で、まったく違うものに見えてくるわけで、その人の「人生」がどういう風なものだとしても、「視点」の置き所によっては、「オモシロイ物語り」にもなりますし、また、違う視点から見れば「ツマラナイ物語り」にしか見えなくなってしまうかもしれないのです。


たとえば、最近のドラマや映画の仕立てに「スピンオフ」と言うのがありますけど、全く目立たなかった脇役のキャラクターでも、その人を主役に立てたとたんに、その人はもう「主役」にしか見えなくなってしまうわけで、「スピンオフの物語り」と「元の物語り」のどちらがオモシロイかということは、単なる好みの問題で、その二つの「物語り」の価値にそれ程の差があるということは無く成ってしまうわけです。


これは、「ドラマ」や「映画」の中の登場人物だけでなく、現実の人の「人生」についても全く同じことが言えていて、その人を中心にして、その人の目を通してみれば、その人の「人生」が一番オモシロイに決まっているわけで、それ以上の「物語り」など存在するハズがないわけです。


要するに、どんなに「奇想天外な人生」でも、その「物語り」を聞いた人が、『ふーん・・・で、だから?』と言ってしまえば、それで、その「物語り」はオシマイだし、どんなに、「平凡な人生」でも、その「物語り」を聞いた人が、『へぇー、それで、その時どんな気持ちだったんです?』と聞き返せば、『あぁ、あの時はね、子供が生まれたばかりで、すごく嬉しくってねぇ』などと話が展開して、それこそが「物語りの始まり」と成るわけです。


「エンターテイメント」の中の「物語り」と言うのは、その辺を、やや無理矢理に演出して、誰もが興味を持つように仕立ててあるわけですけど、「人生の物語り」は「現実」ですから、「演出」はきかないわけで、『それで?だから、何なの?』と言われてしまえば、「イッカンの終わり」なわけですが、「聞く側」が、その「物語り」に興味を持つことで「物語り」として成立した時には、「エンターテイメント」にはない「リアリティ」をもって人の心を感動させたりもするわけです。


そういう、「ソコにある物語り」を見逃しているのって、ちょっとモッタイナイような気がするわけですね。


なにも「ドラマ」や「映画」を見なくても、

隣近所の「おじさんたち」や「おねえさま方」の持っている「物語り」を引き出しさえすれば、じゅうぶんに「話のネタ」には事欠かないんじゃないのかなと。


そんな風に思う、今日この頃であります。


「最大の罪」と「最多の罪」



「罪」っていうのは、「悪いことをすること」ではなく、「悪いと思っていることをすること」なんだと思うわけですが、その「罪」の中に、「最大の罪」と「最多の罪」があると思っているわけです。

 ※本当の意味で「善悪」を追求していけば、そう簡単に答えが出せなくなりますが、
  「自分が悪いと思っていること」を、その人自身がやってし待った場合は、それを
  「悪くない」という理由がないように思いますので、それを「罪」と言ってもいいんじ
  ゃないかと思います。

そう考えた場合、「最も悪いと思っていること」をしてしまうのが「最大の罪」ですね。
それから、「悪いと思っていることを限りなく繰り返して」しまうのが「最多の罪」と言うわけです。


一般的にも、法律的にも「最大の罪」の方が重いということに成っているような気がするんですけど、私といたしましては、「最多の罪」の方がよほど重いように感じるわけですね。
(それ以前に、一般的にも法律的にも「自分が悪いと思っていること」が悪いということになってませんけどね)


法律的にも、重犯や常習犯は罪が重くなるということはあるんでしょうが、やはり、元になっている罪が重い方が、厳しく罰せられたりすることが多いんでしょうね。

たとえば、軽犯罪のようなものだと、繰り返してもさほどの罰則は下されないのだと思います。


でも、私は、たとえ軽い罪だったとしても、「罪を繰り返すこと」こそ、「とっても悪いこと」なんじゃないかと思うわけです。
要するに、「自らの行為を顧みない」ということですね。


人間なんて、所詮「その程度の人間」なわけだし、まだ「人間」にすら届いていないような気もするので、当然、「過ち」は犯すわけですが、そこで「その過ちを顧みること」だけは、「現状の人間」にもできることなんじゃないかと思うわけです。

その「唯一の出来ること」をしないということは、『どうしようもない!』ということですから、『やっぱり、かなり「罪」が重いんじゃないの?』と思うわけですね。


そういうわけで、出来るだけ、『自分の「罪の繰り返し」に気づいたら止める』ということをやっていこうと思っているんですけど、それが、なかなか出来ないわけですね。


自分の性質上ハマリやすい「罪」っていうのがあるみたいですね。
『ワカッチャいるけどヤメラレナイ』ってやつですね。

まぁ、「罪」って言っても大したことするわけでもないんで、気にしなきゃいいんでしょうけどね。
それこそが、「最多の罪」のような気もするわけですね。


毎回、顧みてはいるんですけどね。
そういう場合はどうすればいいんでしょうか?


いまの私の場合、そんな状態ですね。



「思い出」



ときどき、「思い出」って不思議なものだなぁ、と思うことがあるわけです。


昔のことでも、本当に昨日のことのように覚えていることもあれば、完全に記憶が抜け落ちてしまうようなこともあるし、どうでもいいようなことで、すごくリアルに覚えていることもあれば、大事なことや、いつもやっていたことなんかでも「コロッ」と忘れてしまうこともありますよね。


そういう「記憶の不思議」の中でも、一番不思議に思うのは、「イイ出来事」と「ワルイ出来事」が、ほとんど、どれも同じように「イイ思い出」に成ってしまうことですね。


たぶん、そこに「コンプレックス」や「トラウマ」みたいなものが関わっていると、それが、「イヤな思い出」になってしまうんだと思いますけど、そういう特別な「強い負の感情」がない場合は、「イイ出来事」でも「ワルイ出来事」でも、だいたい「イイ思い出」になってしまうような気がします。


『なんで、ワルイことなのにイイ思い出になってしまうのか?』
これは不思議ですねぇ。


本当は、人生で「ワルイ出来事」なんて何も起きていないって言うことなんですかねぇ。

でも、それで、同じ間違いを何度も繰り返したりすることが多いわけですけど、その時には、また、それを「ワルイ出来事」だと思うわけですよね。

だったら、はじめから、「ワルイ思い出」にしておけば、同じ間違いをしなくなるような気もするんですが、どんなもんなんでしょうね。


人間って、本当に懲りない生き物ですよね。


人間は、懲りた方がイイんでしょうか?
それとも、懲りない方がイイんでしょうか?

どっちなんでしょうね。


ナントナク、「懲りた」方が、無駄に疲れるような気がするし、「懲りない」には、「先がある」ような気もするわけですね。
いや、まったく逆なのかも知れませんけどね。


取り敢えず、いまのところ「懲りない人」で行こうかなと思うわけですが、出来れば、反省したり、顧みたりはするけど「でも、懲りない人」っていうのが理想かなと。

そんな風に思っています。

『無理か?』




「セルフ・ターミナルケア」



「死」を目前にして、医師から「余命」(三ヶ月くらい?)を宣告されたような人に対して、「残された日々」を、より良い形で過ごせるように施される医療や介護を「ターミナルケア」と呼んでいるそうです。


これを、非常に悲壮なものとして考えてしまうということもあるんですが、実は、そう悲惨なことではないような気もするわけです。


どっちにしろ、人間いつかは死ぬわけですし、言ってしまえば、生まれた瞬間から死ぬことが宣告された身の上なわけで、それを「あと〇ヶ月」と言われたことなんてのは、どうってことでもないんじゃないかなと、不謹慎にも思うわけですね。
(あくまで、不謹慎にもですけどね)


そう考えると、「ターミナルケア」を受けている時間と言うのは、その人にとって、とても有意義な時間なんじゃないのかなとも思えてくるわけです。


もちろん、病気や衰弱による痛みや苦痛と言うのはあるでしょうが、そのこととはまた別に、この「死を前にした時間」と言うのは、正に、人間が生まれた瞬間から、突き付けられている「生と死」という命題と、直に接する時でもあるように思えて来るんですね。


本来は、生まれたときに既に与えられている「問い」を、普段は、いつも見ないようにして、先送りにしているわけですが、それが、すぐ近くにあることで、「考えざるを得なくなる」ということですね。

それは、考えようによっては「自分自身によるターミナルケア」とも言えるんじゃないかと思うわけです。


そのことが、決して悲壮なこととは思えないんですよね。
まぁ、その立場に居ないから言えるのかも知れませんけどね。


これも、不謹慎ではありますけど、どちらかと言うと、楽しいことのような気がしてしまうわけなんですよね。


これは、死んだら楽になるんじゃないか?(たとえば天国に行って)と言うのとは違って、楽しいような気がするのは、どちらかと言うと「死ぬ前の時」であって、「死んだ後」ではないんですね。


そういう「自分が死ぬ時がだいたいわかっている期間」がいいんじゃないかと思うんですね。

なんと言うか、とても密度が濃い時間に成るんじゃないかと言う感じがするんですよね。
そういう濃密な時間と言うのは、人生の中で限られているように思うわけですね。


だからと言って、早くそういう状態に成りたいとは思わないですけどね。
と言うよりは、どちらかと言うと、遅い方がよくて、普段の時間を、「ターミナル期」の延長上と捉えていけば(余命何十年とか)、今からでも、「時間の密度」は濃く成るんじゃないかとも思ったりするんですよね。

つまり、長い方が”一層イイ”ということに成るわけですね。


そして、そう考えると、今日の自分の一日が、『実にウスい!」という感じがしてきて、やや、物足りない感もなくはないないですが、その「薄さ」に気づくというのもイイことなんじゃないのかなと。


そういう風に思っていたりもするわけです。





『人に迷惑をかけない』と言う発想



子供のころ、よく親や周りの大人から、『人に迷惑をかけてはいけないよ』とか、『人に迷惑をかけさえしなければ、それでいいんだよ』と言われていたと思うわけです。


要するに「人に迷惑をかけないこと」が、「道徳」の基本なんでしょうね。


でも、多くの人が、大人に成ってから気が付くことに成るわけですが、『人に迷惑をかけないと生きていけない』わけなんですねぇ。


これは、ある意味「衝撃的」ですよね。

『それだけは絶対に、やっちゃいけないよ』とか、『これさえやらなければ、ずべて”OK”なんだよ』と言われて、子供だから『そうなんだ』と完全に鵜呑みにしていたことが、それとは、まったく裏腹に、『それをしないと生きていけない』ようなことだったわけですからね。


人間は生きていくうえで、常に『人に迷惑をかけている』し、常に『人から迷惑をかけられている』わけですよね。


『人に迷惑をかけている量』や、『人に迷惑をかけられている量』の差し引きした総計は、

ほとんどの人が、ほぼ同じくらいなのかも知れませんね。


と言うよりは、「迷惑」っていうモノ自体がすごく「相対的なモノ」なんだと思うわけです。

つまり、絶対的な「量」として考えた場合の「迷惑」は、みんなが、同じくらいかけたりかけられたりしていると思いますが、それを「相対的」に捉えることで、「差」が出て来るということなんだと思うわけです。


たとえば、「子供」をとても愛している「親」にとって、「子供」にかけられる「迷惑」は、普通に考えるよりも随分小さくなってしまうモノなんでしょうそれは、「迷惑」ですらなくなってしまうことも多いのでしょう。


単純に言って、「子供」に食べ物を与えることは、多くの親が「迷惑」とも思わずにやっていますが、「他人」から、その人が大人に成るまで、20年間も食事を与え続けることを強要されたら、ほとんどの人が「非常に迷惑」だと感じるでしょうね。


まぁ、それだけ「迷惑」と言う概念が、人の中で、かなり極端に「相対的」に捉えられているということなんでしょう。


こういうことは、他のことでもよく起きていることだと思いますけど、一つの言葉の解釈が、あまりにも幅広くなってしまうことで、時によって、ぜんぜん意味が通じていないことがあるわけです。

つまり、この場合、「人に迷惑をかけてはいけない」と言う時の「迷惑」という言葉が、「絶対的な迷惑」のことなのか、それとも、「極端に相対的な迷惑」のことなのかが、わかり難いわけですね。


それで『人に迷惑をかけてはいけないよ』と言う大人の「教え」を、キッチリと守ろうとし過ぎて、社会の中で生きることが、辛くなってしまう人が居るんじゃないかと思います。


そこで、この『人に迷惑をかけない』を、もう少し詳しく読み解いてみようと思うわけです。


まず、もともと、この『人に迷惑をかけない』と言う言葉は、『”他人”に迷惑をかけない』だったように思います。

この「人」と「他人」が、日本語の場合、同じように「ひと」と読みますから、そこからして、すでに話が少しずれてくるわけですね。


「他人に迷惑をかけない」だと、「身内には少しくらい迷惑をかけてもいいだろう」と言う感じがありますから、そこに、少しは「相対的なニュアンス」が出て来るわけです。


そこには、「他人にかける迷惑」と「身内にかける迷惑」とでは、同じ「迷惑」でもベツモノという、「相対性」が出て来るわけですね。

そこで、「なるほど、身内になら少しくらいの迷惑をかけてもいいのか」ということで、少しだけは「ホッ」とするわけです。


でも、これは「身内」か「他人」か、と言う問題ではなくて、「迷惑」自体が、「極端に相対的」なモノだということですから、「身内かどうか」ということ以外のことでも同じで、要は、相手がそれを「迷惑」と感じなければいいわけですよね。


つまり、同じ「迷惑」でも、「かけられた側」が、れを「大きい迷惑」と感じるか「小さい迷惑」と感じるかで、その「迷惑」の大きさが決まっているわけですから、「かけられる側」が、「迷惑じゃない」と感じるところや、「小さい迷惑」と感じるところを狙って、どんどん「迷惑」をかけるようにしていけばいいわけです。


そう言うと、どうも「自分勝手」な感じになってしまうんですけど、それこそが、「人に迷惑をかけない」が間違って普及しているということなんじゃないかと思うわけです。


「相手が何を迷惑と感じるのか」ということに配慮すること自体が、むしろ、とても「人に気を使っている」ということですから、ぜんぜん「自分勝手」なことではないわけですね。
(「どんどん」は言い過ぎだとしてもね)


全体として、「人に迷惑をかけない」ということは、人それぞれの「迷惑」の感じ方に配慮し、それを調整して、出来るだけ人が「嫌だな」と感じるような「迷惑」を減らしていきましょう。
ということなんじゃないかと思うわけです。


つまり、「迷惑」を完全に無くそうということではなくて、「迷惑」の「落としどころ」を見つけていこうと言うことなんじゃないかと思うわけですね。


昔の時代には、「迷惑」にあまり個人差がなかったんでしょうね。
だから、その辺を、そんなに考えないで『人に迷惑をかけてはいけない』と言えたんでしょう。


でも、現代は、もう少し考える必要が出て来たって言うことでしょうかね。
それだけ「迷惑」にも個人差が出て来たって言うことなんでしょうね。


だから、「人に迷惑をかけない」と言う発想で、生きようとすると、どうやら、生きづらい感じになってしまうようですね。


「自分はぜんぜん人に迷惑をかけていない」と言う人は、

「迷惑」を自分の都合に合わせて解釈しているだけで、

実際には、誰かに対して、それなりにたくさんの「迷惑」をかけているんだと思います。


だから、自分が誰かに「迷惑」をかけていると思ったら、

その相手も必ず誰かに「迷惑」をかけているんだということを思い出して、

まぁ、デキレバその「迷惑」をチョットだけ「小さい迷惑」にする

と言うようなようなことを考えるという程度でいいんじゃないのかなと。


その方が、ただ単に「人に迷惑をかけない」と言う発想よりも、

もう少し「人間的」な感じがするのかなと。


そんな風に思います。



「感情」は一つのモノ



「感情」と言うと、「喜怒哀楽」の四つと言われることが多いわけですが、実は、これは四つのモノではなくて、あくまで一つのモノなんじゃないかと思うわけです。

もちろん、一人の人間の「感情」なわけですから、一つのモノということもありますが、それだけではなくて、「喜び」と「悲しみ」や「怒り」と「楽しさ」などは、どれも、一つでは成り立たなくて、それらが一体化した「感情」としてこそ、成り立つものなんだろうと思うわけですね。


たとえば、「紙」のような、薄っぺらなものですら、「表と裏」があって、はじめて成り立っているわけですから、どのようなものでも「表側」や「裏側」が単独で成り立つということは無いわけです。
まぁ、例えば、文字は「表面」にしか書いていなくても、何も書いていない「裏面」があることで、その「紙」が存在できて、はじめて「表面」の文字を読むことができるというようなことでしょうか?

それと同じように、「感情」のような「非物質的」なモノでも、「喜怒哀楽」の中のどれか一つでは、「感情」として成り立たなくて、それらが一体となったモノだけが「感情」として、成り立つんだと思うわけですね。


どんなに温厚な人の中にも必ず「怒り」はあって、それによって「喜び」や「楽しさ」が輪郭をもって浮き出しているというような感じですね。

もしも、全てが「喜び」で満たされた「感情」を持った「心」があったら、それは、恐らく限りなく「無感情」な「心」に近いもので、ほとんど、何の「感情」もない状態ということになってしまうような気がします。

そうなれば、もう、それを「喜び」と呼ぶことすらできなくなってしまうのではないでしょうか?


つまり、真っ赤な壁面に打たれた「赤い点」は輪郭と言うものを持たないわけですから、存在していると言うことすらできないということですね。


とは言っても、誰でも「怒り」や「悲しみ」よりは、「喜び」や「楽しさ」の方がイイに決まっているわけで、どうしたって、「怒り」や「悲しみ」は無く成ればいいと思うでしょうし、「喜び」や「楽しさ」の方は、出来るだけたくさんあればいいなと思うのが人情と言うものでしょうね。


でも、やっぱり、「喜び」や「楽しさ」を追えば追うほど、「怒り」や「悲しみ」がクッツイテくるという仕組みになっているわけで、そういうのを、「ヒトゴト」として見ていると、『とっても「人間的」だよなぁ。』と思ったりもするわけです『。

でも、ひとたび「自分のこと」となれば、『この「怒り」はどうにかならないのか?』
『この「悲しみ」から、解放してくれ!』と思ってしまうわけなのです。


出来ることなら、そういう「自分」を見た誰かが、『あぁ、あの人、とっても「人間的」だよねぇ』と思ってくれれば、私としては、嬉しいですねと。

そういう風に思います。



「おそろしく長持ちなモノ」



最近、何かにつけて、耐久性に疑問がある商品が多いと感じる「今日この頃」ですよね。

そんな中でも、世の中には、『コイツは長持ちだなぁ』と思うものも、あるにはあるもんで、そういうモノに限っては、また、「おそろしく長持ち」だったりすることがあるわけです。


私は「消費者的な”ウツワ”」が非常に小さいタイプの人間なので、どんなものでも、品物は長持ちしてほしいと思っているわけです。

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『それは、貧乏だということですか?』

「いえ、全然違います」

『じゃあ、何なんですか?』

「お金があまり好きではないと言うだけです」

『ああ、なるほど、だいたいわかりました』

「さらに言うと、お金の方もこちらを好きではないようです」

『なるほど、さらに、よくわかりました』

「しかも、まわりの人からは、お金に縁がないヤツと言われています」

『はいはい、要するに貧乏なんですよね』

「いえ、全然違います」

『・・・・・・・ふぅ~、戻るのかよ』 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

まぁ、最終的には、貧乏なんですけど、その辺の所は、「エコロジー」と言うと、なんとなくゴマカセルようなので、一応、「貧乏人風エコロジー」ということでお願いいたします(何を?)。


まぁ、こういった経済的な事情も無いとは言いませんが、私といたしましては、常に「モノ」に「愛着」を感じていたいのです。
つまり、「新品のモノ」よりも「自分に馴染んだモノ」が好きなんですねぇ。


この「愛着」っていうのは、それを所有していた時間とか、使った回数でしか生まれてこないので、やっぱり品物は、出来るだけ長持ちしてほしいなと、常日頃から思っているわけです。


たとえば、絵の道具なんですけど、「筆」にしても、すぐに使えなくなってしまうような「筆」もあれば、『いえいえ、そこまで長く持ちしていただかなくても・・・』と言うような「筆」まであるんですが、そういう「おそろしく長持ちな筆」が「使いやすい筆」であればいいんですけど、必ずしも、そうとも限りません。

「使いにくい筆」が「おそろしく長持ち」だと、嬉しくはないですよね。
なにしろ、ただでさえ「長持ち」なのに、「使いにくい」ということは、当然使いませんから、いつまでたっても、半永久的に存在し続けるわけです。

大して邪魔にもならないんで、捨てもしませんから、いつまでたっても「筆立て」の中に居続けるわけですね。ソイツが。


すると、こともあろうか、いつの間にか「愛着」が発生しているんですねぇ。

ろくに使いもしないのに、長い間目にしているだけで、「愛着」が出てきてしまうわけです。ソイツに。


そうなると、もう、絶対捨てられません。
まぁ、べつに困りませんけどね。


それから、家具とか調理道具とかに「おそろしく長持ちなモノ」が多いような気がしますね。

家具なんかだと、すごく気に入って手に入れたモノでも「長持ち」とは限らないし、何の気なしに、よく選びもせずに買ったモノが「おそろしく長持ち」の時もあったりします。

後になってから、『こんなモノが、実は「一生もの」だったとは!』と言う感じですね。
時には、『なんで、オマエが?!』ということもありますけど、それですら、「愛着」は、シッカリ発生していたりするわけです。


そういうものを、どんどん新しいものに買い替えていくという人は、要するに「消費者的な”ウツワ”が大きい人」ということに成るんでしょうが、私は、出来ないですね。

どんなにイイものでも、「愛着」が湧いてくるまでは、自分の中での位置づけが、どうしても「やや低」になっているみたいですね。
『コイツが、生き残ってきたことが嬉しい!』みたいな感じですか?


