FC2ブログ

「満足度」と「納得度」



よく、企業の宣伝文句で「顧客満足度 NO.1」と言うのを見かけますけど、私の場合、これに似た言葉で「納得度」と言うのを重視しているわけなのです。
(こういう言葉があるのかどうか知りませんけど)


「満足」が提供されれば「満足度」が高く成るわけですが、「納得度」の方は、必ずしも「満足」しなくても、「納得」がいくような、説明や、理由が示されれば「納得度」が高く成るというわけです。


たとえば、「商品のクオリティ」が高ければ「満足度」は上がりますが、「値段」が高ければ、「満足度」は下がりますね。
それから、「アフターケアなどのサービス」が悪くても「満足度」は下がりますよね。


でも、「納得度」だと、たとえ「値段」が高くても、それが「商品のクオリティ」に見合っていれば、「納得度」は高く成るわけです。

それに、サービスの面で不備があった場合、いくら最高のフォローをしても「満足度」は、やや落ちることに成るでしょうが、気持ちよく謝罪してもらったり、原因を丁寧に説明してもらったりすれば、「納得度」としては、むしろ高く成ることもあり得るということですね。


まぁ、一言で言ってしまえば、「納得度」の方が、”やや甘い”ということですね。


で、こういう「甘さ」が、もう少し有ってもいいような気がするわけです。


企業なんかでも、「満足度」を上げようとすると、もう”キュウキュウ”なわけです。
でも、「納得度」ぐらいだったら、そんなでもないんじゃないかなと思うわけですね。

それに、本当に「顧客」が求めているのは、実は、この「納得度」の方なんじゃないかとも思うわけです。

そりゃあ、誰だって「良くて、さらに安い」に越したことは無いんでしょうけど、実際には、大半の人が、「良いモノ」を「見合った値段」で買えれば「十分」なんだと思うんですね。

でも、その辺がなかなか保証されませんから、つい「安いに越したことは無い」となってしまうんだと思うわけです。


世の中全般に、もう少し普通に「納得度」が提供されるように成って行けば、それ程までの「満足度」は求めなくてもいいように成って行くような気もします。


一部の企業だけが、「NO.1の満足度」を提供していても、結局、「満足度」は”一人勝ち状態”の企業にしか提供できないモノでしょうから、結果的に、生活全体の「満足度」が上がるとも限らないわけです。


むしろ、みんなでやれる程度の「納得度」でいった方がいいんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけですが、私の場合、自分の作品制作に対しても、この”やや、甘い”「納得度」でいっています。


見る人の「満足度」を上げるのは、”ちょっと大変”なので、そこは、まぁ、「納得度」ぐらいで、行こうかなと。

一応、自分の中では「満足度」を追究しているつもりですけどね。
そう考えると、「自分の中での満足度」こそ「納得度」に近いものなのかなと。

そんな風にも思いますね。



「気遣い」と「へつらい」



「気遣い」と「へつらい」はイメージの上では、随分違う感じがする言葉だと思うわけですけど、実体としては、けっこう近い意味があるんじゃないかと思うのです。


「気遣い」と言えば、「人に対する気配り」や「人に対する優しさ」を思い浮かべることが多いのだと思います。
それに対して、「へつらい」と言うと、力のある者に取り入ろうとしたり、媚を売って、ゴキゲンを取ろうとしたりするといった、いわゆる「卑怯者」のイメージがあると思うわけです。

しかし、この二つは、見ようによってはほとんど区別がつかないほど似通ったものとも言えると思うわけなのです。


たとえば、何か失敗をして落ち込んでいる人に『そんなに気にしなくてもいいんじゃない?』と言えば、「気遣い」でしょうが、同じ事を、「いつも威張りくさっている上司」みたいな人が失敗した時に言えば、これは「へつらい」に成るでしょうね。


これは、極端な例ですが、それほど極端でない場合でも、「権力」に対して向けられる「気遣い」と言うのは、ほとんどが、実体としては「へつらい」であると思うわけです。

もちろん、上司など「権力」を持っている人間の中にも「イイ人」も「ワルイ人」も居るわけですから、「イイ人」に対してなら、「気遣い」は成立するんじゃないか?とも思うのですが、実は、「気遣い」が成立するのは、「力の無い者」に対してであって、相手が「イイ人」かどうかは関係ないわけです。


「権力者」に対する「気遣い」も、理屈の上では成立しますし、本人が何の「へつらい」もなく「権力者」に対して、「気遣い」を行うこともあるでしょうが、それは、実行された途端に、実体としては「へつらい」になってしまうということでしょう。

つまり、「利害関係」があるところで、「金銭のやり取り」をすれば、それが、どういう”気持ち”で行われたとしても、結果的には「賄賂」になってしまうということですね。


昔の封建的な社会では、身分制度がありましたから、「上下関係」がはっきりしていたわけです。
それで、「気遣い」と「へつらい」が区別し易かったんでしょうね。

ところが、現代の社会では、「身分」と言う意味ではすべての人が「平等」ということに成っていて、建前上は「身分の差」はないハズなわけですが、実際には、社会的な「権力」や「地位」と言った「上下関係」がありますから、時によって、「平等な社会」なのか「格差社会」なのか分からなくなってしまうわけです。

それで、「平等」と言う建前で考えた場合「気遣い」であるはずのものが、「格差」を前提として考えると、「へつらい」であるということが出てきてしまうわけですね。


結果的に言うと、現代においては、全ての「力」に対する「気遣い」は「へつらい」であって、それを、「気遣い」とすることは、「権力」を膨張させることにしかならない。
ということだと思います。


また、「へつらい」自体は「悪事」とまでは言えないが、「へつらい」によって、「人間性」を切り捨てることは「悪事」である。

と言う風に思います。



「人間」と「機械」のワーク・シェア



「オートメーション」化が進んだことや「コンピューター」が「パソコン」として身近に成ったことで、「人間」がやっていた仕事をかなりの部分で「機械」が代行できるように成ったわけですけど、その「人間と機械の住み分け」がイマイチ出来ていないような気がする時があるわけです。


時には、「人間がやるべき仕事」を「機械」に横取りされているような気がすることがあるし、逆に、『こういうのこそ機械がやってくれよ!』と言うようなことで、相も変わらず「人間」がコキ使われていたりすることもあるような気がします。

要するに、いつの間にか、予想外のスピードで「機械」が”ノシテキタ”もんで、その「住み分け」を決めるヒマがなかったって言うことなんじゃないかと思うわけですね。


そこで、これからは「人間」と「機械」が「ワークシェア」していく必要が出て来ると思うわけですけど、昔と比べたら、「効率」は相当上がっているわけですから、もう、これ以上「効率」を上げる必要はないと思うわけです。


だから、「人間と機械のワークシェア」に置いては、如何に「喜び」を見出せるかということが重視されていった方がイイんだと思います。

つまり、人類史上初めて、「仕事を楽しむ時代」が来たんじゃないかなと思うわけです。


これまで「仕事が好き」と言っていた人は、ほとんどの場合、純粋に「仕事を楽しんでいた」のではなく、「仕事」から得られる名誉や収入が増えることを「楽しい」と言っていたわけでしょう。


また、ごく少数の「純粋に仕事を楽しんでいた人」は居たでしょうが、それも、そもそもの「シゴトの目的」が「楽しむこと」だったというわけではなかったのでしょう。


これからは、もう少し純粋な意味で「仕事」に「楽しさ」が導入されていくとイイんじゃないかと思うわけですね。


「パソコン」や「インターネット」のカタチが、いまより、もう少し良く成れば、いや、それよりなにより、社会を構成している人間の仕事に対する考え方がもう少し良く成れば、きっと、「仕事」は「楽しむためのモノ」になって行くんじゃないのかなと。


そんな形で「人間と機械のワークシェア」ができるように成ればいいんじゃないですかと。

そんなことを希望いたしておりますです。


「一つのモノ」と「二つのモノ」



どんな学問や思想でも、それを追究していくと、もっとも単純な「一つの考え」に行き着くか、または、研究がどんどん細かいことに細分化して言って、「無数の考え」に複雑化していくかの、どちらかに成るんだと思うわけです。


ところが、その「一つの考え」の向こうには、また、さらなる「無数の考え」への入り口が用意されていて、それとは反対に、「無数の考え」が現れて来ると、それを一括して説明できるような「一つの考え」が必要になってくるわけです。

その結果、いつも終わりのない研究が続けられることに成るわけで、それを、「学問」と呼んでいるということなんでしょうね。


と言うわけで、この「すべてを一つにすること」と「一つのモノを二つ以上に分けていくこと」が、「思考すること」の本質なのではないかと思っているわけです。


たとえば、地球上には無数のモノがありますが、それらすべてを「一つのモノ」として、「地球」と言う「一個の生命体」なのだということも出来るでしょう。

それは、更に宇宙にまで広げても、そのまた先まで広げても同じことでしょう。


要するに、そこに「名前」を付けてやれば、それを「一つのモノ」として説明することができると言うことなのではないでしょうか?


これとは逆に、どんなに分かちがたいと思われているものでも、それを、更に分化することが出来ないということは無いような気がしますし、今度は、そこに、「二つの名前」をつけてやりさえすれば、それは、もう二つに分けられていると言えなくはないと思うわけです。

 ※現在の研究では、それ以上分けることが出来ないと言われているものでも、
  きっと、そのうち分けられるようになるんじゃないかと思いますし、どうしても、
  分けることが出来ないならば、勝手に頭の中だけで分けたことにしてしまえ
  ば、一応、概念を分けたことには成ると思います。

つまり、「最も大きい一つのモノ」と「最も小さい無数のモノ」と言うのが「世界」を構成している要素なんだと思います。


宇宙の無限の広がりや、粒子の最小の単位を根本的に説明するのは大変だと思いますけど、そこまでいかなくても、「一つのモノ」と「二つのモノ」ということだけで、十分に「思考」を楽しむことは出来るんじゃないかと思うわけですね。


「一つのモノ」の中に「チガイ」を見つけ出して、「二つに分ける作業」や、「二つのモノ」の中に「共通の本質」を見つけ出して、「一つにまとめる作業」は、とても楽しい「思考作業」なんだと思うわけです。


ただし、はじめの話のように「一つのモノ」の向こうには、必ず「二つに分ける必要性」が出て来るでしょうし、「二つのモノ」が「無数」に広がった後には、それを「一つにまとめる必要性」が出てきますから、永遠に「終わり」や「達成」はないということですから、「結論」や「到達」を求めてしまうと「不毛」と感じてしまうでしょう。


昔、「思考」は何かを達成するためのモノだったわけですが、現在、「人間の思考」が置かれている位置では、「思考」は目的を達成するためだけのモノではなく、「楽しむためのモノ」でもあるんじゃないかと思います。

だから、「思考」に「結論」を求める必要性は、昔ほど、高くはないんじゃないかと思うわけです。


「一つのモノ」と「二つのモノ」の間で、彷徨い続けることこそ、現在の人間に与えられた、「究極の娯楽」ではないのかなと。


言葉で言うと、ぜんぜん面白くなさそうですが、

『実は凄くオモシロイ!!』

『いや、まぁ、そうでもない?』

そんな風に思っております。



ネット情報の「ダブりの壁」



インターネット上の情報で一番困るのが、「ダブり」が多いということなんですね。

なにか調べようとすると、やたらと同じ情報が羅列されてしまうので、気持ちの上でも”ウンザリ”しますし、なにより、時間がかかって仕方ないわけですね。


現在の「検索エンジン」はスバラシク・スグレテイルという話ですけど、この「ダブり」を排除してくれないと、到底スグレテイルとは言えないんじゃないのかなと思うわけです。


これが、単に「検索エンジンの精度」の問題なのか、それとも、誰かの都合で、そうなるようにされているのかはわかりませんけど、とにかく、まったく同じサイトにつながってしまう検索結果や、似たような情報しか載っていないものはズラリと出て来るのに、もうチョット・チガウ情報が欲しいなとなると、いきなり「パッタリ」ということがとても多いので、なんとかならないモノかなと、いつも思ってしまうわけですね。


そういうときでも、本当は、求めている情報が、ウェブ上のどこかにはあるんじゃないかと思うんですね。
それなのに、いつも「ダブりの壁」に阻まれてしまうんですね。

そして、もし、「ダブりの壁」を破ろうとすれば、その壁が厚いほど時間がかかってしまうと言うわけです。


まぁ、私の場合は少しヘンテコなことを調べたりすることも多いので、ある程度は仕方ないと思いますけど、この「壁の向こう側の情報」が”もったいない”なと思ってしまうわけです。
「壁の手前の情報」よりも、「壁の向こう側の情報」の方が、密度が濃かったりする場合も多いわけですからね。

それなのに、そういうのが出てこないことが非常に多いんですね。


実際、「壁の手前の情報」は、けっこう内容的には”スカスカ”で、また、判で押したような教科書的な情報も多いので、「内容的な密度」もさることながら、その「面白味」についても、「やや薄」な感があり、どちらかと言うと「時間の無駄」であったりするケースも少なくはなく、「壁の向こう側の情報」にこそ、「インターネット情報の真価」があると思うのですが、それは、見つけ出すのに時間がかかるという、”にっちもさっちも”の困った状況なわけなのです。


それに、こんな状態じゃ、結果的には、ものすごく画一化された情報を受け取らされているということに成るわけで、ネットの最大の利点であるはずの「情報の量」が全く生かされていないわけです。


検索するたびに、何十万件も検索されていても、実際に見られるのはその何千・何万分の一で、しかも、見られるのは、いつも決まりきった教科書的な情報ばかりであるならば、「壁の向こう側の何十万件」なんて、あってもなくても同じということに成りはしないでしょうか?


そういうわけで、なんとかこの「ダブりの壁」を壊してほしいものだなと思っているわけですが、そこで、言いたいことは、検索結果を、もう少し大胆な感じで、ランダムにしたり、シャッフルしたりしてほしいということですね。

つまり、何回か検索すると毎回違う結果が出て来ると嬉しいですね。

それから、「壁の向こう側の情報」と「壁の手前の情報」を、時々入れ替えてくれると、「壁の向こう側の情報」が手に入りやすくなるでしょうね。


こういうのって、私みたいな「ネット弱者系の人間」(最近は少しマシになってきたけど)しか思わないことなんでしょうか?


IT関連のことって、IT業界側からの「押し売り」が多いような気がするんですね。

しかも、このところIT業界の人たちが、日に日に傲慢になって来ているのが、『チョット・イヤデス』っていう感じ。


と思ったりもするわけです。



「現代の災害」



「災害」と言うと、まず「天災」を思い浮かべる人が多いんでしょうが、「現代の災害」は多様化していて、いろいろな「災害」があると思うわけです。


たとえば、「テロ」や「戦争」なんかも、被害者からすれば、一種の「災害」だと思いますし、火事や交通事故なんかも「巻き込まれた人」にとっては「災害」なんだと思います。


そんな、多様化した「現代の災害」の中でも、最も「現代的な災害」とは何なのか?と言えば、「経済的な災害」なんじゃないかと思っているわけです。


「インフレ」や「デフレ」、それから「経済不況」なんて言うのは、専門家でも予測合出来ない場合が多いみたいですし、そこから派生する「経済状況」なんて、もう、誰にも計り知れないものになってしまっているんじゃないかと思うわけです。

ということは、「天変地異」と同じように、「予測不能」の「人智の及ばないところのモノ」ということに成るわけで、これは「災害」と言っても差支えないんじゃないかと思うわけです。


現代社会には、そういった、「経済」にまつわる「災害」と言うのが、けっこうたくさんあるんじゃないかと思うわけですね。


直接的なものでは、「極端な不況」や「国家レベルでの経済破綻」などが、そういうのにあたると思うんですけど、「経済的な災害」には、間接的なものもあると思うわけです。


たとえば、「不況」で、お父さんの会社が潰れたことで、家族の誰かが病気になったりすることがあると思うんですけど、そういうのも、よくよく考えてみれば、一種の「経済的な災害」と言えなくはないのかも知れませんね。


まぁ、そこまで言ったらキリがないという気もしなくはないんですが、やはり、物事には「原因」があって「結果がある」と思いますから、その「原因」を探って行くことには意味があると思うわけですね。


そういう考えで、もっとシツコク考えていくと、たとえば、「自動車事故」で亡くなる人が、毎年結構いらっしゃいますが(日本だけで、年間4千人くらいみたいです)、これは、かなりの数なのに、なんで、誰もこれを止めようとしないんですかねぇ。


つまり、車の性能を極端に制限するとか、自動車税を極端に高くするとか、いろいろな策はあるんじゃないかと思いますけど、それを、「誰もやろうとしない理由」は、たぶん「経済」です。

つまり、今の世の中では、年間4,000人の命よりは「経済」の方が重いということに成っているわけですね。


「東日本大震災」での死者は約15,000人程だそうですが、4年ごとに、その数の人が亡く成っているわけですから、かなりの数だと思うんですけどねぇ。


「テロ」で被害者が出ると、かなりの騒ぎになったりしますし(平和な国で「テロ」の被害が出ると騒がれるということでしょうね)、「原発」が事故ると大問題になりますけど、「車」が事故っても、かなりの大事故とか、運転者がよほど悪質だったりとかでないとニュースにすらなりません。

でも、よく考えれば、自動車が走っている道を歩いているということは、武装したテロリストが潜伏している街を平気で歩き回っているのと、それほど違わないことと言えなくもないわけです。

ただ単に、その「テロリスト」が、まだ今のところ銃を構えてはいない、というだけのことです。


それらのことは、恐らくすべて「経済」を優先するために、そうなっているんだと思うわけですね。
だとすれば、これを「経済的な災害」と呼んでも、間違いとは言い切れないんじゃないのかなと。


まぁ、こういう例を挙げていったら、それこそキリがなくて、「飛行機事故」だってそうだし、「食品添加物の害」で癌に成った人なんかだって、言ってみれば、「災害」に遭ったようなものでしょう。


それらは、いずれも、被害者側には、ほとんど避けようのないものであって、「予測不能」なものでもあります。


車に乗らないでいることは出来ますが、後ろから近づいてくる車が「居眠り運転」か「酒酔い運転」かを予測する手立てはありませんからね。


そんなわけで、私なんかは「テロ」や「原発事故」や「天災」の報道を目にするたびに、『ところで、自動車事故はいいんですかい?』と思ってしまうわけなのです。

なんで、そんなに「経済」が大事なのかなと。


私にしてみれば、かなり不思議なわけですね。

まぁ、自分があんまりお金持ったことないんで。

そんな風に思うわけですね。



「定年制」について



現在の「定年」は、だいたい65歳ぐらいなんでしょうか?
自分が、そういう規定のある仕事をしたことがほとんどないので、よくわかりませんけど、どう考えても、この「定年制」と言う考え方は、もう古いんじゃないかと思うわけです。


そもそも、「定年制」と言うものは、どちらかと言うと『長年お疲れさまでした』と言うような、『もう、十分に働いてもらったので、あとはゆっくりしてください』と言う制度だったんだと思うんですが、そういう「年配者への敬意」が、今でもあるんでしょうか?

どちらかと言うと、今では「定年制」は、「年寄りを邪魔者扱いするような制度」になってしまっているんじゃないでしょうか?
つまり、『使えなくなったから、お払い箱にする』と言う感じでしょうか?


でも、客観的に見ると、「経験豊富な人」の仕事と言うのは見ていても安定感がありますし、無理なリキミがない分、「受け手側」にとっては丁度良い場合が多いように思います。


それに比べると、「中堅どころの人」の仕事には、やや、自己主張が入りすぎるきらいがあるわけで、その人が、いくら「その職場内での実力者」であっても、と言うより、「その職場内での実力者」であればあるほど、その「実力」を誇示したり維持したりしようとするでしょうから、「受け手の側」からすると、やや「自分本位」と言うような「受け手側軽視」の感が否めないわけです。


もちろん、個人差はあるでしょうし、若くても「受け手側」にとっても「イイ仕事」をしている人もいるとは思いますが、少なくとも、年配者の仕事ぶりが「明らかに劣る」ということは無いような気がしますね。


平均寿命が飛躍的に伸びてきているわけですし、同じ年齢の人でも、年齢を重ねていく程に、いろいろな面での「個人差」が大きくなるということもありますから、一律に「定年の時期を延長する」と言うのもどうかと思います。

ということは、やっぱり「定年制」と言う考え方自体が、もう「現在」に適応できていないんじゃないのかなと思うわけですね。


これまで、「定年の年齢」を引き上げると言う発想しかなかったこと自体に、非常に盲目的な印象がありますね。


『定年制を廃止しよう!』といえば、『そんなことできるわけないだろ!』と言われるかもしれませんが、ほとんどの「役に立つこと」と言うのは、「できるわけないと思うようなこと」なわけで、『そんなことできるわけない』と言っていれば、「役に立つこと」なんて何もできなくなってしまうわけです。


そういう時は「それをやる」ということを先に決めて、「どうするか」は後から考えるべきでしょうね。


少なくとも、高齢化社会にあって、「定年制」が維持できなくなるのは必定なわけですから、早くやめた方がイイに決まっているわけで、それだけは、はっきりしているんじゃないでしょうか?

「制度」なんて後から考えればイイことだし、それに、どうせ前もって考えたってロクな「制度」ができたタメシはないんですから、こういう、「絶対必要なこと」に関しては、先回りして「制度」を検討するよりも、後から穴埋めしていくしかないんじゃないかと思いますね。


どう考えても、「定年制」という「制度」は、もう、長くはないんじゃないかと思いますね。
だとすれば、どう考えても、早くやった方がイイですよね。


それに、どう考えても、人間は、死ぬまで、何かの役割を担っているほうがいいんじゃないかと思いますね。

それが、その人にとっての「アイデンティティー」に成るようなことですね。
それが、「職業」である人もいるでしょうし、「職業ではないナニカ」である人もいるでしょう。

人間には、そういう「自分」を持って「死んでいく権利」があると思いますね。


そうやって「人が死ねる社会」だったら、「生きている人」も「幸せ」に少し近づけるような気がします。

少なくとも、「”自分を失って”死んでいかなければならない社会」だったら、どう考えても、「生きている人」も「不幸」なんじゃないのかなと。


そんな風に思うわけなんですね。




「エコロジー」と「人間の意識改革」の競争



「地球的資源の枯渇に対する危機」が叫ばれてから、既に相当な時間が経っていると思うわけですが、なかなか「資源の安定した確保」への道筋は見えて来ないという状況ですよね。


そこで、「エコロジー」と言う、なかなか気の利いた言葉が出てきたわけですが、「エコロジー」と言う概念が現れてきてからも、また更に、かなりの時が経ってしまい、もはや「エコロジー」も、やや「新鮮さ」を失いつつあるというところじゃないかと思うわけです。


そんな現在にあって、思うことは、「エコロジー」と言う考え方は、必ずしも「地球」を大事にするためだけのモノでもないんじゃないのかなということなんですね。


なんとなく、今の「エコロジー」には、「地球さん」のために、「人間さま」が少し我慢して、みたいなところがあるような気がするわけですが、実は、そうじゃなくて、今の「工業化」や「効率主義」で一番”キューキュー”しているのは、「人間さま」の方なんじゃないかと思うわけですね。

つまり、「資源消費」のペースを落とすことで、一番”ラク”になるのこそ「人間さま」の方で、実際は「地球環境」の問題とも限らないような気がするわけです。


現在まで、「上昇志向」一辺倒でやってきた、「工業化」や「効率主義」ですが、これが、「行き過ぎ」になっていることはほぼ間違いないことでしょうし、それ以前に、これ以上の「効率」の必要性がなくなってきてもいるわけですから、その速度を緩めることで、「人間さま」も”ラク”に成るなら、それに越したことはないんじゃないかということですね。


そういった方向で進んでいけば、もしかしたら、「地球資源」が完全に枯渇してしまう前に、何か有効な代替エネルギーが考え出されるということもあるのかなと。


今の方向で、考え続けていっても、また、いくら一生懸命「我慢するエコロジー」を続けていっても、所詮、「地球さん」の命を少し永らえさせることぐらいしかできないような気もします。


「自然のサイクル」と、そういう「人間の意識改革」の競争で、「人間の意識改革」の方が、より”ノンビリ”できたら、「自然のサイクル」が追い付いて来て、「資源」が回復するのかも知れませんね。

まぁ、”そーとーノンビリ”しないといけませんけどね。


いずれにしても、「早い方の競争」じゃなくて(今は「エコロジー」も含めて早い方の競争になっていますね)、「遅い方の競争」ということなんじゃないのかなと。


『それ、なんか”ラク”そう!』

そういう風に思いますね。



「ソントク」より「カチマケ」



現代社会と言うのは、いろいろなことが、なんでも「勝負」になってしまうわけなのです。


「競争社会」ですね。
それで、とにかく、何でもかんでも「カチマケ」になってしまうわけですね。

こういう状態で、一番困るのは、何でもかんでも「カチマケ」ですから、そこにルールが設定されていませんし、それ以前に、そこで「勝負」が行われているのかどうかということ自体が、ハッキリしないということです。


片方の人が「勝負」なんてミジンも思っていないのに、もう片方が、一方的に「勝負」しているということがよくあるように思うわけですね。


現在では、ほとんどの人が、完全に子供のころから、「競争社会」の中で育ってきていますから、「勝負」が体の芯まで刷り込まれているんでしょうね。

だから、相手側に「競争意識」がなくても、また、そこに「ルール」が設定されていなくても、条件反射のように「とりあえず勝負」にしてしまう人が、けっこうたくさんいるんじゃないかと思います。


そして、更に言うと、「単なる競争」の時点までは、「カチマケ」は「ソントク」を基準にして成り立っていたわけですが、この「刷り込まれた勝負」が出てきたことで、「カチマケ」が「ソントク抜き」になって来ているんじゃないかと思うわけです。

つまり、ちょっと前までなら、「勝負」に勝っていたとしても、何かしら「ソン」に成るようなことになってしまうと、「カチ」とはならなかったような気がするんですけど、現時点では、あまりにも「カチマケ」を優先するあまりに、「ソン」をしていても、一方的な「勝負」でも、また、相手が「勝負」なんてしていなくても、『とにかく勝てばいい』と言うような、完全に「盲目的な勝負」と言うのが出て来たんじゃないかと思うわけです。


そういう「自己満足的な負けず嫌い」になっている人がとても増えているんじゃないかと思いますねぇ。


これは、とても困るんですねぇ。

どんな状況でも、一方的に「勝負」して、一方的に「勝ってしまう」わけですから、やっぱり困りますよね。
しかも、現在の日本では、こういうのが否定されないんですね。

ときどき、本当にビックリすることがありますけど、この「自己満足的な負けず嫌い」の人が、明らかに、誰も参加していない「勝負」を一方的に仕掛けて、明らかに、無理のある「勝利宣言」をして、『どーや?』と言わんばかりの状態なのに対して、まわりの人たちが、『パチパチパチ、お見事!』と言っていることがあったりします。


そういうのを、「ポジティブ」と言っている人をよく見ますが、「ポジティブ云々」以前に、『取り敢えず、否定しなさいよ!』と思ってしまうわけなのです。


そういう時に、「否定」するよりも相手にしない方が効果的だという人もいますが、その結果が、今の状況なんじゃないかと思いますね。

つまり、「野放し」ですね。


このこと以外のことでもそうですが、「イイ」と思っていないことを、「否定」しないのは「逃避」でしかないですね。


そういう「デタラメ」は放っておいても勝手に崩壊するんだ、と言うのは、『「警察」がなくても、「犯罪者」が勝手に滅んでいくから大丈夫』と言っているのと変わらないですね。

何事にも限度があるわけで、確かに放っておいても滅びてしまうようなものを、あえて、追究して、トッチメル必要はないでしょうが、明らかに「膨らんできている問題」を放置するのは、ただ単に、「それができないから」、そして、「それができないことを認めたくないから」に他ならないわけです。


「できる・できない」とは別に、「悪いもの」は「ワルイ」と「言葉」にして言った方がイイように思いますね。
それでないと、何が悪くて、何が悪くないのか、ということが無く成ってしまうんじゃないでしょうか?