調理器具なんかだと、圧倒的にプロ用のモノが「長持ち」ですね。
これは、火にかけて使いますから、耐久性能が高い「プロ仕様」のものに勝るものはないということなんでしょう。


いずれにしても、気に入って買ったモノかどうかよりも、「愛着」が湧いてしまうことの方が、結果的に自分にとっては魅力的なんですね。


だから、取り敢えず、世の中に、「おそろしく長持ちなモノ」が、どんどん増えて欲しいものだなと。
(もう少し、モノが売れなくなってもいいんじゃないかとも思っていますし)

そんな風に思っているわけです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『ということは、やっぱり、貧乏なんですよね?』

「はい」

おぉ~、認めたよ。





「収入ゼロの仕事」



前に、このブログの中で【「職業」じゃない「シゴト」】と言う記事を書いたことがあるんですけど、要するに、「収入」がなくても「仕事」と言う概念は成り立つんじゃないかと思っているわけですね。

     ※2015年5月3日の記事で書いています。


たとえば、「主婦業」が「仕事」として社会的に認められるように成って久しいわけですが、「収入」と「仕事」は必ずしも関係がないモノなんじゃないかと思うのです。

それどころか、「仕事」は「利益」とも関係なく、成立する概念なんじゃないかとすら思うわけです。

じゃあ、何と関係があるのかと言えば、「価値」だと思うんですね。
「価値」と「利益」は一致しないと思うわけです。
まぁ、「価値」や「利益」の解釈にもよりますけどね。


たとえば、両親にとって「子供の存在」には「価値」があると言えるでしょうが、それは「利益」とは必ずしも関係がないわけです。

「利益」を当て込んだ上で、「子供の存在」に「価値」を感じている、ということではないんじゃないかと思うわけですね。
(そういう親もいるでしょうが、そういう人は何かを見失っているんでしょうね)


つまり、「利益」がない所にも「価値」は発生する可能性があるということでしょう。


もちろん、「価値を得る」ということ自体が「利益」であるということはあるでしょうが、「利益」と言う言葉には、もう少し「直接的なトク」と言う意味があると思うわけです。

やはり、「両親」が「子供の存在」に感じている「価値」は、「ソン・トク抜き」と言うのが、言葉の上でピッタリくるような気がします。


そういった意味で、「仕事」に関しては、「利益」に当たるものの代表が「収入」に成るわけですよね。


当然、「収入」にも「価値」はありますが、「利益」を伴わない「価値」もあるハズだなと。
そういう、「ソン・トク抜きの価値」に当たるものは何なんだろうか?と考えるわけですね。


「収入」や「社会的地位」と言った「直接的な利益」を除いた場合の、「仕事」における「価値」とは、おそらく、「ナニカをやりきること」なんじゃないかと思うわけです。


「人生の中で何かをやりきること」を、「収入」とは無関係に「仕事」と言っても、なんらサシツカエないんじゃないかと思うのですが、どうでしょうか?


別に、大事業を成し遂げるということではなくて、なにか、たった一つのことでもいいから「やりきって」から死にたいモンだと思うわけなんですけど、これって、「思い上がり」なんでしょうか?


その為に、自分にも周りの人間にも、少なからず負担がかかってしまうこともあるでしょうが、それって、「自分勝手なこと」なんでしょうか?

もちろん、「収入」を得ることで、家計を支えて、その結果「ナニカを成し遂げる」ということだってあるでしょう。


でも、それと同じように、「収入」を切り捨てることで、「ナニカをやりきる」ということもあっていいんじゃないかと思っているわけです。


「収入」から得られるものでは、「自分にとっての”ナニカ”」を「やりきること」ができない場合は、「収入」をあきらめてでも、それを「やりきること」には、十分に「価値」があると思うのです。


その「価値」を共有してくれる人が居れば、幸運なことだと思いますが、それは、そんなに「自分勝手なこと」ではないんじゃないかと思うわけです。


もしも、そうだとすれば、それを「仕事」と呼んでもいいんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。




「恩」



人に対して「恩」を感じると、なんとか「恩返し」がしたいと思うものですけど、そう思ったときには、その相手がそばに居なかったり、適当な「恩返しの形」が見つからなかったりということで、なかなか「恩」を返すのって難しいもんだなと、思ってしまうわけなのです。


そんな感じで、私などは、ほとんど人に「恩返し」ができたためしがないわけですけど、そうはいっても、いつも心のどこかで、『「あの人にもあの人にも恩返しがしたいなぁ』などと思っているわけですね。

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『いや、ホントですよ』
『ウソじゃないです』

「あなた、そこまで言うと、かえってウソっぽいですよ」

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と言う感じですから、仕方なく(あくまで仕方なくですよ)、適当に、その辺に居る人に対して、時たま、何のいわれもなく「恩返し」をする時があるわけですねぇ。

相手にしてみれば、イミガワカラナイわけですけどね。
こちらにしてみれば、あくまで「恩返し」なわけなので、それで、まあまあ満足です。
要するに「自己満足」ですね。

でも、そんなことでも、何もしないよりは少し気が楽になるんですねぇ。


こういうのって「イイこと」に入るんですか?

それとも「ドウデモイイこと」に入るんでしょうか?

まぁ、「ワルイこと」には入らないんじゃないかなと。


私といたしましては、

『ジューブンです!』


と、思っています。




「長生き」が目標



今の自分の目標と言えば、取り敢えずは、「絵」を描くことで、次には「額」を作ることなんですけど、それとは別に、目標としているのが「長生き」なんですねぇ。

実際には、「それとは別に」と言うよりも「その前に」と言ってもいいくらいかもしれません。


これは、ここでも何度も書いているんですけど、「生きていること」っていうのが、唯一の「尊敬出来ること」なんじゃないのかなと思うんですよね。


でも、そうなると、みんな一応生きているわけですから、すべての人を「尊敬」しなきゃならなくなってしまうわけですけどね。


まぁ、そんなに厳密な意味ではないんですけど、「生きている」ってだけでも十分に「尊敬」に値するようなところもあるんじゃないかっていう気もするわけです。

まぁ、正直言えば、「尊敬」したくないなって人もいますけどね。


取り敢えず、何をどう言おうが、「存在している」っていうところが”スバラシイ”んじゃないの?って感じですね。


だから、これは「生きていること」に限らず、なんでも「そこに在る」ってことが、”スバラシイ”んじゃないかなと。

まぁ、そう思ったりしているわけですけど、そんな中でも、やっぱり「人間」ですから、「自分」に一番近い「人間」が「生きている」ってことが一番”スバラシイ”なって思っちゃうわけですね。


その上、さらに「長生き」ですから、『そりゃ、もう”スバラシイ”でしょ!』ということで、「目標」にしているわけですね。


まぁ、読んだ人は、何が”スバラシイ”なのかも、どうして「目標」なのかも、わからないかも知れませんけどね。


とにかく、どんなことでも「アル」って言うことが、始まりなんじゃないかと思うんですね。
「ナイ」って言うことからは、何も始められないんじゃないでしょうか?

取り敢えず、みんな「アル側」に居るわけですから、「ナイ側」の話からは、何も展開できないハズだと思うんですがどうなんでしょうね?


この「アル」を肯定することからすべてのことが生み出されているように思うんですね。

「アル」を否定したり、「ナイ」を肯定したりすると、最終的には、どこかで行き詰ってしまうよな気がしますね。
それでなければ、「ナニカをゴマカス」かになってしまうんじゃないでしょうか?


まぁ、「ナイ側」に居ないのに「ナイ側」の話をすることには、やや無理があるということだと思いますね。


ということで、

「生きること」=「アルこと」と

「死ぬこと」=「ナクナルこと」が、

人間にとって、最も「ゴマカシ」のない「事実」であって、

「自分」なんじゃないかと思うわけですね。


そこで、その「生きること」を長く続けることが出来れば、その毎日が、「自分の真実」ということなんじゃないかと思うわけです。
「死ぬこと」は、どっち道、一回しかできませんからね。


「ナイ側」の方は、「ナクナッテ」=「死んで」から考えればいいんじゃないのかなと。

『死んだら、考えられないでしょう!?』

『それなら、考えなくてイイってことなのかな?』


そんな風に思っているわけです。


「お金」がないと生活できない?:「お金」を上回るナニカを持つこと



『お金がないと生きていけないでしょ』とよく言いますけど本当にお金がないと生きていけないモノなんでしょうか?


これを言うと、誰かに叱られそうなんですけど、たとえば「ホームレス」の人たちは、「お金」がなくても生きていますよね。
それから、「動物」達だって、「お金」なんて持ってませんね。
(あっても使わなそうですけど)


要するに、「お金」で生きてるのって、「一般的な社会生活をしている人間」だけなんですね。


現在の社会では、「お金」で買ったものでほとんどの「生活」が支えられているわけです。
だから、「お金」がないと生きていけないということに成るわけですね。

でも、これは、少し間違っていて、本当は『お金がないと、今の生活は維持できない』ということなんだと思うわけです。


まぁ、「ホームレス」まで「生活レベル」を下げれば、ほとんど「お金」がなくても生きていけますし、『あいつんち貧乏なんだぜ!』ぐらいでも、かなり少ない「お金」で生きていけます。


もちろん、『さぁ、みんなで貧乏になろう!』っていう話ではないです。
でも、少なくとも、『お金がないと生きていけない』と言う「常識」は、完全ではないということですね。

間違っているとも言えませんが、少し”ズレ”ているということなんじゃないかと思います。


それと同じで、『金さえあれば、なんとかなる』
これなんかも、少し”ズレ”ていると思いますね。


要するに、今の世の中は、ちょっと「お金」に偏っているんですね。
もう少し「人間」に偏っていてもいいんじゃないかと思うわけです。

「経済偏重」や「効率偏重」には、利益もあるでしょうが、弊害もあります。
でも、「人間偏重」だったら、弊害はほとんどないんじゃないでしょうか?


「経済上の利益」や「効率」が低下して、困るのは、実は「人間」ではなくて、「社会」と言う実体のない「構造」であって、その「社会」を構成している「人間」の意思とは無関係に「社会」が要求しているのが、「利益」や「効率」なんだと思います。


実際、人間は、今よりもはるかに社会の効率が悪かった時代に置いて、今よりも、はるかに非効率的な仕事のやり方をしていたわけで、それですら、ナントナク呑気にやっていたりしたわけですから、今だったら、かなりのんびり暮らせるハズなのに、ノンビリどころか、「社会機構」がシッカリしてくるにつれて、むしろ、「人間」が「社会」に服従させられてきているという感じがします。


だから、『お金がないと生きていけない』といつもきまり文句のように言うのではなくて、『お金なんて無くたっていいんだよ、まぁ、少しあれば、よりイイっていう程度のもんだね!』と言うぐらいのテキトーさもあっていいんじゃないのかなと。


それから、「お金を上回る”ナニカ”」を持てば、そこまで「お金」に固執することもないのかなと。


そんな風に思っているわけです。



人は人を変えられない?:人にしか人を変えることは出来ない



カウンセリングなどの精神医学の分野では、『人を変えることは出来ませんよ』と言われたりするらしいですが、実は、人が変わることはありますし、そういうときに、何によって変わったのかと、よくよく考えていくと、ほとんどの場合「人」によって変わっているんじゃないかと思ってしまうわけなのです。


ここには、一種の「言葉の仕掛け」があって、『人は変えられない』と言っているのは、じつは、『人を自分の思い通りに変えることは出来ない』ということなんでしょう。

これ、よく読んでみると実に当たり前なんですねぇ。
そんな都合のいい話があるわけがないっていうようなことですよね。


でも、『人を変えることは出来ませんよ』とカウンセラーや精神科医に言われると、目から鱗が落ちたように、『あっ、そうか、人を変えようとしていた自分が間違っていたのか』ということに成って「人は変えられないと言う定説」が出来上がってしまうわけです。


しかし、です。

現実には、人が変わることは、めったに無いかも知れませんが、あります。
そして、それは、ほとんどの場合「人」によって変わるんじゃないかと思うのです。


そういうことって言うのは、「人と人の関係」において、「最もスバラシイ出来事」なんじゃないかと思うわけですけど、その前に『人は変えられない』を「定説」にしてしまうと、その「最もスバラシイ出来事」の機会が奪われてしまうような気がするわけですね。


だから、『人を変えることは出来ない』と言い切ってしまわないで、『人は自分の思いどうりには出来ない』
『でも、人との関わりで、変わる人が居るかもしれない』と言う風な感じにしておいてもいいんじゃないかと思いますね。


ちなみに、『人が変わる』のは、「自分のために犠牲を払う人」に出会ったときだと思いますね。

「小さい犠牲」で変わる人もいるでしょうし、「非常に大きな犠牲」を求める人もいるでしょうが、その「犠牲」が払われたときにしか『人は変わらない』ように思いますね。


そして、当然のことかもしれませんが、そういう「犠牲」を払う人は、ほとんどいませんから、『めったに人は変わらない』ということですね。


『人を変えることは出来ませんよ』と言われて、ほとんどの人が『そうか、自分が変わればいいんだ』と言う方向に促されるんじゃないかと思いますけど、ケッキョク、自分が変わるのも「誰かの犠牲に直面した時」ですから、自分だけでは、本当には変われないと思いますね。


変わったように見えても、すぐに元に戻っちゃうんですね。
「人間」って、そういうものだと思います。


やっぱり、本当の意味での「人間同士の関係」の中で、人は変わっていくモノなんだと思います。


そして、そういう関係をつくることこそが、人間が生きている唯一の「意味」なのかも知れないなと。

そんな風に思っているわけですね。



「自明のこと」について



「自明のこと」というのがあると思っているわけです。
つまり、「人間が先天的にわかっていること」ですね。

「あると思っている」と言いましたが、本当は「あるということにしている」と言った方がいいと思います。


少なくとも、全ての話は、この「自明のこと」がないと始まらないと思うんですね。

何かを考えていって、最後に行き着くところに、この「自明のこと」がないと、どこまで言っても、話に終わりがないということですね。

しかも、終わりがないだけではなくて、始まりもないわけで、どんなことを言うにしても、何らかの基準を持って語られていないことと言うのは、ほとんど意味をなさなくなってしまうように思います。


本当のところを言えば、この「自明のこと」自体も、やや「無理矢理」な感じなんでしょうけど、それがあるということにしておかないと、何も話すことが出来なくなってしまうので、仕方がないと言ったところでしょうね。


たとえば、『なぜ、人を殺してはいけないのか?』と言う問いに対して、『自分も殺されたくないから』と答えれば、『じゃあ、殺されてもいいと思えば、殺してもいいのか?』と言うことになります。

また、『人の命はとても貴重なものだから』と答えれば、『じゃあ、人口が増えすぎた場合は殺してもいいのか?』ということに成ります。


つまり、こういうごく当たり前のように思われていること一つですら、なんの基準もなく、論証したり、説明したりすることは、非常に困難なことであって、それは、困難と言うよりむしろ、不可能と言ってもいいくらいなわけですね。


つまるところ、『人を殺してはいけない』ということは、初めから決まっていることだと言って、どこかで割り切るしかないわけですね。

そこを覆しての議論程意味のないものはないので、やめた方がイイということですね。

また、そこから先の議論の方にこそ意味があるので、そちらに力を使いましょうよということでしょうね。


つまり、ここだけは理屈抜きで決まっていることということにしてもいいんじゃないか?ということですね。
そういうことを設定することで、「思考」や「論理」は、楽しむものに成り得ると思います。


反対に、そこをナイガシロにしてしまうと、「思考」や「論理」は、ただただ、うっとうしいだけのモノになって行ってしまうでしょう。


そんなわけで、「自明のこと」ぐらいは、最初から決まっているということでいいのかな?


そんな風に思っています。




「死を恐れること」



世のなかのすべての「恐れ」の根源が「死を恐れること」なんじゃないかと思うわけですね。


とにかく、どんなことでも「死」を恐れないでいられたら、ほとんどのことを、恐れないでいられるようになるんじゃないかと思うわけです。

つまり、どんな「恐れ」でも、元をたどって行くと、最後には「死を恐れること」があって、そこから、すべての「恐れ」が発生しているように思えるということですね。


確かに、「病気に成ること」でも「怪我をすること」でも「飢えること」でも、ありとあらゆる「恐れ」が「死」に通じているようにも見えるんですね。


ところがですねぇ。

「生きていること」っていうのも、けっこう「恐ろしいこと」なんじゃないのかなと思ったりもするわけです。
と言うよりも、「生きていること」で「死を恐れること」も生まれているわけで、生きていなければ、「恐れること」もないわけですから、
「生きていること」が、唯一の「死を恐れること」を上回る「恐ろしいこと」なのかも知れませんね。


それなのに、どうして「生きていること」は「恐ろしいこと」だと言われることがほとんどないのでしょう?


これは、たぶん、『永遠に生き続けることは絶対にない』という前提があるからなんじゃないのかなと。


実際、「生きていること」と言った場合、それを、ちっとも「恐ろしい」と思わないのに、「永遠に生き続けさせられること」と言った場合には、突然、それは「底知れないほど恐ろしいこと」のような気がしてくるわけなのです。

だから、「不老不死」は人間の究極の願望だ、みたいなことをよく言いますけど、あれは、リアリティがないから言えることで、本当は、「究極の願望」どころか「究極の恐ろしいこと」なんじゃないかと思うわけですね。

そうなると、『自分が生かされていることに感謝しています』という言葉をよく聞きますけど、あれなんかも、『自分が永遠に生かされる』としたら、「感謝」できるんでしょうか?

いや、皮肉ではないですよ。
ただ、「生きていることの恐ろしさ」を知ったうえでこそ、本当の「生きることへの感謝」っていうのがあるんじゃないかと思うということですね。


まぁ、それはさておき、「死を恐れること」の方ですけど、取り敢えず、「生きることの恐ろしさ」の方は、なかなか「永遠に生きること」に現実味を感じられないので置いといて、やっぱり、「死を恐れること」が無く成れば、「怖いもん無し」なんじゃないかと思ってしまうわけですね。


よく『死ぬ気に成ったらなんだってできる』みたいなことを言いますけど、確かに、『死んでもイイや』と思ったら、ほとんどのことが、怖くなくなるんじゃないのかなと思います。


でもですね、『いや待てよ』と、もうひとつだけ、「恐ろしいこと」があると思うんですね。
それは、「恥をかくこと」なんですねぇ。

これは、人間だけの特徴なんでしょうが、人間は、「恥をかくこと」をとても恐れているんですねぇ。
と言っても、ちょっと恥ずかしいっていうんじゃなくて、自己のアイデンティティーを失ってしまうような「恥辱」ですね。

これは、ほとんどの人にとって「恐ろしいこと」と言えるんじゃないでしょうか?


ということで、「死を恐れること」と「生きることを恐れること」と「恥をかくことを恐れること」
この三つから逃れられれば、完全に「怖いもん無し」ですね。

『・・・・・・・無理ですね』




「真面目さ」



なんたって、「真面目さ」が大事だと思うんですよね。
本質的な意味で「真面目さ」が無いようなものって、不要だと思ってしまいますねぇ。


と言っても、「不真面目」が嫌いと言うのとはチョット違います。
「不真面目なもの」が嫌いなんじゃなくて、「真面目さがないもの」が、無意味にしか思えないんですね。


もともと、「真面目」とか「不真面目」って、人間にしかないんじゃないかと思うわけです。

動物は、人間ほどは「論理思考」に縛られていませんから、かなり、本能に忠実に生きていられるわけですね。
だから、行動のほとんどか、すでに遺伝子レベルでプログラムされているわけで、その個体の「真面目さ」や「不真面目さ」が差し挟まれる余地があまりないんでしょう。


つまり、「真面目」や「不真面目」は「人間的」なんですね。
そういう点では、「真面目」も「不真面目」も、だいたい同じようなものなんじゃないでしょうか?

要するに、両方とも同じくらい「人間的」な感じがするわけですね。


ところが、「真面目さがないもの」については、あまり「人間的」な感じがしないわけです。
ある意味では、「不真面目さがないもの」についても同じかもしれませんね。


これは、「真面目さ」や「不真面目さ」が、「人間の本質」に近いものだということなんだと思います。

そして、そういう「真面目さ」や「不真面目さ」が”ない”ということは、「人間の本質」を失った状態なんだろうなと思うわけですね。


じゃあ、どういうものが「真面目さがないもの」なのか?と言うと、たぶん、「真面目さをバカにすること」なんじゃないかと思いますねぇ。

ということは、「不真面目さがないもの」の方は、「不真面目さをバカにすること」なのかと思うと、『いやいや、「不真面目さをバカにしないこと」でしょ!』と言う気もするので、こちらは、どうも、ややこしくなりそうなので、置いといて、取り敢えず、「真面目さがないもの」の方は、「真面目さをバカにすること」だろうということで。


「真面目さをバカにすること」には、まったく意味がないと思いますね。
と言うよりも、あらゆるものを「意味がないモノ」に変えてしまうような気がします。

「真面目さをバカにする」と、全てのモノが”シラッチャケテ”しまうんですね。
「真面目なモノ」には、必ず「色」があるわけです。
「不真面目なモノ」も同じですね。

でも、「真面目さをバカにする」と、いっぺんに「色」が無く成ってしまうわけですね。

全てのモノが、どうでもよく成って、オモシロクナイ、クダラナイ、シッタコッチャナイ、と言うような、何の意味もないモノのようにしか見えなくなってしまうわけなのです。


だから、「真面目さ」をバカにするようなことは、「百害あって一利なし」ですね。


そんな風に思います。






「流行を追うこと」は「今を演じること」



「流行を追う」という言い方がありますけど、現代において「流行を追いかけること」と言うのは、「今を演じること」なんだと思うわけです。


要するに、「演技」の一種なんじゃないかと思うわけですね。


もし、「流行を追うこと」が「演技」なのだとしたら、それは一種の「虚像」でもあると思うんですが、どうなんでしょうね?
つまり、演じている当人の意識とは関係なく、「今」と言う台本に沿って、「演技」しているということに成るわけです。


本来的には、「流行」と言うモノは、その時代の「民衆の意識」が向いている方向に沿った形で、現れて来る”ハズ”のモノなんだと思うわけですが、現代においては、その辺のところが、かなり逆転していて、「民衆の意識」に基づいて「流行」が形成されるのではなくて、「流行」に基づいて、「民衆」がソレを台本どうりに演じさせられているということに成っているように思うわけです。

結果的に、ソコには「民衆の意識とはかけ離れた流行」と「ソレを演じさせられている民衆」が居て、言い換えれば、「虚像」だけがあって、「実像」がないということに成っているわけです。


そこで、どうして、このような「虚構の世界」が出来て来てしまうのだろうかと考えてみるわけですね。


まず、考えられることは、現在、「流行」するモノが、「マスコミ」によって配信されるモノに限られてしまっているということがありますね。

つまり、そこで、「マスコミ」が「民衆の意識」を正確に捉えられていなければ、「民衆の意識から離れたモノ」が配信されてしまうわけです。
そして、一旦「マスコミ」によって配信されてしまうと、ソレは「民衆」によって演じられて、「流行」してしまうわけですね。


この「マスコミ」の影響は、けっこう見えやすいものだと思います。
しかし、見えていても抜けられないものでもあります。

「ソノ流行」が、「民衆の意識から離れたモノ」だとわかっていても、「ソノ今」を「演技」していないと、「時代」に置いて行かれてしまいますから、それで抜けられないわけですね。


それから、もう少し見えにくい原因もあって、こちらの方が、一層厄介な気もしますね。


こちらは、「流行」と言う言葉の根本的な意味にかかわることかもしれませんが、「民衆」の中に、『自分たちで流行を作ろう!』と言う意識がほとんど無く成ってしまっているんですね。

「流行」とは、「流行っているモノに乗っかることだ!」と思っている人が多いんじゃないでしょうか?


確かに、「流行」には、そういう「ハヤリモノ」としての性質もあるんだと思います。
でも、それは、「民衆の意識」を、誰かが代弁して、「ハヤラセル」ということであって、『そうそう、こういうのが欲しかったんだよね!』と言う「民衆側の共感」があってのことで、その上で、『流行に乗っかる』があるハズなわけです。


でも、「現代の流行」では、その『そうそう~』に当たる部分が抜けているんじゃないかと思うわけですね。
つまり、自分たちの意識が代弁されているかどうかということは、どうでもよくて、とにかく「ハヤッテいるモノに乗っかる」ということ自体が重要なことのように成ってしまっているわけで、そのことによって、「流行」と「民衆の意識」の逆転が起きてしまうわけなのです。


そして、やはりソコには「今を演じさせられている人たち」と「民衆の意識からかけ離れた流行」と言う「虚構の世界」だけがあって、
実体のあるモノは何一つないと言ってもいいほどなのだと思うわけです。


もう少し、『流行とは民衆が創り出すモノだ!』という気持ちがあってもいいような気がしますし、『気に入らない流行は拒否する!』という気概があってもいいような気がします。


それから、「芸術」に置いてこのことを考えた場合なんですけど、「芸術にかかわる者」が「今」を演じてしまうって言うのはどうなんですか?と思うわけです。

そういうのを、私は「芸術の中心」から最も遠い位置にピンで留めて置きたく成るということですね。


そんなことを考えてみました。




「善」と「偽善」は本当に違うモノなのか?



いわゆる「イイ人っぽい行い」を見て、『そういうのは偽善だろ!』と言うのをよく聞くわけですけど、おそらく、それを言っている人は、「善」とは、もっと「素晴らしいモノ」だと言っているんでしょうね。

でも、本当に「善」と「偽善」はそんなに違うモノなんでしょうか?
実を言えば、「善」と「偽善」って、そんなに違わないんじゃないか?と思ったりもするんですね。


たとえば、「寄付」と言うのがありますけど、「お金持ち」の人が「寄付」をするのを見て、それを「偽善」であるということがありますが、、『そういうのは、自分の体裁を繕うためにやっているに違いない』ということなんでしょうね。たぶん。

でも、もしも、「自分の体裁」のためだったとしても、少なくとも、「寄付」をしない「お金持ち」も居ることを考えれば、そこにも、多少の「善意」が含まれているという風に言えるんだと思うわけです。

まぁ、要するに、「善」でもあるけど「偽善」でもあるということなんじゃないかと思います。


そう考えていくと、『じゃあ、「本物の善」って、どういうモノなんだ?』と成るわけです。

一切の「偽善」を含まない「純粋な善」と言うモノが、存在しえるでしょうか?
少なくとも、「人間の場合」に限ってですね。

たぶん、無理だと思うんですね。


「カミやホトケ」のような、「善のカタマリ」みたいなモノを想定した場合は別として、「人間」の場合は、「善」と「偽善」は、ほとんど分かちがたいモノなんじゃないかと思うわけです。

つまり、「善」を行えば、必ず「偽善」もついてくるということですね。


だから、「善」の中から、重箱の隅をつつくように「偽善」を探し出してしまうと、「善」は、一切行うことが出来なくなってしまうような気がしますね。

ということは、世の中から「善」が無く成ってしまうということです。


それは、チョット困るので、「善の中の偽善」を探し出すのは、なるべくやめようと思うわけです。


あまりに、あからさまに「自分のためだけにやったこと」を、あまりに、あからさまに「人のためにやったような顔をする人」は別ですけどね。


そういうのは、かなり「純粋な偽善」ということに成りますね。
『この人なんか、そーとー純度高いわぁ!』っていう人も、チョクチョク見かけますけどね。

出来ることなら、「善」の方でお願いいたしたい!


そんな風に思います。



「次元」って、本当は一つなんじゃないか?



「3次元」=「空間」とか、「4次元」=「時間」とか、「次元」の捉え方として、「次元」には種類があるということに成っているわけですけど、実際は、そういうのを全部ヒックルメタ・モノを「次元」という風にも考えられなくはないんじゃないかなと思うわけです。


つまり、「全部の次元」全体で「一つの次元」という考え方があってもいいような気がするわけですね。

 ※お断りしておきますが、これは、物理とかの話ではなくて、むしろ、「哲学的な
  好奇心の探究」と言ったものです。


そもそも「次元」と言うモノを分けて考えるというのが、どうもシックリこないんですね。


「次元」っていうのは、「世界」を見る時の「視点」なんだと思うわけですけど、確かに、その「視点」によって「世界」の捉え方が違ってくるんだと思いますし、そこでの説明には意味があるんだとは思うんですが、それは、あくまで「仮の座標軸」みたいなものなんだと思うわけです。

つまり、理論上の仮定だろうと思うわけですね。
でも、それがあまりにも当然のことのように、「~次元」と言われてしまうために、いかにも「次元」にたくさん種類があって、いろいろな「次元」が交錯して世のなかが成り立っているんだというような錯覚が生みだされているんじゃないかと思うわけです。


実際には「すべての次元」が一体になっているのが「この世の中」で、それを、敢えて分けて捉えているのが「次元」なんだと思います。


だから、「~次元」という風に分けて考えると、捉え方としては理解し易くなるのかも知れませんけど、けっこう「世界の捉え方」がズレて来ることも多いように思うわけですね。

だいたい「空間」を「三次元」と言ったり、「時間」を「四次元」と言ったりする必要って、あまりないような気がします。
「時間」は「時間」で十分だし、「空間」は「空間」で何一つ過不足なくことが足りるわけで、「~次元」に置き換える必要なんて、ほとんどないんじゃないでしょうか?


どちらかと言えば、浮世離れした「物理学」のような分野での必要があって、「次元」を分けて考えるようになったんでしょうが、そんな難しいことを、「中学生」や「高校生」に教えるもんだから、やや、無理が出て来るんだと思うわけです。

それで、「時間」と「空間」が、まったく別の「次元」であるという、チョット不自然な認識が生まれてしまうんじゃないかと思います。
(まぁ、違うには違うんでしょうけど)


じつは、別の「次元」なのは「仮の理論上の次元」だけであって、「本物の次元」は一つしかないというのが、どちらかと言えば自然なのかなと。


そんな風に思っております。
(よく知りもしないことを言って、どうもすいません)



「ビンボー」と「貧困」の違い



「ビンボー」と「貧困」は、ほとんど同じイメージだと思うんですが、でも、ナニカが違うという感じもあるわけです。


私なんかも、かなり「ビンボー」なような気がするんですけど(『いや、もしかすると気のせいか?』 『・・・あぁ、気のせいじゃなかった』)、「貧困」かと言うとそうでもなくて、実を言えば、かなり豊かな暮らしをしていたりするわけなのです。

確かに「おカネ」はないんですが、そんなに「おカネ」を使わないんで困ってないんですね。
つまり、「貧」だけど「困」ではないということです。


私の場合、今は妻の収入に頼って、絵を描くことに専念させてもらっていますから、「ビンボー」と言うのも失礼な話なんですけど(働いている妻に対してですね)、取り敢えず、困ってはいないですねぇ。


『女房を働かせといて、なにを偉そうなことを言っているんだ!』と言われそうですけど、一応、私なりに一所懸命にやっている結果がこうなっているわけですから、まぁ、その辺のところは、大目に見てやっているわけです。
(いや、自分が)


それはともかくとして、ここで言う「ビンボー」と「貧困」の違いって、いったいどこから来るんだろうかと思うわけです。
ただ単に、「困っているかどうか」と言うことだけでもないような気がするわけですね。

私は、「ビンボー」と「貧困」の決定的な違いは、「本人が受け入れているかどうか」だと思うわけです。


つまり、その「ビンボー」を本人が受け入れていれば「単なるビンボー」で、本人が受け入れていない場合は、「貧困」に成るんだと思います。
私の場合だと、むしろ積極的に「ビンボー」をやっているところもありますから、「豊かなビンボー」と言うことに成るわけですね。

逆に言うと、客観的に見て「裕福」でも、本人がそれを「裕福」として受け入れていない場合は、どこか貧しいという印象があって、それも、どちらかと言うと「貧困に近い貧しさ」と言う感じがしてしまうわけです。


そして、現代社会では、この「ビンボーを受け入れている人」が、
昔よりも少ないような気がするわけなのです。


例えば、江戸落語に出て来る「長屋暮らし」などは、「破れ障子にせんべい布団」と言うような、かなりの「ビンボー生活」だと思いますけど、ちっとも「貧困」は感じないですね。

むしろ、楽しそうです。

これは必ずしも「落語の中の世界」だからということだけでも無いような気がするんですね。


要するに、周りもみんな生活レベルが同じくらいで、当時の江戸は「江戸全体」が豊かだったんでしょうから、「食うのには困らない」と言うことがあったんだと思います。
それで、『宵越しの銭は持たねぇ』みたいな感覚があったんでしょうね。

これなんか、どちらかと言うと『すすんでビンボーに成ったろうじゃねぇか!』と言う感じですよね。
たぶん、「ビンボーを受け入れやすい状況」があったんだと思います。
さらに言えば、「ビンボー」を楽しむような状況があったといっても過言ではないような気がします。


ところが、現代社会では「食うのには困らない」と言うことが、「ビンボー受け入れの条件」にはならないみたいです。


「貧困層」と言われる人たちでも「スマホ」や「パソコン」を持っていることはフツウでしょうし、「クルマ」だって持っているかも知れません。
また、かなり立派な家のローンを支払うために「ビンボー」に成っているというような、「貧困層」なのか「富裕層」なのかよくわからないような人たちも、場合によっては「貧困」に含まれていたりします。

つまり、それだけいろいろ持っていても、まだ「ナニカに困っている」と言うことですね。
要するに、現代は「ビンボーを受け入れにくい状況」にあるんだと思います。


現代と言う時代の中で、「ビンボー」を受け入れるにはどうすればいいのか?
まぁ、単純に言って、二つのモノのうち一つを諦めればいいんだと思いますね。

「二者択一」が発生した時に『自分にとって重要なモノを取って、他は捨てる』これだけでいいような気がしますね。


そうすれば、現代は「江戸時代」以上に、「ビンボーを受け入れやすい時代」に成るんじゃないかと思いますね。


現代人は、いつも二つとも取ろうとするんですね。
それで、二つとも取れないと悔しくてその状況を「受け入れられなく」なってしまうわけです。


私といたしましては、「リッチな貧困」よりも「豊かなビンボー」がいいんじゃないのかなと。


『どっちもよくねぇよ!!』という声が聞こえてきそうですけど。

「そんな馬鹿な?!」

と、そんな風に思ってしまうわけなのです。





「真実]と言う「嘘」を言う人



「真実」と「嘘」とは正反対のハズなんですけど、少し視点を変えてみると、正反対であるハズの「真実」と「嘘」が重なって見えてくることがあると思うのです。

 ※以下、「真実」とか「嘘」と言っているのは、その時々で「真実らしく見えるもの」や、
  「嘘に見えてしまうもの」というようなことです。
  「究極的な真実」や「究極的な嘘」は、人間の容量を超えていると思いますので。


「現実の世界」で言う「本当のこと」には、けっこう「嘘」が混じっていると思うんですね。

言い方を変えれば、「現実の世界」では「嘘」が適度に混じっていることの方が、かえって「本当のこと」のように見えるということなんですね。


そして、それとは逆に、「ピュアな真実」と言うのは、「現実の世界」においては、むしろ「嘘」っぽく見えてしまうということがあるわけです。


例えばの話、『私は人間である』という言葉は、「現実の世界」においては、「本当のこと」にしか聞こえませんが、じつは、『人間とは何なのか?』という根本的な問いを適当に流してしまっているわけで、その辺から、問いただしていこうとすれば、そう簡単に『私は人間である』とは言えなく成ってしまうわけです。


ところが、そこで、仕方なく『私は人間ではないのかもしれない』と言えば、「真実」には少し近づくことが出来るのかもしれませんが、「現実の世界」における「本当のこと」からは少し遠ざかってしまうわけです。

つまり、そんな風に考えると、「真実」に近づこうとするということは、ほとんどの場合、「嘘」のような話にしかならなくなってしまうと言ってもいいくらいで、「現実の世界」から見れば、「有り得ない話」と言うことになってしまうわけなのです。


そんな中で、なにが言いたいのかと言うと、「嘘という真実」を言う者が必要なんじゃないかと思うわけです。


「真実」が、現実の世界においては「嘘」になってしまうという性質を持っているとすれば、「その嘘」を言う者が居なければ、「真実」もなくなってしまうということです。

だから、やっぱり、「嘘という真実」を言う者は必要なんだろうと思うわけですが、それは、誰なのか?と言うことです。


私は、それは「芸術」と「哲学」の役割だと思っているわけです。


つまり、「芸術」と「哲学」だけが、「嘘という真実」を言うことを許されると思っているわけです。
(かつては、「宗教」にもその役割があったと思います)


「許される」というと、『「芸術者」や「哲学者」は「嘘」を言ってもいいんだよ』というように聞こえてしまうかもしれませんが、もちろん、そういう話ではなくて、「芸術者」や「哲学者」には、世間から「嘘つき」だと思われても、「真実」を言う責務があるということです。

つまり、「許される」と言ってはいますが、むしろ厳しくなっているわけで、『嘘を言ってもいいんだよ』と言うよりも、どちらかと言うと、「芸術者」や「哲学者」は、人から「嘘つき」だとののしられ、叱責されても「嘘という真実」を言い続けなければならないということですね。


そんなわけで、『「芸術者」と「哲学者」は「嘘」を言わなければいけない!!』
という、ミョーな結論に到達いたしました。


まぁ、これなんかも、「嘘という真実」の一つと言っていいんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。



「科学」とはいったいナニなのか?