 ※ここで言っている「悪いもの」というのは、究極的な「悪」の話ではなく、
  人それぞれの中にある「善悪」の中の「悪」です。
  ときに、『自分には「善悪の基準」はない』という人もいますが、実は、そ
  ういう人の中にも必ず何らかの「善悪の基準」はあると思います。
  それでないと、その人は何の行動もできないはずですから。

  その人が何かをするということは、それを「ワルイ」とは思っていないと言
  うことですからね。

現在の社会は、そう成りつつあるような気がすることがよくあります。
「善・悪の基準」が曖昧になって来ているということですね。


哲学的な思考に置いて、「善・悪」を考えることよりも、その前に、もっと当たり前のこととして、つまり、自明のこととしての「善・悪」を基準にしなければ、どんな話も成り立たないわけですから、そういう、当然の「悪」を「悪」と呼ばずして、なんと呼べばいいのでしょう?

 ※人間は、必ず何らかの「善・悪の基準」を「自明のこと」として、持ってい
  ると思いますね。
  それを持たないという人が居るんでしょうか?
  もし、「善・悪の基準」を持たない人が居るとしたら、
  その人は、何を基準に「思考」し、何を基準に「話す」のでしょうか?
  また、何の基準もなく「考えられたこと」を「思考」と呼べるのでしょうか?

また、それを言葉にして言わないことに、いったいどんな理由があるのでしょうか?

そんな風に聞きたくなってしまうわけなのです。




「言語の領域」が「本能の領域」を超えようとしている?



人間には「本能」と「理性」と言う拮抗する二つの領域があるということに成っていますが、実際には、その二つは分けることが出来ないもので、どこからが「本能」で、どこからが「理性」なのかは、誰にも線を引くことは出来ないんだと思うわけです。


そんな中で、もし仮に、この二つの領域に「境界線」があるとしての話ですが、人間にとっての「理性」に当たる「言語の領域」が、人間にとっての「本能の領域」を圧倒して、その「境界線」を越境しようとしているように感じることがあるわけです。


言い換えるならば、「理性」が「本能」の領域に食い込んできているということですね。

つまり、「言語の領域」が人間にとって、必要不可欠になり、さらに、無意識の領域に成りつつあるということです。

と言っても、もちろん人間は、教えられなければ「言語」を話せるようにはなりませんから、無意識とも言い切れないわけですが、少なくとも、親がしゃべっているのを聞いているだけで、ほとんどの人が言葉を覚えてしまいますし、覚えた後は、放っておいてもけっこう小難しいことを言い出だすように成るわけですから、かなり無意識に近いと言えるでしょう。


つまり、「言語」自体は「本能的」なものでないとしても、「言語」を与えられたうえでの「言語を使った思考」については、かなり「本能的」と言ってもいいような気がします。


実際、『考えるな!』と言われても、なかなか「考えないでいること」などできないモノですよね。
要するに、それくらい『無意識でやっている』ということなんじゃないでしょうか?

つまり、「言葉を話すこと」や「言葉で考えること」が、「人間の本能の一つ」に成りつつあると言ってもいいような気がするわけです。


そして、これは単なる「言語の領域」だけの問題ではなくて、その「言語」から派生しているあらゆる「思考」を含んだ話に成りますから、人間の精神活動の大部分が含まれると言ってもいいんじゃないでしょうか?

実際、人間の精神的な活動は「言語」を通して行われていることが多いでしょう。
逆に、「言語」を通さずに、何かの精神的な活動をしろと言われても、なかなか、できるものではありませんよね。


たとえば「芸術」や「音楽」には「言葉はいらない」なんて言われますけど、その「芸術」や「音楽」だって、まったく言葉を介さずに生み出されることはむしろ稀で、何らかの「言語的思考」の上に立って生み出されていることが多いんだと思いますね。
(これは「芸術の鑑賞」にも言えることだと思います)

それを、否定する人もいるかもしれませんけど、その人は、それを否定するにも「言語」を使わなければならないわけでしょうから、
「言語」から逃れているともいえないし、それを言うことにあまり意味も無いような気もします。


まぁ、要するに、それだけ「言語の領域」が、人間の精神活動に密着しているということだけは言えるんじゃないかと思いますね。


そして、その「言語の領域」が「本能の領域」に食い込んできているということは、もはや「純粋な本能の領域」と言えるものは、存在するのだろうか?と思ってしまうわけなのです。

つまり、本来ならば「本能」と対極にある「理性」を構築するための基本アイテムである「言語」が、「本能の領域」にクロスオーバーするということは、しかも、その「言語」が人間のほとんどの精神活動に関わっているということは、旧来の考え方で言うところの「本能」と言い切れるようなものが、無く成りつつあるということに成るわけです。


たとえば、人間には「性欲」と言う「本能」があるわけですけど、そこに「愛情」と言う「言語」が関わると、それが「純粋な本能」と言い切れなくなってきますし、さらに、「異性をゲットすること」を『ステータスとして捉える』というような、「性欲の言語化」に当たることが関係してくると、もはや、それは「純粋な本能ではない」と言わざるを得ないような気がします。


もちろん「愛情」も「ステータス欲求」も本能的なものだとも言えるわけですけど、そこには、かなり本能的ではない部分も関係しているということですね。

まして、そこに「ソントク勘定」のようなものや、その逆に「ソントク抜きの理性的な行い」が入ってくると、それは、「言語化」されていると言ってもいいんじゃないかと思うわけです。


結果的に、現在「純粋な性欲」ってあるんでしょうか?ということなわけです。
つまり、「ソントク勘定」や「ソントク抜き」が一切かかわらない「性欲」ですね。

そういう「性欲」ってごく普通に一般的な知識を持っている人にあり得るんでしょうか?
また、そういう「ムキダシの性欲」をもって生活していて、「性犯罪」などを犯さないでいられるものなんでしょうか?


「法」も一種の「言語」ですから、「法」を守って「犯罪」を犯さないということは、その「行い」は「言語化」されている、つまり、「それは純粋な本能ではない」と言えると思うんですがどうなんでしょう?

他の動物を見れば明らかなことですけど、人間だって、「法律」とか「道徳」と言う「言語」による拘束が全くなければ、異性に対して「性欲」を感じた時、当然、少しくらい強引にでも「性行為」に及ぼうとするでしょうし、それは、動物としてごく自然なことでしょう。


さて、そこで「どちらが人間の本質に近いことなんでしょうね?」ということになるわけです。


「本能」の赴くままに、「強姦魔」になることと、「言語化された理性」に従って、「性欲」も「理性的」に使用することと、どちらの方が、現在形の「人間の本能」に成るんでしょうか?


「性欲」が、間違いなく「本能」だとしても、「強姦」は、間違いなく「本能」だとまでは言えないんじゃないでしょうか?


人間以外の動物においては、それは間違いなく「本能」だと言えると思うわけです。
チガウのは、「強姦」と言う「言語」を持っているかどうかと言う点だけですね。

つまり、人間の場合、その分だけ「本能の領域」が「言語の領域」に食い込まれているわけです。


現在の人間においては、必ずしも、「強姦」=「自然な行い」=「本能的」でもないし、「理性的な性欲」=「不自然な行い」=「本能から遠い」でも無いような気がしますね。

むしろ、「理性」を一切含まない行為が「不自然」に見えることの方が多いんじゃないでしょうか?


要するに、それだけ人間が、「理性」を体得しつつあるということなんだと思います。


ただ、このことがあまり認識されていないために、「本能の領域」と「言語の領域」が融合できないことがとても多いように思うわけです。


既に、人間にとって、「理性」は「楽しむもの」に成りつつあると思いますし、それは「本能的な欲求」をしのいで、十分に余りある段階に達しているような気もするんですが、そのことが、あまり理解されていないために、いろいろなことが、「本能」と「理性」の二者択一であるかのようになってしまっているわけです。


実際には、もう人間はその位置に立っては居なくて、「純粋な本能」でも「純粋な理性」でもない、その二つを融合した「新たな領域」に立って居るんじゃないかと思うわけです。


そんな考え方をしていくと、「理性」=「ガマン」でもないし、「理性」=「本能の抑圧」でもなくて、「本能」=「抑圧からの解放」でも、「本能」=「自然」でもないわけで、その二つの間で、さまようことこそ、現在の人間にとって、「最も開放的な行為」なんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。



『もう「一つのスタイル」では生きていけない?』



人には、それぞれ生きていく「スタイル」みたいなのが、あるんじゃないかと思うわけなんですね。

そして、その「スタイル」が、昔は一つで良かったように思うのですが、今は、一つでは足りなくなってきているんじゃないかと思うわけです。


たとえば、終身雇用制が崩壊しつつある中で(もう完全に崩壊している?)、意に反した転職を余儀なくされている人も多いと思いますし、会社や職業は同じでも、微妙に業務形態が変わってしまたり、また、技術職の人にも「営業努力」が求められるように成ったりと、本人が、もともと選択した「スタイル」の範囲では、カバーしきれないような「生き方」が必要になっているというケースは少なくないんじゃないかと思います。


でも、「生き方」に関する「スタイル」と言うのは、その人の「人生哲学」でもあり、「考え方の中心」になっている部分なんじゃないかと思うわけです。

その「スタイル」を、その時々の状況に応じて、いろいろと使い分けるというのは、その人の中身を、まるごと入れ替えるというのに近いようなことですから、そう簡単にできることでも無いんじゃないかと思うのです。

少なくとも、それができる人とできない人とに分かれてしまうことだけは間違いないことでしょう。


そんな状況の中で、その「スタイルの変換」を、「イイ転機」だと捉えている人も少なくはないと思いますけど、その考え方に、やや無理があるケースも、また少なくないような気がするわけなのです。


本当のことを言えば、やはり、人間の「スタイル」と言うのは、一貫性を持った「一つのスタイル」であるハズなんじゃないのかなと思うわけです。

少なくとも、周りの状況に合わせて、簡単に変えられてしまうようなものでも無いような気がするんですね。


そんな中で、自分の「本来のスタイル」を捨てて、「不慣れなスタイル」で生きていくことを余儀なくされている人も、結構いらっしゃるんじゃないかと思うわけですが、そういう人たちは、「不慣れなスタイル」に転換したところから、少し頭を切り替える必要があるような気がするわけですね。


要するに、「仕事」でも「生活」でも、なんでもそうですが、その「不慣れなスタイル」に慣れようとするよりも、それを、自分の人生の中での「主」に置くことをやめてしまえばいいような気がするんですね。

つまり、「仕事」が「主」だった人でも、「仕事」において、その手の変換を余儀なくされたときには、「仕事」を「主」から外して、「副」にした方がいいんじゃないかと思うわけです。


他のことを「主」に設定するにしろ、しないにしろ、取り敢えず「仕事」を「主」からは外してしまったほうがいいんじゃないかと思うわけですね。

そこで、ほとんどの人が、「主」に設定するようなものが思いつかずに、ナントナクそのまま「仕事」を「主」にとどめてしまうんじゃないかと思うんですがどうなんでしょうか?

そうすると、どうしても「不慣れなスタイル」の中でキュークツな思いをする羽目に成るような気がします。
そうではなくて、変わるものが何もなくてもいいから、取り敢えず、そこを切り替えてしまった方がイイと思うわけですね。


要するに、「仕事」を「どうでもいいモノ」の一つに混ぜてしまうということですね。

これは、「仕事」に限ったことでも無くて、生活形態なんかでも、同じだと思うわけですね。


たとえば、「専業主婦」や「主婦業メイン」の人なんかでも、最近の社会的な状況では、「仕事メイン」にチェンジするケースも増えていると思いますけど、そうなったときには、ちょっと頭を切り替えて、「手抜き主婦」に成ったほうがいいような気がするということですね。


要するに、男性では「仕事」、女性だと「子育て」と「主婦業」と言うのが、なかなか捨てられないモノの典型だと思うわけですね。


それらを、捨てたり、いい加減にしたりすることで、自己のアイデンティティを失ってしまうような気がするんだと思います。


そういう「喪失感」にいたたまれなく成って、不慣れな仕事でも、全力で取り組もうとしたり、仕事もしながら「子育て」や「家事」も完璧にこなそうとするから、どうしても”イライラ”して、そのイライラが周りに伝わってしまうということに成るんじゃないでしょうか?


それだと、頑張った割には、「仕事」や「母親」とか「主婦」と言ったアイデンティティも結果的に、守られないわけで、そんなことなら、いっそのこと、「清水の舞台から飛び降りる気持ち」で、そういう「主」だったことを「副」にしてしまった方が、少し「マシ」なんじゃないかなと思うわけですね。


ここで、「主」と「副」を入れ替えることこそ、「スタイル」を変えることだと思ってしまいがちなんですが、じつは、「主」と「副」を入れ替えることよりも、むしろ、「主」の中で「納得のいかない生き方」を強いられるということの方が、より大きな問題なんじゃないかと思うわけです。


単純に言って「副」だと気が楽なんですね。

それから、そうやっているうちに、自分にとっての「本当の主」に当たるモノが見えてきたりすることもあるんじゃないかなと思ったりもするんですがどうなんでしょうね。


まぁ、いずれにしても、今の世の中「一つのスタイル」だけでは生きていけなくなってきているということは、マイナスばかりでもないんじゃないかと思いますね。

自分自身のことを考えても、そうやって「スタイル」を変化させたり、「主」と「副」を入れ替えたりしているうちに、いろいろなことを学んでいるような気もします。
(かなりいろんなことをやって来てますんで)


まぁ、その割に、さほど進歩しないですけどね。
進歩するのっていうのは、けっこう大変なんだと思います。
でも、変化するだけだと、そんなに大変でもないんじゃないかなと。
(というか、「変化せずにいること」は不可能ですから)

だから、変化することを、なるべく気楽にできるようになれば、少しいいんじゃないのかなと。


そういう風に思うわけですね。





いろんなものが「コマーシャル」に食いつぶされていく



とにかく「コマーシャル」が、現代の「害」になっていると思うわけです。
現在は、「コマーシャル」に全てのものが食いつぶされてしまう時代ですね。

とくに、「文化」についていえば、「コマーシャル」は「百害あって一利なし」と言うしかありませんね。


「テレビ」にしても、「ネット」にしても、現代の「マスコミ文化」は、みんな何らかの「コマーシャル媒体」として利用されていて、その「コマーシャル主(ぬし)」からの影響を免れることが出来なくなってしまっています。

その結果、「文化」はことごとく「コマーシャル」に食いつぶされて行き、「文化」としての活力を奪われてしまうわけです。

それは、結果的には「コマーシャル主」にとっても「トク」とは言えないわけですから、誰も「トク」しないということですね。


とにかく、「文化媒体」と「コマーシャル」を引き離さないとダメなんじゃないの?と思うわけです。


もともと、「文化」は、最も「人間的な分野」ですから、「人間」によって判断されたり選択されたりするハズのモノなわけで、「企業」によって判断されたり選択されたりすれば、当然、本来の姿を失っていくということでしょうね。


マスコミが、「文化媒体」に成っていること自体にも問題はあると思いますが、それ以前に、「文化」と「コマーシャル」が一体化してしまっていることは、「文化の衰退」に直結していますし、また、長期的な意味では、企業の活力をも奪っていくことにつながっていると思うわけです。
(現にそうなっていると思います)


単純に言って、「コマーシャル」と「文化」を引き離すことが出来れば、その時点で、「企業」は「まじめなモノづくり」に力を注ぐしかないわけで、それ以外に、同業者との差を伝える手段と言えるようなものは、そうたくさんはないわけです。

在るとすれば、せいぜい「価格競争」ぐらいでしょうが、「コマーシャル」抜きに「価格競争」を行えば、恐らくその企業は長くは持たないでしょう。


そんな風にして、「コマーシャル」と「文化」が引き離されれば、「文化」にとっても「企業」にとっても、また、「消費者」にとっても、少しイイんじゃないのかなと。


まぁ、そんな風に思うわけなのです。



「自由」は「イイモノ」なのか?



「自由」・「平等」・「平和」、近代社会の三原則ですよね。
でも、最近「自由」って、本当に「イイモノ」なんだろうか?と言う疑問を持っているわけです。


要するに、「自由」がとっても「不自由」に感じることがよくあるんですねぇ。
特に、最近、そういうことが増えたような気がしますね。


いま、自分が生きていて感じる限りで言うと「自由っていいなぁ!」と感じることが意外と少ないわけです。
それどころか、ほとんど無いっていうくらいかもしれないですね。
(「奴隷」と比べてとか、そういう極端な話じゃなくてですよ!)


これは、最初に挙げた「自由」・「平等」・「平和」の問題なんだと思うわけです。

この三つは、たぶんワン・セットなんですね。
三つがワン・セットじゃないと機能しないんじゃないかと思うわけです。


でも、例えば「平等」ですけど、今の世の中が「平等な社会」に成っていると思っている人っているんでしょうか?

もちろん、形の上では、一応「平等」だし、昔に比べれば、かなり格差は小さく成ったわけですが、本物の「平等」ということに成ると、『そんなもん、あるわけないじゃないですか!』と言う人の方が主流じゃないでしょうか?
っていうより、ゼンゼン「平等」なんかじゃないですよね。

まぁ、それが事実だと思います。


ところがですよ。

「平等じゃない社会」で、「自由」が与えられるということは、当然、その「自由」とは、「みんなにとっての自由」ではなくて、「権力者にとっての自由」なわけです。

いくら、「自由」があっても、それを都合よく使えるのが権力を持っている者だけだとすれば、それは、本当の意味で「自由なこと」だとは言えないわけですよね。
つまり、「自由」によって、「権力」が増幅されてしまうような仕組みになっているんですね。


こんな事を言うと、『それは被害妄想だろう』と言われるような気がしますけど、そんなことは、無いと思いますね。


たとえば、「報道の自由」と言うのがありますけど、実際に、「国家権力」は「マスコミ」や「報道」をコントロールすることも可能ですし、「国家権力」以上に強いのが、「経済のチカラ」です。

現在の社会で、「マスコミ」だろうが、「報道機関」だろうが、いや、それどころか「国家」ですら、
如何なるものも、「スポンサー」に逆らえるものは存在しません。

つまり、「スポンサー」の「資本力の大きさ」で「報道の影響力」」が決まってしまうわけですから、けっきょく、その「報道の自由」とは、「大資本のための自由」であって、一般人など「資本を持たない者のための自由」ではないということです。

と言うよりも、「自由の名」の下に、「一般人の自由」が踏みにじられることが、公認されてしまうわけですね。


その上、更に、たちが悪いことに、「一般人たち」は、その「自由」が自分たちを守ってくれるものだと信じ込まされていますから、じつは、自分たちを踏み潰すだけで、肝心な時には、あまり自分たちを守ってくれない「自由」を、必死になって、それはもう、命がけと言ってもいいくらいに懸命に守ろうとするわけです。

そして、「自由」を死守したことに満足してしまって、その「自由」が自分たちを縛り付けていることを、見過ごしてしまうわけです。

「権力」や「権力者」に問題があると思ってしまうんですね。
確かにそうではあるんですけどね。
でも、「自由」が、それを公認してしまっているわけです。


だから、「本物の平等」が確保されていない状況では、「自由」は、ほとんど機能しないと思っていたほうがいいんじゃないかと思うわけです。


今の世の中では、「本物の平等」を確保することこそが、最も大切なことで、その為には、「人権」が確立されなければならないわけです。

これは、「格差」を「ゼロ」にするということではなく(それは不可能でしょうし、そこまで厳密な「平等」に大きな価値があるとも思いません)、一人の人間の力で、ある程度の余裕をもって乗り越えられる範囲の「格差」に収めるということです。


それまでの間は、「自由」なんてほとんど役にも立ちませんから、あまり、懸命に成ってまで守らなくてもいいんじゃないのかなと。
と言うより、「権力者にとっての自由」を「権力者」が手放すはずないんで、ある程度、放っといても意外と「自由」は無く成らないと思いますね。

「自由」よりも「平等」を守る方に力を使った方がイイように思いますね。
「自由」は、まぁ、「スベリドメ」ぐらいのもんですか?


つまり、『あると、ヒジョーニ助かる』ではなくて、『無いと、もっとヒドイコトに成る』っていうぐらいですね。
要するに、「百姓は生かさず殺さず」みたいな感じですか?


そうは言っても、昔の方が「格差」や「身分の差」が大きかったのは事実なんでしょうが、「現在の自由な社会」で「自殺」や「イジメ」、「ヒキコモリ」、「鬱病」等々が、これだけたくさんあるということを考えると、果たして、どれほどよく成ったのか?と言う疑問があるのも事実ですよね。

要するに、「自由な社会」が実現したことで、手に入ったものはと言えば、こんな風に「自由について考えたり言ったりすることの自由」ぐらいということでしょうね。


そんな風に”自由に”思いますね。

『いや、”不自由に”か?』




「歳をとる」の種類



このブログでは、『歳をとることが、もっと尊敬されてもイイんじゃないか』と言っているんですが、それは、『歳をとった人はみんなエライ』ということでも無いわけです。


実際、歳をとっていても、『なんなんだ、こいつは!』っていう方はたくさんいらっしゃいますよね。

そういう個々の人の話ではなくて、「歳をとること全般」の話として、『歳をとることは、もっと尊敬されてもイイんじゃないか』と言っているわけです。


少なくとも、誰でもみんな「歳をとる」わけですから、「歳をとること」が尊敬されないということは、『全ての人が死ぬ時には尊敬されない状態で死んでいく』ということに成るわけです。

まして、その「尊敬していなかった側の人たち」が、その後、年を取って行くわけですから、『全ての人が自分を否定した状態で死んでいくハメに成る』ということですね。


これは、ちょっとどうなんですか?
これを受け入れられる人っているんですかねぇ。

私には到底シンジラレナイわけです。
だから、「歳をとること」を劣化とみるような風潮があることは、とても愚かなこととしか思えないわけなんですよね。


そうは言っても、「尊敬できない年寄り」が居ることも、また否定はできないわけです。
それは、恐らく「歳をとるの種類」が、いろいろあるからなんだと思うわけです。


そもそも、「歳をとる」と言っていますけど、『ただ単に時間が経過すれば歳をとるのか?』って言う問題があるわけです。


まず、子供の場合だと、ほとんど「白紙」の状態から、いろんなことを吸収していきますから、日々色々と進歩しているわけですよね。
だから、ほとんどすべての子供は、時間とともに「歳をとって」大人に成るということですね。

でも、一旦大人に成ると、ほとんどの人が、必要最低限のことしか吸収しなくなって、必ずしも、「日々色々と進歩」するとは限らなく成るわけです。
だから、人によって「歳をとる」にチガイが出て来るんでしょうね。


その「チガイ」の部分が「歳をとるの種類」なんだと思います。


大人に成ってからは、精神的にまったく変化しなくなってしまう人もいますよね。
そういう人が、多いので、「歳をとること」の中の「肉体的な変化(老化)」だけが目についてしまって、「老化」=「劣化」ということに成ってしまうんだと思います。


でも、その反面、子供と同じぐらいに、いつも変化し続ける人もいます。
こちらも「肉体的な変化」に置いて、衰えていることに変わりはないんでしょうが、むしろ、全体としては成長しているように見えることが多いですね。

長い年月の中での、こういうチガイはとても大きいんじゃないかと思うわけですね。


ただ、必ずしも、「たくさん変化し続けた人がエライ」ということでも無いんじゃないかと思います。
ただ単に、「一切変化しない」と言うような、凝り固まった状態に成ってさえいなければ、そこでの時間の経過は「歳をとること」に成るんだと思っています。

そういう種類の「歳をとること」を、私は”エライ”と思ってしまうわけなのです。


そして、そういう「歳をとること」が社会の中で尊敬されるように成って行けば、今よりも、少しいいんじゃないのかなと。


そういう風に思っているわけですね。


 ※こういう形で「年を取った人」というのは、けっこうたくさんいるんだと思います。
  必ずしも、知識階級の人とは限らないと思います。
  例えば、生涯を通じて農業をやってきた人でも、日々工夫や研究を重ねている
  人もいますし、買ってきた種や肥料をまいているだけの人もいると思います。
  それとは逆に、研究者や学者であっても、誰かの学説を信奉して、それを踏襲し
  続けることで、学術的に高く評価されるようになる人もいるでしょうし、独自性の
  高い研究をした人でも評価せれない人もたくさんいるでしょう。

  つまり、私は、「ただ、種をまいたこと」や「ひたすら踏襲し続けたこと」を、「変化し
  た」とも「年を取った」とも言わないと思うわけですね。




「多数決」の歴史



「多数決」って当たり前のように成っていますけど、いったいいつからあるんでしょうね?
もしかしたら、原始時代からあったりするんでしょうか?


それは、ともかくとして、この「多数決」っていうものが、どうも最近アヤシイ感じがしているわけなんですね。

要するに、「多数決」って、本当にみんなの意見が汲まれているの?って言うことなんですね。


「多数決」がいつからあったのかは知りませんが、それが、社会や政治の中心的な位置に導入されるようになったのは、「民主主義」が成立してからだと思うわけです。

つまり、「民衆の政治」とともに「多数決」=「最良の手段」と言う公式が出来て来たんだと思います。

まぁ、「みんなの意見」を反映させていけば、「民衆にとって最良の社会」が実現するに違いないということなんでしょうね。
確かに一番普通に考えれば、そうなるんだと思います。


でも、そのごく当たり前の公式が、どうもうまく成り立っていないような気がするわけです。


これは、他の記事でも書いたことがあるんですけど、現在、「多数決」がまともに機能しているとは、全く思えないような状況になってしまっていますね。


それから、これも、他の記事に書いたことがあることですけど、人間は個人としては、おおむね理に適ったことをするのに、集団化すると、おおむね理に適っていないようなことをするという性質があると思うのです。

と言うよりも、集団化した人間と言うのは、一人一人の「人間の意思」ではなくて、「組織の意思」で動かされているんだと思うわけです。

当然「組織の意思」は「人間の意思」を無視することが出てきますし、人間は組織から排除されたくなければ、「組織の意思」に従わなければならなくなります。

それで、「多数決」が機能しなくなっているんだと思いますね。


おそらく、これはもう結論に到達しているようなことなんじゃないでしょうか?
つまり、「多数決」は「最良の手段」ではないということですね。

それどころか、『「多数決」が「民衆の意見」を十分に反映させることは、ほとんど無い!』と言うのが事実なんじゃないかと思います。


本当の意味で、「多数決」に反映されているのは、「民衆の意見」ではなくて、「社会の意見」です。


つまり、社会が「効率化」を目指していれば、人間がそれを嫌がっていても、そちらに向かいますし、社会が、「競争」を目指していれば、人間がそこから離れたくても離れられなくなります。


一人一人の人間は、確かに、それぞれ「自分の意思」で行動しています。
しかし、その「自分の意思」の中に、すでに「社会の意思」が刷り込まれているわけです。

社会に限らず「人間の集団」には必ず「規範」があって、それに従わないと、その「集団」から排除されます。

それで、その規範が刷り込まれてしまうわけです。

そして、その後の「人間の意思」は、もう「集団の意思」にすり替えられてしまうわけです。


そして、その「集団の意思」が「人間の意思」を無視することがとても多いわけです。
しかも、それは「自分の意思」でもありますから、誰にも文句が言えないというわけです。


結果的に「政治」と言うモノは、ほとんどの場合「デタラメなことをする」ように成っているわけですが、それを「民衆が決定させられている」ので、文句が言えないようにできているわけです。


とりもなおさず、もうそろそろ、「多数決」を捨てる時が来ているような気がするんですねぇ。


「多数決」が、いつからあるのかわかりませんが、「多数決の歴史」を終わらせないと「民衆の政治」は実現しないと思いますね。

「多数決」で、出来るのは「社会の政治」ですね。
「これが、ホントの社会主義なんじゃないの?」っていう気もしますね。


「多数決」を排除するには、「無作為抽出の代議員制度」が一番いいように思いますね。


要するに、どんな「コンコンチキ」が代議員に成るかも知れないということですね。
そんな人がどのくらい居るのか知りませんけど、そんなには居ないと思うんですね。


少なくとも、今の「選ばれた代議員」の方たちほど多くなければいいわけですから、『GO でしょ!』


そんな風に思っているわけです。



「発展」とは、「そっちにしか行けない方に行くこと」なんじゃないか?



「進歩」とか「発展」と言うと、そちらに向かった方がイイだろうという方向に向かって行くことなんだと思うわけですけど、そういうのが、そう思いどおりに行くとも限らないわけで、実際には、「進歩」だと思っっていたことが「後退」であることも多いし、「発展」だと思ってやったことが、どこでどう間違ったのか「荒廃」につながってしまうなんて言うことも、まぁ、よくあるわけですね。


で、なにが言いたいのかと言うと、「発展」なんて言っていますけど、「イイ方向に進む」なんてことは、人間が計算してもできることではなくて、「発展」っていうのは、本当は、「そっちにしか行く方向がないと言うときに、その方向に向かって行くこと」なんじゃないかと思うわけです。


つまり、イイもワルイもなく「そっちにしか行けない」ということですね。
実際には、そういうのを「発展」と言っているんじゃないかと思うわけです。


そう考えると、確かに、「科学や技術」が「進歩」するたびに、いちいち、『これが本当に”イイモノ”なのか?』と問いただされて、『うん、間違いない”イイ”だろ!』ということに成ってから、それが選択されていくことなどほとんどなくて、いつも「見切り発車」的に試されて、『あまりにヒドイ時だけはやめる』と言うのが普通です。

『よく考えてみたら、そうでもなかった』と言うときでも、その「科学や技術」は「いちおうは発展」ということで生き残って行くわけです。


でも、「原発」のことなんかも、よく議論の対象に成りますけど、いくら「賛否両論」があっても、けっきょく「そっちにしか行けない」んだとすれば、必ずそっちに行きますよね。


まぁ、「原発」で言えば、人間は「肯定」にしか行けないと思いますね。
「イイ・ワルイ」とは別にですね。

そして、やってみた後で、『あまりにヒドイ時だけはやめる』ということに成るわけです。


これが、現時点での、「人間の限界」なんだと思いますね。


「遺伝子操作」なんかでも、やっぱり、『一度はやってみないと気が済まない』と言うところだと思います。

そして、『あまりにヒドイ時だけはやめる』ですね、たぶん。
そうでも無ければ、「いちおう発展」ですね。


『そんなんじゃまずいだろ!』っていう気もしますが、『そんなんでいいんじゃないの?』っていうような気もします。


とにかく、人間は「新しい方向」を提示されると、必ずそっちの方に向かって行きますね。
でも、これは、必ずしも人間に限ったことでも無いかもしれませんね。
どんなものでも、だいたい「新しい方向」に向かいます。

ただ、人間がチョット他の動物よりも”目ざとい”ということなんじゃないかと思います。


それで、いろんな「新しい方向」を見つけ出してしまうんですね。
だから、けっこう「発展しちゃった」わけですよね。

それは、それで悪いことではないでしょうし、どちらかと言えば、イイことなんだと思います。

まぁ、それ以前に『イイもワルイもなく決まっている』って話ですけどね。


ただ、「イイもワルイもなく決まっていること」だからと言って、何もしないでもいいということでも無くて、そこで「あーでもない、こーでもない」と考えるのが、「いま人間に出来る唯一のこと」なんじゃないのかなと。


そして、その中から、また「少しマシな発展」が生まれたりもするのかなと。

そんな風に思っているわけですね。 


『だから、なに!?』 

『あら、ただそれだけなのよ、ダメかしら?』

『ダメです!』

『・・・・・・・・・』




「心の省資源化」:「精神的エコロジー」こそ大事なのでは?



「省資源化」とか「エコロジー」と言うと、「物質的な資源」の「無駄」を減らそうということだと思うんですけど、実際に、今一番「無駄」にされているのは「人間の精神」ではないかと思うわけです。


そして、「精神」こそ、最も「無駄にしてはいけないモノ」なんじゃないかと思いますし、「精神を無駄遣いすること」は「物質的な資源」を「無駄にすること」以上に、人間にとってもマイナスなんじゃないかなとも思うわけなのです。


「地球上の資源」が限られていることは確かなことですし、それが現在のペースでいけば、近い将来尽きてしまうこともはっきりしているわけですから、それを『大切にしましょう!』ということに問題はないんでしょうが、「心の省資源化」は、それを遥かにしのぐほど大事なんじゃないかと思いますね。

それに、「人間の心」が無駄遣いさていると、結果的には「その人間」が必ず「物質的資源の無駄遣い」をするようになるという気もします。

そして、「人間の精神」も、やっぱり、あんまり「無駄」にしていると尽きてしまうんじゃないのかなと。
そんな風に思ってしまうわけですね。


なんとなく、今の風潮として「物質優先」と言うか、もっと端的に言ってしまえば、「おカネ優先」という空気があることは間違いないことだと思います。


たとえば、『「仕事」とは「おカネ」のために「イヤなこと」をすることだ』と思っている人と、『「仕事」とは「ヤリタイこと」をして「おカネ」を貰える場合もある、そういうものだ』と思っている人、どっちが主流か?と言えば、まぁ、間違いなく前者なんでしょう。

つまり、それだけ「おカネ」が優先されているということでしょうし、「おカネ」のために「心」を犠牲にすることは当然のことだと思われているということでしょう。


これは、実際には「仕事が好きな人」でも、ほぼ同じことが言えていて、いくら「仕事が好きな人」でも「おカネ」を貰わなくても「その仕事」を『もちろん、やりますよ!』という人はかなり少ないでしょうから、やっぱり、「おカネ、込み」での「好き」なんでしょうね。


さらに言えば、こういうことには十分気が付いていて、尚且つ、そういう状態は良くないと思っている人でも、必ずしも、そういう人が「心の省資源化」を目指しているとは言えないような気がします。

要するに、「心」は「モノ」ではないので、『如何に無駄にされているか?』や『如何にすれば無駄をなくせるのか?』ということが、見えにくいということなんだと思います。

でも、そう考えれば「人間の心」が、かなり無駄にされてしまっているのも当然ですね。
まぁ、目に見える形がありませんから、見過ごされていることが多いように思います。


また、「人間の道徳感」の中に、そういう「心の無駄遣い」を「忍耐」とか「辛抱」などとダブらせてしまう性質があるために、「心を有効に活用しているケース」と「単なる心の無駄遣い」の違いが、一層見えにくくなっているということもあると思いますね。


現代社会で、最も「心の無駄遣い」の原因になっているのは「競争社会」でしょうね。


「競争心」はもともとそんなに悪いモノでもなかったんでしょうし、むしろ、「人間の本質」に近いものだと思いますけど、現在の「競争社会」においては、子供のころから「教育」やマスコミの「情報」を通じて、「競争」と言う「キーワード」が徹底的に刷り込まれてしまいますから、それはもう「催眠術」のようなもので、その「キーワード」が提示されると「パブロフの犬」のように、「条件反射的」に「意味のない競争」へ向かわされてしまうようになっているわけです。

「意味のある競争」は「人間の本質」に近いものなんでしょうが、「意味のない競争」は「心の無駄遣い」にしかなりません。

そして、現代社会は、この「意味のない競争」であふれています。


なぜなら、「意味のない競争」は誰でも簡単にできますが、「意味のある競争」は「労力」を必要としますから、努力しなければならないわけです。
だから、より安易な「意味のない競争」であふれかえっているんだと思います。


今の時代においては、「意味のある競争」ですら、「絶対に必要なモノ」ということでもなくなってきているような気がしますが、まして、「意味のない競争」なんて、無い方がイイに決まています。

しかも、「意味のない競争」だとわかっていても、あまりに「意味のない競争」が多く、主流を占めてしまっているために、「その競争」から離れることは、「ドロップアウト」することを意味するようになっているわけで、それで、なかなか離れられないような構造になっているわけです。


だから、ドンドン「人間の精神」が「無駄遣い」されてしまうわけです。


また、これも「競争社会」と似たようなものですが、「効率主義」も「人間の精神」を「無駄遣い」する原因になっていると思いますね。


現代社会においては、常に「効率を上げること」が目標とされていますから、その為に「人間の精神」が「無駄遣い」されることになってしまいます。

これも「効率化」が悪いわけではなく、現代社会においては「効率化」は、機械や社会機構などの「システム」によって、行われるものに成っていて、それは「個々の人間」の役目ではなくなっているわけです。

それなのに、社会が「人間」にも「効率化」を求めるような仕組みになってしまっているために、そこでも「人間の精神」が「無駄遣い」されてしまうわけです。


たとえば、昔なら、人が手で作っていたものを、今は機械で作っていますから、誰が作っても、手作業の数十倍~数百倍の効率で作ったり出来てしまうわけです。

そこでの「人間の効率化」なんて「鼻くそ」みたいなもんです。
それなのに、その「鼻くそ」のために「人間の精神」が「無駄遣い」されています。


本来ならば、「今、人間がやること」は、「効率」とは正反対のことなんじゃないかと思うわけです。


「人間」は、やりたいことを好き勝手にやらせると、かなりのことをやったりするもんだと思うわけですね。
そこで、「効率」が悪くなるなんてことは気にしなくていいような気がします。
もともと、「人間」っていうのはそうやって発展してきた生き物なんだと思うわけです。

それなのに、自分たちが作り出した、「機械」や「社会」に支配されて、一番肝心な「人間の心」を「無駄遣い」しているなんて、どう考えても納得いかないですねぇ。


こんなペースで「心の無駄遣い」をしていたら、「地球資源」よりも先に「人間の精神的資源」の方がスッカラカンに成っちゃうかもよ!

『いや、なんか、もう、そう成って来てるような気もする?』

と、言う風に思います。



「サブリミナルの時代」



広告宣伝などの分野でよく使われる言葉で「サブリミナル効果」と言うのがありますが、広告宣伝に限ったことではなく、あらゆる意味で、現代は「サブリミナルの時代」なんじゃないかと思うのです。


「サブリミナル」は「潜在意識に働きかける」と言うような意味らしいですけど、要するに、人が意識していないところに情報を刷り込んでしまおうというような、そういう、やや不誠実な手法と言うことなんだと思います。


狭義の意味で言うところの「サブリミナル手法」がどれほど有効であるのかは、どうやら、いまひとつ定かではないらしいですけど、少なくとも、「マスコミ」を通じて流されている情報が、誰かの意図による場合でも、そうでない場合でも、かなりの「サブリミナル的な効果」を生み出してしまっていることは、ほぼ間違いないことだと思います。

現代社会と言うのは、「マスコミ」の影響に限らず、「教育」にしても「政治・経済」にしても、あらゆる意味で、いろいろなものが「大規模化」していて、「数の力」による「集団的な意識」が、ありとあらゆることに強く働きかけているわけです。

つまり、そういう「集団的な意識」と言うのが、非常に「潜在化」しやすいんだと思います。


例えば「テレビ・コマーシャル」で、有名なタレントがある商品を持ってニッコリ笑っているだけで、『この商品はいい商品に違いない』ということが「潜在意識」に刷り込まれてしまうわけですね。

ここで言う、「有名なタレント」の「有名な」=「みんなが知っている」の部分が、「数の力」=「集団的」と言うことなんだと思います。


ほとんどの人が、「コマーシャル」で誰が宣伝していようが、その商品の内容とは直接関係がないということはわかっていても、それは、「表面的な意識」においてであって、それが「潜在的な意識」になると、『有名な人が勧めているんだから、きっとイイに違いない』に成ってしまうわけです。
(実際には、とくに勧めてすらいないことも多いのにね)


それから、「教育」において、たとえば「国語」の授業で、「夏目漱石」が教科書に載っているのを見ていると、「夏目漱石」の書いた本が好きな人でも嫌いな人でも、それどころか一冊も読んだことがない人でも、「夏目漱石」はいい作家であるということには、ほぼ逆らえなくなってしまうというわけです。


こういったことが、「美術」の授業でも「音楽」の授業でも起きているわけですね。


これらの例は、「意識の潜在化」がまだ見えやすいですが、とくに直接的な「利益」とか「目的」と言ったものが無いようなケースだと、どこが「サブリミナル的」に働いたところで、それが、どんな「効果」を生み出したのかは、もう、ほとんど見えなくなってしまうことが多いので、より一層深く「潜在化」していくわけです。


現代は「情報の時代」ですから、こういう「集団的な情報」が非常にたくさんあるわけです。
というよりも、現在「情報」として通用しているのは、こういう「集団的な情報」だけだと言ってもいいかもしれません。

早い話が、どんなに理に適ったことでも「一人の人が言ったこと」だと、「情報」としてはほとんど意味を持たないし、それとは逆に、かなりオカシナことでも「集団的な情報」であれば、ほぼ間違いなく通用してしまいます。


『いやいや、権威のある一人の人が言ったことなら、「情報」として成り立っているだろう』ということはあるわけですが、それは「権威のある」=「みんなが認める」なわけですから、一人でもすでに「集団的な情報」に成っているわけです。


そして、その「集団的な情報」が「サブリミナル効果」を生み出してしまうわけですね。


例えば、人気のある芸能人が着ている服はたいてい流行りますし、「芸能人おススメの本」もベストセラーに成ることが多いです。
内容とは、ほとんど関係ありません。

つまり、「コマーシャル」じゃないのに「コマーシャル」に成ってしまうわけですね。
(こういうのを「一種のコマーシャル」としてやっている場合もあるんでしょうけどね)


そう考えると、現代社会自体が「巨大な広告媒体」であるとも言えるわけで、現在の社会の中で起きていることと言うのは、すべて「広告・宣伝」であるともいえるし、そういう「広告・宣伝」によって「潜在化された方向性」に従わされた結果であるとも言えるわけです。

しかも、その「方向性」は「個人の意思」ではなく、「無意識」の状態で「刷り込まれて「潜在化した意識」ですから、ほとんど「個人の意識」を反映していないわけで、「有名人がナンの気なしに言ったこと」や、「大した意味もなくテレビに流された映像」なんかが、「社会の方向」を左右していたりするということです。

ただ、それが見えにくいために、『そこまでじゃないだろう?』と思われているということでしょうね。


この「サブリミナルの時代」で何が悪いのかと言えば、このところ、明らかに「個人の意思」が無力化して来ていて、ほとんど「自分の意思を持っていない」と言うような人が増えていることです。


実際、二十数年ほど前に「ケイタイ」や「インター・ネット」が普及しだしたころには、「ケイタイ」や「ネット」に必要性を感じない人もそれなりにいたようですし、ほとんどの人が「ケイタイ」や「ネット」を利用するようになるまでには、それなりの時間がかかったような記憶がありますが、この数年間で普及した「スマートフォン」などのタブレット端末の時点では、『スマホなんてゼンゼンいらなーい、必要ないし』と言っていた人が、翌週には『やっぱり、ラインやりたいからぁ』と言って、すでに慣れた手つきでスマホをいじっているというようなことが、確かにあったような気がします。

どう考えても、「自分の意思」でやっていることとは思えません。


『スマホぐらい持っていないと、時代に置いて行かれるよ!』という「集団的な情報」が、どこかで刷り込まれているんだと思います。


「スマホ」ならまだいいんでしょうけど、こういう「個人の意思の無力化」はあらゆることに反映していて、かなり重要なことでも「自分の意思」で決めていないという人が急激に増えているような気もします。


『誰だかよく知りもしないような人が、ナンの気なしに言ったことなんかで、そんな重要なこと決めちゃっていいんですか?』と、まぁ、そんな風な気がしてしまうわけですね。


『いや、別に自分が「ケイタイ」とか「スマホ」とか持ってないから言ってるわけじゃないですよ』
『あー、ビンボーだから買えないんだぁ、というのもぜんぜん見当違いです!』
『それとは関係ない話としてなら、まぁ、ビンボーではあります』



『オーホッホッホッ!ビンボーが何だっていうの!?』

『あたくし、そんなことはカエルのションベンほども気にしていなくてヨーホッホ!オスカル!!』

「えっ?オスカル??・・・・・・・カエル?」

『・・・・・・・・・・』

「・・・・・・・・・・アンタはだれ?」

みたいな。


「ことば依存」



現代社会にはいろいろな「依存」があると思いますけど、「ことば」にも「依存性」がある場合があるんじゃないかと思うわけです。


このブログの中ではたびたび、「天才」という「ことば」には「依存性」があるんじゃないかと言っているんですが、この「天才」などは「現在最も依存性の高いことば」の一つだと思います。
これは「才能」、という言葉にも、ほぼ同じようなことが言えると思います。


要するに現代人にとって「天才」や「才能」は「逆らえないモノ」になってしまっているわけですね。

たとえ、少し無理してさからったとしても、『あぁ、自分に才能がないからヒガンデるんだ』と言われるのがオチでしょうし、『「才能」よりも「努力」の方が好きですねぇ』なんて言っても、『あぁ、そうですか』と言われてオシマイです。

当然「逆らうこと」がバカらしくなってきますよね。


まぁ、そんな感じで「逆らえないモノ」になってしまっているわけでしょうね。


それから、こういう「ことば依存」のもう一つの特徴は、「抜け出せない」&「やめられない」と言うことです。


たとえば、「仕事ができる」なんて言う「ことば」も、「依存性があることば」の一つだと思います。

今の時代、人間的にとても勤勉で誠実な人でも、『でも、あの人、仕事できないよねぇ』の一言で、吹き飛ばされてしまいます。
コッパミジンです。

反面、「やや人格に難あり」な人でも、『でも、あの人、仕事は出来るから』の一言で「中の上」くらいまではいけます。
「すごく出来る」だと、それだけで、『出来る人っていうのは、えてしてそういう性格なんだよ』ということに成ってしまいます。


でも、そこで『いや、人間性も大事なんじゃないか?』と気づいた人が、即座に、『仕事なんかできなくてもいいじゃないか』とはならずに、『まぁ、出来ないよりは、やっぱり出来た方がイイでしょう』と言うところから”抜け出せない”ということですね。


それで、「依存」し続けることに成るわけです。


内容なんか、ほとんど関係ありません。

つまり、実際に「仕事ができる必要」も「本物の天才である必要」もなくて、「そう言われていること」だけでも通用する場合が多いです。

だから「ことば依存」なんですね。


要するに、「出来ること自体」よりも「できるという言葉」に「依存」しているんですね。
だから、本当に「出来ようが、出来まいが」関係ないということになるわけです。

「天才」と言われてしまうと、もうそれだけで逆らえなくなってしまっていて、『「その天才」は百年後にも「天才」と言われるだろうか?』ということを考えることが、ほとんどなくなっているということです。
(それ以前に、『今もまだ「天才」は居るのか?』ということもあるわけですけどね)


そして、更に言うと、現在、この「ことば依存」がかなり拡大してきているんじゃないかと思うわけです。


昔から「神」や「仏」は「依存性」のある「ことば」だったと思いますけど、これは、「神」や「仏」の性質上、当然と言えば当然だと思いますし、そういう、「順当な依存性」のある「ことば」は昔からそれなりにあったんだと思うわけです。


でも、現在は「順当じゃない依存性」を持った「ことば」が増えてきているような気がします。


たとえば、「若い」という「ことば」もその一つじゃないかと思います。

ちょっと昔までは、「若い」=「いい」ではなかったと思いますけど、現在は、とにかく、ほとんどの人が「若い」と言われたがっているように見えますし、「若い」=「未熟」と考えている人はかなり少なくなって来ていると思います。

実際には、「若い」=「未熟」と言う傾向があるのは誰でも知っているハズなのにです。
(というか、当たり前過ぎますよね)

それから、「スリム」なんて言うのも「ことば依存」の一つだと思いますね。
「痩せている」と言うことが「均整がとれた体型」とは無関係に信望されているように思いますね。
こういうことから、「拒食症」のような摂食障害などが、起きているんでしょう。


こういった「ことば」には、「順当じゃない依存性」が含まれていると思うわけです。


こういう「ことば」が日に日に増えていくような気がするんですが、そういう「ことば依存」を拡大し続けていくと、相当生きづらい世の中に成るような気がするんですが、どうなんでしょう?


これからは、「薬物」や「アルコール」、「タバコ」などと同じように、「依存性のあることば」があるということぐらいは、考えておいた方がいいんじゃないのかなと。


逆に言うと、現在は、それらの「依存性のある言葉」が、その人の年齢も、精神状態なども一切考慮されずに、飲み放題な状態ということです。

だからと言って、「ことば」を法的に規制することは難しいでしょうが、「要注意なことば」については、注意を喚起するくらいのことはしてもいいんじゃないかなと。

そういうことを考えてみました。





人間が卒業するべきもの



このブログの中では、度々『人間は、もう「宗教」から卒業した方がイイんじゃないか?』と言っているんですが、これは、必ずしも「宗教」だけに限ったことでも無くて、他にも「そろそろ人間が卒業した方がいいモノ」があると思っているわけです。


実を言えば、そういうのがけっこうたくさんあって、「差別」や「権力」なんかもそういうものだと思いますが、こういったものは、人間の精神の根源的な部分に刻み込まれているようなところがありますから、かなりシブトイだろうなと思います。


でも、もう少し、早く辞めた方がイイなと思うのが「政治」・「経済」・「法律」の三つなんですね。


この三つから卒業できれば、人間はかなり先まで生き延びられるような気がします。

逆に、それができなければ、おそらく、人間はあっという間に「地球資源」を使い果たしてしまうでしょう。
そして、それまでに、やっきになって宇宙への移住を具体化させようとするでしょうし、きっと、なんとしてでもそれをやってのけるでしょう。


でも、たぶん、そこで人類は死滅するに違いありません。
「宇宙」には適応できないと思いますね。


現在の「政治」・「経済」・「法律」を維持していけば、「競争」や「時代の高速化」は避けられませんし、それらを前提にしたことしか考えられないでしょう。

結果的に「地球」は使い果たされてしまうでしょうね。
先が見えてきたところで、なんとか「スロー・ダウン」したとしても、おそらく、人間は満足しないでしょうから、きっと「宇宙」へ出ていくことに成ると思います。

そこで「The End」だと思います。


「政治」・「経済」・「法律」の三つから離れた発想がないと、「地球資源」を長持ちさせることは出来ないと思うんですね。


そうやって、ツナイデいるうちに、きっと何かいいことを考え付くんじゃないですか?
まぁ、自分が生きている間のことでも無いので、無責任な言い方に成りますけど、それしかないような気がしますね。


どっちにしても、トンデモナク先の話でしょうから、こんな言い方もないんですけど、

『宇宙で死にたくないよなぁ~』

『頼むから地球で死なせてくれ!カネならある』

『・・・・スイマセン「カネならある」は嘘です』

という感じのことを、いま、自分のDNAに刻み込んでいるところです。

『カネならある』の部分は削除しました。


これで、たぶん大丈夫かな?

まぁ、そんなわけないですよね。




「多数決」と言う「催眠術」



このブログでも何度か書いたんですけど、現在「多数決」というシステムはまったく機能していないと思うわけです。


とにかく、国会議員の選挙から家族会議に至るまで、「多数決」というシステムがうまく機能していることがほとんどないと言ってもいいくらいに、全く役に立っていないというのが実体じゃないでしょうか?

そして、更に言うと「多数決」が最もおかしな方向に迷走した場合、「多数決」は人間に対して「催眠術」のような作用を持ってしまうのではないかと思うわけです。


要するに、自分たちで決めているので、どんなに納得のいかない結果が出てきても、従うしかないということに成ってしまうわけなのです。

そして、そのようなことが繰り返されていくうちに、『多数決には従わなければいけない』という定型文が、呪文のような作用を持つようになって、『みんなで決めたことですから』と言われてしまうと、どんな人も逆らえなくなって、最終的には、『誰一人望んでもいないことを全員一丸となってやり続ける』という、まさに、戦前の日本が陥っていった落とし穴に、世界中がハマってしまっているというように思うわけです。


戦前の日本とは全く正反対の「多数決・民主主義」をやっているハズなのにです。


なぜ、自分たちで決めたことなのに「そんなこと」になってしまうのかと言えば、『多数決が機能していないから』
いや、『多数決が催眠術のように機能してしまっているから』としか言いようがないわけです。


これを、最も単純化して言うならば、『多数決が大規模な社会には向いていない』ということなんじゃないかと思います。


現代社会のような「大規模な社会」においては、全員がお互いのことを知り合うことも、全員が納得いくまで意見を交換することも不可能です。
そこで、どうしても代表者を介して意見が交わされるという形をとるようになるわけです。


そういうことが次から次へと伝言ゲームのように成って、結果的には「トンデモナイ結論」が導き出されてしまうわけです。


例えばの話、マスゾエさんが「あんな人」だということを、一千万人を超える都民全員が、都知事選の前に知ることは不可能ですし、彼に投票した人は、『テレビで見てなんとなく頭のよさそうな人だったから』とか、『親の介護とかやってて苦労した人らしい?』という程度のことで投票しているにすぎないわけです。
(その話自体も怪しいらしいですけどね)

・・・・・いい結果が出るワケがありません。


でも、それが現在の「多数決・民主主義」の実体でもあります。

国家元首でさえ、元をたどれば、全てこのようなテキトーなシステムの下に選ばれているわけで、言ってみれば、バイトの採用面接で、イイカゲンに書かれた履歴書一枚で、『まっ、いいんじゃね?採用で』というぐらいの適当さが、国の最高機関にまで及んでいるということですね。


実際には、このようなことは「大規模な社会」だけのことでも無くて、家族会議などの「小規模な社会」においても、『全員が納得いくまで意見を交換する』という前提が成り立っていなければ同じことで、けっきょく『まっ、いいんじゃね?』の部分はまったく変わらないわけです。

そして、現代人は「大規模な社会」の中で、『まっ、いいんじゃね?』というスタイルに慣れきってしまっていますから、『全員が納得いくまで意見を交換する』ということをメンドクサイと感じるようになっていて、それで、「小規模な社会」でも「多数決」は機能しなくなっているわけです。


実際、テレビや新聞と言ったマスコミが提供できる情報は、「自己申告の履歴書」とそう大差はないわけで、一般市民はいつもその「テキトーに書かれた履歴書」をもとに多数決に参加させられているわけです。


そして、「多数決」が決した後は、『みんなで決めたことですから』という呪文によって、催眠状態になってしまうために、「スキャンダル」や「よほどひどい失態」という「催眠術を解くための合図」が出されるまで、それを『全員一丸となってやり続ける』ことに成るわけです。


「多数決」に頼っている限り、この状態は絶対に抜けられないと思いますね。

とにかく、「形だけの全員参加」をやめる必要があるでしょう。
大規模な社会において、頑なに「全員参加」を守ろうとすると、必ず「伝言ゲーム」が始まります。

人数を絞って、「少人数の中での多数決」を、徹底した意見交換の中から導き出すようなシステムを創り出す必要があると思うわけです。

当然、このやり方でも「おかしな結論」は多々出て来るでしょうが、数をこなしていくうちに、徐々に修正されていくと思いますね。

 ※これは、長年「陪審員制度」が機能し続けていることで、ある程度、実証されて
  いると思います。
  逆に、裁判で国民全員や地域全員参加の多数決で判決を下すとしたらどうなる
  でしょうね?そういう裁判に自分がかけられることを考えてみれば、それが如何
  に恐ろしいことかがわかると思います。
  でも、国家的規模で毎日その「恐ろしいこと」をやっているわけですけどね。


まぁ、いずれにしても、「多数決を疑ってみる視点」を持つことは損にはならないと思います。

そして、その「視点」で世の中を見ると、「現在の多数決」が如何に「おかしな結論」を導き出していることが多いかということが、見えて来るんじゃないのかなと。

っていうか、「誰も賛成してない多数決」って「多数決」って言えるんですかねぇ?
『まぁ、いいんじゃね?』は、「賛成」でもないんじゃね?