「科学」という言葉は普段何の気なしに使っているんですが、はたして「科学の本当の実体」ってナニなのだろうかと考えてみたわけです。


「科学」は一般に『わからないことを研究してわかるようにするものだ』と考えられていると思いますけど、私は『科学とはその時点で、既にわかっていることだ』と思うわけです。


確かに、「わからないこと」を研究するのも「科学」なんでしょうが、「科学」における「研究」と言うのは、必ず「わかっていること」を使って行わなければいけないというルールに成っていますから、やはり「わかっていること」が前提に成っているわけですね。

だから、私は『科学とはその時点で、既にわかっていることだ』と思うわけです。


それに対して「その時点で、わからないこと」は「神秘や不思議」で、でそれは「非科学」ということに成るわけですね。

当然、「わからないこと」がわかるようになった場合は、例え、それが、それまではどんなに神秘的で不思議なことだったとしても、わかったトタンに「神秘や不思議」ではなくなって「科学」に成るというわけです。


ところが、これは、まったく逆のことも言えて、「わかっていると思われていること」が何かのきっかけでわからなく成ったり不確かに成ったりすると、それは、その瞬間から「科学」ではなくなってしまうわけなのです。

そして、更に言えば、ありとあらゆることに置いて、「今わかっていること」でも、それが続くとは限りませんし、「今わからないこと」でも、いつかはわかるかもしれないわけです。

しかも、それらが、また元の「わかっていること」や「わからないこと」に戻ることもあるわけですから、すべてのことが、「科学」と「神秘や不思議」の間を行ったり来たりしているわけで、そこには「絶対的な法則」のようなものは存在しないのかも知れませんね。


たとえば、現在の視点で見た場合、如何にも「絶対的な法則」であるように見える、「物理法則」なども、人間には計り知れないようなとてつもなく長い時間の果てには、変わってしまうのかも知れませんし、実を言えば、それは「果てしない時間」の問題ではなくて、たまたま、それが「わかったり」、「わからなく成ったり」するというだけのことだと思います。

つまり、現時点においても「その変化」は潜在的に内包されているということだと思うわけです。


それで、取り敢えず、「今わかっていること」を「科学」と言っているわけですが、その「今わかっていること」の中には、常に潜在的に「わからなくなる可能性」が有りますから、

「科学」は「神秘や不思議」を内包しているということに成ります。
ということは、つまり、「科学」と「非科学」は常に両立しているということに成るわけです。

こうなると、もう「科学」と「非科学」を分ける意味もないのかも知れませんが、それだと、ほとんどの話ができなく成ってしまうので、便宜上「今わかってることに成っていること」を「科学」と呼んでいるわけです。

そして、そういう「わかっていること」を前提に置くことで、人と話をすることが出来るようになっているんだと思います。


だから、「科学」には「それなりの価値」があると思いますし、「それ以上の価値」は無いと思います。
これは「神秘や不思議」も同じですね。

対等ですから。


話しが回りくどいわりに、それだけです。




「地上の楽園」



よく南国の島に行くツアー旅行のキャッチコピーなんかで、そういう手つかずの自然が残っている場所を「地上の楽園」と言われることがありますけど、未開発の場所を「地上の楽園」と言うのならば、開発されマクリの「都会」とは、「地上のナニ?」に成るんだろうなと思うわけです。

「地上の地獄」っていうのは、いくらなんでも”怖すぎ”なのでやめといて欲しいと思いますけど。

でも、やっぱり「都会」と比べての「地上の楽園」なんだと思いますから、そうなると、どう考えても「都会」の方は、あまりいいイメージが出てこないような気がするわけですね。


しかし、よく考えてみると、「都会」と言うのは、人間が、ある意味で「楽園」を築きあげようとして開発を続けてきた結果なんじゃないかと思うわけです。

つまり、「都会」こそが本当の「楽園」であるハズなわけです。


実際、現在の「都会」での生活は、ほんの数世代前の時代の人から見たら、間違いなく「楽園」のように思えるものだと思います。

そんな中で、「未開の地」を「楽園」と呼んで、自分たちが長年かけて築き上げてきた「都会」を、「逆・地上の楽園」と呼ぶような事態になってしまったのだとしたら、どこでどう食い違ってしまったのだろうか?と思うわけですが、実際問題として、「都会」って、良くなったんでしょうか?それとも、悪くなったんでしょうか?

なんで、「都会」を「地上の楽園」であると感じられないんでしょうね?


まぁ、それは「ないものねだり」と言うことなんでしょうが、それだけでもなくて、「都会」の変化が速すぎるんだと思いますね。

『あぁ、「楽園」だなぁ』と感じる前に、もう次の形に変わってしまうから、「人間」が「都会」に追いつけなくなってきているんだと思います。


だから、「未開の地」に「楽園」を感じるのかも知れないですね。
つまり、一生懸命についていかなくてもイイと言うんですか?
そういう安心感みたいなものが「楽園」を感じさせるんだと思います。


「都会」に居ると、いつも「便利さ」に一生懸命ついていかないとならないし、いつも「新しい便利さ」を習得することを迫られる感じがするわけです。

もう少し時間を「スロー」にすることが出来れば、「都会」は信じられないほどの「地上の楽園」に感じられるように成るような気がするんですね。


そうすれば、『毎日が楽園生活』ということに成るわけで、万々歳だと思うんですけどねぇ。

どんなもんでしょう?


『そんなウマイ話があるわけないだろう!』

「そうですよねぇ」

まっ、もしも、そんな風に成ったらいいなっていう話ですね。



「権利」



「権利」と言うと、「法」で規定されたモノと言うことに成っているわけですが、そういう「法律」で決まっている「権利」ではなく、もっと、純粋に自然に存在する「権利」ってあるもんなんでしょうかねぇ?


まぁ、例えばの話、『「人間」には「生きる権利」があるんでしょうか?』っていうようなことですね。

はたして、本当に「生きる権利」があって生きているんでしょうか?
実は、ただ単に生きているだけなんじゃないか?
それを、自己肯定するために、そこに「権利がある」と言っているだけなんじゃないか?

そんな感じで、「権利」について考えます。


だいたい「権利」なんてものが果たして本当にあるんでしょうか?
「法律抜きに考えて」っていうことですね。


「法」で規定されている「権利」以前の段階で、「権利」って言うモノがあるのかどうかが、かなり怪しいと思うわけです。


実際は「権利」なんてものは存在しないんじゃないか?っていう気もするわけです。


動物にしろ、人間にしろ「生きる権利」や「〇〇する権利」があってやってることなんでしょうか?
それとも、何の「権利」もなく、傍若無人にいろんなことをやってるんでしょうか?


どっちかっていうと「傍若無人説」の方が有力なんじゃないでしょうか?


要するに、「権利」っていうのは、人間が勝手に自分の行いを正当化するために、『権利があるからやってるってことにしとこう』みたいなとこがあるような気がするわけです。

こんな風に言うと、『じゃあ、好き勝手にやったっていいんだ』ということに成りそうなんですけど、もちろん、そういうわけではなくて、というか、むしろそれとは反対で、『だからこそ、好き勝手にやってると収拾がつかなくなるんじゃないの?』ということが言いたいわけなのです。


つまり、もともと「権利」なんてものはなくて、みんな自分勝手に「傍若無人」をやっていても、なんとなくバランスが取れているのは、
そこに「自然の摂理」が働いているからだと思うわけです。


でも、「人間」と言う動物は、その「自然の摂理」からやや外れてしまっているわけです。

 ※これを言うと、『そういうのは、人間のおごりだ!』と言う人が居ますが、それを
  言っていることで、「人間の暴走」が止められるとは思えませんし、むしろ、それ
  を助長しているようにすら思えるので、そういう形だけの「謙虚さ」には意味がな
  いと思いますね。
  客観的に見て、やはり「人間」は、一般的に考えるところの「自然の摂理」からは
  外れてきてしまっていると思います。

だから、「人間」がその「傍若無人」をやってしまうと、「傍若無人な傍若無人」になってしまうということですね。
「権利」っていうのはある意味で、「そういう人間の傍若無人な傍若無人」を規制するためのものなんじゃないかと思うわけです。


「権利」と言うと、「~してもイイ」と言うような気がしますが、実は、誰かにとって「~してもイイ」と言うことは、その相手にとっては「~されても文句が言えない」と言うことです。
ということは、全ての人間に同じ「権利」が与えられた場合、一方的な「傍若無人」が出来にくく成るということに成るわけです。


私は、現在社会が最もやるべきことは「人権を確立すること」だと思いますが、それは、どちらかと言うと「人間の傍若無人な傍若無人」を規制する必要があるからで、必ずしも「弱者擁護」と言うことだけでもないんだと思います。

要するに「弱者を擁護すること」も含めて、人間が「ムチャな傍若無人」を止めた方が、なんとなく全体として上手くいくんじゃないだろうかということなんだと思います。

まぁ、「普通の傍若無人」程度に収めるということですから、そんなに立派なことでも無いですけどね。


それは、「人間の社会」の話としても、もっと大きな「自然界全体」の話としても同じでしょうね。


そういう意味で、「権利」っていう、ものは、「人間」が勝手に作って、勝手に自己を正当化して、勝手に自己を規制するためのものであって、世の中の「根源的な法則」として存在するような大それたものではないけれど、なぜかあった方が少しマシで、無いと絶対にうまくいかなくなるというようなもの、つまり、人間にとってはそう言うモノなんじゃないのかなと。


そんなことを思いつきました。




「利ザヤレス・経済」



現在、経済の中で一番根本的な部分にあるのが「利ザヤ」と言う考え方だと思うわけです。
でも、その「利ザヤ」という考え方をなくせたら、「経済」が少しだけ”マシ”になるような気がするわけです。


「経済」って、本当は「等価交換」でも成り立つんじゃないかと思うんですよねぇ。
いま現在、既に回ってしまっている「経済の流れ」と言うモノを、まったく抜きに考えたらという話ですけどね。


つまり、「おカネ」ですべてを回しているから「利ザヤ」が発生するわけで、「おカネ」を「モノ」に置き換えて考えたら、「利ザヤ」はどう考えてもほとんど発生しなくなると思うわけです。


だって、「鉛筆一本」と「鉛筆一本+消しゴム」を交換する人っていないですよね。
自分が既に「鉛筆」持ってるのに、「鉛筆」を手に入れるために「消しゴム」もつけちゃう人が居るわけありません。

交換する可能性があるとしたら、「赤い色の鉛筆」と「青い色の鉛筆」ぐらいでしょう?

つまり、「等価交換」です。
たとえば、「鉛筆」と「消しゴム」を交換することがあるとしても、やっぱり、ほぼ「等価交換」が原則に成るでしょうね。


ところが、ほとんどの「経済活動」において、行われているのが、「鉛筆一本」と「鉛筆一本+消しゴム」の交換なわけです。
「消しゴム」の分が「利ザヤ」っていうことですね。


これ、厳密に言ったら「詐欺」だと思うんですよ。
「法律的に」ではなくて、「道徳的に」でもなくて、「私的に」ですけどね。

積極的な意味での「嘘」が入っていなければ、法律上「詐欺」にはなりませんが、「利ザヤ」には、消極的ではありますが「小さい嘘」が含まれているように思います。
(あくまで、話です。別に「商売」すべてを本気で否定しようということではありませんので)


つまり、「ごく普通の一本の鉛筆」を『これはただの鉛筆じゃないんだから、「+消しゴムの価値」があるんだ』と言って売れば、「詐欺」に成りますが、だまって売れば「詐欺」にはなりません。

要するに、『なんとなく「鉛筆+消しゴム」くらいの価値があるんじゃないか?』という雰囲気を醸し出しただけなら、「詐欺」にはならないわけです。


その「雰囲気づくり」を「商売・営業」とか「広告・宣伝・PR」等と言っています。
そこに「小さい嘘」があると、私は思うということです。

その「小さな嘘」が「詐欺」的になっているわけですね。
(だから、話だけです)

でも、それが「経済の根本」でもあるわけです。


だから、常に「モノを売っている人」がお金持ちになって、「モノを買っているだけの人」が貧乏人に成っているわけですねぇ。

「モノを買っているだけの人」ていうのは、要するに「労働」を売っているわけですが、そこでも「等価交換」は成り立っていませんから、二重に「利ザヤ」を取られているわけです。

お金持ちになれるわけないですよねぇ。


つまり、資本主義経済の下では、常に「労働者」は二重に「利ザヤ」を取られているということに成るわけです。

それに対して、「資本家」は「労働者」から「利ザヤ」を取る権利を与えられていますし、「商売」でも「利ザヤ」を得る権利を与えられています。

自分が「消費者」に成った時だけ「利ザヤ」を取られる側に成りますが、取る機会が二倍に成っているので、ソコソコ上手くやっている程度でも儲かるようにできているわけです。

まぁ、「資本主義」ですから「資本家」に有利にできているわけですね。
当然と言えば当然なんですが、「資本」を持たない人にとっては当然でもないわけです。


もともと「資本」に恵まれていない環境に生まれても、「資本」を稼ぎ出すことは出来るでしょうから、そこはそれほど大きな問題でもないと思いますけど、実は、もっと大きいのは「資本家に向いている人」と「資本家に向いていない人」が居ることだと思います。


「資本主義社会」で最も不平等なことがあるとすれば、「資本家」と「労働者」が対等ではないということだと思うわけです。

その「不平等」を生み出しているのが「二重の利ザヤ」と言うわけです。


「資本」を持っていることで有利になることは仕方ないとしてもですよ。
生まれつき「お金持ちの人」と「ビンボー人の人」が居るのはイカントモシガタイという前提で考えて、そこのところの「不平等」に目をつぶったとしても、この「職業選択の自由」が「不平等」に直結しているということは、「自由で平等な社会」としては、マズイんじゃないかと思うんですがどうなんでしょう?


要するに「やりたい仕事」が「資本家的な仕事」じゃない人は、ほとんどの場合自動的に「ビンボー人」を選択させられることに成るわけですねぇ、「資本主義社会」では。


でも、みんなが「資本家的な仕事」をやりたいわけじゃないと思うんですよね。

まぁ、自分のことで言えば、私なんかも『まったく興味ないです』
ただ、私の場合は「ビンボー」も嫌いじゃないんで、あまり困っていないんですが、それでも、もう少し”マシ”なぐらいには成ればいいなと思ってますね。


それに「資本家系の仕事」は好きじゃないけど「ビンボー」も嫌いという人も居るでしょうから(いや、それが普通だろ!)、そういう人たちにとっては、「資本主義社会」が「自由でも平等でもない社会」になってしまっていることは、気の毒な気がしますし、自分自身も「ビンボー」は嫌いじゃないですが「自由や平等」は好きなので、そういった部分でも「自由で平等な社会」に成ったらいいなと思うわけです。


そんなわけで、経済の中から「利ザヤ」という考え方をなくせたら、少しイイかなと。

そんな風に思ったわけですね。


もちろん、「現行の経済」と言うモノを全く無視して、チャラにしたところから始めるという話ですが、実際に、「利ザヤレス・経済」は不可能ではないような気がします。

完全な「利ザヤ0・経済」は難しいでしょうが、現在の「利ザヤ」を前提にした経済から、考え方として「利ザヤレス」を前提にした経済への移行を考えることは可能だと思います。
(まぁ、考えるだけならできるっていう程度ですけどね)


実際は「青い色の鉛筆」と「赤い色の鉛筆」を交換していけばいいだけのことですから、出来ないことでも無いはずなんですが、「利ザヤ」が絶対に「あるべきモノ」という固定観念が出来上がってしまっているために、それが出来なくなっているという部分はあると思います。


ただ単に、「100円のモノ」を100円で売ればいいだけなんですけどね。
『それじゃあ、利益が出ないだろ!』となってしまいます。

要するに『利益が無ければいけない』という思い込みが邪魔しているわけです。
本当は余剰な利益が出なくてもうまくまわっていればいいんじゃないかと思いますね。

「企業」っていうのは。


これは、現在の「おカネ」という概念が介在すると、どうしても成り立ちにくく成ることだと思いますが、考え方としてだけでも「利ザヤレス・経済」はアリなんじゃないのかなと。


『それ「社会主義」なんじゃないの?』
いや、根本的な概念が違うということだと思います。

「国家」や「社会」が管理しなければならないということ自体が「利ザヤ・経済」であることを前提としてしまっているわけですね。

「利ザヤレス・経済」を前提に考えれば、「国家」や「社会」が管理していなくても、自由な経済の中で「等価交換」が自然に循環するはずです。


そんなことを思いつきました。

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『いや、だから話だけです』

『別に頭がおかしい人間が言っているわけではありません』

『オカシイとしても少しです』



「結果・〇〇主義」という主義



今の世の中のことを見ていると、『本末転倒』というか、『それ、オカシイでしょ!』というか、『ちょっと待ってください!!』というか、とにかく、『なんでそうなるの!?』ということが非常に多いような気がするわけです。


たとえば、現在の社会は「民主主義」・「自由主義」っていうことに成っているわけですけど、そこのところを追求していけばいくほど、「自由」じゃなく成って行ったり、「非民主的」になってしまったり、ということがよくあると思うわけですね。


こういうのは、何も社会的な「主義」に限ったことでも無いと思います。

たとえば、「ポジティブ」については、このブログでもよく書いているんですが、現在、「ポジティブ」は、それを支持している人たちにとっては、一種の「主義」のようなものに成っていて、その「ポジティブ主義」が、非常に「ネガティブ」だったりすることがあるわけです。

要するに、「悪いもの」まで無理に「ポジティブ」に捉えようとするために、その反動で、どこかが「極端なネガティブ」になってしまうということでしょう。

しかも、「悪いもの」に限って意地になって「肯定=ポジティブ化」しようとしますから、結果的に、極端に「ネガティブな扱い」を受けるのは、むしろ「良いもの」であったりするということが出てきてしまうというわけです。

まさに[本末転倒]ですね。
こういうの、最近、非常に多いと思います。


こういうことが起きてしまうのは、「自由主義」や「民主主義」や「ポジティブ主義(?)」と言うような、それぞれの「主義」の問題ではなくて、実は、「主義」と言うモノ自体の問題なんじゃないか?と思うわけです。

つまり、どんな「思想」でも「考え方」でも、それを「主義」にしてしまうと、それを人間が実践しているうちに、いつの間にか、こういう「本末転倒」が起きてしまうというような、そういう根本的な性質が「主義」にはあるんじゃないかと思うわけです。


どんなに立派な「考え方」であっても、実践するのは「人間」ですから、どうしたって不完全なわけです。
その「考え方」を、間違った解釈で捉える人も居るでしょうし、裏側から抜け穴を探し出して、自分の都合のいいように利用してしまう人だっているでしょうから、「その考え方」の「完璧さ」や「立派さ」は、ほとんどの場合役に立たなくなってしまうわけです。

ところが、それが、その時点で「主義」という形をとってしまっていると、形だけでも、その「主義」に基づいている限り、それらの「間違った解釈」や「ウラ利用法」でさえも否定されにくくなってしまうわけです。

その結果として「本末転倒」が多発してくるんだと思います。


だから、そういうことを防ぐためには、「結果・〇〇主義」と言う「主義」を前提にして行った方がイイように思うわけです。

つまり、どんな「考え方」でも、それを「主義」と言うような形で打ち立てる時には、その前に、それらの「考え方」が「結果的に成就していくこと」を前提として、はじめて、そこに「主義」としての価値を認めようというようなことですね。

それを「主義の前の主義」として設定していった方がいいんじゃないかなと。
(言ってみれば、「法律」と「憲法」のような関係ですね)


そんな風に思います。




「欲」を捨てなくたって幸せになれるよ!