そんな風に思います。



「物語り」が機能しなくなってきている



もともと、「物語り」というものは、「人間の行動上の欠点」を補正するために、人間自身が、果てしなく長い歴史を繰り返す中から作り出した「人間矯正ツール」だと思うわけです。


世界中にある「民話」も「アラビアン・ナイト」も「ギリシャ神話」も、それどころか、諸々の「宗教の教典」なども含めて、「すべての物語りという形式」は、この「人間自身による自己補正機能」という性質を持っていると思うのです。


しかし、現在、その「物語りの機能」が働かなくなってきているんじゃないか?と思うわけなのです。


このことに限らず、私は「芸術の20世紀」において、「芸術における規定」が破壊されたことの影響があらゆることに及んでいて、それこそ、ありとあらゆることの「規定」が崩壊しつつあるという風に思うわけです。

「規定」が崩壊してしまうと、「勧善懲悪」や「純愛」や「人情の機微」と言った、これまで「物語りの王道」であったものがすべて成り立たなくなってしまいます。

つまり、「勧善懲悪」を読んでも「わざとらしさ」しか感じられなくなり、「純愛物語」を読めば「有り得ない」と思うようになり、「人情味あふれる話」は「ウットーシイから遠ざける」ようになってしまうわけです。


これまでは、なんとかかんとか「物語り作家」たちの四苦八苦の「ストーリー・テリング」によって、そういった「イワユル王道」にヒネリを加えて、「王道を外しているようでいて外していないような」という感じの絶妙な位置で、「物語り」を成り立たせてきたんだと思います。

しかし、そろそろ、それも通じなくなってきていて、作家がせっかくそういう絶妙さで内容のある「物語り」を創作しても、読む側が、その内容の部分だけを排除して読むようになってきているような気がするわけです。

要するに、その「内容の部分」と言うのが、「物語りの機能」と言うことなんだと思います。


おそらく、「規定」が崩壊した「現実社会」の中で生活している人たちにとって、「物語り」の中の「人間補正機能」の部分が受け入れられないんだと思います。

一言で言えば、「お説教」のように感じるんでしょうね。
(まぁ、「人間矯正ツール」なわけですから、「お説教」でもあるんでしょうね)


「現実社会」では「規定」が崩壊しつつありますから、そこで生活している人たちは、当然その余波を受けているわけで、そこでは、「勧善懲悪」も「純愛」も通りませんし、ましてや「人情」などは粉々に破壊されてしまって、『本当に、そんなものがかつて存在していたのか?』というようなありさまですから、いくら「物語り」の中とは言え、そういうものを「有り得ない」と思うのは当たり前でしょう。

でも、そこを「補正」してきたのが「物語りの機能」だったわけですから、現実では有り得ないことでも「物語り」の中で読むと、それが有り得るような気がしてきて、結果的に「人間の行動上の欠点」が補正されてきたわけです。

でも、現在の社会にドップリとつかって生きている人たちにとっては、もはや、そんなおおらかな気持ちはなく、『取り敢えず見たくないものは見ない』という方を選択する人がだいぶ増えているように思います。


そして、そういう読者の姿勢が「物語り作家」の側にも反映してきていて、結果的に「作家」の側も「補正機能」を排除した「物語り」を書くようになってきていると言えば言い過ぎでしょうか?
(無意識にやっている場合が多いとは思いますけど)


この状態を招いたのは「芸術(美術)」の責任だと、私は思っていますが、「物語り作家」もこの状態を受け入れてはいけないように思うのですがどうなんでしょう?


いま、「物語り作家」は「世の中から嫌われるような物語」を書く必要があると思います。
「作家」は「優等生」や「イイ人」で居てはいけないような気がします。
(「美術」でも同じことが言えると思います)

 ※『優等生ではいけない』と言うと、「奇をてらったモノ」を思い浮かべる人が居るの
  かも知れませんが、実は今一番”嫌われている”のは「普通のモノ」です。
       
  つまり、現在においては「奇をてらったモノ」や「人の気持ちの裏をかくようなモノ」
  の方が、むしろ、「優等生的」であり「イイ人的」であって、「真っ当なモノ」や「真面
  目なモノ」こそが、最も現代人の感情をサカナデするわけです。

  「人の感情をサカナデすること」を推奨しているわけではなく、「マトモ」を「サカナ
  デ」と感じる状態が異常なわけで、その「異常」に流されることは、「芸術」や「文
  学」という立場においては、イイとは言えないだろうというようなことです。
      
そうやって、「現在」に対して苦言を呈することが、「物語りの機能」を有効にして、その「物語り」を後世に残るようなものにすることにつながるんじゃないのかなと。


そういう風に思いますです。ハイ。




「いま」って、本当は「すごくラクな時代」なんでは?



このブログでも何度か言っていることなんですけど、今の時代っていうのは、本当は「すごくラクな時代」なんじゃないかなと思うわけなのです。


どう考えたって、100年ぐらい前と比べたら「生産力」や「効率」がトンデモナク違うわけで、もっともっと”ラクなハズ”だと思うわけですねぇ。

産業革命が起きてからだいぶたった後の「100年前」と比べてもですよ。
産業革命以前との比較だったら、さらに大きな差があるんでしょうが、そうなると、もう、差が大きすぎて、どのぐらいの差なのかがわからなくなるぐらいに違うと思います。


はたして、その差に見合うぐらいに”ラク”になってますか?
明らかに、それに見合うほどは”ラク”に成ってませんよねぇ。

それどころか、やや”ツラク”成っている人すらいたりします。
この数十倍~数百倍、いや、それどころか数千倍?っていうくらいの『圧倒的な「差」は、いったい、どこへ消えてしまうんだろうか?』


これは、おそらく「世界経済」という「ゲーム」によって、起きていることなんだと思うわけです。

その「ゲーム」が「椅子取りゲーム」なんですねぇ。
つまり、少ない椅子を、それよりも多い人数で取り合うというタイプの「ゲーム」をやっているわけです。
(要するに、限られた資源や食料を取り合っているわけですね)


ところが、いつの間にか「人数」よりも「椅子の数」の方が多く成っていたんですねぇ。
それでも、「世界経済」が「椅子取りゲーム」であることに変わりはありませんから、各国が「余っている椅子」を”キープ”するようになってしまっているわけです。


その椅子には誰も座りません。

使われませんから、価値が消えてしまうんですねぇ。
これが「消えてしまう差」に成っているわけです。

実際には、「椅子」が余ってしまった時点、つまり「生産」が「消費」を上回った時点で、「椅子取りゲーム」は成立しなくなっているわけですが、人間の進化の歴史の中で、「食うのに困らない時代」と言うのが初めてのことだったので、また、そういう「時代」が、あまりにも唐突に現れてきてしまったので、人間たちが、まったく対応できなかったんだと思います。

 ※これは、世界中から飢餓が無く成ったということではなく、いまだに飢餓が、
  存在するのは、「食料」が足りないからではなく、「食料」がきわめて不均衡
  に分配されていなるからで、「椅子取りゲーム」によって、その不均衡が生
  み出されていということです。

それで、「椅子」は余っているのに「椅子取りゲーム」だけは続けるという「異常な事態」が発生しているわけです。
しかも、その「余った椅子」は、使われずに価値が消えていってしまいますから、「余っていること」にも気が付かれずに、今もまだ「椅子」が足りないと思われていたりするわけですね。

それで、”ラクなハズ”なのに、みんな、いつも”カツカツ”しているというわけです。


おそらく、「椅子」が余りはじめたのは「第二次大戦前後くらいからだと思います。
(実際には、もっと前からかも知れませんが)
だから、そのあたりから、「世界のどこか」に「バブル経済」が発生するようになってきたんだと思うわけです。
(「バブル」という言葉が使われるようになったのは、かなり後からだと思いますが)

つまり、「誰も座らない椅子」=「消えてしまう価値の差」こそが、「バブル経済」のまさに「泡」に成るわけですね。


もう、そろそろ、「椅子が余っていること」に気が付いてもいいんじゃないかと思いますが、この状況が都合イイ人が居るんですねぇ。

その人たちが、みんなに「椅子取りゲーム」を続けさせて、そこで余った椅子の一部が自分の所に集まってくるような仕組みを作っているんだと思います。


世界的な規模で、とてつもない量の「椅子」が余っていますから、その中のほんの一部分でも、かなりの富に成るわけですね。
他の大半が捨てられて消えていってしまって、世界中の人が”カツカツ”していても、その人たちはあまり気にしないみたいですね。


と言っても、そんなズル賢い人たちばかりではなくて、「動物的な生存本能」に従って行動している人がほとんどなんだと思います。
(まぁ、そういうのが利用されてしまうわけですけど)

もちろん自分も含めての話ですけど、人間は「ゲーム」を提示されると、反射的に「競争心」や「闘争心」を駆り立てられて、「椅子」が余っていても、その「余っている椅子」を奪い合うようになりますし、「一つの椅子」を勝ち取った者は、必ず「二つ目の椅子」を取りに行くわけです。

これは、もう、『人間がそういう風にできている』と言うのに近いことなんでしょう。
だから、そう簡単にやめられないと思います。


つまり、「椅子取りゲーム」自体をやめない限り、この状況からは抜け出せないということです。

「ゲームじゃない」と言うことに成れば、反射的に「競争」や「闘争」に向かう人は少ないでしょうから。


まず、「生産が余剰を生み出すようになってきているという情報」を世界中にひろめて、「ゲーム」が終わったことを告げる必要があるわけです。
(同じことが軍事的なパワー・ゲームにも言えると思います)
まぁ、終戦の時の天皇陛下の「人間宣言」みたいなものでしょうか?

これは、インター・ネットが普及した現在ではそう難しいことでも無いはずです。


そうすれば、「まだゲームをやっている人」を見かけた人は、きっと、『アハハ、まだやってるんですか?オノダさん(ヨコイさんでも可)』などと言うでしょうから、やっている人も、やる気が失せると言うものでしょう。
(例えです。オノダさんもヨコイさんも、嫌いなわけじゃありません。念のため)

そうなったら、どうなるんでしょうね?
あくまで”もしも”ですけどね。


たぶん、8時間労働なんて有り得ないと思いますよ。
そんなに働いたら、また余っちゃいますから。
それに、週休4日・5日も当たり前なんてことに成るでしょうね。
それどころか「月労働5日」なんていうことだってあり得なくもないかもしれませんよ。
(かえって、疲れたりして?)

そうなれば、当然「消費」も伸びますから、景気も良くなりますし、それでも”チョット多く”働けばいいわけですから「ノープロブレム」なわけです。
(それぐらいの方が疲れなかったりして?)


なんて言う都合のいい話がどこかにないもんでしょうか?

『ないです!!』


『でも、空想って楽しい!』

そんな話でした。


こんな記事を最後まで読んだアンタがワルイ! 

♪チャン チャン♪
(♪ホワッ ホワッ ホワッ ホワワワワ~ン♪でも可)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

追記

最後の『なんて言う都合のいい話がどこかにないもんでしょうか?』
以下の部分は、もちろん冗談です。

こういう話が、あまりにも通じないという現実があるので、「オフザケ」に持っていくしかなくなってしまいます。
本当を言えば、それが、一番悲しいことなのかもしれません。

本当は、「今」は、これぐらいに「余っている時代」だと思っています。
でも、余っているモノが不均衡に振り分けられていることほど、そこにいる人間にとって不幸なことはないと思います。

それは、「富める者」にも「貧しき者」にも、同じように言えることだと思います。





「社会問題」は「社会の大きさ」から発生している?



ときどき思うことなんですけど、「社会で起きる問題」は、ほとんど「社会の大きさ」で決まっているんじゃないだろうか?
そんな感じがするわけです。


たとえば、「戦争」ですが、「国」という規模の「大きさ」があって、はじめて「戦争」という概念は成り立つんじゃないかと思うわけです。

「一人のオヤジ」と「一人のおじさん」が争っても、「喧嘩」であって「戦争」ではないでしょうし(おっさん限定?)、「戦争」と言うよりも「平和」に近い印象すらあります。

それから、「社会的な格差」や「貧困」といった問題なんかも、「都市」と言う「大きさ」から発生しているように思いますね。
「村」単位だと、「貧乏」止まりで、「貧困」までいかないような気がします。


そして、何が言いたいかと言うと、『ちょっと「社会」が大きすぎるんじゃないか?』ということが言いたいわけです。


「社会」にしても「企業」にしても「地域」にしても、みんな規模が大きすぎると思うわけです。

要するに、「社会の大きさ」に合わせて、「問題の大きさ」も大きく成ってしまっているように思うわけです。


『だったら、小さくすれば?』と思うわけですね。

もともと「社会」が大きく成って行ったのは「効率」を上げるためだたと思いますが、もう、それほど「効率」を重視する必要は無く成って来ていますし、「大きすぎる社会」は、むしろ「効率」を悪くするということもわかって来ているわけですから、それだったら、「大きい社会」を捨てて、もう少し「小さい社会」にシフトしていってもいいんじゃないかなと思うんですね。


「小さい社会」で「おじさん」同士が何をやったって、たかが知れてます。
そんなにヒドイことは起きないと思いますよ。
(まぁ、そんなに「スバラシイこと」も起きないでしょうけど)


それに、「小さい社会」で「おじさん」同士が仲良くしていたら、かなり平和な感じですよね。
そういうの、私はけっこう好きですね。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『その国「おっさん」しか居ないんですか?』

「いえいえ、若い女の子もいますよ」

『「おっさん」と「若い女の子」だけってのは、どう考えてもアヤシイ!』


まぁ、そんな「小さい社会」もあっていいんじゃないかなっていうお話ですね。




「少子化」と「遅子化」



最近、四十歳くらいで、お子さんを設ける人が急激に増えたなぁと思うわけです。

と言っても、統計上のことはまったく知りませんから、いい加減な話だと思っていただいたほうがよろしいかと存じますが、とにかく、自分の身の回りにも多いですし、人づてに聞く話でも頻繁に耳にするようになったと思います。


つまり、「少子化」と同じぐらいに「遅子化」も進んでいると思うわけです。
(「遅子化」は今勝手に作った言葉です)

というよりも、現在のような極端な「少子化」というのは、この「遅子化」によって起きてきているんだと思いますね。
そして、さらに言えば、「遅子化」は「遅婚化」からきているんでしょうし(「遅婚化」も今勝手に作った言葉です)、「遅婚化」は「高学歴化」からきているんだと思うわけです。
(「高学歴化」は作ってません)

まぁ、それらのことを「=」で結ぶことは出来ないとしても、人生の中で「一つの期間」が長く成れば、必然的に「次の期間」に移行する時期が遅く成るのは間違いないことだと思うわけです。

そして、40代から子供を何人も出産するのはかなり厳しいでしょうから、当然、最終的には「少子化」に行き着くということに成るわけです。


『いったい、どこまで辿って行けばいいんだ?』と言う感じですが、この「遅〇〇化」が逆転して「早〇〇化」に逆転するのは、「子供をはじめて教育機関などに預ける時期」まで辿って行ったときじゃないでしょうか?


託児所なども含めて、「子供をはじめて人に預ける時期」は、確実に「早期化」していると思います。


実際、子供が生まれて一年もしないうちに、子供を託児所などに預けて、職場復帰する人も少なくないでしょうし、「おじいちゃん&おばあちゃん」に預けるというパターンを含めればもっと多いでしょう。


要するに、人生の中で「子供が何らかの外部団体に預けられている期間」が(「おじいちゃん&おばあちゃん」=「何らかの外部団体」?というのは置いといて)、「前」にも「後ろ」にも、両方向に伸び続けているわけです。


『それって、子供が一番自由でやり放題な期間でしょ?いいんじゃないの、子供なんだし、ノビノビと育てれば』
そのハズなんですけどねぇ。

『どーも、そーでもない?』

本当に自由でノビノビしていたら、今のような「イジメ」や「不登校」~「ヒキコモリ」なんて起きてないですよね。


単純に言って、あまりにも長すぎるんだと思いますね。
「何らかの外部団体に預けられている期間」」が、ですね。

もちろん、それだけが原因だとは思いませんけど、「イジメ」や「不登校」の問題と、この「長すぎる就学期間」は、少なからず関係があると思います。
(不必要なものを存続させていると、たいてい何か問題が出て来るんですね)

少なくとも、こんなに長くなければいけないという理由が見当たらないんですね。

実生活の中では、ほとんど使われないうちに「忘れられてしまうこと」を学習する期間としては、やや長すぎると思います。


今は「少子化」のことばかりが論じられますが、実際には、元をたどって行かないと、一向に「少子化対策」として有効に成らないと思うわけですね。


「子育てがしやすい環境づくり」とか、「安心して子供を作れる社会」とか、いつも似たようなスローガンを掲げては、『なんで、ダメなんだろ??』と嘆いているだけって、どうなんですかねぇ?


もっと単純なことだと思うんですが、「子供を産める期間」が、ものすごく短く成っているのに、そのピンポイントの間に『たくさん子供産め!』って言われてもねぇ。

『無理に決まってるだろ!!』

というような、単純なことなんじゃないかと思います。


このことに限らず、現在の行政システムと言うのは、「一番有効な手段」だけを「完全に外す」ように出来ていると思います。


ありとあらゆることに置いて、「一番有効な手段」は外され、「残った役に立たない手段」を、すごく時間をかけて、すごく回りくどいやり方で、すごく淡々と実行する、というスタイルが完全にスタンダード化していて、当たり前すぎて、もう誰も文句すら言わなくなってしまっていますね。

私は、こういうことも、ことごとく、『すべて、芸術からきているんですよ!』と言いたいんですけど、まっ、それは置いといても、凝り固まってしまった「形だけの常識」を捨てれば、出来ることは沢山あるんじゃないのかなと。


そんな風に思ってしまうわけなのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

※この記事を読むと、いかにも「子だくさん」を推奨しているように見えてしまうかもしれませんが、そういうことではなく、問題はモトをたどって行かないと見えてこないということが言いたかったわけで、この場合、「少子化」のモトに成っている「長すぎる就学期間」に「少子化」以上に大きな問題があるんじゃないだろうか?ということを言っているつもりです。

どうも話がブレまして、スイマセン!いつもだけど。


アリとキリギリスの逆転



童話に『アリとキリギリス』と言うのがありますけど、その話の中では、どう見ても「アリ」は『ご立派!』という感じで、「キリギリス」は『このナマケモノが!』と言う感じに成っているわけですね。

まぁ、童話のことはとりあえず置いといて、ときどき「アリ」には感心させられるんですねぇ。


「アリ」って、とにかく「社会」に徹しているんですね。
完全に「個体」の意識が消滅していて、「社会の部品」に成りきれるのって、ある意味『スゴイことだよな』と思うわけです。


ときどき、人間もそんな風にできたらいいのかも?と思ったりもします。


でも、「人間」はもう「アリ」には成れないんでしょうし、「アリ」のように「社会に徹すること」もできないでしょうから、「キリギリス」で行くしかないんでしょうね。

と言っても、童話の中じゃない現実の「昆虫としてのキリギリス」には、必ずしも「ナマケモノ」というイメージはないですけどね。

 ※けっこう真面目に「スイッチョン」って鳴いてる気がしますけど、ダメなんでしょうか? 
   注:実際に「スイッチョン」と鳴くのは「ウマオイ」という虫らしいです。

  それから、『アリとキリギリス』の童話は、もともと「アリとセミ』のお話だったそうです。
  ということは、7年間もの「地中生活」に耐えた「セミ」が「ナマケモノ扱い」ってことで
  すか?
  そんなのって、ちょっとヒド過ぎると思います。


いずれにしても、「アリ」のような「一糸乱れぬ社会」を目指すことに、ある種の「完璧さ」を感じることはあっても、それ程の魅力は感じられませんし、その「完璧さ」は「人間」にとっては「キュウクツ」でもあるでしょうから、やっぱり「キリギリス・路線」なんでしょうかね。

要するに、「人間にとっての勤勉さ」が、「アリの勤勉さ」とは、かなりズレてきているんだと思います。


「社会」のために「個人」を滅して部品化することは、もう「人間の勤勉さ」ではなくなってきていて、「キリギリス」のようにバイオリンを弾いたり歌を歌ったりして過ごすことが、「人間にとってのナマケモノ」でもなくなってきているということなんだと思うわけです。

つまり、「アリとキリギリス」が逆転してきているということですね。


と言っても、「勤勉さ」と「ナマケモノさ」が逆転してきているわけではなくて、「勤勉」と「ナマケモノ」の内容が入れ替わってきているんだと思います。


いま、「人間」にとって「大事なこと」は、「アリ」のように「ひたすら食糧を貯えること」ではなく、「有り余る食糧」を「分配すること」なんじゃないかと思うわけです。


そして「キリギリス」のように、あらゆることを楽しめたらもっとイイでしょうね。

そういうことが『そんなにうまくいくわけないのか?あるのか?』っていう話じゃなくて、『そっちの方向を向いて行くのか?まだ、同じ方向を向いて行くのか?』っていうことですね。


つまり、これからも「本当は余っている食料を奪い合って、少しでも多く確保する」という方向で暮らしていくのか、それとも、「有り余る食糧を均等に分配して、余った時間をどう使うかに頭を使っていく」という方向を向いて暮らしていくのか?ということですね。


もしも、いま、「人間」が「そっちの方向」を向いて暮らしていったら、もしかすると、他の動物たちから見て、『こいつら、スゴイんじゃね?』という風に見えるかもしれませんよね。


「人間」から見たら、「アリの社会」の「完璧さ」は『スゴイことだよな』と思いますけど、「アリ」から見たら、『人間って、自然淘汰の法則を無視して助け合ってるよっ!シンジラレン!!』と見えるかもしれません。


もしかしたら、そういうことが「人間」が「人間」を誇れるところと言えなくもないのかなと。

そんな風に思うわけです。




「社会」と「個人」



「人間社会」のことを、よく「高度に発達した社会」などと言ったりしますけど、実は、「社会」という仕組み自体は、必ずしも「高度なモノ」でもないんじゃないかな?と思うわけです。


確かに、「人間の社会」は複雑だし高度化した形態の「社会」であるとは思いますが、それを言ったら、「アリ」や「ハチ」の「社会」だって十分に高度で複雑なんじゃないでしょうか?

でも、だからと言って、「アリ」や「ハチ」が「人間」と同じような進化の形を取ったというわけではないと思います。


「人間」にとっての「高度化」とは、つまるところ「より人間であること」なんだと思いますから、「アリ」や「ハチ」と似たような形態の「社会」を持っているだけでは、「人間にとっての高度化」とも言えないような気がします。

「人間」が最も「人間」である部分、つまり「人間にとって最も高度化した部分」とは、「社会」ではなく「個人」なんじゃないかと思うわけです。

 ※「人間」以外に、「個」という感覚を持っている動物は居ないんじゃないかと思います。
  つまり、「個人」とは「人間」の「最も人間らしい特徴」なんじゃないかと思うわけです。
  反面、「社会」は高度で複雑な割に、多くの動物が「社会性」を持って生きています。
  「アリ」や「ハチ」に限らず、多くの動物が「群れ」や「家族」という「社会」を持っていて、
  その中のルールに従って生きているわけです。
  つまり、「社会」は「人間だけの特徴」ではないということですね。

そして、その「個人」と「社会」が、けっこう対立することが多いわけです。
つまり、「個人性」と「社会性」は、多くのケースにおいてブツカルわけですね。

もちろん、「個人」の中にも「社会性」はありますし、「社会」も常に「個人性」を否定するとは限らないわけですが、少なくとも、「アリ」や「ハチ」の社会を見ればわかるように、「個」が埋没した「社会」は、「最も機能的な社会」であるとも言えるわけですね。


そこで、「個人」と「社会」のどちらを優先するのか?ということです。


「個人」を優先すれば、「社会的機能」が低下するでしょうし、「社会」を優先すれば、「人間の人間らしさ」が阻害されていくに違いありません。

そうなれば、「社会的機能」を犠牲にしても、「個人」を優先した方がイイと思うんですが、なかなかそう成りません。


これは、「現在の人間社会」が、「人間以前の状態」から続いている形態から抜け出せていないからだと思うわけです。

「人間」も「人間の前の段階」においては、他の動物と同じように、「個」という感覚を持っていなかったでしょうから、当然、その時点での「人間社会」には「個人を尊重するような仕組み」は無かったわけで、それが、いまも続いているということなんだと思います。


なにかを組織立って行おうとすれば、必ず、「個人」はその組織の「部品」として扱われるようになります。
「組織」=「社会」とはそう言うモノだと思います。

 ※これは「社会」と言うほど大きな組織についてだけ言えることではなく、
  「家庭」や「友人関係」などのような、むしろ「個人的な関係」に見える人
  間関係においても、ほぼ同じようなことがいえると思います。


トップに立っている者だけは「個人」として機能しているように見えますが、実は、その人も、「トップ」という位置にある「部品」であることに変わりはないわけで、実際には、「本当の意味で自由な個人」とはかけ離れた存在なんだと思うわけです。

このような状態を抜け出すには、「社会」が意図をもって「社会の機能」を低下させる必要があるわけです。

でも、これが、なかなかできないんですね。
「社会」が「社会自身の機能」を低下させる方向で作用するように仕向けるのは、道理に適っていませんから、当然ムズカシイわけです。


でも、そこを何とかしていく必要があるんだと思います。


とにかく、「人間」は、もう、自分たちが「効率を上げる必要がなくなったこと」を知るべきだと思いますね。

そうすれば、自分たちの大切な「個人性」を犠牲にしてまで、「効率」を上げることなんて、バカバカしくてやってられなくなるんじゃないかなと。
(もう、「効率」には、そんなに「伸びしろ」もないし)


なんとか、「人間の前段階」から「人間の段階」に進まないと、「人間の次」には行けないわけですから、そちらの方にシフトしてもいい時期なんだと思うわけです。


そういう方向を向いてみたら、「いま、効率を追うこと」が、如何に「非効率的」であるかが、見えて来るんじゃないのかなと。


そんな風に思うわけです。




「権力」と「カネ」の逆転



昔ならば、「権力」のあるところに「カネ」が寄って来たんだと思うわけですが、今はそこのところが逆転してきていて、「カネ」のあるところに「権力」が出来上がってしまうということが多くなってきていると思うわけです。


要するに、封建的な世の中だったころには「身分の格差」がハッキリしていたので、身分が高い人の所に無条件で初めから「権力」があったわけですね。
(まぁ、その身分のモトに成っていたのは「武力」でしょうが)

そして、その「権力」のある所に「カネ」が集まっていくように成っていたわけです。


ところが、今は世界全体が一応「平等」の流れに成って来ていますから、建前上は「身分の差」が無いということに成っているわけです。

そうすると、「カネ」もどこに行っていいのかが、わからなく成ってくるわけで、結果的には、もともと「カネ」を持っている人とか、チョット上手く「カネ」を稼いだ人の所に「雪だるま式」に「行き場を失ったカネ」が集まるように成るわけです。
(いやらしい言い方に成ってしまいますが、これこそ、「資本主義の原理」だと思います)


そして、そうなってくると、今度はその「雪だるま式」に膨れ上がった「カネ」の所に、「権力」が出来上がってくるというような仕組みになっているわけですね。
(さらに、いやらしくなりますが、これこそが、「現在の民主主義」の本当の姿なのかもしれません)


昔の圧倒的な「身分の差」があった時代の「王様」や「貴族」の「権力レベル」は、「民間人」との対比ということで言えば、ちょっとやそっとの「お金持ち」くらいではどうにも逆らえないくらいの「権力レベル」だったわけで、結果的に、「カネ」もそこに寄り集まっていくしかなかったんでしょう。

でも、それと同じように、「今のカネ」も絶対的な存在になってしまっているので、やはり、「権力」も含めたすべてがそこに寄り集まっていくしかなくなってしまっているわけです。


つまり、ただ単に順番が違うだけで、どっちにしてもほとんど同じことに成っているわけで、『カネが先か権力が先か?』という『ニワトリが先か卵が先か?』みたいな話になっているわけですね。


これだと、何のために「平等」や「自由」を手に入れたのかわかりませんよね。
せっかくいろいろな犠牲を払って「自由」や「平等」を手に入れたわけだし、それを生かしていかないと『モッタイナイかな?』と思うわけです。


つまり、前の時代の人たちが、けっこうな命がけで作り出してくれた「自由」や「平等」を、実際に有効なモノにするのは、いまの時代の人間の責任なんじゃなしかと思うわけですね。


ハッキリ言えば、現在ある「自由」や「平等」なんて「形だけ」もいいとこだし、時には、『身分の差がはっきりしてた方が、かえって分かりやすくていいんじゃないか?』と思うことすらありますけど、それでも、その「形だけの自由と平等」を創り出すために体を張った人が居たわけで、その先人たちに対して、そんな失礼なことを言えるのか?と言えば、私は言えません。

そういうことを言うのと同じように、そういう「形だけの自由と平等」を、そのまま「形だけ」にしておくことは、やっぱり、その先人たちに対して失礼なことなんじゃないのかなと。

それが出来るか、出来ないか、なんていうことじゃなくて、「自由」や「平等」を有効にしなければモッタイナイと思いますし、それ以上に、「カネ」が「カネ」に寄っていくのを肯定したって誰の得にもならないと思いますし(意外と「お金持ち側」の人の得にもなっていない?「幸せ」に成れるとは限らないですからね)、「カネ」が「権力」を生み出すのを「意味のないこと」だと言いたいわけですね。


スマートに「カネ」を稼いだり、その「カネ」によって作り出された「権力」をサラッとサリゲナク使いこなしたりすることを、「美しいこと」のように言う傾向がありますが、実は、そういうのは決して「美しいこと」ではないと思うわけです。
(というか、どちらかと言えば「醜いこと」じゃないかと思いますね)


私は「IT長者」や「財界のヒーロー」なんかよりも、「挑戦者」や「革命児」の方が好きですね。

前者はなんだかんだ言っても、つまるところ「自己保身的な人」だと思いますが、後者は「ソントク」に関わらず「自分のやりたいこと」に向かって行った人だと思うわけです。

そういう人が、いまの時代に現れないのは悲しいことだと思います。


きっと、今もそういう人は居るんでしょうが、おそらくは、いまの世の中では、そのままでは生きられないんでしょうね。


そんな風に思います。




「社会」は「人間を阻害するモノ」だということ



「社会」はもともと「人間」が作ったわけですが、その「社会」が、チョクチョク「人間」を阻害することがあるわけです。

どうしてなんでしょうね?という話です。


そもそも、「社会」ってどうやって出来てきたのか?と考えると、「サル社会」なんかを見れば一目瞭然ですけど、「群れ」を統率したり、効率化するために「社会」が必要に成ったんでしょうね。たぶん。

どこまでが「群れ」で、どこからが「社会」なのかはわかりませんけど、とにかく「群れ」と「社会」は微妙に違うモノのような気がします。


要するに、「役割」があるのが「社会」で、無いのが「群れ」なんだと思うわけです。

とは言え、「役割」という概念が全く存在しない「群れ」もないでしょうから、そこに一線を引いて分けるのは難しいように思いますが、少なくとも、「役割」がはっきりしているほど「社会性」もはっきりしてくるし、「役割」が細かく設定されている「社会」は、より「高度な社会」と言うことに成るんじゃないかと思います。


つまり、「社会」の中では、「個人」はあくまで「統率される側」であり、「役割を演じさせられる側」なんですね。


「動物」の段階までは「個」という感覚が薄かったために、「動物」にとっては、それらの「~させられる」が、それほどの苦痛でもなかったんでしょう。

ところが「人間」は「個」という感覚を強く意識する動物に成ったために、その「~させられる」が、多くの場合苦痛なんですねぇ。


それで「社会」が「人間を阻害するモノ」になってしまっているわけです。


そう考えると、いくら頑張ってもなかなか「イイ政治」が実現しないことや、まして、「理想の社会」が遥か彼方にしか思えないことなんかも当然のことで、「社会」の持っている根本的な性質に「人間を阻害するモノ」と言う性質が含まれているとすれば、むしろ、「イイ政治」や「イイ国」を期待する方が、土台から間違っているわけです。


「社会」が「人間」を束縛して、使役を強いるモノだとすれば、まったくもって当たり前のことですね。
つまり、絶対に「イイ世の中」なんて実現しないということです。
(他国との比較で『イイんじゃない?ウチらなんか』って言う、そういうことではなくですね)


ただ、このことを意識していることで、少しはイイのかも知れません。


「人間」が「動物的な人間」として「社会」から割り当てられた「役割」に従い続けない限り、「社会」という仕組みは有効に働かないし、「社会」が有効に成れば成るほど、また、「人間」を阻害するという影響も強く成るわけです。


「人間」が「人間」であろうとすればするほど「社会」と対立するということ、これを踏まえた上で、「社会」を作っていかないと、「社会のための社会」や「政治のための政治」や「制度のための制度」しか出来てこないでしょうね。

「人間のための社会」を目指しても、絶対に実現しませんから、そういう「理想像」は捨てて、最低限のこととして、「一方的に社会に奉仕させられる人間」を作らないような「制度」を作っていかないと、けっきょく、「人間」が「社会」にこき使われるだけで、チットモ「人間」には「ワケマエ」が入ってこない世の中にしか成らないと思います。

そこで「ワケマエ」をさらっていくのは「動物的な人間」です。
要するに、「社会にあてがわれた役割」を演じ続けても苦痛を感じない人間ですね。

そういう人は「動物的」ですから「人間的」な行動をとるのが苦手なわけです。
それで、そういう人たちによって「人間性」が踏みにじられて、結果的には、より多くの「人間的な人間」が阻害されてしまうわけなのです。
(多くもないのか?)


また、それ以前に、「動物的な人間」たちも「社会」にこき使われているだけなので、「ワケマエ」を得ていると言っても、本当の意味で「人間の幸福」を手にしているとは言えないわけで(得ているのは「動物の幸福」だけですね)、そう考えると、けっきょく誰もトクしてないじゃないか?と言うことに成っているわけです。


でも、そんな考え方をする人は、今のシステムの中で、絶対に「政治家」や「指導者」に成ることはありませんから(そういう職業に就くのはたいてい「動物的な人間」です。まぁ、「猿山の大将」ですね)、そういう「社会づくり」は一向に実現するメドが立たないというわけです。


でも、まぁ、取り敢えず「社会」が「人間を阻害するモノ」だということは間違いないんじゃないのかなと。

そして、『「人間に貢献する社会」を作ろうとすることほど無駄なことは無い!』ということも、まぁ、間違いないのかなと。
(歴史の中で証明されていますよね)

そんな風に思っているわけです。




「世界先進国化」による「世界総精神疾患化」



だいぶ前に、このブログで「一億総精神疾患時代」と言う記事を書いたことがあるんですが、もう少し広げて「世界総精神疾患の時代」に成っているといってもいいと思う今日この頃なわけです。

「約70億総精神疾患」ということに成ります。スゴイですねぇ。

 ※前の記事は、日本の社会全体が「精神疾患」に陥っているように感じるという
  記事です。

現在、「世界一大きな国」には「世界一人間的なウツワが小さい大統領」と言われる方が居らっしゃいますし、その方以外にも、「アリエナイ国家元首」は世界各国に点在していらっしゃいますよね。

 ※こういう「アリエナイ国家元首」が存在していることは、「多数決」と言うシステム
  が崩壊していることを実証していると思いますが、その反面、社会全体が「精神
  疾患」に陥っているために、「オカシナモノ」だけは確実に選ばれるという現在の
  「多数決」の有り様を示しているとも言えると思います。

 ※「人間的なウツワが小さい」と言っていますが、「もともと持っているウツワが小
  さいと」と言うよりは、「社会の病理」を反映して、精神疾患に陥った人の「自己」
  があまりにも肥大化してしまっている場合に、彼らの精神の中における「人間性」
  の部分の比率が極端に小さくなってしまっているというようなことです。
  もともと、生まれ持った人間的なウツワに関しては、みんな同じくらいの大きさだ
  と思います。
   

当然のことながら、彼らは批判されることがとても多いわけですが、ほとんどの場合、「彼らが特殊な人物であること」を前提として批判されているんじゃないでしょうか?

でも、私は彼らが特殊だとは思わないですね。
どちらかと言うと、むしろ、『まさに彼らこそ、現在の世界70億を代表する社会の中心的な人物なんじゃないのかな?』と思ってしまいます。

なぜなら、『世界中が総精神疾患に成っているから』ということです。


特殊なのは「人間的に小さい人」ではなく、「現在という時代」なんだと思うわけです。


実際、「人間的に小さい人々」の批判においては、「精神疾患」や「人格障害」と言う切り口で語られることが多いようですし、確かに、そういう人は極端な例だとは思いますが、でも、「特殊」なのか?と聞かれたら、『そうでもないか?』と思います。


そういう人が「世界一大きな国の大統領」に成ったことは「普通じゃナイこと」ですが、実を言うと、自分の身近にも至る所に「人間的に小さい人々」はたくさんいて、彼らはどちらかと言えば社会の中で高い地位についていたりします。
(実際、自分の上司や地域の有力者の中に居ませんか?「人間的に小さい人」)


ですから、その「人間的に小さい人々の代表者」が「世界一大きな国の大統領」に成るということは、むしろ、必然的なことであって、特殊なことではないということです。

 ※現在の「多数決」は「強烈にオカシナモノだけが確実に選ばれるシステム」に成って
  います。
  これは、まさに「芸術の影響」だと、私は思います。


これは、世界中が「先進国化」したことと関係があると思いますね。

もともと、「文明」が行き付く所まで行くと(社会が「物質文明」に覆いつくされて、「文化」が置いて行かれた状態ですね)、その社会には「精神疾患的な性質が出来て来るんだと思うわけです。

つまり、一人一人の「人間の精神疾患「」ではなく、「社会全体の精神疾患」ということですね。

かつては一部の豊かな国を「先進国」と言っていたのに、現在は、むしろ「先進国」の方が多いと言ってもいいような状態に成って来ていて、一部の国を除いては、「文明度」の差は少なく成って来ているんじゃないでしょうか?
つまり、「先進国」と「先進国じゃない国」の比率が逆転したわけですね。

つまり、世界中が先進国化しつつあるということです。


しかも、「物質文明における先進国化」に輪をかけて、情報流通の高速化が進んでいますから、まだ先進国化していない国までも、精神面では先進国化の影響を受けるように成っているんだと思います。


そういう世界的な状況の中で、「文明が行き着く所まで行き着いた国」が急激に増えて、世界中の人が、その「行き着いた文明」の影響を受けるように成って来ているんだと思うわけです。

一方、「文化」はそれに付いて行かれなくなって取り残されてしまっています。
それでいて、「物質文明の悪影響」だけは受け続けているわけです。

そして、とうとう「世界70億総精神疾患の時代」に成ったというわけですねぇ。スゴイです。


実際、「世界一人間的ウツワが小さい人」が世界一大きな国の大統領に成ることは、めったにありませんが、一般的な「人間的なウツワが小さい人」でしたら、そこらへんにたくさん居らっしゃいますし、むしろ、多数派と言ってもいいくらいです。

とくに、社会的地位が高い人に限定した場合は完全にそちらが主流と言ってもいいでしょうね。

 ※「人間的に小さい大統領」と、一般的な「人間的に小さい人」の違いが大きいと思って
  いる人が多いのかも知れませんが、両方とも本質的な異常さには、それほどの違いはあ
  りませんし、むしろ、一般的な「人間的に小さい人」の方が、身近な害が大きいとも言え
  るのかもしれません。


これを「総精神疾患」と言わずして何というのか?と思うわけです。


現在「精神疾患」を免れることが出来ているのは、社会の主流からかなり逸脱した人だけで、一見まともに見える人こそ「精神疾患ど真ん中」に居ることがとても多いですね。


つまり、「社会的逸脱者」だけがマトモで、「社会適応者」の方が「精神疾患」に成っているという、まさに逆転現象が起きているわけです。

ところが、その、「逸脱者」も「社会的逸脱状態」を続けて居ると精神が歪んで来るわけですから、けっきょく、すべての人が「精神疾患」ということに成ってしまうわけですね。


違いがあるとすれば、自分が「精神疾患」であることを認めている側の人と、それを絶対に認めない人と言う違いですね。

「絶対認めない人」こそが「真の精神疾患患者」なんだと思います。
そして、それは「社会的に適応している側の人」である場合が多いわけですね。


この「世界的精神疾患」の状態を打開できるのは「芸術」だけだと思うわけです。


もともと、「芸術の20世紀」の示した方向性が、この状態を作ってしまったという傾向があると思いますから(私はそう思っております)、そこのところを改めさえすれば、自然にこの状態を抜けられるんじゃないかと思います。
(私はそう思っております)
 

先ほど、文明が行き付く所まで行き着くと「社会全体」が「精神疾患的な傾向」を持つようになると書きましたが、そのこと自体が「芸術の20世紀」の持っている方向性によるところが大きいんだと思うわけです。


もともと、極端な性質のあった「芸術の20世紀」の方向性がさらに先鋭化していくと、それが「精神疾患的な性質」と成って「社会」を毒するモノになってしまうんじゃなかと思います。
(私はそう思っております)


本来は、「文明」があまりにも先行してしまって、「文化」が付いて行かれなくなると「精神疾患傾向」が出て来るんだと思うわけですが(19世紀末の「退廃文化的傾向」などはこれに当たると思います)、、「芸術の20世紀」は「脱芸術」・「非芸術」・「芸術の破壊」と言う性質を多分に持っていますから、その「芸術の20世紀」を前提にして成り立っているすべての「文化」が、「逆文化」と言う方向性を持っているわけです。

だから、「文化的であること」が「文化を置き去りにすること」に成ってしまうわけですね。


つまり、「文明」が発展するとともに「文化」が推進されて行けば行くほど、『本当の文化が置き去りにされていく』と言う逆行現象が起きてしまうわけです。

まぁ、言ってみれば「負の掛け算」ですね。


だから、「芸術」が「芸術の20世紀」を前提にしている限り、この傾向は消えないと思いますし、逆に、「芸術」が「芸術の20世紀」を離れて、本来の姿を取り戻すことが出来れば、この傾向から、難なく脱出することが出来ると思うわけです。


まっ、なにはともあれ、もう少し「人間性」を見直していった方が、誰のためにもいいんじゃないのかなと。

そんな風に思います。





「インター・ネット」で世界の距離は縮まったのだろうか?



『インター・ネットが普及したことで、世界が狭くなったよねぇ』と言うのはよく言われることですよね。

確かに、「インター・・ネット」にアクセスしさえすれば、世界中のどこの国の情報でもすぐに知ることが出来ますし、かなり専門的なことでも、知ってて当たり前の常識レベルのことでもだいたい知ることが出来るわけです。

つまり、「地理的な距離」も「知識的な距離」もそれだけ縮まったということです。


ところが、「地球の裏側のこと」は瞬時にしてわかるのに、「隣に住んでる人のこと」と成るとさっぱりわからなかったりもするわけです。

そして「隣に住んでる人のこと」は「インター・ネット」にアクセスしてもわかりません。


要するに、「インター・ネット」では「人と人の距離」は縮まっていないわけですね。


さらに言えば「地球の裏側に住んでいる、どこの誰だか知らない人のこと」も、「インター・ネット」にアクセスしてもわかりません。
つまり、「地理的な距離」が縮まったと思っているだけで、実を言うと、それすらも怪しいわけです。


一言で言えば、「インター・ネット」で縮められるのは、「マスコミ的な価値が認められた情報」における「距離感」だけなんですねぇ。
だから、「ミニ・コミ的な情報」、すなわち「隣の人のこと」みたいなものに関しては、まったく「距離感」が縮まっていないということです。


しかも、これだけ「インター・ネット」を基盤に置いた社会が出来上がって来てしまっていますから、もう、そこから離れることは、おそらくできません。

そうなると、このままドンドン「人」がバラバラに離れてしまって、「人間同士のコミュニケーション」と言うモノの存在が希薄になっていくような気がします。


だから、せめて『「インター・ネット」では「人間同士の距離」は縮められないよ』と言いたいわけです。


「インター・ネット」の中での「コミュニケーション」に依存してしまうと、「その人の中の人間の部分」が薄れていくような、そんな気がするわけですね。


これは「人間にとっての進化」ではなく「人間の機械化」ですね。
つまり、生物としての「進化」には当たらないと思うわけです。

そこで「進化」するのは「人間」ではなく「社会」です。


確かに「社会」は「進化」すると思いますが、「人間」はその「社会の部品」として使われるようになっていくわけです。

そうなれば、「人間の存在」自体も危ういといえるわけですから、もう少し「人間同士のコミュニケーション」を復活させていった方がいいんじゃないのかなと。


さらに言うと、これは国を挙げた政策として展開されないとできないことのような気がします。

現在の「インター・ネット社会」を見ているとこのような流れを止めることが出来るモノは、「インター・ネットの中」には存在し得ないと思いますね。

そう言うモノは、必ず排除されるでしょう。


「インター・ネット」も「社会」も、その点では生き物と同じで、「意思」のようなものがありますから、必ず「自己保存」を最優先します。
だから、「人間」は「社会の部品」にされてしまいますし、「インター・ネット」の中では「インター・ネット」に有益な情報だけが流通するようになります。

当然、「インター・ネット」を不活性化するような情報はカットされてしまうわけです。


それを防ぐには、「人間」の側もそれに対抗するような情報操作的な手段を講じる必要があるのかも知れませんね。

こういうのを特定の利益のための「情報操作」や「検閲」などと混同しない方がイイと思いますね。
むしろ、フリーな状態だと、一方的に「人間」が「社会」や「ネット」に検閲されていると思った方がイイと思いますね。

このことに限らず、「社会」や「メディア」のような「人間の集団によって形成される組織」には、それを形成している「人間(個人)の意思」とは別の、「組織の意思」が発生してしまうという性質があると思います。
作り出されるというよりも、むしろ、必ず出来上がってしまうと言った方がいいと思います。
だから、その状態を、放任して置くと、必ずその「組織の意思」が「人間(個人)の意思」を蹂躙するように成り、そして、最終的には、「人間がいつも虐げられる社会」を、人間が一生懸命作り続けるという羽目になるんだと思うわけです。

それこそが、現在社会の本質的な在り方であると言ったら、言いすぎでしょうか?

まぁ、当然『言い過ぎです!』とおっしゃる方もおられるでしょうが、それでは、なぜ、「無駄な公共事業」は無くならないのでしょう?なぜ、「誰も望んでいない制度」ばかりが作り出され続けるのでしょう?なぜ、「都市計画」が実行され続けているのに、街並みは一向に美しく成って行かないのでしょう?

さらには、これらのことについて、日ごろから、疑問を持っている人がほとんど居ないのは「なぜ」なんでしょう?

それらのことは、すべて「組織の意思」に基づいて実行されていて、必ず「人間」が、それを実行させられています。
そこに「人間(個人)の意思」が反映されることは、ほとんど無いのです。

それ以外の、説明が成り立つことはないでしょう。

そんな中で、「インター・ネット」だけが別物だということはあり得ないことではないでしょうか?


まっ、取り敢えず、「インター・ネット」を「万能」だと思うのはやめた方がイイんじゃないかなと。
(どんなものでも「万能」だと思わない方がイイと思いますけど)

というより、「万能」なんて、『とんでもない!』
『「インター・ネット」なんて、クソだろ!』と言う態度が必要なんじゃないのかなと。


どちらかと言えば、「役に立たないモノ」と言うくらいに思っていたほうがイイような気がしますね。
そろそろ、そういう方向が出てきてもいいんじゃないのかなと。

『もう、古いですよね、インターネットなんて』違いますか?

そういう風に思ったわけなのです。 


これを言うと、『そんなこと言っても、それをネット上で言ってたら説得力ないよねぇ』と言われそうなんですが、『そうじゃなくて、「道具」だからそれを使ってるんですよ!』ということです。

そういう風に「インター・ネット」は「人間のシモベ」であると、はっきりさせておいた方がイイんじゃないですか?と。

まぁ、そういう風に思ったわけですね。




昔はどこにでもあった「達成感」が、今は無くなってしまった



かなり昔の時代までは、「達成感」って、生活の至る所にあったんじゃないのかな?と思うわけです。

ところが「現在」と成ると、「達成感」は随分少なく成ってしまったような気がするんですねぇ。


たとえば、「狩猟民族」であれば「獲物を取った時」ですね。
これは、もう「マックスに近い達成感」だったに違いないでしょうし、「美味しい木の実を見つけた時」くらいでも「かなりなハイテンション」だったに違いありませんよね。


「農耕民族」だって、収穫は一年に一回と言うわけでもなく、季節ごとにいろいろな作物が取れるわけですから、そのたびに「マックスに近い達成感」は味わっていたんじゃないでしょうか?
(そういうのが「祭り」の始まりだったんでしょうね)


もちろん、「現在」に比べれば「生活の中の苦労」も比較に成らないくらい多かったんでしょうが、少なくとも「達成感」に限って言えば、毎日たくさんの「達成感」で満たされていたと言えなくもないような気がしてくるわけです。
(と言うか、「苦労」が多かったから「達成感」が生まれやすかったのかもしれませんね)


それに比べて「現在」はどうでしょうか?
ナントナク生活の中に「達成感」が見つけにくい感じがするわけですねぇ。


たとえば、「仕事」ですが、ほとんどの「仕事」がルーティン・ワークでしょうし、達成していても「達成感」は無いというのが実情ではないかと思います。

昔とほぼ同じ作業をやっている時ですら「達成感」だけは無いという状態なんですねぇ。


まぁ、「達成感」に満ちあふれた「心ときめくお仕事」をされている方もいらっしゃるのかも知れませんが、滅多に居ないでしょうから、無視して話を進めます。


取り敢えず、この『達成していても「達成感」が無い』と言うのが、現代社会の一つの特徴ではないかと思うわけです。


これはおそらく、「情報のマスコミ化」からきているんだと思いますね。

せっかくナニカを達成しても「より多くのナニカ」を達成した人と比べてしまうと、肝心の「達成感」が無くなってしまうということだと思いますが、「最も達成している瞬間の人」だけが「マスコミ化した情報」に成って流されるわけですから、その「マスコミ化した情報」に常にさらされている現代人は絶対に「達成感」を持つことが出来ない仕組みになってしまっているということです。


もし、どうしても「達成感」を得たいなら、常に「最高に達成した状態」をキープし続けなければならないわけですから、無理でしょう。


あとは、よく言われるところの『そんな競争心は捨ててノンビリ気楽にやればいいじゃない?』と言う考え方ですね。
確かに、その通りだと思いますが、現在、そういう考え方をすると、「競争心」と一緒に「達成感」も捨てなければならなくなるということです。


過剰な「競争心」を捨てることは、イイことかもしれませんが、現在の「マスコミ化した情報」は「競争心」を根こそぎ捨てることを要求してきます。

それでないと、またすぐに「達成感」を感じられなくなってしまうわけです。
それだけ「マスコミ化した情報」の影響力が強いということですね。

そして、「競争心」を根こそぎ捨ててしまうと、結果的には、ほとんどの「達成感」も失われてしまうわけです。
つまり、「達成感」自体が一種の「競争心」から発生しているという部分があるわけですね。
(「競争心」のすべてがワルイということは無いと思いますよ)


こういったことで、現代社会においては「達成感」と言うモノが極めて感じ難く、また、極めて持続しにくいものに成ってしまっているわけです。


こういう状況から脱するためには、「マスコミ化した情報」から抜け出す必要があるでしょうが、「マスコミ」を廃止するのは無理でしょうから、「情報」を制限する必要があるわけです。


なにかにつけて「報道の自由」と言われますが、『本当に報道が自由な方がいいのか?』と言う問いが完全に抜けています。
そういうことを考えていくと「無制限の自由」がイイとも限らないということが見えてくるわけで、盲目的に『自由がいいに決まっている』と言っているだけだとしたら、「ホンモノの自由」なんて守れるわけがありません。


やはり、「人間を苦しめる情報」については、無い方がイイに決まっているわけで、そんなものを守ることを「自由」とは言わないでしょう。


このことに限ったことでもないですが、「マスコミ」がもう少し「実質的な価値のある情報」を提供してくれるようになればいいと思うわけです。


つまり、やや特殊な「達成されたモノ」や「達成した人」の「情報」ではなく、ごく一般的に「誰もが達成感を得るための情報」ですね。


そうすれば、現代社会は物質的にも精神的にも、非常に豊かな世の中に成るような気がします。

その「豊かさ」と引き換えにするぐらい「重要な情報」って、いまマスコミが提供している情報の中に、どれだけあるでしょうね?