『「欲」にとらわれていると、本当に大切なものを失ってしまうんだよ!』と言われることがありますよね。

確かにそうだなと思います。
でも、そういう時に、たいてい「我欲を捨てること」の方へ話がいってしまうのは、チョト違うんじゃないかとも思うわけです。


要するに、『「欲」って、全部捨てないとダメなんですか?』ということがあるわけですね。


「欲望」に溺れて、本質を見失うから、「大切なもの」を失うことに成るわけで、少しぐらい「欲」があっても、物事の本質を見失ってしまわなければ、それでもいいんじゃないかと思うわけです。

もちろん、「物事の本質を見失わないこと」自体が、人間にとっては「大きすぎる課題」であるわけですから、それだって無理と言えば無理なんでしょうが、それと同じように、「欲を捨てること」も無理と言えば無理なんじゃないかと思います。


ただ、、「物事の本質を見失わないこと」は「生(セイです。ナマではありません。)」を目指しているように思えるんですが、「欲を捨てること」の方は、どこか「死」や「無」を向いているような気がしてしまうわけなのです。

つまり、「存在」を否定しているように思えるんですよね。

「欲」っていうのは「生命」の本質に近い所にあるモノだと思いますから、「欲」を全部捨てようとすると、「生命」が維持できなく成るような気がするわけです。

そして、最終的に「存在」すら消えてしまうような、そんな気もしてくるわけですね。
(でも、実際には「消えること」はできませんから、それも困るわけですね)


だから、「欲を捨てる」という発想で、ものを考えないようにしています。

どちらかと言えば、私の場合は、「本物の欲」と「マガイモノの欲」を見極めていきたいと思っていますね。


「本物の欲」は「本当に欲しいモノ」ですね。
「マガイモノの欲」は「本当はたいして欲しくないモノ」です。


「本当に欲しいモノ」や「本当にやりたいこと」だけを望む分には、なんにも悪いことは無いような気がします。


「たいしてほしくないモノ」や「やりたくもないこと」を執拗に望むと(たとえば、競争心や見栄だけでですね)、結果的に「欲望」に絡め取られて、いろんな弊害が生まれてくるように思いますね。


そんなわけで、『欲を捨てなくたって幸せに成れるよ!』と言いたいわけなのです。

それどころか「欲」は「幸せの素」なのかも知れないと思います。


だから、「自分の欲」から逃れたいと思ったときは、『待てよ!そいつ、マガイモノなんじゃないのか?』と疑ってみてもいいのかなと。


実は「本物の欲」を追いかけていくと、けっこうそれだけで手いっぱいで、「マガイモノ」にかまってる暇なんてないんじゃないのかなと。


そういう「本物の欲」って意外なほど「ピカピカ」していたりして?

「自分の欲」ってこんなに美しいものなのかって思えたら、『チョットいいんじゃないですか?』と。


そんな風に思っているわけなんです。


 ※「マガイモノの欲」は、多くの場合、「おカネ」から発生しています。
  だから、ほとんどの「マガイモノの欲」は、とても見分けやすいです。

  それなのに、たくさんの人が「マガイモノ」をつかまされてしまいます。
  つかまされた「マガイモノ」のことは、ともかくとしても、逃した「本物」
  のことを、見失ってしまうのは『惜しいんじゃないのかなぁ』と思った
  りしますね。



「人生のパターン」を崩した分が、その人の「進歩」なのかも



『「人生」って同じ「パターン」の繰り返しだよなぁ』と、つくづく思ったりする今日この頃なわけなのです。


「人生」も三分の一を過ぎて来ると(150まで生きる計算です)、『なんで人生には、おんなじ間違いを繰り返したり、抜け出したいのに抜け出せなくなるというパターンがあるんだろう?』と考えたりもするわけです。


まぁ、同じ人間がやってることですから、同じようなことを繰り返すっていうことなんでしょうね。
人間、そうそう変わらないわけですから、当たり前だと思います。


でも、そういう「パターン」を崩して、「違うパターン」に持っていけたら、そういうのを「進歩」って言ってもいいんじゃないかな?と思うわけです。

実は、「わるいパターン」から「いいパターン」に変えることが大事なんじゃなくて、「パターン」を変えるということ自体が重要なんじゃないかという気がするわけですね。


極端に言うと「いい」から「わるい」に変わった場合ですら、「同じパターン」にはまり込んで抜け出せない状態よりは、少し「マシ」な場合もあるんじゃないかと思います。


所詮、人間のやることなんてたかが知れていますから、「いい」と「わるい」の差なんて大したことないわけで、それよりも、「パターン」を崩したことの方が、大きいように思えるわけです。


「いい」か「わるい」かで言えば、「モノスゴクわるい」でなければ、その程度でいいような気がします。


だから、『こういうの実は嫌なんだけど、最近パターン化していてるよなぁ』と思った時には、ちょっと無理をしても「パターン」を崩すようにしています。

それでも、また「同じパターン」に戻ってしまうような場合はあきらめますけどね。
(ま、実際はほとんどそうなりますよね、残念ながら)


「居心地がいいパターン」の場合は変える必要ないと思います。
きっと、これも変えた方が「進歩」ではあるんでしょうが、そこまで「進歩」しなくてもいいのかなと思いますから、変えません。

『じゃあ、いつ変えるんだよ!』って思う人もいらっしゃるでしょうが、そのぐらい『人生はパターンでできているなぁ』と言う風に思うわけですよね。


でも、そうやって「居心地のいいパターン」が増えていって、あまりにも、居心地よ過ぎるようなら、そうなったときに考えます。

『たぶん、成りません!』


「言葉」は「論理」に向いていない



「言葉」=「論理」と言ってもいいぐらいに、「論理」とは「言葉」によって構成されるものであるということに成っているわけですけど、本当に「言葉」って、「論理」に向いているんでしょうか?

私といたしましては『そうでもないんじゃないかなぁ?』と思っているわけです。


確かに、「論理」という言葉の意味からしても、「論理」とは「言葉」によって思考することだと言っていいと思います。
でも、だからと言って「言葉」が「論理」に向いているとは限らないと思うわけですね。


それを、もう少し詳しく言うと、『今の言葉は「論理」に対して最適化されていない』
という風に思っているわけなのです。


確かに、「論理」は「言葉」で構成するものだと思いますし、それ以外のものではないと思うわけです。
ですから、「言葉」よりも「論理」に向いているものが他にあるとは思いません。

しかし、「現在の言葉」というのは、必ずしも「論理向きの言葉」として作られたものではないと思うわけです。


もともと、「言葉」と言うモノが、どのように発展してきたかを考えればわかることですが、当然、それは初期の段階では「鳴き声」であったわけです。
ということは、初期の「言葉」は「感情表現」が中心であって、「論理」とは対極にある「感情」を現すために出来て来たものだということです。

そういう形で発達する過程で、「言葉」が「感情」とは少し違う意味を持つようになっていったというのが、人間の理論的な思考の始まりの段階だったんだろうなと想像するわけです。

要するに、「言葉」の意味が積み重ねられるようになったんですね。
というか、「言葉」が「積み重ねることができるもの」だということに、人間が気付いたという方がイイのかも知れません。


そういう過程を経ていく中で、「言葉」はかなり「論理向き」に成って来ていると思いますが、それでも、まだまだ「最適化」には至っていないように思うわけです。


一言で言えば、「とっても曖昧」なんですね。
「言葉」は。


これは「感情」や「感覚」などの情緒面を現すのには向いているでしょうが、「論理」には向いていないと思うんですよね。


ただ、それを徹頭徹尾「論理向き」にして行くと、「記号論理学」のようなものになってしまうんだと思います。
そういうのを「言葉」と言えるのか?となると、それも、やや違うかな?と思うわけです。
(というより、チンプンカンプンですけどね)


つまり、「言葉」は「論理向き」に最適化してしまうと、結果的に「言葉」からは離れて「記号化」するしかないような気がします。

「記号」も一種の言語だと思いますし、「言葉」も一種の「記号」だとは思いますが、「記号化された言葉」と言うのは「言葉」としての性質が薄く成るんだと思います。

まぁ、その分「論理向き」に成るんでしょうね。


その辺のところで、いま人間ができる「最適化」とは、現在与えられている「言葉」を使いながら、それが必ずしも「論理向きな言葉」ではないということを、常に意識しながら使っていくことなんじゃないかなと。


そうすることで、お互いの矛盾点ばかりを上げ連ねるというような「意味の薄いお話」が少しでも避けられるなら、それだけでも少しマシになるんじゃないのかなと。
(『曖昧な言葉で、曖昧な言葉の、曖昧な矛盾を、曖昧に指摘する』=「絶対無理」)
(これは、記号論理学を使っても同じでしょうね。たぶん。)


まぁ、そんなことを考えてみましたよ。




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「親の権利」と「子の権利」



「親」は「子」に対して、なにか「権利」を持っているんでしょうか?
また、「子」は「親」に対して、なにか「権利」を持っているんでしょうか?

 ※こういうことは、個人差もあるでしょうし、判断が分かれるところだと思います
  から、以下、私のまったくもって勝手な持論と言うことでございます。


私は、「子」に対して「親」が持っている「権利」があるとすれば、それは「子がワルイことをしたときに、それを否定する権利」だと思うわけです。

そして、「子」が「親」に対して持っている「権利」があるとすれば、それは「自分がイイことをしたときに、それを親に認めさせる権利」だと思うのです。

どちらにおいても、「イイ」とか「ワルイ」に厳密な規準は必要ないと思います。
つまり、「親」が「ワルイ」と思っているだけ、「子」が「イイ」と思っているだけで十分だということです。

逆に言うと、「親」は本当に「ワルイ」と思っていないことで「子」を否定する権利はないし、「子」は本当に「イイ」と思っていないことを「親」に認めさせる権利はないということです。
 
 ※どちらかと言うと、最後の『逆に言うと~』以下の部分が大事かもしれません。
  要するに、「本物の親の権利」や「本物の子の権利」以外のモノを「権利」と
  して使ってしまっているケースがとても多く、そのことで、問題が出てくることが
  とても多いと思うわけです。


この「二つの権利とは、要するに「親の叱る権利」と「子の褒めてもらう権利」ですね。
この二つの逆方向のベクトルの引っ張り合いが「親子関係」なんだと思うわけです。


『だからなんだって言うんだ?』という感じですが、現在、「親子関係」において、とても無理しているケースが日増しに増えているような気がするわけです。

そういう時に、この「二つの権利」を規準にして考えて行くといいんじゃないかなと思うわけなのです。


そこで、問題なのは、「子供が褒めてほしいこと」と「親が叱るべきだと思うこと」が同時に発生した時だと思います。


つまり、子どもが「イイこと」だと思っていることが、親にとっては「ワルイこと」で、子供は褒めてほしいのに、親は叱らなければ!と思ってしまうことがあるわけですね。


まぁ、だいたい、そういう時に、親子の間の「ぶつかり合い」が起きるわけですよね。


確かに、そういう「ぶつかり合い」は避けようがないようにも見えますが、実は、そういう「ぶつかり合い」のほとんどは、この「二つの権利」をよくよく考えてみるとけっこう避けられるんじゃないかと思うわけです。


ただ、これは、子供にはなかなか要求できないことなので(子供が幼い場合ですね)、親の側がそういう考え方をしていないと成らないわけですね。


親の側が、子供のしたことを、

『本当に子供は、それをイイことだと思っているのか?』

また、

『本当に自分(親自身)は、それをワルイことだと思っているのか?』

という規準でよく考えて判断していくだけでも、「ぶつかり合い」はかなり減らせるんじゃないかと思います。


「本物」以外の「曖昧なこと」については、「叱る必要」も「褒める必要」もないのかも知れませんが、子供が褒めてほしいなら少なめに褒めておけばいいんじゃないかと思います。

少なくとも「叱る必要」はないような気がしますね。


この「二つの権利」を守っていくことで、親子関係がかなり改善されるんじゃないかと思うわけですが、どうしてそう思うかと言うと、「ダブル・スタンダード」や「ダブル・バインド」が形成されにくくなるからです。


逆に言うと、この「二つの権利」をよく考えずに扱っていると、「ダブル・スタンダード」や「ダブル・バインド」が出来上がってしまう確率が高くなるということです。


要するに「子供の善悪の規準」というのは、元をたどれば、ほとんどの場合、「親の善悪の規準」をもとにして出来ているわけで、その二つはほとんど同じようなモノなわけですから、それらが一致していれば、「シングル・スタンダード」だし、それらが一致ばしない時があるということであれば「ダブル・スタンダード」ということに成るわけです。


そして、さらに言えば、こういう「親子関係のユガミ」は、、時間が経っても解消されないことが多いので、けっきょく、どちらかが死ぬまで続くと言ってもいいような気がします。
(死んでも続く場合も多かったりするのかも知れません)


しかも、こういった「親子関係のコジレ」に、人生のかなりの部分を使い果たしてしまう人も、けっこう居るんだと思うわけです。


そんなことなら、出来るだけ早い時点から、「ダブル・スタンダード」を排除して、つまらないことに人生を浪費してしまわないようにした方が少しマシになるんじゃないのかなと。


そんな風に思うわけです。





「地球」=「宇宙」という「世界のリサイズ」



「情報」が瞬時に世界的な規模でやり取りされるようになったことで、地球という世界が、一昔前よりも格段に狭く感じられるように成り、交通手段の発達などもあって、「地球の裏側」なんて言う言葉が、昔ほど「地の果て」と言う感じに聞こえなくなってきたわけです。


それが「イイこと」なのか「ワルイこと」なのか、私にはよくわかりませんが、世界が狭くなったことで、私が『嫌だな!』と思っているのは、人間「一人の存在」が小さくなってしまったことなんですねぇ。


「村人50人の世界」に暮らしていた時は、人間「一人の存在」は全体の50分の1だったわけですが、「世界60億人の世界」に暮らしている現在は「一人の存在」も60億分の1です。

つまり、「一人の存在」が限りなく「無」に近いわけですね。
これがよくないと思うわけです。


そこで、なんとか「一人の存在」の「サイズ=大きさ」を取り戻したいわけですが、既に出回ってしまっている情報を消すことは出来ませんから、「世界」を小さくは出来ません。

つまり、「地球」が情報や知識として把握されてしまったわけですね。
それで、「地球」は小さく成り、その「小さくなった地球」に60~70億人も人がいますから、その膨大な数に対する「一人の存在」がとんでもなく小さくなってしまったわけです。


そこで、「世界」をリサイズ出来ないものだろうか?と考えてみたわけです。


もう、途方もなく広い「地球」と言う感覚を取り戻せないんだとすれば、「地球」を「さらに途方もなく広いモノ」、つまり「宇宙」に見立ててしまうしかないというわけです。
(世界を「100人の村」に例えるというのの「逆・パターン」ですね)

要するに、自分の中の「バーチャル空間」において、「地球」を「宇宙化」してしまうわけです。


「地球」を想像する時に「広大な宇宙空間」のようなものとして思い浮かべるわけです。
そして、「国」と「国」が何光年も離れているというイメージを作るわけですね。
そうなれば、もう、「地球の裏側」なんて、何万光年もの彼方ですから、とてもじゃないけど「近い」なんて思えませんし、正月休みに行けるような所じゃなく成るわけです。
(「バーチャル」です!頭はイカレテません)


すると、なんとなくですが、「ほかの国」のことなんて気に成らなくなってくるわけですよね。
(私だけ?)

そして、「ごく近くの範囲」に目が向くようになるというわけです。
その結果、「一人の存在」が少しだけ大きくなった気に成れたらイイんじゃないかな?と言うことですね。


人間が「宇宙」を把握するには、まだまだ相当の時間がかかりそうですから(というか、たぶん無理?)、人間にとって「宇宙」が狭くなることは当分ないでしょう。


「宇宙」はとにかくとんでもない大きさですから、半ば強引に、それを「地球」に「リサイズ」した場合、たとえば「国」ぐらいでも、まだまだ「銀河系」くらいかもしれません。

とても把握できないでしょうね。

把握できそうになるのは、ようやく「、宇宙の中の地球」、つまり、「地球の中」で言うところの「町」とか、それ以下の「〇丁目」くらいからじゃないでしょうか?
やっと、「村人50人」とまでいかなくても「数百人レベル」に戻れた気がしてきます。


そうやって、ほんの少しづつでも、「一人の存在」が大きくなっていけば、人間がここまで「アイデンティティの喪失感」にさいなまれることもなくなるんじゃないのかなと。


現在の社会に生きていると、とにかく、「自己」が小さく感じられてしまうんですね。
「アイデンティティーの喪失感」が半端なく大きいわけです。
その割に、「アイデンティティーの実感」は限りなく小さくなってしまうわけです。

その辺のところを、「自負心」とか「オレは出来るヤツ演出」などで、躍起になって「アイデンティティーの保持」に尽力するというのも一つの手ではあると思いますが、それは、あまりいいやり方でもないと思います。
(たぶん、そういう「アイデンティティー」では、死ぬまでは持たないと思いますから)


まぁ、そんな風に思った時に私がやっている「実験的アソビ」です。

たぶん、役に立ちません。

『でも、オモシロイから』

たぶん、面白くもありません。

でも、一回くらいやってみてください。

『グッド・ラック!』

意味はない!