少なくとも、いま自由によって守られている情報と言うのは、ほとんど「どうでもいいような情報」で、本当の意味で「報道の自由」が守られているべき情報については、必ずしも自由な状態ではないわけです。

そんな中で「報道の自由」を盲信していると、かえって、「情報操作」されやすく成ってしまうんじゃないのかなと。


まぁ、話は完全にそれてしまいましたが、

そういう風に思ったわけなのです。




「進化論」が発見された理由



「進化論」って、いったい何のために発見されたんだろうか?ということを時々考えるわけです。

「人間」が大昔には「類人猿みたいなもの」だったということがわかって、なにかトクなことがあるんでしょうか?


『いや、キミ、そういうことじゃなくって、学術的な問題だろ!』ということなんでしょうが、それとは別に、「進化論」には「ダーウィン」も気づいていなかった「別の意味」があるんじゃないか?と思うわけです。


「ダーウィン」が気が付かなかったと言うよりも、時代が進んだことで、その「別の意味」が現れて来たといった方がいいかも知れません。


つまり、人間が「進化という法則」が存在することを知ったことで、いま生きている人間は、近い(いや、遠いか?)将来、自分たちの子孫が、チガウ生命体に変化しているということを予測できるように成ったということです。

要するに、「過去」の「類人猿」の話ではなくて、「未来」の「人類の進化形」についてのことを人間自身が先回りして考えられるようになったということです。


そして、実は、その為にこそ、「進化論」は発見されたんじゃないんだろうか?と私は思うわけなのです。
つまり、自分が「未来の人類の進化」に貢献しているという感覚を持って生きられるということですね。

これは、現在のわれわれにとっては、まだピンとこないことかも知れませんが、いつかはこのことが実感できるように成っていくんじゃないかと思いますねぇ。

今、自分が行っている行為や持っている意識が、「のちのちの人類」を決定する要素になっていくということは、もはや動かしがたい事実と言ってもいいほどなわけで、それが正しいかどうかということではなくて、人間がそれを意識しないではいられなくなっていくわけです。


そうなると、『人生が俄然充実してきます!』なんてことは無いかもしれませんが、少なくとも、少しだけ「生きる目的」が見えてきます。


現代人と言うのは、「生きる目的」を見失いやすい条件の下に生きているんだと思うわけです。


そんなことを考えている暇がないくらいサバイバルな日々を送っていた昔の人たちは、毎日の瞬間瞬間、つまり「その時やってること」こそが「生きる目的」であったんだと思います。

しかし、現在は、そこまでサバイバルじゃないですから、かえって、「生きる目的」が見えにくくなっているわけです。

だからと言って、数百万年後とか数千万年後の人類(もう人類じゃないか?)に対して、今自分がやっていることが、【「天文学的な数字」分の一】の貢献をしているなんていうことが、今の自分の人生にどれ程の充実感を与えてくれるのか?と言うのも甚だ疑わしいことではあります。

ただ、それでも、なにも無いよりはマシだと思うわけです。


それに、現在、一般的に「充実した人生」と考えられているような「人生」とは、実は、「虚栄心を満たされているだけの人生」であったり、「自分の行為に対する見返りに満足している人生」であったりすることが多いわけで、それらは本当の「充実感」とは言えないような気もします。
(「行為自体」に満足しているんじゃなくて「見返り」に満足している場合が多いですね)


そう考えると「未来の人類に対する貢献」と言う、、メマイがするほど遥か彼方の話には、かなり小さめではありますが、「ホンモノの充実感」があるのかもしれませんよと。


まぁ、そんなことを考えてみました。


「正常」と「異常」の逆転



「正常」や「異常」と言う時に、大きく分けて二つの見方があると思うわけです。
それは、「人間的な正常・異常」と「社会的な正常・異常」なんですが、この二種類の「正常・異常」が一致しなくなってきていると思うわけです。


つまり、「社会」に適応している人が、「人間」として見た場合には「異常」であるというケースが出てきているわけですね。
また、その逆に人間的にはまったく「正常」である人が、「社会」に適応できないというケースも増えてきていると思います。


要するに、「社会の要求」に「人間」が付いていけなくなってきているんだと思います。


「社会」が大規模化・高度化したことで、「人間」に対する「要求」が日増しに厳しくなっているわけですねぇ。
しかも、加速度的に大規模化・高度化してますから、たまったもんじゃありません。


それで、「正常な人間」が「社会的に不適応」で、「異常な人間」の方が「社会的に適応」と言う状態が出来上がってきているわけです。


そして、さらに言えば、「現代社会」においては「人間」よりも「社会」の方が、システム的に上位に位置しているという傾向があるわけですから、「社会」が「異常」に傾いた場合、「正常な人間」は排除されるようになって、「異常な人間」の方が常に尊重されるというまさに異常な事態になってしまうわけなのです。

 ※「社会」は「人間」によって構成されているものですから、本来は「社会」が「人間」に
  従属しているハズなんでしょうが、実際には、「社会」には「人間」から独立した「意思」
  があって、その「社会の意思」がシステム上「人間の意思」よりも上位にあるため、「社
  会」が「人間」を無視したり「人間」を苦しめたりすることがあるわけですね。

この「正常と異常の逆転現象」を食い止めないと、どうにもならないような気がしますが、現在の社会機構では、常に「個人」よりも「社会」が優越ですから、自浄作用は期待できません。


おそらく、「異常率」が高くなるにつれて、「異常」同士が食いつぶし合うように成って、自己崩壊するんだと思います。

取り敢えず、それまでは「高みの見物」で、いいんじゃないの?


そんな風には思いたくないんですけどね。



「毒親」と「親毒?」



最近になって、「毒親」という言葉を聞く機会が非常に多いなぁと感じています。

インパクトがある言葉なので、初めのうちは『えっ!毒親?』という感じで、いちいち反応していたような気がしますが、最近はけっこうよく聞くのであまり気にも留めなく成りました。

 ※「毒親」は子供の「毒」に成るような「ふるまい」や「教育」をしてしまう「親」のことです。
  結果的に子供が精神的な抑圧を受けて、何らかの問題を抱えてしまうことに成ること
  が多く、社会的な問題に成っています。
  いわゆる「虐待」もこの一種だと思いますが、ハッキリした「虐待」とは言えないケース
  でも、結果的に子供にとっての「毒に成ってしまう親」を含めて「毒親」と言うんだと思い
  ます。

そして、「毒親」という言葉にケチをつけるつもりはないですが、実は、これ、「毒親」ではなくて、「親毒」なんじゃないの?と私は思っているわけです。


「毒親」と言うと、あくまで「ある種の親」に問題があって、そういう「問題が無い親」には関係ない話ということに成るわけですけど、『それにしては、あまりにも多いんじゃないか?』と思うんですね。

「問題が無い親」が、あまりにも少なくて、最近では、「超・毒親」から「やや・毒親」まで含めると、「ほとんどの親」が少なからず「毒親」なんじゃないか?とすら思うほどです。

そうなると、「毒親」と言うよりも「親毒」と言った方がイイんじゃないか?と思うわけですね。


つまり、「ある種の親」が「毒親」なんじゃなくて、「親」という存在自体が「毒」を持っているということなんじゃないかと思うわけです。


これは、おそらく昔の時代には無かったことで、現代社会が生み出している現象なんだと思います。

本来、「動物の親」は「子供の毒」に成るようなことはしないようにプログラムされているわけですが、現代社会が人間に対して「複雑すぎる要求」を突き付けて来るもんですから、「人間の親」がその要求を処理しきれなくなってきているんだと思います。


「社会の要求」が「人間の処理能力」を超えた時点で「毒親」が急増したんでしょうね。
そして、「毒親」の方が多数派に成った時点からは「親毒」ということに成るわけです。


要するに、「親」が「社会の複雑すぎる要求」に答えようとしたり、それを達成しようとしたりしていくと、結果的に「親毒」が発生してしまうということです。

ということは、それを避けるには「社会の要求」を無視する必要が出て来るわけですが、それは「社会的なドロップ・アウト」を意味しますから、そこでまた別の問題が発生してしまうという「二重のワナ」に成っているわけです。

こういう複雑に仕掛けられた「トラップ」を上手くかいくぐって「毒のない子育て」を達成できる「親」は必然的に限られてしまうわけで、「大多数の親」は「親毒」を発生させて「毒親」に成るわけですね。


そうなってくると、「大多数の子供」が「精神的な抑圧を受けることに成りますから、そのうちのかなりの数の人たちが、何らかの問題を抱えることに成ります。

そうすると、それがまた次の世代にも影響を及ぼすようになるでしょうから、典型的な「負の連鎖」が生まれてしまうわけです。


というか、その「負の連鎖」の状態が現在の「親毒」なのだと思います。


これを食い止めるには、「親毒」が発生してしまうメカニズムを一般的に広めて、そのメカニズムを意識して「子育て」をして行かないと「毒親」になってしまう可能性が高いということを普及させていく必要があると思いますが、『それを誰がやるんだ?』ということに成るわけです。

つまり、そういうことを担当していたのが「親」だったわけで、その「親」が「毒」に成っているわけですから、新しい担当部署が必要なんじゃないのかなと。


そういう風に思いますね。


※追記

『そんなにひどい親ばかりじゃないだろ』と思う人も居るでしょうが、これは「毒親」=「ひどい親」ということではなく、本来、親が選択しなかったはずの「子供の不利益に成ること」を選択する親が増え続けているということです。

「社会」が最優先にするのは「社会の利益」ですから、「社会の要求」に従っていくと、社会的順位が低い「子供」の「利益」が無視されるようになるわけですね。


昔の親はどんな子育てをするにも、基本的に「子供のため」という前提で子育てをしていたと思います。
(社会的逸脱者でなければ)

それが、現在では「子供のため」と言いながら、明らかに「自分の利益」や「世間体」などを優先して、その結果「子供の不利益」が生じていても、それを顧みないような親がたくさんいて、むしろ大多数と言ってもいいくらいです。

でも、これは必ずしも「親」が自己中心的な考えだけでやっていることではなくて、どちらかと言うと「社会の要求」に答えようとした結果だと思うわけです。

要するに、『社会的には良いことをしている』ということに成っているわけです。


つまり、そういう親たちは、それが、これから社会の中で生きていく「子供のため」だと思ってやっているわけです。
だから、多少のことではやめません。
   

「社会の要求」に答えようとし続けていると、何が「子供のため」で、何が「自分のため」で、何が「単なる世間体」なのかがわからなくなってしまうような構造が出来上がってしまっているんだと思いますね。
   

それから、「親毒」を受けて育った子供について言うと、強い「親毒」を受けて育った子供は、当然その悪影響を受ける可能性が高いわけですが、ほんのわずかな「親毒」に反応してしまう子供もいるように思います。


「親毒」は、本来の親には無いはずのモノですから、子供は、それに対してまったく無防備にできているわけで、ごく微弱な「親毒」でも、それを受け続けた場合、意外なほど強い抑圧を感じてしまう子供もいて、結果的には強い「親毒」を受けた子供と同じような影響を受けてしまうこともあるようですね。

むしろ、本当に問題なのはそういうケースなのかも知れません。



   

「AI」は「人間」を教育することが出来るか?



この前、「AI」が「人間」に近づいてきていることについての記事を書いたんですが、それと同じ「AI」についての話です。


「AI」と呼ばれる「人工知能」は、確かに昔に比べれば、かなり「人間」に近づいてきていると思います。
でも、その「人間に近づいた部分」とは、要するに「人間をコピーした部分」であって、本当の意味で「進化」したのは「AI」ではなく「人間の自己複製技術」なんじゃないか?と思うわけです。


まぁ、「人間が創り出すモノ」とはすべてそんなもんだと思いますが、「AI」の場合は、見た感じが「人間そのもの」なので、どうしても「AI」が自分で進化したような錯覚が生まれてしまうんでしょうね。


それはさておき、今回は「AI」がここまで「人間」に近づいたんなら、「人間を教育すること」は出来ないだろうか?というお話です。

役には立ちません。
(いつもですけど)

しかも、「科学技術に関する知識=ゼロ」
さらに、「話題の緊急性=ゼロ」
そのうえ、「道徳的常識感=ゼロ」
はたまた、「オモシロサ=ややマイナス」

という内容には、自らあきれ果てるほどの記事に成ります。
どうぞよろしく。
(ナニが?)


さて、『「AI」が「人間」を教育できるのか?]』ということなんです。


現在、「児童虐待」や「学校のイジメ」の問題が非常に深刻化していて、このままいくと「社会」は崩壊してしまうんじゃないのかと思うほどですよね。

 ※現在の社会が抱えている問題の中でも、「虐待」や「イジメ」は非常に深刻な問題
  だと思いますね。
  「~ハラスメント」なども含めて、「強いモノが弱いモノを虐げる」という形の「暴力」は、
  「人間社会」を崩壊させる可能性もあるんじゃないでしょうか?
  (これ、一種の「共食い」だと思いますよ)
  その点では、「認知症」と双璧だと思います。

 ※一般的に「認知症」は「脳萎縮」によって起きる病気だと言われていますが、私は
  「脳萎縮」は結果的に現れて来る症状であって、実際の原因は「年寄りが尊敬され
  なく成ったこと」だと思っています。
  「社会」の中で尊敬されなくなった「年寄り」が自暴自棄になって「ある種の思考停
  止」に陥り、その結果「脳」の中に全く使われない部分が出てきて、その部分が委縮
  し始めることによって「認知症」が発症するんだと思っているわけです。
  (高齢者が運動せずに生活していれば、歩けなくなってしまうのと同じ原理ですね)
  そして、その「認知症」によって、また、さらに尊敬されなくなってしまうという悪循環が
  起きているんだと思うわけです。
  これは、昔、スラム街で育った子供が、努力してその劣悪な環境から抜け出そうとす
  るのではなく、むしろ、それとは反対に社会の中で落ちていくような生き方をしていた
  のと同じ原理だと思います。
   
  そう考えると「認知症」も「社会的年寄りイジメ」の結果であって、「エイジ・ハラスメン
  ト(老ハラ?)」というような「社会現象」としての性質が強いもので、必ずしも「脳の病
  気」ではないような気がしているわけです。

  そして、これらのすべてが、「強者」が「弱者」を虐げていることから発生しているんだ
  とすれば、つまり、人間同士が喰い合っているわけですから、要するに「共食い」のよ
  うな現象が起きているわけです。
  しかも、「弱者」の側が、自分を排除した「社会」に対する「毒」と成ることで、自らが喰
  われることをもって「社会」の「毒」となって、「社会」を崩壊させるような構造を創り出そ
  うとしているわけです。

かなり、話が脱線してしまいましたが、「教師」が「イジメ」に自ら参加しているケースもあるというような現状で(劣等生の間では昔から良く知られていることですが、ヒドイことをする教師は普通に存在します)、現在の「学校」や「親」に「教育」が出来るのか?という問題があるわけです。


もちろん「マトモな教師」も「マトモな親」も、それなりに居るんでしょうが、少なくとも、かなり逸脱した教師や親がいることも事実でしょう。
そのギャップがある分、「虐待」や「イジメ」を受けた人のダメージは大きくなってしまうような気がします。


その点、「AI」だったら、少なくとも「ギャップ」だけは無くなるのかも知れません。

なにせ「機械」ですから、「感情」はほとんどないわけだし(たぶん)、イライラしたりもしないんでしょう(たぶん)。
それに、異常な偏りのある「変な人」も居ないでしょうし(たぶん)、そうなると、『あれ?意外と「AI」って「教育」に向いてるんじゃないの?』と言う気さえします。

しかし、そうは言っても、その長所が裏返せば短所でもあるわけで、おそらく、「感情が無い(たぶん)」という所が問題になってくるんだと思うわけです。

つまり、「子供の情緒」が育たないんじゃないか?という疑問があるわけですね。


『動物実験でもやってみますか?』

「動物ならどうなってもいいのかよ?!」


まぁ、取りあえず、そこは抜きに考えるとしても、私は、これ、結果的にやることに成るような気がしますね。
それが、良いことなのか?悪いことなのか?ということは別にして、おそらく、数十年後には「AI」が「人間」の教育の一端を担う時が来るような気がします。


現在、既に勝手に床を這いまわっている「お掃除くん」をよく目にします。
(あんまりキレイに成ってませんけどね)

そこから「ロボット・家政婦さん」まではすぐそこでしょうし、そうなれば「ロボット・ベビー・シッター」も『あっ!』という間です。
そこで、「ロボット・先生」を止められる要素ってありますか?


私は『ない』と思いますよ。
「人間」は常に「新しい方向」へ向かいますから。


たとえば、「ひどい虐待を受けた子供」や「イジメから逃れて登校拒否に成った児童」にとって、「ロボット・親」や「ロボット・教師」が「ややマシ」なのか?
それとも「さらにワルイ」なのか?それはわかりませんが、少なくとも、一度はやってみることに成るんじゃないんですか?

『だから、なんだって言うんだ?』と言われればそれまでですけどね。


まぁ、そんな風に思いました。

どうなるのかは、わかりません。




いつも「悪」が勝つのは「勝つことに徹したモノ」だから:~と言うことは「勝敗」を「社会の規準」にしている限りは、「悪」が勝ち続けるということです



小説やドラマの中では、いつもきまって「善玉」が勝つことに成っているわけですけど、現実には、ナカナカそう成らないんですよねぇ。

 ※これは、必ずしも「善・悪」についての話ではありません。
  そういう、究極的な意味での「善・悪」と言うことは、置いといて、「なんとなく悪い人」 
  と「なんとなくいい人」の間の話です。


こういうことって、当たり前になってしまっていて諦めてしまうことが多いんですけど、私の場合は、性格がかなり粘り強く出来ていて、「鉄の忍耐力を持つ男」と言われていますので、まったく諦めるということを知りません。
(すいません「嘘」です)

『お前、それシツコイだけだろ!』

「はい!」
(これは「本当」です)


まぁ、その話は置いといて。


現実に「悪」が勝つことが多いのは「悪」が「勝つこと」に徹しているからだと思うわけです。

この前、ここで「人間にとっての悪」とは「人間に成ろうとしないこと」ではないか?と書いたんですが、「人間であろうとすること」に縛られていない分、「悪」の方が「善」よりも「勝つこと」に徹することが出来るんですねぇ。


「善」の方は「人間に成ろうとすること」という足かせがありますから、少なくとも、そこの所は「勝つこと」に徹することが出来ないわけです。


と、ここまでは、『まぁ、そうだよね、勧善懲悪なんてことは理想に過ぎないんだし・・・』ということで、なんとなくやり過ごしてしまうようなことなんですが、よくよく考えてみると、そういう『まぁ、仕方ないよね』的なことでも無いんじゃないか?と思うわけです。

だって、「悪」が「勝つことに徹したモノ」であって、「善」が「勝つことに徹することが出来ないモノ」だとするならば、常に「悪」の方が有利ということに成りますよね。


一応、「法律」で「悪」を取り締まってはいても、「法の範囲内」や「法の適用外のこと」で「善」と「悪」が対等に勝負した場合は、いつも「悪」が有利ということに成るわけです。


つまり、「勝敗」を「社会の規準」にしている限りは、いつも「悪」が「社会的に有利」であるということですね。


現在、「ブラック企業」や「明らかにアクドイ方々」が、けっこう「社会的に成功」していたりするのは、こういったことからきているんじゃないかと思うんですが、どうでしょうか?


まぁ、こういうことを言っても、『強いモノが勝つ、それでいいんだ!』という方もいるでしょうが、『イイわけないだろ!!』と言いたいですね。

そういうのを「弱肉強食」と言うのはカンチガイも甚だしいとしか言いようがありませんね。


「動物(たとえば猛獣)」には「動物の本質」があります。

だから、その「本質」に沿って「肉食獣」が「草食獣」を捕食することを「弱肉強食」と言っているわけです。
そして、それは「本質」に沿っているからこそ「美しい」わけです。

つまり、「人間」が「人間の本質」に反した行動をとっていながら、それを「弱肉強食」と言って「自己正当化」しようとすることは、それとは逆に醜いことであって、間違っても「美しいこと」でも無ければ、「自然界の摂理」でもなんでもないと思いますよ。

 ※敢えて「自然界の摂理」の中で言えば、「ハイエナ」や「ハゲタカ」のイメージに
  成りますけど、彼らには彼らの本質があって、それに沿って行動しているわけで
  すから、「人間」がそれと同じようなことをすれば、「「ハゲタカ未満」です。
  しかも、「人間の本質」からも随分とズレもてるとすれば、人間界からも脱落してし
  まうわけですね。
  その上、それ以前に相手に「足かせ」があって対等じゃないわけですから「弱肉」
  でも「強食」でもないですよねぇ。
  敢えて言えば「ズル食」ですか?私は成りたくないです。


要するに、「人間」は、いま「人間に成ろうとしているところ」なんだと思うわけです。
でも、まだ、その途中だから、ちょっと油断するとすぐに「人間以前の動物」に戻っちゃうんですね。


そして、「勝敗の原理」と言うモノが、その「人間以前の時代」からずっと持ち続けてきた原理ですから、それを持ち出されてしまうと、アッという間に、そこに引き戻されてしまうわけです。

確かに、「勝敗の原理」は「動物としての人間」が自然界を生き抜いていくために必要な「絶対原則」だったんでしょうが、そこから抜けて「人間」に成ろうということなわけで、もしも、そうでないのならば、また何世紀も前の「殺し合い」や「勢力争い」に戻るということに成るわけです。


もし、「人間」が「人間」としてやっていこう!という前提で考えるならば、今後、「勝敗」という原理を捨てる必要が出て来るんじゃないでしょうか?

つまり、「勝敗」に関わらず「人間性」を「社会の規準」にして行かないと成らなくなると思うわけですね。


これは「福祉」とは根本的に違います。

「福祉」は「人間性」を規準にしているわけではありませんし、「弱者擁護」的な面がありますが、こちらは、「人間性」を規準にして、そちらを「強者」として扱っていくという考え方ですから、そこのところが違います。
(もしかしたら「福祉」はあまり必要性が無くなるかもしれません)


いずれにしても、「悪が有利」っていう世の中って、

『どうなのよ?』

『なんで、こんなことに成っちゃうの?』


そんな風に思いますけどねぇ。


まぁ、要するに、ある意味で「善」は「自然の摂理」を捻じ曲げているところがあるわけですね。

でも、「自然の摂理」は「人間」にとっては、もう「古いスタイル」になってしまっているわけで、「人間にとっての摂理」ではなくなりつつあるということだと思うわけです。


つまり、今後も、「きれいな服」を着て「美味しい食べ物」を食べて、暮らしていきたいのなら、そちらの「新しいスタイルの摂理」に従って行動しなければならなくなるということでしょうね。

だって、「きれいな服」も「美味しい食べ物」も、みんな「自然の摂理」を捻じ曲げて「人間」が勝手に作り上げたものですから。

それとは反対に、もしも、「自然」に帰りたいならば、明日から、泥水を飲む覚悟が必要になりますよね。


私は、そんな風に思いますよ。



「年寄りが尊敬されない社会」



現在の社会って「年寄りを尊敬しない社会」ですよね。
でも、これ、「すべての人にとっての命取り」だと思うんですねぇ。

だって、「すべての人」が年を取るわけですから、最終的にすべての人が自分を尊敬できなく成っていくということですよね。
残された道は「年を取る前に早く死ぬこと」ですか?そんな社会ってどうなんでしょうねぇ。
やっぱり、そういうのって「命取り」なんじゃないでしょうか?

皆さん、自分だけは「尊敬される年寄り」に成るから大丈夫だと思っているんですかねぇ。

 ※尊敬されていないのは「年寄り」や「歳をとること」ですから、自分だけが
  「尊敬される年寄り」に成ってもあまり意味が無いんですけどねぇ。
  たとえばの話、「黒人が差別されている国」で、「自分だけが尊敬される黒
  人であること」にどれほどの意味があるでしょうか?
  その国で「尊敬される黒人」とは、「差別に服従して、うまく白人に取り入った
  黒人」ですから、あんまり良く成ってないですよね(いや悪くなってるよ!)。

それとも、自分が年を取ること自体、ゼンゼン考えていないんでしょうか?

いずれにしても、その時点で自分がまだまだ若いと思っている人が「年寄りを尊敬しない」と思っているんでしょうが、それ、一体あと何年持つんでしょう?
けっこう『あっ!』という間だと思いますよ。

その後は、自分が自分のことを「尊敬できない」ということに成るわけです。
当然、人からも「尊敬」されません。
つまり、誰からも「尊敬」されなくなって、死んでいくことに成ってしまうわけです。

若い時には「年寄りを尊敬しない」と思っていた人が、いざ、自分が年を取って来てから『やっぱり尊敬する』と言いだしても、かえって、人からの「尊敬」を遠ざけてしまいますから、そういう自分を自分自身でも「尊敬し続ける」のは難しいんじゃないでしょうか?

まぁ、どうやっても、この「年寄りを尊敬しない社会」と言う「トラップ」からは抜け出せないと思います。

余程強い気持ちで、この「年寄りを尊敬しない社会」が「社会的なトラップ」であって、誰にとっても「不幸なこと」でしかないんだということを意識し続けていないと、逃れられないと思うわけです。
いや、むしろ、そういう強い意識を持っている人でも、「社会的な意識」が変わらない限りは、その「トラップ」からは抜け出せないと言った方がいいのかも知れません。

とにかくそれぐらい「命取り」なんじゃないかと思いますねぇ。

これは、『一人一人の年寄りを尊敬しましょう』と言うのとは違います。

「尊敬」されるべきは「年寄り」であり「歳をとること」です。
すべての「年寄り」の中に「尊敬できるような人」も「尊敬できないような人」もいるのはあたりまえです。

それを、無理して「すべての年寄り」を尊敬しようとすることには何の意味もないでしょう。
でも、それは「年寄り」だろうが「若者」だろうが「ナニモノ」だろうがどれも一緒です。
全部ヒックルメテ「尊敬できる人」も居れば「尊敬できない人」も居る、当たり前です。
どういう「ククリ」をしても同じだと思います。

そういうことではなくて、「歳をとること」が「尊敬するようなこと」なのか?それとも「尊敬に値しないようなこと」なのか?それとも「単なる劣化」に過ぎないのか?ということなんです。

どうも、今の社会の中では「歳をとること」が「劣化」とみなされているわけです。
とくに日本の医療(日本だけでもない?)は「不健康な期間を長く伸ばす」という方向で「世界的長寿」を実現してしまっていますから、どうしても「歳をとること」自体が「劣化」することと同じことのように見えてしまうわけですが、実を言うと、それは「医療の問題」であって、「歳をとることの問題」とは言えないわけです。

ところが「社会」は「社会にとっての利益」を追求するように出来ていますから、「社会的進歩」や「社会的効率」を最優先するわけです。
そこで「人間の進歩」や「人間の幸福」が捨てられてしまうわけです。
だから、「年寄り」が「人間に貢献する者」であったとしても、「社会に貢献しない者」と判断されてしまえば、「社会」からは切り捨てられてしまうわけです。

「人間」は「社会的な生き物」として進化してきましたから、「人間の利益」が犠牲になっていても、その「社会の判断」に大多数の人が従わされてしまうわけなのです。

その結果として、「年寄りを尊敬しない社会」と言う「トラップ」が生み出されてしまっているわけですね。

そして、さらに、その「尊敬されなくなった年寄りたち」が「自分たちを阻害する社会」に対して「報復」するようになってきています。
そういうことの現れが「老人の認知症」であり、「老人の傍若無人化」であると思います。

 ※私は「認知症」は「脳萎縮」によって起きる病気と言うよりも、こういう「社会現象」
  によって起きている「一種の精神疾患」であり「社会病」だと思います。
  だから、「社会的状況の変化」に呼応するかのように「認知症」の症例が急激に増
  えているんだと思いますよ。
  「脳萎縮」は、むしろ、そうした「精神状態」が形成されたことによって、「尊敬されな
  い自分」という存在を認められずに、その部分の思考を完全に停止させた人の「脳」
  が委縮するように成るんだと思うわけです。
  これは、老人がある時から、歩いたり自分で食事をとったりしなくなったときに、急激
  に自活できなく成ることと似た現象だと思います。
  『尊敬されないことが原因なんだから、尊敬されるようにすればいいだろ』と思うか
  もしれませんが、それは、昔の「スラム街」のような劣悪な環境で育った人に対して
  『社会で認められるように努力して立派な人物に成ればいいんだ』というのと同じで、
  ハッキリ言って、無理です。
  そういう立派な人と言うのは「100人に1人」くらいしか居ませんから(いや「1000人
  に1人」かも)、実質的には居ないのと同じですね。

また、ここで「老人の傍若無人化」と言っているのは、極端に自己中心的で、独善的な老人のことですが、そういった老人が増えている(そう思うのは私だけでしょうか?)のも、「認知症」と同じような精神構造によるものだと思いますね。
つまり、この両者に共通するのは「自分を阻害する社会に対する報復」です。

この「老人の社会に対する報復」は「人間社会」全体を揺るがすほどの問題になっていくと思いますよ。

ということで、長くなりそうなので、そのことは次の記事に続けて書きます。




「老人の傍若無人化」は「社会」が生み出している現象



前の記事の続きです。


前の記事に書いたのは、『「年寄り」は尊敬しましょう』ということなんですが、そんなノンキなことでも無いんじゃないか?というお話です。


「年寄りを尊敬しない社会」を作ってしまうと、すべての人が自分のことを尊敬できなく成って死んでいかなくてはならなくなります。そういう社会は誰にとってもソンだと思うんですよね。
でも、そこまでだったら、なんとなく「気の持ちよう」で何とか成りそうな感じもあるわけです。

『人にどう思われようが気にしないで、自分を尊敬すればいい』とかね。
そんな考え方をすることで乗り切れそうな気もしなくはないわけですよね。
(実際は、そううまくはいかないと思いますけど)

自分のことだけだったら、もしかしたら、それで乗り切って行けるのかも知れませんが、「社会全体」が「年寄り」を尊敬しなくなってしまうと、「自分だけ」ということでは済まなくなるんじゃないでしょうか?

つまり、これは「社会的な現象」であって、「個人の問題」ではないと思うわけです。

現在の世の中は、「個人」よりも「社会」を優先した形態をとっています。
そして、「社会」」は「個人」に対して「社会に適応すること」を要求する性質がありますから、全てにおいて「人間にとって」ではなく「社会にとって」を優先します。

その結果「社会にとって」の「効率」や「進歩」が全面的に優先されるようになって、「人間にとって」の「幸福」や「安定」が無視されるような世の中が出来ていってしまうわけです。

その過程で、「社会」によって「年寄り」が「尊敬されないもの」にされてしまうわけですね。
そしてさらに、その「尊敬されなくなった年寄り」が「自分を切り捨てた社会」に対して報復的な行動をとるようになってきているわけです。

最近になって、「年寄り」が「傍若無人」に成っていると感じることってないですか?

日々の生活の中で、「どー見ても理屈が通らないようなこと」を言って”キレ”ている「高齢者」を見ることが、このところやけに多くなった気がするわけです。

詳しい事情まではわからないことが多いので、その「傍若無人」の程度はわかりませんが、少なくとも「昔の年寄り」のイメージには「温厚さ」とか「年の功」と言った、『多少のことは気にしないで丸く収める』というような「ユルさ」があったのに比べて、「キレやすく」成っているのは確かだと思うわけです。

そして、その「キレやすさ」が、どちらかと言うと「日ごろからたまっている不満」からきているんじゃないかと言う気がするわけです。つまり、その「日ごろの不満」こそが、「年寄りが尊敬されないこと」に因るんじゃないかと思うわけですね。

たとえば、「高齢者ドライバーの事故」が報じられることが日に日に増えているようですが、あれなんかも、そういう「日ごろの不満」があるために、『常に苛立っている年寄りが多いから』という部分もあるんじゃないのかなと思います。
また、「高齢化社会」に成って、「高齢者」の免許を返上させようと言う傾向がありますが、その流れ自体が「年寄りが尊敬されないこと」とイメージ的にリンクしてしまいますから、「意地になって返上しない年寄り」が多くなってしまうんじゃないかと言う気もします。

要するに、「社会」の中で「高齢者」という「層」が「スラム化」しているような気がするわけです。


かつては、どんな文明国にも「スラム」と言われる場所が必ずあって、そこでは劣悪な環境も貧困も退廃も差別も、それらすべてが、日常であったわけです。
そして、そういう環境の中で生まれ育った人たちが、そこから抜け出せずに、またそういう「劣悪なモノ」に成っていくということも、逃れようのない日常であったわけです。

もともと、「スラム」が発生するのは、そこに「差別」や「格差」があるからです。
つまり、「人間としての最低限の権利」が与えられないと、「人間」は必ずや「無気力」に成り、「粗暴」に成り、「堕落」するものなんだと思います。
もちろん、すべての人が「堕落」するわけではありませんが、全体としては必ずそうなると思います。

現在の「年寄り」にも、その「人間としての最低限」が与えられていないと思うわけです。
だから、みんなが「傍若無人」に成るわけじゃありませんが、全体としては必ず「傍若無人化」していくわけです。

「人権」や「教育機会」などが、すべての人に与えられるべきものであるのと同じように、「年寄り」にも「尊敬」が与えられるべきだと思いますね。
それじゃないと、みんながソンしますから。
全ての人が年を取りますから、誰もトクしませんよね。

現在、「スラム」と言われるような場所は、昔に比べれば、かなり少なく成って来ていると思います。
最低限の「人権」や「教育」が行きわたったからに違いありません。

そういう場所にあった「差別」や「格差」の代わりに出てきたのが「イジメ」や「ハラスメント」のようなものだと思います。
「年寄りが尊敬されないこと」も、そういうものの中の一つなんだと思います(「老ハラ」?)。

だから、もう「老化」を「劣化」として扱うのはやめて、「年をとること」と言うのは「ナカナカ素晴らしいこと」なんだという常識感を持つようになっていく必要があると思いますよ。

そういう中で、「美しい老化」と言う「人生の過程」が創り出せればいいんじゃないのかなと。
そこでは、当然「年寄り」の側もそれなりの力を使って「美しい年寄り」に成る必要があるわけです。

それ以前に、医療が『不健康な期間を延ばす』という不毛の努力をやめて、「健康的な高齢化」という方向へ向かってほしいもんだなと。

まぁ、そんな風に思いますね。



「心の病」と「心のケガ」



「心の病」というのはよく聞きますけど、「心のケガ」はあまり聞いたことがないですね。

たとえば、「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」という言葉がありますが、「外傷」というくらいですから、やっぱり「ケガ」の一種なんじゃないかと思うわけです。

それで、何が言いたいかと言うと、、現在「心の病」と言われているものの中のかなりの部分が、どちらかと言うと「心のケガ」に近いんじゃないかと思うわけです。

つまり、今は、一昔前までとは社会的状況がかなり違ってきたために、「内因性の精神疾患」よりも「外因性の精神疾患」の方が、現代の社会においては圧倒的に多くなっているような気がするわけです。

 ※自分の周りにも「心の病」に成った人はけっこう居ますが、その
  人たちの話を聞く限りでは、その人たちのほとんどが「心のケガ」
  なんじゃないかと思いますね。

200~300年くらい前まで、人間は、今よりもはるかに自然と一体の生活をしていたでしょうし、常に自然と対峙して生きていたと言ってもいいと思います。
そういう時代には、今よりも「心の病」が少なかったんだろうと思いますが、その少なかった分と言うのは、ほとんど「心のケガ」に当たるモノじゃないかと思うわけです。

昔も今も、先天的な気質などのような純粋に内因性の「心の病」はあると思いますが、そういうものに関しては、時代や社会状況によってそんなに増えたり減ったりしないよな気がするわけです。
また、自然災害などによる「PTSD」のような、純粋に外因性の「心のケガ」の方もそう極端な変動は無いように思うわけです。

もし、現代に至って急激に増えた「心の病」があるとすれば、おそらく、それは人間同士の心の摩擦が生み出しているストレスによって生み出される「精神疾患」ではないかと思うわけです。
これは、心と心の摩擦によって起きてくるものなので、「外傷」という印象が薄いんですが、やはり、その人自身の中にある原因ではなく、外からの圧力によるところが大きいわけですから、「外傷=ケガ」なんだと思います。

たとえば、「虐待」や「イジメ」それに「~ハラスメント」のようなものは現在の社会では、ありとあらゆる年齢層、ありとあらゆる階層、ありとあらゆる状況で起きていると言っても過言ではないと思います。
というよりも、それらのすべてといっさい無縁な生活をしている人と言うのがいったいどれほどいるのか?と考えると、「心の病」が急激に増えたのも当然だと思いますね。

そして、それらのすべてが、それを「受けた側の人」にとっては「心のケガ」なんだと思うわけです。

こういった状況を考えると、今後、精神科医療の分野に、「精神内科」と「精神外科」が必要に成るんじゃないかと思うほどですが、
(現在、「心療内科」というのはあるようですが、「心療内科」の患者はほとんど「心のケガ」を負った人のような気がしますけど、『だったら「外科」なんじゃないの?』という感じ)
こういうケースでは、「受けた側の人」だけが被害者ということに成りがちなんですが、実は加害者側の人もほとんどの場合は、何らかのストレスを受けていて、そこから逃れようとする一心で、「加害者」になってしまっているわけです。
(そちらを擁護するという意味ではありません)

要するに、ここ数十年くらいの間に、急激に「精神疾患」が増えたのは、そういう「二次的な精神疾患」が増えているからなんじゃないかと思うわけです。


つまり、十人の「心の外傷」を受けた人が居た場合、そのうちの何名かは、そこで「心の病」を発症しますが、残りの人たちは何とか持ちこたえるわけです。
ところが、そのうちの何名かは、しばらくしてからもその時の「心の外傷」を「古傷」として持っていて、その後そこから出た膿を誰かほかの人に向かって吐き出すように成るわけです。
しかも、そういう「二次的な段階」に成った時には、しばらく我慢していた分だけストレスが大きく膨らんでいることも多いので、非常にヒドイ吐き出し方になってしまうことも多く成るわけです。

そして、さらにそういう「二次的な精神疾患」が、親から子へ、人から人へと受け継がれて循環するようなサイクルが出来上がってしまったんだと思います。
そういったことが、この数十年~百年余りで起きたために「精神疾患」が急激に増えたんだと思うわけですねぇ。


まぁ、こういうことが「虐待」や「イジメ」・「~ハラスメント」などの実体ではないかと思いますが、これらのものに現在の精神科医療がほとんど無力といっていいほど対応できていないのは、これらを「心のケガ」として捉えるということが徹底していないからなんじゃないかと思うわけです。
しかも、それらはほとんどの場合「二次的な外傷」であって、本当の原因である「一次的な外傷」はどこで起きたのかが特定できないケースが非常に多いということもその原因だと思います。


そして、その「一次的な外傷」を持った人たちは、その「古傷」を持ったまま、そこから出る膿を人に吐き出し続けることで実際上の「発症(自分自身が「心の病」に成ること)」をしませんから、延々とそれを吐き出し続けることに成るわけです。
つまり、人に向かって膿を吐き出し続けることで、自分自身は「発症」を免れることに成るわけです。
だから、その人たちは「精神科」の門をたたくことはありません。
こうなると精神科医療が、これらの問題に対して全く無力であるのも当然ですね。
(本当に治療する必要があるのは、そっちだと思うんですけどね)

これは、現代社会が抱えている根本的な問題だと思いますから、それを医療とか芸術とか、まして政治とかと言った一つの分野だけで改善するのは不可能だと思いますけど、、社会全体がそちらの方向を向いて行くように成れば少しづつ改善していくんだと思います。

その方向の一つが「心のケガ」という捉え方なんじゃないかと思うわけですねぇ。


現在の精神科治療では、おそらく「心の病」と「心のケガ」に対する対処方法をハッキリとは分けていないと思います。

つまり、「心のケガ」に対しても「心の病」とほとんど同じ治療方法がとられているように思うわけです。
主に薬物療法とカウンセリングだと思いますが、どっちにしても、「外傷」であれば内因性の病に対する療法は効果が薄いのは当然です。
交通事故でケガをした人に「骨を丈夫にする薬」を処方したり、「とっさの時に避けられるように動体視力を鍛えるトレーニング」を受けさせたりすることに、万が一効果があったとしても、それが完全に的外れであることに違いは無いわけですから。


「PTSD」という言葉が一般化したことで、かえって、それが非常に特殊な状況でのみ起きる特別な「精神疾患」であるというイメージが出来上がってしまっていますが、「虐待」や「イジメ」などが、「大規模災害」などとほとんど変わらないような症状を引き起こすことだってあると思いますし、サラリーマンにとっては「冷酷なリストラ」に会うことは、自己のアイデンティティを失う危険性があることなんだと思います。

つまり、「体のケガ」が日常生活の中にいくらでもあるのと同じで、現代社会においては「心のケガ」も日常的な場面のありとあらゆるシーンに『危険がイッパイ』なわけです。
そして、「体のケガ」でも「心のケガ」でも、ごくありふれたところで起きる「ケガ」が「軽いケガ」であるとは限りません.


現在のストレス社会にどう対処すればいいのかは、皆目見当がつかないくらいですが、少なくとも、一つ一つのことを把握していけば、少しは物事が見えやすく成るように思うわけです。


ということで、現在の「心の病」は、ほとんどが、「本人の外」に原因があって、「本人」を治療することの意味は薄いのかなと。
本当に治療する必要があるのは「原因」の方なわけですから。

要するに、「心のケガ」に対して医療が出来ることはほとんど無くて、せいぜい『あなたは病気ではなくてケガをしたんです』と言ってあげることぐらいなんじゃないかと思いますね。

本来なら、「心のケガ」は放っておいても治ってしまうことが多いと思いますが、現在の社会では治る前にまたケガをしてしまうことがあまりにも多いので、慢性的になってしまうわけです。
常に「やる側」と「やられる側」に分かれてしまっていて、やられる人はいつもやられますから、治る間がないということですね。
そして、いつの間にか「自分の内」にも病原を抱えることに成ってしまうわけです。

でも、こういうことを理解しているだけでも、少しは心の支えに成るかも知れません。

まぁ、救いようがないですよね。
でも、これが実体ですから、仕方ないですね。

残念ながら、そういう風に思いますよ・・・・・



「幸福主義社会」



なんで「幸福主義社会」って、今まで無かったんでしょうねぇ?
不思議です。

当たり前すぎるんでしょうか?


でも、意外と「社会」って「幸福」を追求していないんですよね。
「幸福」である前に「利益」だとか「勝敗」だとかを優先してしまうために、いつしか「幸福」が置き去りになってしまうということなんでしょうね。
要するに、「利益」や「勝敗」を掴んだ者が「幸福」も手にするに違いない!という思い込みから、そういうことに成っているわけですが、実は「利益」や「勝敗」を掴んだ者が「幸福」を手に入れられるとは限らないわけです。

少なくとも、現代社会においては、「利益」は過剰気味ですし、ほとんどの場合「勝者」と「敗者」は明確ではありません。

たとえば、北朝鮮のような明らかに「負け組」の国でも、体裁だけはアメリカと対等に渡り合っていたりしますよね。
一昔前なら、一か月で占領されて植民地化されていたと思います。
でも、現在においては「負け組」=「完全な敗者」ではありませんし、「勝ち組」=「完全な勝者」ではなく、多くの場合は『ナントナク対等』に成ります。

けっきょく、アメリカは北朝鮮を支援する立場に立たされますし、北朝鮮はアメリカの支援を受けながら、そのアメリカを非難していられるわけです。
現代はそういう時代なんだと思います。
だから、「勝敗」は「幸福」と直結ではないということですね。

「利益」にしても生産力の高い国では「生産過剰」で、どんどん「利益」が無駄に消費されたり捨てられたりしています。
ところが、その「利益の無駄遣いをしている国」が、「利益が不足している国」の「利益」を吸い上げてしまっていますから、当然いつまでたっても貧乏な国は貧乏なままです。

そして、やはり「利益」が「幸福」に直結していないわけです。
まぁ、無駄に成るだけですから、「幸福」につながらないですよねぇ。


さて、そこで、こんな時代だからこそ、「幸福主義社会」を追求してみてはいかがでしょうか?と思うわけなのです。

『〇〇を追求すれば幸福になるに違いない』その「〇〇」を「〇〇主義社会」と言ってきたわけですが、そうじゃなくて、もうそろそろダイレクトに「幸福」を追求してみてもいいんじゃないのかなと。

『いかなる行政を行えば人間が幸福になれるのか?』
『いかなる教育を行えば人間が幸福になれるのか?』
『いかなる法制度を設定すれば人間が幸福になれるのか?』
『いかなる経済機構を運営すれば人間が幸福になれるのか?』
『いかなる医療が実現されれば人間が幸福になれるのか?』
『いかなる芸術が表現されれば人間が幸福になれるのか?』
『いかなるエンターテイメントがあれば人間が幸福になれるのか?』
『いかなる衣・食・住があれば人間が幸福になれるのか?』

とにかく、ありとあらゆることすべてを「幸福」を基準にして考える社会です。
まっ、ハッキリ言えば「人間の幸福」に限っての話ですけどね。
要するに「人間のエゴ」ですけどね。

いま現在、人間が地球上で与えられている立場をフル活用すれば、けっこう「幸福」になれると思うんですが、どうでしょう?

つまり、他のことには見向きもせずに、ただただ「幸福」だけを追求していけば、いい線行くと思いますよ。
「変な意地」とか「見栄」・「自負心」・「ツマラナイ善意」のような人間の思い込みに過ぎないようなモノをすべて捨てて、「人間の幸福」だけに集中することが出来れば、きっと、「すべての人の幸福」は手に入ると思います。
たぶん、余ると思います。

その「余り」を確認してから、それを「良心」とか「善意」のような「ナントナク無害そうなもの」に少しづつ使っていったらいいんじゃないのかなと。

ハッキリ言えば、これ、「人間にとってだけのエゴイズム」ですけどね。
どうせみんなエゴイストであることからは逃れられませんから、だったら人間だけでも幸福に成った方がトクだと思いますよ。
別に、「エゴイスト」=「極悪」ってわけでもないんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。





人類の「守銭奴化」



「守銭奴」って言うと、すっごく醜いようなイメージがありますけど、実は今の時代においては、ほとんどの人が「その守銭奴」なんじゃないかと思うわけです。
つまり、言い換えれば、人類全体が「守銭奴化」しているということです。
恐ろしいですね。


でも、これ、そんなにオーバーなことじゃないと思いますよ。
現実に、今の時代に生きている限り、誰もが皆「自分の金」を守ることに必死ですし、そう言う考えが全くない人なんてほとんど居ません(もちろん自分も含めて)。
要するに、そういう人たちが生きていかれないような状況があるわけです。

つまり、「いまの時代」というのは「守銭奴」に成らないと生きていかれない時代だということですね。
恐ろしいですね。


言い方を変えると、「いまの時代」は「守銭奴」達がたくさん集まって、ニコニコしながら愛想を使い合って、その実、心の中では「自分の金を守ること」しか考えていないというような、そういう時代であるということです。
恐ろしいですね。


こう言うこと言うと、怒る人がけっこう居ますけど、でも、実際問題として、「守銭奴」的な行動を完全に排除して暮らしていられる人ってどれくらいいるんでしょう?
私はほとんどいないと思いますよ。

たとえば、自給自足の生活をしている宗教団体みたいな特殊な例を除いて、「現代社会」の中で生活している人では、ほとんど居ないんじゃないでしょうか?
(いや、そういう所ですら「やや守銭奴化」しつつある?)

要するに、現在の「社会」や「「経済」が「カネ本位制」に成っているわけで、その「カネ本位」な世の中で暮らしているわけですから、当然「カネ本位」な生き方をするしかないわけで、そうなれば、人類全体が「守銭奴化」するのも当たり前なわけです。

まぁ、「人類の守銭奴化」は当然の成り行きであって、驚く程のことではないということです。
ただ、恐ろしいというだけでね。
そういう風に思いますよ。

この状況を抜け出すには、「貧乏でも幸福な人のモデル」を」を創る必要があります。

でも、たとえば、私なんかも「かなり貧乏」で「そこそこ幸福」なんですが、残念ながら誰からも羨ましがられていません。
しかも、「守銭奴化」から完全には逃れられないわけです。
ということは、「もっと貧乏」で「もっと幸福」じゃないとダメなのか?

『いやぁチョット、もうこれ以上は無理ですわぁ』

そんな感じ。





「依存性の時代」



現在の時代は「依存性の時代」でもあると思うわけです。

おそらく、かなりの数の人がナニカに依存していると思うわけですねぇ。
というか、「依存」から完全に逃れられている人なんているんだろうか?と思ってしまいますね。

もちろん、「薬物依存」や「アルコール依存」のようなキケンな物質に対する病気としての「依存症」に陥ってしまっている人は、少数派だと思いますが、一見すると安全そうなものや行為に対して「依存」している人まで含めれば、ほとんどの人がナニカには依存していると言っても決して言い過ぎではないような気がしますね。

要するに「現在」という時代が「依存」を産みやすい状態なんだと思います。
「現在の社会」で、「依存」を完全に捨てようとすると「現在社会から得られる恩恵」の大部分を失ってしまうような構造に成っているということですね。
だから、なかなか捨てられません。

まぁ、一言で言って「依存」の対象に成っているモノが、ほとんど「文明」や「文化」に属しているわけで、それらのすべてを捨てるということは「現在の社会」から逸脱することに成るわけですし、「社会」が提供している「恩恵」をほとんど受けられないくなるということです。

基本的に、人間は「いいモノ」に依存してしまう性質があるんでしょうね。
逆に、「悪いモノ」には依存しにくいです。
(「薬物」などは、むしろ例外的なモノだと思いますよ)

「いいモノ」に依存するならばいいじゃないかということもあるわけですが、実は「いいモノ」だったモノでも「依存」によって「悪いモノ」に変わってしまうことが多いので、けっきょくヨクナイわけです。

これ、「依存しているモノ」が悪いと考えるか、それとも「依存自体」が悪いと考えるかでだいぶ違ってくるわけですけど、実際には、どんなに「いいモノ」でも、「依存性」が強くなった場合は必ず問題が出て来ると思いますし、今も言ったように「悪いモノ」には依存しにくいと思いますから、「依存しているモノ」が悪いことはむしろ稀で、「いいモノ」であるはずのモノが「依存」によって弊害を生み出すように成ることがとても多いということだと思うわけです。

 ※「薬物」や「アルコール」などの「体に悪そうなモノ」や「道徳的・法律
  的にも悪そうなモノ」も、元をたどれば「薬」だったり「百薬の長」だった
  りということなわけで、実を言えば「依存」によって「ワルイモノ」に成っ
  ていると言った方がいいのかも知れません。


さて、そんな中で、「現在社会からの恩恵」だけは受け取って、「依存の弊害」は避けるような方法は無いだろうかと考えるわけです。
『そんなウマイ話があるわけないだろ!』
まぁ、そうですよね。

でも、この「現在」という時代の状況が、非常に「依存」を生み出しやすい状況で、その状況から逃れられる人はほとんどいないということを意識することで、少しだけマシに成るところはあるんじゃないかと思うわけです。


「ネット依存」や「スマホ依存」などの例を出すまでもなく、「文明」と言われているモノには全体的に「依存」の対象に成りやすい性質があると思いますし、「文明」がダメなら「文化」は安全かと思えばそうでもなくて、例えば「オタク」は「一種の文化」だと思いますが「一種の依存」でもあると思いますから、一概に「文化」が「依存圏外」でもないと思います。
(こういうのは「宗教」や「スピリチュアル」など例を挙げたらきりがないですよね)

つまり、「安全圏」にあるモノなんて無いわけで、ありとあらゆるものが「依存」の対象に成り得ますし、「いいモノ」であればあるほど「依存」してしまうということも言えるわけです。
(当然、「芸術」なんかも「依存」の「圏内」だと思います)

でも、そう言うことを意識したうえで、「文明」や「文化」と付き合っていくと、ある程度までは「依存」を遠ざけておくことが出来るような気がするわけです。

あとは、「依存」しそうなものに対して「障害物」を設定するという方法がけっこう有効だと思います。
つまり、「不便」にするわけです。

「依存」するモノって、たいてい「楽ちん」なんですね。
だから、ついつい抜け出せなくなって、気が付いたときには「依存」にハマっています。

 ※これなんかも「現在」が「依存を産みやすい社会」に成っている
  原因の一つだと思います。
  文明の中でも新しいものほど安直で便利なわけですから、当然そ
  うなるということですね。

そこの所を、敢えて「不便」にしてやれば、メンドクサイので「依存」しにくく成るわけですね。
と言っても、これはあくまで予防的な話で、すでに「依存症」になってしまっている人はそんなことじゃ抜け出せないと思いますけど。

なんか、完全にとりとめのない話になってしまいましたが、
そんな風に思いました。




いま「芸術」が、「最もステキな権威に迎合しない方法」を示す時



「権威」に対して、媚びへつらったり、追従しようとしたり、そこから利益を得ようとしたりすることは、なかなかミットモナイことなんじゃないかと思うわけですが、最近の世の中では、そういう「権威に迎合すること」を、必ずしも「恥」だと感じていない人がけっこう居るような気がするわけです。

30~40年前であれば、「権威に迎合する人」は、たとえば、ドラマの中では、常に悪役にも成れないような「一番ミットモナイ役どころ」だったと思いますし、たとえば、職場の人間関係で言えば、「いやな上司のそのまたテシタ」というタイプの、これまた情けない人の典型という扱いだったと思うわけです。
だから、当然、誰でもそういう人間にはなりたくないと思っていたでしょうし、実際に、そういう人間に成るような人は、あくまで「ややクズな人」という扱いを受けていたと思いますし、また本人もそういう「ややクズ」な自分をある程度は自覚していて、世の中に対して、ちょっとセコセコした態度で生きていたような気がするわけです。

と・こ・ろ・が!
現在は、そんな「クズ」で「テシタ」で「セコセコ」な「権威に迎合する人」が、昔に比べて、やや堂々としてきているような気がするわけですねぇ。
つまり、なんと言うか、市民権を得てきているような気がするんですね。
(いったい、いつの間に?)