『やっぱり、イカレテるのね?』

「いえ、ダイジョーブ!!」



「虚栄心」と言う「罠」



「虚栄心」と言うのが、どうも好きじゃないですね。
だから、逃れたいなと思うわけですが、好きじゃないくせになかなか逃れられないわけなのです。


まぁ、自分のことで言えば、絵を描いていますから、、そこのところで少しは自慢できることでもあればいいんですが、なにせ「実績ゼロ」なんで、何一つ自慢できることが無いんですねぇ。

すると、そういうところに「虚栄心」が入り込んでくるわけです。


それなりに真剣にやっていますから(本当はモノスゴク真剣にやってます)、「実績ゼロ」っていうのがどうもバツが悪いと言うんでしょうか、気軽にやってる人が『趣味でやってるんですよねぇ』と言う場合は、「実績」が無くてもそれほど気に成らないかも知れませんが(御本人にすれば、そんなことないですよね)、「ど真剣」にやってるので、きっと、人から見たら、『あんなに真剣にやってるのに実績が無いと言うことは、ソートー無能な奴に違いない』と言う感じに見えるんだろうなと思うわけです。
(まぁ、このブログもかなり真面目にやってるのに、まったく相手にしてもらえない所は同じですけど)


そこで、チョットだけでもマシに見えるような「いい言い訳」は無いだろうかと考えてしまうというわけです。
(そして、無いんですけどね)


自分の話はともかくとして、この「虚栄心」と言うのが「タチの悪い罠」だなと思うわけです。

つまり、「虚栄心」と言うのは、満たされれば満たされるほど不幸に成るという性質があると思うわけですねぇ。


ほとんどの人が、「虚栄心」を追いかけることで自分の本質を見失ってしまうことが、良くないというのはわかっていても、「虚栄心」が満たされた時に得られる快感が欲しいために、そこから抜けられなくなるわけです。

要するに「虚栄心」は満たされれば幸せになれるものだと思ってしまうわけですね。


でも、実は「虚栄心」が満たされて得られる快感はほんの一瞬のもので、その後は、それ以上の「虚栄心」を満たさなければ快感を得られなくなるという「罠」に成っていて、そういった「サイクル」が出来上がってしまうと、だんだん「虚栄心」が満たされているという実感は小さくなって、ひとつの「虚栄心」を満たした瞬間には、次の「より大きな虚栄心」を満たさなければならないという「サイクル」に、次から次へと追い立てられるようになっていくわけです。


どんなものでも、最終的に幸福に成らないのであれば意味が無いと思いますから、そういう「虚栄心」なんて、出来るだけ捨ててしましたいなと思うわけですが、そういう「虚栄心」でも、完全に捨ててしまうのは難しくて、人間、生きている限りは少なからず「自負心」や「プライド」みたいなものもありますし、それが全くないという状態も、決していい状態ではないと思いますから、
(それは一種の「死」だと思います)

そういうところで「虚栄心」も完全に断ち切るのが難しくなるんだと思います。


さて、そこでどうするか?ということに成ると、取り敢えず、「虚栄心」に、囚われそうなときには、『その「虚栄心」がどんなに理想的に満たされたとしても、絶対に幸せには成らないよ!』と自分に言い聞かせるというくらいしか手立てがないというのが現実です。

でも、それくらいでも十分なのかなとも思いますね。

『まぁ、いいんじゃないの?そんなもんで』
(すごく適当な言い方だけど)


何はともあれ、「虚栄心」とは無関係な所で、「ど真剣」に「ど真面目」に「ど一所懸命」にやっていれば、「虚栄心」に囚われている余裕がなくなるような気がしますから、そんな調子でやって行きたいなと。


そういう風に思いますね。




「普通の人間」は「人間の平均」じゃなくて「人間の頂点」



私は『人間は、まだ本当の意味で人間に成っていない』と思っているんですが、それは要するに、人間自身が設定した「人間」という規準が、『かなり高かったんじゃないのか?』ということが言いたいわけなのです。


実際に、政治家や芸能人やスポーツ関係者などの有名人たちが、「人間以下?」なことをすると、相当な勢いで批判されますし、ワイド・ショーのキャスターから一般人までほとんどの人たちがコゾッテ、『ありえないでしょ!人間として』などと言っていたりしますけど、その人たちのうちどれだけの人が、同じ環境を与えられても、その「人間としてありえないこと」をしないでいられるんでしょうねぇ?


正直言えば、私はあまり自信が無いですね。


たとえば、『権力を与えられたら』とか到底使い切れないほどの『おカネを与えられたら』とか濡れ手で粟のように『名声を与えられたら』とかと言うような、今の自分には、まったく程遠いような条件がもし与えられたら、自分は本当に「人間としてありえないようなこと」をやらないでいられるのか?と自問すれば、『たぶん、やってしまうだろう』と言うのが本当に正直なところですね。

でも、『自分は、絶対にそういうことはしない!!』と言う人がいちばんアブナイと言う気もしますし、『この人は、決してそういうことはしないだろう』と言う感じの人が、実際に「権力」などを与えられると『絵にかいたように乱用』ということも非常に多いわけで、『じゃあ、どんな人なら絶対にやらないんだ?』と成ると、そういう「権力」や「名声」などに近づかない(近づけない)人しかいないわけです。

つまり、「人間としてありえないこと」のはずなのに、それをやらないでいられる人間が、実際にはほとんど居ないということです。


多くの人がこのことを認めたくないので見ないようにしていますが(当然、自分にも適用されてしまいますから、そりゃ、いやですよね)、本当のことを言えば、すべての人が何かしらの「人間としてありえないこと」をやっていると思います。

たとえ、その時点でやっていなくても、環境さえそろえば、必ずやってしまうというのが本当の所だと思いますが、どうでしょうか?


私は、そういうことで、例外なんて居ないと思っています。
だから、『人間は、まだ本当の意味で人間に成っていない、つまり「人間未満」である』と思うわけですね。


つまり、現時点での「人間」とは「人間として当然のこと」は必ずしもできないし、「人間としてありえないこと」はチョクチョクやってしまうというような「人間」なわけで、『どう考えても、まだ、人間にとどいていない』と言うしかないわけです。


「一般人」から見て「有名人」の「アリエナイ振る舞い」が腹立たしいのは、自分たちが「有名人」ほどの「権力」や「名声」を得たことが無いからだと思いますよ。

だから、自分たちよりも「いい立場」に居る人たちが「悪いこと」をすると、『恵まれた立場にいるのに、悪いことをした』という感じに見えるんだと思います。

でも、実際は「権力」に近づけば近づくほど「アリエナイ行動」にも近づいているわけですから、むしろ、「有名人」が、そういうことをするのは当たり前と言えなくもないわけです。
(だから、それでいいということじゃないですけど)


少なくとも、「人間」がまだ「人間」に到達していないという前提で考えると、そういうことに成るわけですね。


逆に考えると、「人間」が「人間」に到達しているのであれば、「いい立場」を与えられた人が「アリエナイこと」をするなんてことは無いはずです。
少なくとも、『ほとんど無い』と言えるはずですよね。

でも、実際は『ほとんどある』みたいな状態ですから、そう考えるしかないと思うんですが、どうなんでしょう?


で、最終的に、何が言いたいかと言うと、「普通の人間」なんですね。

『人間が、まだ本当の意味で人間に到達していない』と言う前提で考えると、「普通の人間」と言うのは「標準的な人間」というよりも、むしろ「理想的な人間」のことなんじゃないかと思うわけです。

と言うか、もう少し飛躍した言い方をすれば、その「普通の人間」=「理想的な人間」こそが、「神」と言われてきたものの本質なんじゃないかと思います。


「自然崇拝」のような「原始宗教」が、現在言われているような「宗教」の形をとるようになったのは、偶像としての「神」を設定したことによるところが大きいと思うわけですが、その「神」と言うのは「絶対者」とか「創造主」ということに成ってはいますが、実は、元をたどれば、その「絶対」や「創造」と言うのは、当初の段階では、自然界すべてに対する「絶対」や「創造」ではなく、「人間」の中での「理想形」や「完成形」を意味していたんじゃないかと思います。


それが、徐々に神性を高めていって、最終的に現在言われているような「神」の像が創り上げられたと言う気がするわけです。


つまり、「人間」自身が設定した「理想の人間」が「神」や「仏」で、まだ「人間」に届いていない「実際のダメな人間」が「悪魔」や「鬼」なのかも知れませんね。

まぁ、それは、また別の話になってしまうので、置いとくとして、取り敢えず、「普通の人間」に成るのがかなり大変だということはあるんじゃないでしょうか?


つまり、「普通の人間」なんて言っても、実は、その辺が「人間の頂点」でもあるのかなと。

『だって、それ以上は無理でしょ!?』

だから、いつも「普通の人間」に成ろうとして生きていないと、「人間」どころか「魑魅魍魎(ちみもうりょう←こんな字読めるか!)」に成り果てるのかも?

『実際、そういう人たちいっぱい居るしね!』

だから、とどかなくても「人間」に成ろうとし続ける人に成りたいなと。

『ポクなんかそれくらいてチュウプンたから』
(翻訳すると『ボクなんかそれぐらいで十分だから』てす)


そんな風に思っているわけです。



「AI」は「AI」を生み出すことが出来るか?「AI」は「突然変異」を起こすことが出来るか?また、「人間」はそれらを先回りすることが出来るか?



最近では、「AI」と呼ばれている「人工知能」が、人間の「トップクラスの棋士」や「チェスの名人」などに勝てるように成って来たらしいですね。


それは「人間様」のプライドを打ち砕く事実なのかも知れませんが、実を言えば、「将棋」でも「囲碁」でも「チェス」でも、「AI」が勝利することは、ある意味では当たり前だと思うわけです。


そういう複雑で、智的なゲームにおいては、曖昧な判断や一種の機転なども要求されるわけですから、その手のゲームは「人間」が最も得意とする分野なわけで、だからこそ、そこで負けるとショックなんでしょうが、実を言えば、「AI」がそういうゲームで「人間」に勝つことは、「計算」や「情報解析」などで「AI」が「人間」を上回る能力を発揮するのと同じことで、単純に言って、『正確で速い』というだけのことだと思います。


現在の時点では、「AI」の能力は、すべて人間が「AI」に与えた情報をもとにしているわけで、要するに同じ情報をもとにして戦っているわけですから、『正確で速い』方が勝つに決まっています。


一見すると、「AI」が「曖昧な情報」を処理出来るように成ったことや、それどころか「AI」が「曖昧な思考」をするように成ったことで勝っているようにすら見えますが、その「曖昧な情報」のもとである「曖昧な思考」は、すべて「人間の思考」なわけで、実際に差がついているのは『正確で速い』の部分だと思いますよ。

前までは、「AI」はあまりにも「曖昧」が苦手だったために「曖昧」が出て来るたびに思考停止していたので、『正確で速い』が生かされなかったということでしょう。

それが、ある程度「曖昧さ」を処理できるようになったので、『正確で速い』の部分の差が出てきたんだと思います。


確かに、「AI」は長足的に進歩しているとは思いますが、必ずしも、「人間」はそこでショックを受けたり、『人間を超えられて、「AI」に支配されてしまうんじゃないか?』という危惧感を持つ必要はないんじゃないでしょうか?
(だから、現状でいいということではありませんけど)


『それじゃあ、どこまでいったら危惧感を持つべきなのか?』ということです。


まず、第一の関門は、『「AI」が「AI」を生み出すことが出来るようになること』じゃないかと思います。


現時点で、『人間」が一切手を貸さない』という前提で、「AI」を生み出せる「AI」が存在するのかどうかは知りませんが、おそらく、完全に不可能とまでは言えないと思います。

きっと、「そういうAI」だって作ろうと思えば作れるんじゃないでしょうか?

 ※現時点で、一番難しいのは「手先の器用さ」みたいな超アナログな部分なんじゃ
  ないでしょうか?
  部品作りとか、組み立て作業とかを人間が一切関与しないで行えるロボットはま
  だないような気がします。
  つまり、「将棋」や「チェス」の「名人」は越えられても、「町工場職人」はまだ超え
  ていないということでしょうね。
  この部分って、「越えられそうで越えられない壁」だと思いますよ。
  何しろ、最新型の「人型ロボット」の歩き方が”あんな状態”ですからね。
  あれを見てると『こいつら、なんだかんだ言っても、マダマダだな!』って思えます
  よね。

そして、その次の関門が、『「AI」が自分で生み出した「AI」を進化させることが出来るように成ること』じゃないかと思います。
つまり、「子孫繁栄」ですね。

これには「遺伝」に当たるシステムが必要に成ると思いますから、けっこう難しいようにも思いますが、「ありえない」ではないのかも知れませんね。

でも、現時点では「AI」が生みだされてからの歴史が浅いですから、情報の集積があまりにも少なくて、「遺伝」と言えるほどの「壮大なプログラム」を創り出すことは出来ないでしょうね。たぶん。

 ※この部分でも「人間の情報」を使ってしまうと、「AIの進化」ではなくて
  「人間の進化」の後追いになってしまいますから。

おそらく、人間や動物は「遺伝」というプログラムを維持するために、「数億年」とかもっと長い年月の情報の集積を使っていると思いますからね。


そして、最後の関門が、『「AI」が「突然変異」を起こすことが出来るように成ること』なんじゃないかと思うわけです。

ここまでくると、もう想像すらできなくなりますが、取り敢えず、「当分無理」かな?っていう気だけはしますよね。


そんなわけで、今のところ「人間様の天下」は当分は安泰かなと。


とは言え、いつ「AIの突然変異」が起こるのかはわかりませんから、それを「人間」が先回りしておくことも、少しくらいは考えておいた方がイイのかなと。

つまり、『油断するな!そいつらナニしだすかわかんないぞ!』といつも思っていた方がいいのかなと。

そんな風に思いました。


 ※自分で言うのもなんですが、この世の中に、これほど役に立たない話があるなんて
  ビックリした!!




「本当に正しいこと」ってあるんだろうか?



はたして「本当に正しいこと」と言えるようなことってあるんでしょうか?

これは、まじめにモノを考えて行くと、誰もが突き当たる疑問だと思うわけです。
(まぁ、『哲学的な思考において』というようなことです)

ショッパナのところでこの疑問に突き当たってしまう人も、けっこう多いんじゃないでしょうか?


でも、私の勝手な考え方においては、『あるに決まってるでしょ!』という感じなんですねぇ。

 
しかも、「正しいこと」に限った話ではなくて、どんなことに置いても、だいたい言えることなんですが、『〇〇って本当にあるんですか?』という質問に対する答えは、、すべて『あるに決まってるでしょ!』でもいいくらいだと思いますねぇ。


『〇〇って~』と言っている時点で、「〇〇」を前提として言っているわけですから、質問している側も、受けている側も「〇〇の存在」を認識しているという前提で言っているわけです。

もしも、「〇〇」を認識していないのならば、『〇〇って本当にあるんですか?』と言う前に『〇〇ってナニ?』という所から始まるはずです、つまり、「正しいこと」であれば『正しいことってナニ?』という所から始まるはずです。

そうでないということは、両者の中に「正しいこと」という共通の概念が存在するということですね。
少なくとも、質問した側はそう思っているということです。


聞かれた側も『正しいことって本当にあるんですか?』と聞かれたときに、『その正しいことっていったいナニのことを言っているの?』と聞き返すはずですね。

そう聞き返さないとしたら、聞かれた側も『両者の間に「正しいこと」という共通の概念がある』と思っているんでしょう。


だとすれば、その両者の間には「正しいこと」という概念があるということです。


その概念を言葉で規定できない時に『正しいことなんて無いんだ』ということがありますけど、それは、言葉で規定できないというだけで、『無い』と言うのとは違うような気がします。


たとえば、味覚のような感覚的なモノにおいて、『美味い』ということを言葉で具体的に規定するのは不可能だと思いますが、それでも、確かに『美味い』はあります。
少なくとも『無い』とも言い切ることは出来ないはずです。


実際に『無い』のは「万人に完全に一致する美味いもの」であって、「人類に共有されている美味いものと言う感覚」は間違いなくあるわけです。


それと同じように人類に共有されている概念としての「正しいこと」があるからこそ「正しいこと」についての話が成り立つわけです。


もともと言葉は人間が創り出したものですから、言葉は人間の中にある概念を超えることは出来ません。

「正しいこと」も言葉ですから、人間の中の「正しいこと」が、人間にとって上限の「本当に正しいこと」に成るわけです。
つまり、人類が、言葉の意味として共有している「正しいこと」こそが、「正しいこと」の本質なわけです。

ただ、それが、「世界全体の中における正しいこと」とは言えないというだけです。
要するに、それをさらに厳密に規定することが出来ないというだけだと思います。


でも、それは「正しいこと」に限ったことではなく、どんなことでも、その「究極的な意味」と言うのは、人間にはとても把握できるものではなく、何を言うにしても言葉を使って言うことになるわけですから、すべてのことが「言葉の範囲内」なわけです。

つまり、「人間の範囲内」でもあるわけで、そういう意味からすれば、その「言葉が持っている意味が、そのモノの人間にとっての上限ということになるわけです。

そういう意味では、すべてのことが、『あるに決まってるでしょ!』ということになるわけです。

 ※そういうことにしておかないと、何も話せなくなってしまいますからね。
  と言うか、人と話をするときには、無意識のうちに、そういう約束のもとに話を
  しているんだと思いますけどね。

むしろ、どちらかと言えば先天的に人間の思考の中に組み込まれているモノだと言った方がいいと思います。
つまり、「理論的な意味での正しい」ではなく「感覚としての正しい」ですね。
こういうのを、「自明のこと」と言うんじゃないでしょうか?

ただ、そういう「自明のこと」を言葉にすると、違った意味での限定が加わってしますために、話がややこしくなるということなんだと思います。


でも、まぁ、取敢えず、「正しいこと」は人間の思考の中に「既にあるモノ」であって、「人間が判断したり規定したりするモノ」ではないということですね。


それは間違いなく存在していて、しかも、漠然と人類に共有されている概念であるということです。
まぁ、『正しいことはあるけど、それを誰かが決めることは出来ない』ということじゃないでしょうか?


要するに、それを力ずくで決めて人に押し付けようとする人があまりにも多いから、『正しいことなんてないんだ!』と言いたくなるんだと思います。

でも、「正しいこと」は「人が決めるモノ」ではなくて、初めから「人類全般の意識の中に先天的に刷り込まれているモノ」だと考えれば、それを決めようとすること自体が、どうしようもなくオカシナことなわけで、まして、そのオカシナことを人にまで押し付けようとするのは正気の沙汰ではないわけですから、マトモな話の適用外ということで、『却下!』ということで十分だと思いますね。


論じることに意味があるとすれば、「人類に共有されている概念としての正しいこと」についてなんじゃないのかなと。

それに付いて、より多くの人が、より多くの考える機会を持つことで、気が遠くなるような世代を経て「人類にとっての正しいこと」が、また更に、次々と更新」されていって、また更に、刷り込まれていくことに成るんだと思います。


つまり、「人類にとっての正しいこと」とは、長大なスパンで常に変化しながら構築されている過程にあるわけで、それは、「この世の中全体にとっての正しいこと」についてもほぼ同じことがいえるのかも知れません。

しかし、「正しいこと」は「言葉」ですから、「言葉の範囲」を超えることは出来ません。
だから、そういう「普遍的な意味での正しいこと」に関しては、「言葉」では規定できないわけです。


まぁ、要するに、「正しいこと」と言っても人間が言っている程度のモノですから、『なんとなく正しい感じがするぅ?』という程度のモノなんだと思います。


それ以上は、「人間」にとっても、「言葉」にとっても、「容量オーバー」かなと。


そんな風に思いますよ。


  ※「人類に共有されている正しいこと」とは別に「自分が正しいと思っていること」というのも
   あるでしょうが、それはあくまで「その人の持論」であって、他人に対して適応するべきもの 
   でも、ましてや強要するものでもないということだと思います。
   そういう前提で、それぞれの人が「持論」を持ち合って話をすることは『きっと楽しい!!』


 

「金のチカラ」は今が頂点で、今後失われていく(とうれしいな)



なにかにつけて言えることですけど、「カネ」がモノを言う世の中ですよねぇ。

実際、「カネ」さえあれば何でもできると思っている人なんかもけっこう居ると思いますし、表向きは『「カネ」では買えないものもある』と言っている人も、いざとなると『で、取り敢えずいくら出せばいいんだい?』と、ごく普通に「人の心」を「カネ」で買おうとしたりします。

まぁ、そんな人ばかりでもないでしょうが、とにかく「いま」は「金のチカラ」が人類の歴史上最も強く成っている時代なんじゃないでしょうか?

全てのことが「カネ」で決まっていると言ってもいいと思いますし、現在、「金のチカラ」に逆らうことが出来るモノは無いような気がしますね。
たとえ、一時的にガンバッテ対抗したとしても、時間が経つにつれて必ず「金のチカラ」の強い方に押し流されて行きます。
今の時代「金のチカラ」に対抗できるものと言えば、「チョット頭がイカレタおっさん」ぐらいしか思いつきませんからね。
(『あぁ、自分か?』『あぁいや、対抗出来ないか?』)

それはともかく、この「金のチカラ」なんですが、「いま」が頂点で、もうそろそろ下り始めるんじゃないか?と言う非常に希望に満ちた話です。

『いえっ!けっして自分が貧乏だから言っているわけじゃありません』

まぁ、そういう所も『無きにしもあらず?』と言ったところなんですが、でも、それだけでもなくて、現在、この「金のチカラ」が巨大化していることで、とっても多くの人が窮屈な思いをしているような気がするわけです。
と言うか、実際には「金のチカラの巨大化」で、本当にトクしてる人なんていないような気がします。

一見すると、社会の上層に居て、「カネ」が集まる位置に立っている人が、このことでトクをしているようにも見えるわけですが、実のところ、そういう人たちが手に入れているのは「物質的な豊かさ」だけで「精神的な豊かさ」については何ひとつ保証されていないわけです。
しかし、「豊かさ」と言うモノ自体が「精神的なモノ」ですから、実は何も得られていないのとおんなじなわけですね。

 ※「豊かさ」などの生み出す「幸福」というのは、「人間の脳内で創り
  出される精神状態」のことだと思いますから、「物質」だけでは足り
  ないんだと思います。

現代の先進国に限って言えば、「カネ」を持っている人でも、持っていない人でも「豊かさ」については、ほとんど変わらないと思いますね。
まして、「幸福」と成れば、「カネ」とは全く関係ないと言ってもいいくらいだと思います。
つまり、「現代の先進国」は生活の平均的な水準が高いんですね。
だから、「生きるのに困らない程度のカネ」くらいは普通にしているだけで手に入るように出来ているわけです。

もともと、「カネ」で「幸福」が手に入ることはありませんが、あまりに「カネ」が無いと「不幸」に成ることがあるというだけのことなので、そういう極端な状況が少ない「現代の先進国」では、「カネ」はほとんど「幸福」には影響していないハズなわけです。

それなのに「金のチカラ」が大きくなりすぎているために、何でも「カネ」で決まってしまうわけで、それで、人間が自分たちの「幸福」とはほとんど関係ない「カネ」に振り回されてしまっているわけです。
「カネ」をたくさんもっている人は物質的には余裕がありますが、その分「カネ」に振り回されることも多く成るわけで、結果的にはプラス・マイナス・ゼロだったりするんだと思います。

いま、世界中の人が一番一生懸命にやっていることと言えば、「カネを稼ぐこと」だと思いますけど、その「カネ」が何ひとつ「幸福」をもたらさないモノだとしたら、こんなに無意味なことは無いと思いますよ。

どんなことでもそうですが、結果的に「幸福」につながっていないことに意味は無いと思います。

そして、「カネが幸福につながっていないということ」がだんだん目に見えてきているわけです。
ただ、今はまだ社会や人間が「金のチカラ」に依存していますから、そこから離れられませんが、近い将来、人間がそれを認める時が来て、「金のチカラ」を徐々に小さくしていくことが出来れば、人間はいろいろなモノから解放されて、少しいい状態に成るような気がします。

そうなれば、おそらく、その時には人間が「カネ」に代わる流通手段を見つけ出していることでしょうね。

見たいですねぇ。
そういう時代を。

と言っても数十年先ではなくて、数百年先のことでしょうから、見られそうもありませんけど。


そんな風に思いますね。


 ※それにしても、世界中の人がいま「一番いっしょうけんめいにやっていること」
  =「カネを稼ぐこと」って、このフレーズ、なんとも悲しい響きよねぇ。



「権利」は使われると必ず「権力」に成る



いま、社会にとって一番大事なことは、「人権」を確立することだと思いますけど、実を言うと、その「人権」は使われないのが理想的だと思うわけです。
どんな「権利」についても言えると思いますが、「権利」を使えば、そこに必ず「権力」が発生するわけで、それは徐々に横暴になっていくに違いないわけです。

 ※現在の民主主義社会では「人権」が確立されているという建前に
  なっていますが、実際には本当に「人権」が確立されている国は、
  人間の歴史上、まだ一つもないと思います。


「人権」などの「権利」と言うのは、基本的に立場の弱い者を守るためのモノだと勝手に思い込んでしまうんですが、どんなに弱い立場の者でも「権利」が与えられれば、一方的に弱いとも言い切れなくなってくるわけで、さらにそれを自由に使うように成れば、どちらかと言えば強い者の側になってしまうわけです。


もともと、「権利」と言うのは社会に「格差」があることを前提として必要性が発生してくるものなわけで、本当のことを言えば「格差」自体が無いのが一番いいわけです。

ただ、現時点でそういうことを言っても『無理でしょ?』ということで、仕方なく「人権」などの「権利」を確立して、「上からの権力」と「下からの権力」を拮抗させて、疑似的に「格差」が少ない状態を作って行こうということに成るわけです。

しかし、「下からの権力」であっても、一方的に使われてしまえば必ず暴走しますから、出来れば「上下方向の権力」が同じ力量で均衡を保っていて、尚且つ使用されないというのがイイわけですね。

まぁ、そうは言っても、現在は「権利」は必ず「上から下へ与えられるもの」と言う仕組みになっていますから、「上に立っている者」が自分と同じだけの量の「権利」を「下に居る者」に与えるわけありませんから、常に「力量」に差があるわけで、したがって、その「力量」を均等化することを「人権の確立」と言っているわけです。

 ※「戦争抑止力としての核」とか「犯罪抑止力としての刑罰」のような
  考え方ということですね。
  どれも使われないに越したことはないですよね。

でも、おそらく、もう少し社会が変化していけば「上に立っている者」が、「自分と同じ力量」を「下に居る者」に与えるようになると、私は思います。
要するに、一方的に「権力」を行使することに意味が無くなってきているわけですね。
そういう「傍若無人」をやっても意外と利益がなくなってきているわけです。

これは「地球」の中で、「人間」と言う「上に立っている者」が「傍若無人な振る舞い」をしても、あまり利益に結び付かなくなってきたことと同じ原理ですし、そのことと、必ずしも無関係ではないと思います。

 ※「人間」が地球上で「上に立っている」と言うのは、『人間が偉くなった』
  と言うような意味ではなく、単純に生物界の中で「人間」が立たされている
  位置のことです。
  
つまり、限りのあるものを有効に利用していこうとするときには、ある特定の方向から利用するよりも、いろいろな角度からの利用を考えていった方がはるかに多くの利益が見込めるということなんだと思います。
まぁ、「社会の中」でも「地球の中」でも、いま、「人間」がそういう位置に立たされているんだと思いますね。


この場合、その「一方的な権力」が「特定の方向」に相当するわけです。

「人間」は「智恵」を持ったことで「いま」に至っているわけで、「チカラ」をもって「いま」に至っているわけではないと思います。
そして、さらに「いま」に至って、「人間」は「チカラの原理」を脱ぎ捨てる時が来ているんだと思うわけです。
まぁ、脱皮みたいなもんなんでしょうね。たぶん。

そんなことからも、「人権」が確立された「その先」の時代に生きて居たいなと。

『ええ、自分だけでも行きますよ』


そんな風に思っているわけですね。



「信念を貫くこと」と「信念を曲げること」



「信念を貫くこと」はとても立派なことだと思いますし、実際にも褒められたり称賛されたりすることが多いと思いますが、「信念を曲げること」だと、どちらかというと「情けない感じ」だったり、低く見られたりすることことが多いですよね。

でも、この二つの内どっちが難しいと思いますか?

私は圧倒的に「信念を曲げること」の方が難しいと思うんですねぇ。

意外と気が付かないんですけど、実はほとんどの人が「信念を貫いて」生きています。
だから、「信念を貫くこと」は、そんなに難しいわけでもないと思うんですよね。

ただ、「その信念」が必ずしも「立派な信念」だとは限らないわけで、本当の意味で難しいのは「立派な信念を持つこと」であり、また、「それを貫くこと」でもあるわけですけど、それよりさらに難しいのが「信念を曲げること」なんじゃないかと思うわけなんです。

まぁ、要するに「信念を貫くこと」が立派なことだと言われるのは、「その信念」が「立派な信念」だった時に限っての話で、「立派じゃない信念」をいくら貫いて生きていても、誰も褒めてくれません。
(そもそも立派なモノを「信念」というのかも知れませんが、まぁ、そこは置いといて)
それどころか、そういう時には、「信念を貫いている」という事実すらも認めてもらえなくなってしまうわけです。
(当たり前と言えば当たり前ですけど)

だから、そういう事例は「信念を貫らぬくこと」には入らないということにされているわけなのです。
そういうのは、だいたい「頑固者」と言われていますね。

でもですよ。
たとえ、「立派な信念を貫いている人」でも、「頑固者」であることに変わりはないんじゃないかと思うわけです。
頑固じゃない人は、やっぱりいい意味でも悪い意味でも柔軟なわけですから、その辺の所もやっぱり柔軟なわけですが、意思が強固な人というのは「信念」に関しても強固ですが、「頑固さ」も強固なわけですね。

ということは、「頑固」と「信念」は、ほとんど同じようなモノで「いい頑固」を「信念」と言っているようなところもあるわけで、融通が利かないという点ではほとんど同じだと思います。

だから、ある人から「信念を貫く立派な人」だと思われている人が、他の人(たとえば家族など)からは、ただ単なる「頑固者」として扱われているということがよくあるわけですね。

ここで、はじめの話に戻ると、ほとんどの人が、どこかしら「頑固者」であって、その中の「自分のためにだけ頑固な人」が「頑固者」と呼ばれ、「人のためにも頑固な人」が「信念を貫く人」と言われているということです。
まぁ、やっぱり「自分のためだけ」の人は沢山いますが、「人のためにも」の人は少ないわけですけど、全部合わせるとけっこう居るわけです。
だから、ほとんどの人が「信念を貫いて」生きているということに成るわけですねぇ。


でも、もう一方の「信念を曲げること」に成ると、なかなかできませんね。
というか、一生のうちで何度もできる人なんて居ないような気がします。
(私は、とてもできません)

「人のためにも」の人よりも少ないと思いますね。

人には必ずその人の中の「正義」とか「道徳」など「イイこと」の規準があります。
その「規準」がその人の「信念」でもあるわけです。
その規準に従って生きているので、デタラメに成らずに生きていかれるんだと思います。

逆に言うと、その規準を失うということは、その人が「生き方」を失うということです。
多くの場合、全てのことがどうしていいかわからなく成ったり、絶望的な気持ちに成ったりすると思います。
そして、その「規準」を自ら曲げるという行為が「信念を曲げること」なんだと思うわけです。
だから、なかなかできないと思うわけなんです。

一生のうちで一度でも「人のために信念を曲げた人」は無条件に尊敬しますね。
そういうのこそが「立派」と言えることなんじゃないかと思ってしまいますねぇ。

「人のために信念を貫く人」でも十分立派なんですけど、そちらはみんな褒めますから。
でも、例え「人のため」であったとしても「信念を曲げた場合」は誰も褒めてくれませんから。
だったら、そっちを褒めておこうかなと。


そんな風に思ったわけなのです。


 ※まぁ、「自分のために信念を曲げた場合」は、なかなか褒めるポイントが見つけにく
  いので、どうぞご自分で褒めて下さい。
  私は、そういう人も尊敬しますけどね。


「本質を逸脱しようとする知性」と「本質へ回帰しようとする知性」



「本質」というのは、物事の本当の姿であり、もっとも純粋な在り様であると思いますから、きっと美しく澱みのないモノなんだと思います。
(残念ながら、「本質」を直に見ることや理解することは出来ないでしょうが)

だから、人間もできることなら「本質」に向かって生きられればいいなと思うわけですが、その辺のところがどうも、簡単でもないということがあるわけです。


たとえば、「知性」には「本質」から離れようとする性質があるように思うわけです。
ということは、「知性」に頼っていると「本質」から離れていってしまうということです。
ところが、人間の場合は、その「知性」も「人間の本質」に近い所にあるわけで、「知性」を逸脱してしまっても、やはり「本質」を失ってしまうという二重の規範に悩むことに成るわけです。


「理性」と「本能」は必ずしも対立するものだとは思いませんが、少なくとも「理性」は「本能」を制御しようとする性質がありますし、「本能」は「理性」を無視しようとする場合があるのは確かだと思います。
そして、「知性」は「理性」に端を発しているんでしょうし、「本能」も「本質」から生まれているんだと思います。

つまり、「理性」」と「本質」が、「知性」と「本能」を介して、つぶし合ってしまう場合が出てくるわけですね。
「本質」は「非の打ちどころがないほど単純なモノ」だと思いますが、あまりにも純粋であるために「人間の知性」ではそれを把握しきれません。
それで、いろいろな「理屈」をくっつけて、考えたり説明しようとしたりするわけですが、その過程で徐々に「本質」から離れていってしまうわけです。

ともすると、「本質から遠いこと」を「知性的なこと」であると思ってしまうという錯覚も出てきてしまうわけですね。

こんな風に言うと、それが人間にとって悲しいことや情けないことのように成ってしまいそうなんですが、実を言えばそう言うわけでもなくて、「人間の知性」には「本質に戻ろうとする性質」もあると思うわけです。

「人間」が「知性」の使い方を理解していないために、錯覚や間違いを犯すことや、それを認めようとしないことは、やや惨めなことだと思いますが、その間違いに気づいて「本質」に近い方向へ向けようとするのも、また「知性」による作業であるということは認めざるを得ないわけで、その「本質の方向」が人間には見当もつかないということがあるわけですが、そんなことよりも、未熟な人間がそこに向かおうとすること自体に意味があって、まさに、そこにこそ「現在の人間の本質」があると言ってもいいと思うわけです。

つまり、「本質を逸脱しようとする知性」と「本質へ回帰しようとする知性」の押し引きによって、人間がよくわからないながらも、とにかく「ナニカ」をしようとし続けること、それこそが「現時点での人間の本質に向かう行為」なのかなと。

『ナンニモわかんなくたっていいんじゃないか?』
『わかんないからナンニモしないのか?』
『やらなくてもいいのは、わかりきってることの方じゃないか?』


という風に思いますね。




「すべての偶然」は「必然」でもあり、「すべての必然」は「偶然」でもある



「偶然」と「必然」については、『すべてのことが偶然である』と考える人と、その反対に『すべてのことが必然である』と考える人に分かれる傾向があるような気がします。


でも、実際には「完全な必然」も「完全な偶然」も存在しないと思うわけです。
つまり、「偶然」の中にも「必然性」が含まれていて、「必然」の中にも「偶然性」が含まれているということです。

だとすれば、『すべてのことが偶然である』と考えるのも『すべてのことが必然である』と考えるのも、どちらもあまり変わらないことに成るわけで、片方は「必然性のある偶然」を「偶然」と言っているわけだし、もう片方は「偶然性のある必然」を「必然」と言っているだけなわけで、本当の所ではほとんど同じことを言っているんじゃないかと思うわけです。

よく、スピリチュアルの人は『この世に起きるあらゆる出来事が必然である』と言う考え方をしているようですし、スピリチュアルに限らず「宗教」のように「絶対者」や「創造主」や「万物の原理」のような「極度に根源的なモノ」の存在を前提にした考え方を持っている人は、だいたい「必然派」が多いと思いますね。
まぁ、その「絶対原理」をもとにして全てのことが成り立っていると言う考え方ですから、当然「偶然」なんてありえないのだと思います。

また、それとは反対に、「極度に論理的な思考」を中心にした立場をとる人は、「絶対」ということを排除した考え方の人が多いようで、それで、「必然」を拒否する傾向があるわけです。
こちらは、どんなに「必然的」に見えるモノであっても、それが「必然」に見えているのは「偶然」が積み重ねられたからであって、それ自体が「必然」だからではないということだと思います。
まぁ、「論理」ってそういうもんなのかもせれませんね。

全ての物事の根源に成っているような「絶対」を否定的に考えるなら、やはりそう言うことに成るんだと思います。

 ※ちなみに、私は「絶対」を否定はしませんが、「絶対」を支持したり
  賛美したりすることには否定的な考えです。
  なぜかと言うと、「いま」は「絶対」を追求するべき必要性は少なく
  成って来ているわりに、弊害は多くなってきているからですね。
  これは「宗教」などの「絶対性」に限らず「科学」などほかのことに
  対する「絶対性」に関してもほぼ同じことがいえると思います。
  このことに限らず、「思考(哲学的な思考?)」を突き詰めていく時
  には、「時代」に沿った考え方をするのが有効だと思っているわけで
  す。
  どんなに立派な人が言ったことでも100年も経つと『チョットチガ
  ウかな?』という所が出て来るものです。
  まして、自分が考えることでは『取り合えず、いまはこのヘンなんじゃ
  ない?』という程度が関の山だと思っているということですね。

ということで、この二つの考え方の違いは、「絶対」を肯定するか否定するかによって分かれていると思うわけですが、そこで最初の話に戻ると、実はこの二つの考え方が大差ないわけで、けっきょく「偶然性のある必然」や「必然性のある偶然」をどちらに分類するかの問題であって、それは単なる「呼び名」の問題で実体としては、どちらもほとんど同じことについて同じことを言っているんじゃないかと思います。

一見すると、「絶対」という決定的な要素に対する立ち位置の違いがあることから、その考え方の違いが出てきているように見えるわけですし、実際にもそうではあるんでしょうが、実はこの二つの考え方の違いはそれほど決定的なモノでもなくて、、実体としてはほぼ同じモノなんだと思います。

実際に「スピリチュアル」や「宗教」の人が、「偶然」という言葉を完全に頭から締め出せるわけでもないでしょうし、「論理派」の人も「絶対」を否定的に考えることは出来るかもしれませんが「必然」を完全に排除することは出来ないと思います。

だったら、両方ありってことでもいいんじゃないかと思うわけで、それで、『「すべての偶然」は「必然」でもあり、「すべての必然」は「偶然」でもある』と言ってみたわけです。

「明らかに偶然的な必然」とか「明らかに必然的な偶然」がどっちなのか?っていうことを考えるのはイイこといなのかも知れませんが、人間にとってはほとんど役に立ちません。
というか、そう言う考え方が有効な場合もあるでしょうが、そう言う考え方が人に無理を強いるような場合も出て来ると思います。

「明らかに偶然的なモノ」は「偶然」と言ってもいいような気がしますし、「明らかに必然的なモノ」は「必然」と言ってもあまり支障が出ることは無いと思います。

せっかく「偶然」と「必然」という二つの言葉があるなら両方使ったらいいんじゃないの?と思いますよ。
『今は』ということですけどね。

少なくとも、「偶然」も「必然」も両方必要としている人が居るなら両方あった方がいいのかなと。
(私は必要ですね。今は)

まぁ、そんな風に思ったわけですね。今は。



「全員参加のテロリズム」:「被害者」は居ない



「テロリズム」は良くないということに成っていますが、もしも「被害者がいないテロリズム」があったら、それでもやっぱり「テロ」は悪いことなんでしょうか?
というか、そもそも「テロ」が悪いのは「道理」の問題なんでしょうか?それとも「実害」の問題なんでしょうか?


まぁ、「善悪」ってもの自体が「実害」から発生しているとも言えるし、「実害」なんかよりも遥かに根源的な「善悪の規準」があって(たとえば「宗教的な道徳」などですね)、それに基づいて「善悪」が決まっていると言う考え方の人も居るでしょうから、そこに話を持っていくと、いつまでたっても抜け出せなくなりそうなので、不本意ながらそこは飛ばします。


取り敢えず、「全員参加のテロリズム」と言うモノが想定できるのか?ということを考えてみたわけです。

つまり、社会的な「常識」とか「「権威」とか「道徳」とか「序列」とかと言った「既成概念」を、やや力ずくな感じで覆すときに、その「テロ」にみんなが参加した場合は、「被害者」は居なく成るわけです。

『なに言ってるんだ、全員が参加したら相手がいないだろ!』

いや、「相手」は「人間」ではなく「社会」なんです。
私は、「社会」には「人間の意思」とは別の「社会の意思」があると思っているんですねぇ。
だから、「人間」が「社会」に対抗して何かを行う時に、必ずしも「相手」が「人間」であるとは限らないと思うわけです。

「常識」や「権威」などのように、いつの間にか社会の中に出来上がってしまって「定理」のように流通してしまっている「既成概念」というものは、その「概念」が出来る過程の時期までは「人間の行為」であったはずですが、それが「定説化」して「絶対法則」のように成ってしまった後は、もう、そこに必ずしも「人間の意思」が関わっていなくても遂行されていくわけで、「人間」は「自分の意思」でそれを行っているというよりは「社会の意思」に従ってそれを『やらされている』と言うべきだと思いますね。

だから、そういう強固に出来上がてしまった「既成概念」から抜け出そうとする場合は、「人間同士」がつぶし合って「同士討ち」に成ってしまっては上手くいかないわけで、大多数の人がそこに「テロリスト」として参加して「社会の意思」を打倒するというのが一番手っ取り早いわけです。

まぁ、そんなことから「全員参加のテロリズム」:「被害者は居ない」ということを言ってみたわけです。

こう言う考え方で「テロ」という言葉を捉えていけば、もしかすると、今行われているような本当に暴力的で破壊的な「テロ」って言うモノは無くなっていくかもしれません。


ハッキリ言って、今行われている「テロ」が自滅的な行為であることは「テロリスト自身」が一番よくわかっていると思います。
それでも「テロ」を行うのは、それぞれに切迫した事情があるんでしょうが、今のやり方じゃドンドン賛同者が少なく成って行って、最終的には必ず自滅していくことにしかなりません。
しかも「被害者」が出ます。

今の「テロリズム」の致命的な欠陥は、人間同士が「同士討ち」をやってしまっているところです。
「人間VS社会」の形で「テロ」を起こさないと「テロ」が成果を上げることはありません。
しかも、ほとんど「被害者」が出ません。
「被害」を受けるのは「人間」ではなく「社会」ですから。
しかし、「社会」は「秩序」や「規則」に過ぎませんから、変化しても誰も「被害」を受けることは無いわけです。
ただ単に「無秩序」に成らなければいいわけですから、「人間にとって都合のいい秩序」を設定した方がトクですね。


そして実を言うと、「芸術の20世紀」が行ったことが、人類の歴史の中で最もこれに近いことだったんじゃないかと思うわけです。
つまり、「芸術の20世紀」は、一種の「非暴力的なテロ行為」であって、「既成概念の破壊」であったということですね。

でも、いろんなところがチョットづつズレちゃったんだと思います。
惜しかったですねぇ。
非暴力的ではあったと思いますが、賛同者が少ないうちに急激に進めたために、結果的に「同士討ち」になってしまいました。

そして、たまたまその「同士討ち」に勝った者が「芸術の世界」の中で主導的な立ち場を得ることに成り、そういう人たちの言ったことが「新たな既成概念」と成ってしまったわけです。


それで、今でもいろいろズレたままなので、「芸術」においても「社会」においても、いまだに「力ずくのテロリズム」が無くなりません。

だったら、この「全員参加のテロリズム」と言う考え方があれば、そこのところが少し良くなるんじゃないのかなと。


現在の「多数決型のデモクラシー(民主主義)」じゃもうダメだと思いますよ。
だって、そこで「多数決」に参加しているのは「人間の意思」ではなく「社会の意思」ですから。

「社会」は「体制」ですから「多数決」においては常勝です。
「個人」は問題外ですね。
だから、「個人=人間」が喜ぶようにするには「社会の意思」を打倒しなければならないわけで、それには「テロリズム」的な手法が必要に成るというわけです。
なにせ相手が「体制」ですから、それを圧倒しなければならないわけですから、でも「被害者」は出したくないわけですから。

そうなると、やっぱり「全員参加のテロリズム」なんじゃないの? 
「被害者」も出ないわけだし。
「ニュータイプの革命」ってことで。
いいんじゃないの?


そんな風に思ったわけですね。



「幸福」は「感覚」ではなく「論理」なんじゃないか?



「幸福」って「感覚的なモノ」だと思っていて、疑ったことが無かったんですけど、この前ふと思ったのは『幸福ってホントは論理的なモノなんじゃないの?』ということなんですね。

たとえば、二人の子供が居る時に、二人とも「同じ食べ物」をもらえば二人の「幸福」はほぼ同じに成りますが、もらえる「食べ物の量」に差があった場合は、少なかった方の子は「不幸」で、多くもらった子が「幸福」に成るわけです。
(まぁ、単純に言うとっていうことですけどね。以下同様に)

これは、「二人前の食べ物」を二人で分ける時の話ですが、「三人分の食べ物」がある場合はどうなるでしょう?

「三人分の食べ物」を一人の子には「二人前」もう一人の子には「一人前」与えた場合は、「一人前」もらった方の子もお腹をいっぱいにするには十分です。
「二人前」もらった方の子は「一人前」残すだけで、大したトクもありません。

それなのに、おそらくは、それでもやっぱり「多くもらった子」は「幸福」に成り「少なくもらった子」は「不幸」に成るわけです。
というよりも、「二人前」を分けたときの「幸福や不幸」よりも、「三人前」を分けたときの「幸福や不幸」の方が大きいこともあると思うわけです。

「二人前」の時の「幸福や不幸」は「動物としての幸福や不幸」ですが、「三人前」の時の「幸福や不幸」は「人間としての幸福や不幸」です。
でも、「幸福や不幸」自体が「人間的なモノ」だと思いますから、「人間としての幸福や不幸」の方を大きく感じるわけですね。
(と言っても人間も動物ですから、どっちもどっちなわけですけどね)

まぁ、こういうのが「幸福」を「感覚的なモノ」だと思う理由なんだと思います。
つまり、実質的な価値とか物質的なソントクと必ずしも関係なく「幸福や不幸」が「感じ方」で決まっているわけですね。

『お腹が減っていて不幸だ』というのも「感覚」ですし、『お腹」いっぱいで幸福だ』と言うのも「感覚」です。
それと同じように、『自分の方が多くもらえて幸福だ』というのも「感覚」で、『自分の方が少なくて不幸だ』と思うのも「感覚」です。
「動物的な感覚」と「人間的な感覚」ということに成るわけです。

と、ここまでは「幸福」=「感覚」ということに成るわけなんですが、でも、人間にはその先があります。
つまり、それが「論理」ということに成るわけですね。

例えば、「三人分」のうち「二人前」をもらった子が、もう一人の子に『これ余ってるんだけど、キミもう少し食べるかい?』と聞いた場合、聞かれた方の子はきっと「幸福」が増えるんじゃないかと思います。
「一人前でお腹いっぱいに成った幸福」だけだったのが、「思いやり」という「人間的な幸福」ももらったわけですから。

でも、実はもっと「幸福」が増えるのは『もう少し食べるかい?』と聞いた方の子なんです。
自分の食べる分がキープされている状況で、人に分け与えることが出来るというのは、とても「幸福」なことなんだと思います。
要するに、人間にとって『人の役に立ちたい』っていう気持ちが最も大きい「幸福のモト」なんじゃないかと思うわけです。


たとえば、人間が仕事に生きがいを見出すのも『人の役に立ちたい』ということの表れだと思いますし、スポーツでも勉学でもほとんどのことが『人の役に立ちたい』ということの現れなんじゃないかと思います。

つまり、「幸福」は「人間的な幸福」に成ればなるほど「奉仕的」に成って行くんだと思うわけですね。
「欲求」が満たされるだけだと、「動物的な幸福」は得られても「人間的な幸福」は得られません。
「人間的な幸福」は、どこかに「奉仕」や「献身」という「一種の犠牲」を求められるものなのかも知れませんね。

上の子供たちの例では「犠牲」が無い状況なわけですが、そこを追求していけば、最終的に自分はソンをしてでも「奉仕」や「献身」をして「幸福」を得ようということに成るわけです。

つまり、「得ること」によって「幸福」に成っていたはずなのに、「人間的な幸福」を追っていくと、「失うこと」でしか「それ以上の幸福」が得られなくなるというターニング・ポイントがあるんだと思います。

そして、そのポイントが「感覚」と「論理」が入れ替わるポイントでもあるということですね。

つまり、「感覚」によって「幸福」を感じ取るというよりも、「論理」によって「幸福」を理解する必要が出て来るんだと思います。
「感覚」で感じる部分だけだと失ったモノを『惜しい』と思ってしまいますから「幸福」に成り切れないわけですね。
だから、「論理」によって「失った物質」よりも「得られた幸福」の方が大きいんだと理解する必要があるわけです。

ということで、「人間の幸福」は、時に「論理」でもあるのかなと。

そんな風に思ったわけなのです。
役には立ちません。        
                           


「ウンチク」はどうして悲しいのか?



「ウンチク」って言うと、あまりいいイメージがないですよね。
どちらかと言うと「知識のひけらかし」という感じで、スゴク・博識なのにスゴク・アホみたいな、そんなイメージなんじゃないかと思います。

でも、「ウンチク」が「豆知識」的な意味でけっこう面白いモノとして捉えられている時もあるわけで、その差は何なんだろうかと思うわけです。

そもそも、「ウンチク」って言うモノは、そんなに悲しいモノなのか?と考えると、必ずしも悲しいモノというわけでもないような気もしてきて、それなら、どうして「ウンチク」と聞いたとたんに『あぁ~、もう結構です!』みたいな話になってしまうのだろうか?と思うわけです。

「ウンチク」というのは、要するに「知識」でしょうから、本来はそんなに悪いものではないハズなんですが、なんで「知識」が「ウンチク」に化けた途端に「やや残念な感じ」になってしまうのか?ということですね。

というか、「知識」と「ウンチク」って、いったい何が違うんでしょうね。
その辺が、まず、よくわかんないわけですね。

で、よぉ~く考えてみたところ、だんだん違いが見えてきて、要するに「ウンチク」というのは「語るために覚えられた知識」なんだと思うに至ったわけなのです。
つまり、「知識」として、使用されることを前提としていない「知識」ということなんじゃないかと思うわけです。
もっと言えば、「ひけらかすための知識」ということに成るわけで、そうなると、『まぁ、それじゃ悲しいよねぇ』ということに成るのも当然だろうと思うわけです。
(「ウンチク」の本当の意味はそういう意味ではないんでしょうね、きっと)

しかも、今の時代には「ネット検索」が完全に普及していますから、そのような「ひけらかすためオンリーの知識」を、だれでも、いつでも、簡単に手に入れることが出来るように成ったわけで、もはや覚える必要すらなく成ったわけで、「あしたひけらかすウンチク」を今日調べて置けば、あさってには忘れてしまっても誰もそれを追求したりしませんから、「とっても便利でとっても悲しい世の中」に成ったもんです。

ということで、
「知識」は使うために覚えましょう!
もしくは、
使わない「知識」はひけらかさないようにしましょう!
もしくは、
使わない「知識」をひけらかしてしまう時には、ソートー・オモシロク話しましょう!
もしくは、
使わない「知識」をひけらかしてしまう時に、ソートー・オモシロク話す場合でも、頭がいいフリをするのは止めましょう!
だって、かなりアホでも1日くらいは覚えていられるんだから。

そんな風に思ったわけです。

追伸:私は一時間しか覚えていられません。

   




『今の世の中はチョット・オカシイよ!』について



社会批判などをするときに、わりと簡単に『今の世の中はチョット・オカシイよ!』と言ってしまうことがありますよね。
(自分自身もよく言っていると思いますけど)
でも、『じゃあ、「いい世の中」ってどういう世の中なんだ?』とか『そもそも、「いい世の中」って、いつ、どこの国にあった世の中なんだ?』ということになると、たぶん、誰も答えられないんじゃないでしょうか?


要するに、実を言えば、「いい世の中」なんて、今までに一度も実現されていないわけです。
というか、今までにあったのは「悪い世の中」と「非常に悪い世の中」だけであって、「いい世の中」はおろか「まぁまぁ、いい世の中」ですら、『本当に、そんな時代があったのかぁ?』とずいぶん怪しい感じもしてくるほどなわけですねぇ。
(「いい世の中」とされるのが、「バブル期」のような「ややイカレタ時代」だったりしますよね)

 ※こういう話をすると、『いやいや、昔に比べればゼンゼン・マシですよ』
  という人がいますが、そういう人に『えっ!?子供から大人まで自殺や
  イジメが蔓延するこの世の中が、あなたにとってはそんなにマシな世の
  中なんですか?』と聞きたくなってしまいますね。

要するに、「社会」とか「政治」というものに対して「理想」とか「信頼」を持ちすぎてきたんじゃないでしょうか?
だから、『きっと、いつか「いい世の中」が実現されるに違いない!』という思い込みが出来上がってしまって、その「思い込み」が独り歩きしてしまっているような気もするわけですね。

まぁ、こういうことを言うと、『なんでも悲観的に考えてはいけない』とか『そういうマイナス思考は何の役にも立たない』と思う方もいるんでしょうね。

でも、やっぱり『魚のいないところで釣りをしても、釣れないでしょ?』
『というか、それを釣りと呼べるのかどうかも怪しいんじゃないの?』と思ってしまいますね

まぁ、それぐらい、「いい世の中」は実現不可能なものなんじゃないのかなと。
そんな風に思ってしまうわけですね。


まず、なんといっても、「社会」が「個人を阻害するもの」であるということが認識されていないわけです。
だから、「社会の完成度」を高めていけば「いい世の中」になると思われているわけです。

でも、実際には「社会の完成度」が高くなると、むしろ「社会」は「人間」に対して高い要求を突き付けてくるようになるわけで、そういう「社会の要求」や「社会からの使役」についていけない人が出てきてしまうわけです。

こう言うと、いかにも「劣等な人間」が置いて行かれるというイメージになってしまいそうですが、実を言えば、『ついて行かれなくなる』のは「人間的な人間」であって、「劣等」かどうかは関係ありません。
逆に、『ついて行かれる』のは「機械的な人間」であるか、または「動物的な人間」であるわけです。
こちらも、「劣等」であるか「優等」であるかは関係ありません。

 ※これは、必ずしも「社会に適応できる人」が「人間性」において劣るという
  ことではありません。
  つまり、「人間性」が「その人の社会への適応度」に比例しているのではな
  く、「その人が社会から受けるストレス」に比例しているということです。

  要するに、「社会的なストレスを受けている人」というのは、その人の中の
  少なくとも一部分が、「社会」から置いて行かれているということに成るわ
  けですね。

ということは、「いい(完成された)社会」を目指せば、必ず「人間」が阻害されるということです。
つまり、「いい社会」であればあるほど、人間にとっては「いい世の中」から離れていってしまうモノだということなんですねぇ。

これは、「いい社会」だけでなく「いい政治」でも「いい経済」でも「いい制度」でも、ほとんどの「社会的秩序」に当てはまると思います。
でも、それでいて「秩序」も必要ではあるわけですから、そんなわけで「いい世の中」が実現しないというわけです。


それから、もう一つ大きいのは、「人間」は常に歴史とともに「社会に対する期待値」を上げてしまうということです。
例えば、「戦乱の世の中」から「平和な世の中」になっても、『いや、まだまだ、本当の平和とは言えない!』というように、どんどん「社会に対する期待値」を高いところへ持ち上げてしまうわけです。
(この話も、そういう話の一つですけどね)

ただでさえ、「社会」には「人間を阻害する性質」があるのに、その「社会に対する期待値」を、どんどん上げていってしまうわけですから、人間が満足するような「いい世の中」なんて実現できるわけがないですよね。

まぁ、それで、いつもいつも『今の世の中はチョット・オカシイよ!』と言っていなければならなくなるわけです。

それは、たぶん仕方ないことだと思うわけですが、そんな中でも、少しづつ「マシな世の中」が出来ていけば、渋々ではあってもそれはそれでいいのかな?とも思うわけで、それ以上を望むつもりはないわけなんですが、それにつけても、やっぱり『今の世の中はチョット・オカシイよ!』と言いたくなるような「今の世の中」って、いったいどうなのよ?とも思うわけで、どうして、こんなに豊かなのにこんなに貧しくて悲しいのだろうか?と言わざるを得ないわけなのです。


で、『なぜ、そうなってしまうのか?』と考えてみるわけです。

やっぱり、「カネ」をすべての原理にしてしまっていることに、一番の問題があるような気がしますねぇ。
前述のように、「いい世の中」は実現不可能だとしても、ある意味で、どんどん悪くなっているところがあるのも否定できないのは、やはり「カネという妄想」にとらわれてしまっているからではないのかなと、そんな風に思ってしまうわけです。

とにかく、「カネ」を原理として生み出されるものが、ことごとく「人間の幸福」を削ぎ取ってしまう性質があるわけです。
なぜなら、「人間」は絶対に「カネ」には逆らえないからです。

「カネ」に逆らうということは、ある意味で「死」を意味するところがあって、「世の中で生きていくための絶対価」として設定されてしまっているものこそが「カネという妄想」なわけですね。
(個人的に「カネに振り回されない人」もいるということとは別の話です)

だから、絶対に逆らえないし、逆らえば、その人の中の一部分が死んでいくわけです。
当然、逆らい続けていけば、本当に生きられなくなるということですね。
だから、『服従するか?』・『殺されるか?』の二者択一になるわけです。

そして、その「二者択一」が、人間に耐えられる範囲を超えつつある状態が「今」なんだと思うわけです。
つまり、世の中が二極化してきていると思うんですね。

「カネに服従する側」を選択した人は、極端に「カネ」に執着した生き方をしています。
(例えば、「IT系の起業家」の人などですね←まぁ、そういう人ばかりではなないんでしょうけどね)

「カネに逆らう側」を選択した人は、「生きること」自体を解脱しようとする生き方に向かう傾向があります。
(例えば、「スピリチュアル系」の人などですね←まぁ、そういう人ばかりではないんでしょうけどね)

といっても、実際は、時と場合によって「服従する側」と「逆らう側」を行ったり来たりしている人がほとんどなわけですが、そういう人達ですら、「服従する側」にいるときには、かなりな「カネの亡者ぶり」だし、そうかと思うと、一転して「逆らう側」に回ったときには、『えっ、聖人?』というようなことを言っていたりするわけです。
つまり、一人の人の中でも「二極化」が起きてしまっているということだと思いますね。

そんな感じで二極化してしまっていますから、いつも、どちらかに一方的に偏った極端なことしか起きなくなってきています。
ところが、とんでもなく偏った人以外の多くの人間は、その極端についていけないわけで、ここでも、また、「置いて行かれる人」が出てしまうわけです。

しかも、この場合は、ほとんどの人が「置いて行かれる側」になってしまいます。
ごく一部分の「成功した人」や、それとは反対に「物欲から解脱した人」以外のすべての人たちが、全部置いて行かれてしまうことになるわけです。

しかも、「解脱できる人」なんてほとんどいませんし、「成功する人」は居ても、それが続くことはやっぱりほとんどありませんから、だれも残れないのかもしれません。

そういうことで、「カネ」を原理にしていくと、「人間の幸福」がそぎ取られて行ってしまうんだと思いますよ。
そういうの、だれにとっても、なんのトクもないという気がしますね。

だから、もう「カネ」は二の次にした世の中に成って行って欲しいなと。

そんな風に思います。


 ※もしかすると、この記事を読むと、一見、「物欲を捨てる側」の話のよ
  うに見えてしまうかもしれないんですが、「人間」が「物欲」を捨てる
  という話ではなくて、「社会全体が支配されてしまっているカネという
  妄想」からナントカシテ解脱しましょうよ!という話です。
  つまり、解脱するのは「個人」ではなく「世の中」ということですね。
  人間は、そこに方向づけをするだけで十分なんじゃないでしょうか?
  でも、それも簡単ではないでしょうね。




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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