そう言うことで、どうしてそんなことに成っちゃったんだろうか?と考えてみたわけです。

私は、こういう所にも、「芸術の影響」があるような気がするわけですねぇ。

現在、「芸術の世界」は完全に「経済」に取り込まれてしまっていて、「芸術の市場」を抜きにプロフェッショナルな(専門的な)意味での「芸術」を考えることが出来なくなってしまっているわけです。

つまり、高い「芸術性」があったとしても、「市場」に受け入れられるような作品を創らないと、、プロフェッショナルとしての評価は得られないわけで、『キミ、なかなかいいモノ創ってるよね』で終わってしまうわけなのです。
(『その高い芸術性とは?』というのは、また別の話ということで)

そうなると、どうしたって、「創作者」は「市場」に対して媚びるように成るわけですね。
そして、そうなると、当然、「市場」が「権威」を持つように成るわけです。
そして、そうなってしまった後は、その「権威」が「絶対的」に成り、誰にも逆らえないモノに成って、そこからは、もう、その「権威」に対して、『迎合するか?迎合しないか?』という二者択一しかなくなって、当然の成り行きとして、「迎合した側」だけが生き残り、「迎合しなかった側」は切り捨てられていくことに成るわけです。
(まぁ、要するに、「経済」と「権威」がくっついてしまうと「絶対的な権威」に成ってしまうということだと思います)

と・こ・ろ・が!
「芸術」は、やっぱり、センスがいいわけです。
そして、「芸術」は「権威」に迎合したとしても、まだ、やっぱり、センスがいいわけです。
(そういうのはセンスとは言わないんだ!というのは、また別の話ということで)

ということは、「芸術」が「権威」に対して迎合してしまうと言うことは、「芸術」が「社会全体」に対して、最もスマートでセンスがいい「権威に対する迎合の仕方」を、提示して見せてしまうことに成るということです。

そう言うことによって、現在「権威に迎合する人」が、やや堂々としてきていて、『なにが悪いっての?』という開き直った感じを漂わせてきているような気がするのは私だけなんでしょうか?
(『あなただけです』「あぁ、ハイハイ」)

少なくとも、現在「芸術の世界」の最も第一線で活躍している人も含めて、「芸術の世界」にそれなりの位置を持っている人で、「市場」に媚びることをまったくしないで活動し続けてきた人は、まぁ、居ないんじゃないかと思うわけです。

というより、積極的に「市場の動向」を読んで活動を展開できた人こそが、現在「芸術の第一線」で活動している人であると言っても過言ではないと思いますね。

さらに言えば、その「読み」こそが「芸術の文脈」と言われて、今、最先端の「芸術の位置」を測るためのツールであると言われていたりもするわけです。

つまり、「権威に迎合すること自体」が「芸術の最先端」を規定することに成ってしまっていて、「芸術の世界」では「権威に迎合すること」が堂々と市民権を得てしまったと言ってもいいほどになっているわけです。

そう言うことが、「社会全体」に普及していった結果、「権威に迎合する人たち」が、なんとなく堂々としてきていて、あの「クズ」で「テシタ」で「セコセコ」な感じじゃなくなってきているんじゃないかと思うわけですねぇ。

その辺が、チョットあまりにも目に余るというか、どうしようもないというか、お下劣というか、とにかく、ただただ悲しいなと。
そんな風に思うわけですが、そういう方々に、『それはちょっとやめましょうよ、ネェ、あなた』と言ってみたところで、所詮、『嫌です!以上。』ってことでしょうから、やっぱり、そこは「芸術」に戻って、そこの所を「最もステキな権威に迎合しない方法」を提示していかないとダメなんじゃないのかなと。

そんな風に思うわけです。 

自分だって、そんなことを偉そうに言えるほどのことなんてまったく無いですけど、でも、そういう方向で四苦八苦しながらやって行こうとするってことぐらいは、誰にでも出来るんじゃないですか?


そんな風に思いますよ。

 ※現在、「市場」の持つ「権威」に迎合しないで「創作」している人が
  いるとしたら、それは、「いま、世間に存在している芸術の世界」と
  は別の「自前の芸術の世界」を持っている人だけだと思いますよ。
  そういう「自分の中の芸術の世界」を持っている人はいるかも知れま
  せんが、そういう人は、その世界の中でしか活動できないわけですか
  ら、人目に触れる機会が非常に少なくなってしまっているというわけ
  ですね。



「幸福」は「その人の意欲」にほぼ比例する?




『人間は、いったい何のために生きているのか?』といえば、けっきょく「幸福」のために生きているんじゃないかと思います。


実際に、『この人、けっこう不幸なんじゃないか?』と思うような状況にある人(差別などを受けている人とかですね)でも、人生の中にほんのわずかな「幸福」を見つけ出すことができれば、それなりに何とか生きていけるんじゃないかと思います。

反面、生きていくのにはそれほど困っていない人でも、自分の人生の中に、一つも「幸福」を見つけられなくなってしまった人というのは、生きていかれなくなってしまうような気がします。

ただ、その「幸福」の捉え方が、人によってかなり違うので、一見不幸に見える人でも、まぁまぁ楽に生きている人がいたり、はた目には何不自由ないように見える人が、突然自殺してしまったりということがあるんだと思います。

そこで、その「幸福」というモノは、どういうことから生み出されているのか?と考えるわけです。
(もちろん、こんなことに結論なんてありえませんから、ただの話ですけどね)


私は、「幸福」は「その人の意欲」にほぼ比例しているんじゃないかと思うわけです。
つまり、『あれをしたい!』とか『こうしたい!』とか、それとは逆に『あれがしたくない!』とか『そうしたくない!』とかですね。
そういう、「欲求」とか「希望」とかといった「望むもの」がある人は、「幸福」なんじゃないかと思います。

反対に、「したいこと」も「したくないこと」もない状態で生きている人(こういう人がけっこうたくさんいるような気もするんですけど、それは、かなり信じがたいことだと思います)は、「幸福」」とは言えないように思いますね。

そういう人が、生きていかれるのは、「不幸ではないこと」を『幸福である』と考えているからなんじゃないかと思いますが、それは、一種の「すり替え」であって、「本当の幸福」ではないような気がします。
だとすれば、そういう人たちは、実は「生きている」のではなく「死んでいないだけ」なんじゃないかと思ってしまうほどですね。
(まぁ、「余計なお世話」でしょうけど)


要するに、「幸福」というのは「見つけ出すもの」でもあるんだと思います。
少なくとも、「あまりにも悲惨な状況」でなければ、自分の人生の中に「幸福を見つけ出すこと」は、そんなに難しいことではないと思いますし、「好き・嫌い」とか「したい・したくない」というようなことに対する「欲求」があれば、そこから、必ず「幸福」は見つけ出されることになるわけで、そういうことで人間は生きていかれるんだと思います。

そういうわけで、「幸福」は「その人の意欲」にほぼ比例するし、「人間」は「幸福」を見つけ出すことができれば、ほぼ生きていかれるし、「幸福」は「ほぼ見つけ出すことができるもの」である。

「完全に意欲を失える人」はいないと思いますから。
それは「悟り」や「解脱」と同じで「人間以上のこと」だと思いますよ。


ということを、「人間未満の人間」が考えてみた。
(説得力、低め)



「人間」は「何世代先の人間まで」を見込んで行動することができるのだろうか?



よく、「エコロジー」のような「地球環境」についての話をするときなどに(いや、別にほかの話でもいいんですけど)、『子や孫の世代に対して責任を持てる行動を~』というようなことを言うことがありますけど、果たして、人間は「何世代先の人間」までを見込んで行動することができるんでしょうか?
それとも、人間にできるのは「今のことを考えることだけ」なんでしょうか?
あるいは、そんなことすらもできないんでしょうか?


『~考えることができるのか?』ということだと、何となく、たいしたことはできそうもないような気がしますし、逆に、『そんなこと、できないとダメなんですか?』という考えも浮かんできてしまうわけですが、『~考えてしまうのか?』ということならば、『きっと、人間は考えてしまうんでしょうね、決してわかりもしない何世代も先のことまでも・・・』と思うわけです。

要するに、人間って、「未来」や「未来の人間」を想定しないではいられないところがあると思うわけですね。
「未来」を無視できる人はいるのかもしれませんが、「未来」を想定しないでいられる人は、そうそう居ないような気がしますねぇ。

「数世代先の未来」だと、みんながみんな想定しているとは限りませんし、いつもそんなことばかり気にしている人は、むしろ稀だと思いますが、「明日のこと」を全く考えないで生きられる人となると、そういう人もめったにいないと思います。

まぁ、人間が「歴史」を記録するようになったことで、「時代」を感じるようになったのは間違いないでしょうし、それらの「歴史」や「時代」が学ばれるようになったことで、「過去」だけでなく「未来」も意識せざるを得なくなったというのも確かなことのような気がします。

そして、その後、人間は「進化という仕組み」があるということに気が付いてしまったわけです。
つまり、「現在の人間の行動や思考」が「未来の人間を決定づけていく要素」に成るということを知っているということですね。

いや、それが正しいかどうか?ということではなくて、人間がそう思っているということですね。
もしも、「進化論」が間違っていたとしても、「現在の人間」が、そこから逃れられないということだけは間違いようのないことだと思うわけです。

まぁ、そんなことを考えていくと、『人間は何世代先の人間までを見込んで行動することができるのだろうか?』ということが、少しだけ具体的なことのように思えてくるわけです。

つまり、『人間は何世代先の人間までを見込んで行動することができるのだろうか?』というよりも、『人間の行動は、何世代先の人間までを見込んでしまうのか?』という感じですね。

「現在の人間」が無意識のうちに考えていることが「未来の人間」に影響を与えていく可能性はあるでしょうし、その「無意識」の中には『その無意識が未来の人間に影響を与えるものである』ということも含まれているわけですから、どっちが「影響を与えた側」で、どっちが「影響を受けた側」なのかがわからなくなってくるわけですね。

こういうのって、面白いですねぇ。とっても。
まぁ、役には立ちませんけど。


こういうことを言うと、『根拠もなく、いい加減なことを言うな!』という人も居らっしゃいますが、『じゃ、その根拠って、ナニ?』っていうと、けっきょく詰まるところ、「定説」なわけです。

「定説」を「根拠」にしなければいけないとすれば、永久に「同じ定説」を使いまわしていかなければなりませんよね。
まぁ、世の中には覚えきれないくらいたくさんの「定説」があるので、それでも困らないんでしょうね。

だから、そういう「定説好き」の人から見ると、こういう話がすごくイライラするんだと思います。
要するに、自分たちがせっかく勉強した「定説」を足蹴にされたように感じるんでしょうね。
(そんなつもりはないんですけどねぇ)
でも、それだと「学のない人間」は何も言ってはいけないということになってしまいます。

『(有名な)誰ソレがこういうことを言っています』みたいなことを「後ろ盾」にしないと、モノが言えないんだとしたら、そんな世の中は、つまらないと思いますよ。

まぁ、そういうわけで、結論なんてありませんけど、こんなことを考えてみたというわけです。




「厭世観」と「厭社会観」



「厭世観」というと、あまりいいイメージがないんじゃないかと思います。
でも、それでいて、『「厭世観」なんてまったく意識したこともないよ』と言い切れる人も、また、そうたくさんはいないような気もするわけです。
(なにせ、この「ストレス社会」ですからねぇ)

でも、最近になって、「厭世観」とは少し違う「厭社会観」というモノがあるような気がして来ているわけです。
そして、その「厭世観」と「厭社会観」がいつの間にか入れ替わっていて、現在、「厭世観」と言われているものの多くが、実は「厭社会観」になってしまっているんじゃないかと思うわけです。
(と言っても、「厭社会観」という言葉は、ここで勝手に作った言葉ですけど)


「厭世観」と「厭社会観」の違いは、「厭世観」が「生きること」そのものに対する拒否感であるのに対して、「厭社会観」は、「自分が生きている社会」に対する拒否感と言っていいと思います。
まぁ、要するに、「厭世観」の方が、より根源的なものということですね。

本来の「厭世観」は「思考することの落とし穴」のようなものだと思います。
つまり、すべての人が、『人はなぜ生きるのか?』とか『何のために生きるのか?』とか『自分はなぜ生まれてきたのか?』などといった「思考すれば必ず行き当たる疑問」に対する答えを与えられずに生きているわけで、それこそが「考えて生きる」ということでもあるわけですから、その「落とし穴」にはまってしまって、「永遠に答えを得られない問い」を繰り返していれば、ほとんどの人が、そのことに疲弊してしまうでしょうし、そういう疲れ切った精神状態から、「生きること」に拒否反応が出てきてしまうのも、むしろ、普通のことなのかもしれません。

いずれにしても、「厭世観」は「考えて生きること」から発生するものだと思いますし、結果的には「やや厄介な状態」になってしまうのかもしれませんが、「考えて生きること」自体が悪いということはないと思いますので、その点においては、それほど忌み嫌うようなものでもないような気がするわけですね。
(「思慮深さ」の裏には、ほとんどの場合「厭世観」が隠れていたりしますから)

一方、「厭社会観」の方なんですが、社会が高度化した現在の社会においては、「生きること」と「社会の中で生きること」が、ほとんど区別できないほど一体化してしまっていて、「人間の生」が完全に「社会」によって包囲されているといってもいい状態になっているために、「厭世観」と「厭社会観」がすり替わってしまっていても、ほとんど意識されなることはないわけです。

 ※現代人は「社会の部品」として、生きさせられていると言ったら言い過ぎな
  んでしょうか?
  少なくとも、「社会」が今よりもルーズだったころまでは、「人間」に「社
  会の部品ではない部分」が、現在よりも多くあったと思います。
  「人間」は、さまざまな試行錯誤を繰り返して、自分たちの生活の中に、そ
  ういう「部品ではない部分」を、ようやく作りだしたわけです。
  つまりは、それこそが、人間の中の「人間的な部分」だと思います。
  ところが、そのせっかく作り出した「人間的な部分」を、「社会」が高度化
  し過ぎてしまったために失いつつあるというのが現状ではないでしょうか?
  それなのに、「教育」などによって、「人間」の中の「人間的な部分」がど
  んどん拡大されていきますから、それに対する「欲求」は高まっていく一方
  で、実際に生活の中にある「人間的な部分」はむしろ減少してしまっている
  のに、「人間的な部分に対する欲求」は拡大しているわけです。
  その結果、昔よりはるかに「楽な生活」や「豊かな情緒」の中に暮らしてい
  るのに、むしろ「人間の感覚」の中では、「人間の生」が完全に「社会」に
  拘束されてしまって、「人間の中の人間の部分」が息もできないほどの束縛
  を感じてしまうという意識が出来上がってしまっていると思うわけです。

  そういう「社会的束縛」に対する拒否反応を、ここでは「厭社会観」と言っ
  ています。
  
  
つまり、「人間」が「社会の中」でしか生きられなくなってしまっていて、「社会から離脱すること」は、現在においては「(部分的な)死」を意味しますから、本来の意味での「厭世観」がそれほど強くない人であっても、「社会」に対して「違和感」や「疎外感」といった拒否反応を感じている人にとっては、「厭社会観」的な意味での「厭世観」が発生してしまうというわけです。

だから、本来ならば「社会に対する不満」や「社会への拒否感」にとどまっているはずの「厭社会観」が「現在という時代」においては、さらに根源的な「厭世観」と、ほとんど同じものに成ってしまうわけです。

ところが、「社会に対する不満」なんて、誰の中にも必ずあるものですから、それがいきなり「究極の苦悩」ともいえる「厭世観」と直結してしまっているということは、「厭世観」から逃れられる人がほとんどいなくなってしまうわけです。

しかも、本来の「厭世観」が、あくまで「知的な苦悩」であったのに対して、「厭社会観」の方はもっと実際的な「生きづらさ」であるわけですから、かえってこちらの方が厄介なくらいで、そこに、さらに本来の「厭世観」まで加わってしまう(区別できなくなる)可能性も高くなるわけですから、そこに捕らわれてしまった人はかなり厳しい状況になるんだと思います。

「現在の社会」で生きていくことを前提に考えた場合、この「厭社会観」から逃れる方法は、なかなか考え付きませんが、少なくとも、「厭世観」と「厭社会観」が、違うものであって、どちらも回避するのは難しいが、必要があって存在するようなものではないということが意識されていれば、どちらも「考えて生きることの一環」としてとらえられるような気がします。

少なくとも、「厭世観」は「生きること」の中にフィードバック(リサイクルと言ってもいいかもしれません)することができるものだと思います。
つまり、「厭世観」を持つことと、「生きること」は、常に相互に行き来する関係だと思いますし、それこそが「考えて生きる」ということだと思いますし、さらに、それは「哲学すること」ともいえるんじゃないかと思います。

一方の「厭社会観」は、さらに実際的な「生活術の中の一ジャンル」と捉えられるもののような気がしますね。
つまり、「厭社会観」を持つことによって、「社会」の中の「自分に不適合な部分」を見分けることが出来るようになれば、それを避けて生きていけるようになるということです。
(ただ、「不適合な部分」がけっこうたくさんあったりするんですけどね)

「厭世観」も「厭社会観」も、それらを全面的に押し広げていってしまうと生きにくくなりますが、むしろ、よくよく観察することで、「自分に適合する部分」を見つけ出すことは可能になるんじゃないのかなと。

そんなことから、この「ストレス社会」の中では、「厭世観」と「厭社会観」を区別していった方がいいんじゃないのかなと。


そんなことを考えてみました。
(実用性レベル=低)



「物質面で生きやすい社会」と「精神面で生きやすい社会」



このブログでは、前から書いていることなんですが、「社会」には「人間(個人)」を阻害する性質があると思っているわけです。

「悪い社会」だから『人間が阻害される』ということではなくて、「社会そのものが持っている性質」の中に、「『人間(個人)を阻害する』という性質」が含まれているということですね。

これは、「今の社会に対する不満」を述べているというよりは、時代が進むにつれて高度化して来た「社会」が「『人間を阻害する』という性質」を日増しに強めてきているという話です。

そして、その「社会の性質」は、今に始まったことではなく、もともと「社会の根本的な性質」であるということを理解しないと、いかなる「政治」も「学問」も、すべてが無に帰してしまうような気がするわけです。
つまり、「社会の進歩」を前提としている限り、「社会」が進歩するたびに「人間疎外」も進歩・発展してしまうということです。
  

要するに、「社会の高度化」を、このまま成り行きに任せておくと、「人間」は「社会の奴隷」に成ってしまうだろうということですね。

「政治」は、基本的に「社会」を肯定するものですし、「社会」を推進し進歩させるものという役割を与えられてしまっているわけですから、そこのところを考え直さないと、「社会を抑制すること」はできません。
そして、その「抑制のきかなくなった社会」が『人間をますます阻害する』ということです。

「政治」だけに限ったことでもないと思います。
「社会」を進歩させると、「人間」がますます阻害されてしまうということが理解されていないと、その「社会」を前提にしたすべてのことが「人間を阻害する方向」で行われてしまうということですから、当然、「教育」も「芸術」も「哲学」もほかの学問も、すべて「人間」を阻害する方向で進められてしまうということです。

 ※完全に「アナーキー(無秩序的)な考え方」であれば、「社会」を前提に
  していないのかも知れませんが、そちらには、また別の問題が発生するの
  は、まず間違いないことでしょう。
  というか、それを、この「秩序漬け」・「文明漬け」の世の中で暮らして
  いながら言っても、あまり意味がないような気がしますね。
  

もともと、「社会」には「『人間を使役する』という性質」があったんでしょうが、過去においては、その「使役」が「人間の利益」に還元される比率が、常に「使役」を上回って向上してきたわけです。

しかし、現在の「高度化した社会」においては、その「伸び率」が次第に低下してきていて、それでいて「人間に対する使役」が増加していますから、どんどん「利益率」が低下していっているわけです。

 ※「社会による人間の使役」については、増加しているというよりも変質して
  来ているといった方がいいかも知れません。
  要するに、「肉体的な使役」から「精神的な使役」に変化してきたわけで
  すが、その「精神的な使役」が、現在に至って、さらに「精神的(知的)な
  作業」から、「ナニカを生み出すことを目的としない精神の消耗」という「不
  毛な労務」に変質したことで、人間にとっての負担が急激に増加したという
  ことだと思います。
  こういう一連の現象をひっくるめて「ストレス社会」というんだと思います。

20世紀中頃までは、「利益の圧倒的な伸び」によって、そこのところが見えなくなっていたわけですが、その伸びが頭打ちになってきたことで、「社会」が停滞しはじめて「ストレス」を抱えるようになり、現在に至っては、「社会の中で生きること」そのものが「ストレス」であるといっていいほどの状況に成ってしまいました。

そして、その「ストレス」こそが「社会による人間の阻害」に他ならないわけです。
だから、そこを抑制しないと、「ストレス社会」から抜け出すことはできないと思います。

要するに、「社会」をこれ以上発展させないほうがいいということです。
それで、肥え太っていくのは「社会」であって、「人間」は「奴隷」として使われるだけです。

 ※例えば、「公共事業」などにおいて「無駄」が指摘されることは多いですが、決して
  なくなりません。
  それは、「社会が根本的に持っている性質」に依って起きていることだからだと思う
  わけです。
  
  道路行政において「道路整備」を望んでいるのは「人間」というよりは「社会」です。
  「人間」は、その「社会」に使役されて道路を作らされますが、その「使役」によって
  「ストレス」を受けた人が、疲れ切ってしまって外に出る気力をなくして、せっかく整
  備した道路を走る人が誰も居なくなってしまうというのが、「現在の社会」の典型的
  な在り方です。
  誰も走りませんからほとんど老朽化しませんが、それでも必ず定期的に点検されて、整
  備されますし、それどころか、しばらくすると、また新しい道路計画が持ち上がったり
  します。
  『この道路はあまり使われていないから』という理由で。
  こんなことが日常的に起きています。
  なぜかといえば、「社会」が要求するからです。
  そして、その「要求」に従って「人間」が「使役」されてしまうからにほかなりません。

今の発想では、何か問題があると、「社会」を改善して「より良い社会」を作ろうとします。
しかし、そのことによって「社会」が進化して発展していってしまうと、結果的に「人間を阻害する社会」も発展して進化していってしまうわけです。

「社会」を「人間」にとって使い心地のいいものにするには、「社会の根本的な性質」を把握して、利用していく必要があるわけです。
そして、その「社会の利用方法」に対する必要性が高くなってきていると思うわけです。

もともと、20世紀中頃までの「利益増加」は、「一つの国の中」にも「国際社会の中」にも、さまざまな不平等があったことによって、局部的に起きていた「利益増加」であったわけで、その「利益増加」の裏には「貧困」や「格差」があったことは、もう誰にも否定できない事実といってもいいわけです。
世界的な不平等の現実が見えやすくなった現在、もはや「濡れ手で粟の利益増加」は見込めなくなっているわけで、そういうことは誰のトクにもならないというのが現実でしょう。

そうなると、「社会」を発展させることの意味は薄くなると思うわけです。

もともと、「人間」が「社会」を発展させ続けてきたのは、「利益」や「効率」を上げるためだったんだと思います。
「社会」を高度化して「より精度の高い社会」を作ることで、「利益」や「効率」を高めれば、それが「人間の利益」にもつながるだろうという考えで、「社会」は、発展し続けてきたんだと思うわけです。

しかし、その「利益の向上」や「効率の向上」が「人間を阻害するもの」としての性質を強めてしまった現在、「利益追求」をあきらめて、「社会による人間の阻害」を低下させる方向に考え方を転換していかないと、完全に行き詰ってしまうと思います。

 ※現在は利益が余っていると考えた方がいいような気がしますね。
  だから、もう利益追求にシャカリキに成る必要は無いと思います。

もちろん、そうなれば、ナントカするしかなくなるわけですから、いつかはナントカなるんでしょうが、できれば早くナントカしてほしいもんだなと思うわけです。

そんなところで、話が長くなってしまったので、次に続けます。



「物質面で生きやすい社会」と「精神面で生きやすい社会」(つづき)



前の記事の続きです。


「社会」には「人間を阻害するもの」という性質があって、現在は、その「社会による人間疎外」が日増しに強くなっているので、「人間にとって居心地のいい社会」を目指すなら、「社会」を理想化したり進歩させたりすることは、むしろ逆効果で、「社会」を抑制する方向で「社会」を「人間」が利用するようにしていくしかないだろうと言う話の続きです。


まず、前の記事では触れていなかったことで、「人間にとって居心地のいい社会」というところに、ちょっとした問題があって、「人間にとって居心地がいい社会」には、二種類があると思うわけです。

それがこの話の本題だったんですけど、「人間にとって居心地がいい社会」には、「物質面で生きやすい社会」と「精神面で生きやすい社会」の二種類があって、しかも、その二種類の社会がなかなか両立しないということなんですね。

過去において、「人間の不平等を前提にした社会」があったために「精神面の豊かさ」と「物質面の豊かさ」が両立しているかのように見えていた時代(「文化・文明の爛熟期」と言われるような時代ですね)があったのは事実ですが、それは特権階級に限定された「豊かさの両立」であったわけで、「その社会全体」を見た場合は、いつの時代も「豊かさの両立」は達成されていなかったと思います。
まぁ、要するに、貧しい人たちがたくさんいたから、ごく一部の特権的な人が「両立した豊かさ」を享受することができたんでしょうね。

その後、そういう「封建制度」が崩壊していくのと入れ替わりに、産業面での飛躍的な進歩があったために、一時期、一般庶民も「豊かさの両立」の片鱗を体験できていたのかもしれませんが、それも長くは続かず、戦争などで寸断されてしまいます。
要するに、「利益」が増大したことで、それを独占しようという動きが出てきたわけですね。
(その頃の一般庶民に、「物質」はともかく「文化」が行き渡っていたというわけではないでしょうが)

それは、おそらく、前の時代の「封建制度」や「中央集権国家」の頃の習慣のなごりで、「利益」や「権力」をかき集めることが、「自分たちの社会」を良くすることにつながるという考えが捨てられなかったからだと思います。

それで、せっかく「民主化」したのに「不平等」を生き残らせてしまったし、けっきょく「国際的な不平等」は、むしろ、拡大してしまったということだと思います。
実際には、「人間」が、この時期から「社会を抑制しながら利用する」という「社会の利用方法」を身に着けていれば、現在に至って「社会問題化」してきていることの大部分が大きな問題に至らずに済んだんじゃないかとも思います。
(まぁ、ほかの問題が出てきていたのかもしれませんけどね)

 ※「社会」に対して否定的な方向性を持った考え方も、あるにはあったんだと思い
  ますが、「自然回帰」や「原始社会」的な方向性の考え方が、実質的に実を結ん
  だことは、ほとんどないと思います(宗教的な閉じられた社会以外では)。
  「社会」を「進歩」させるんでも「発展」させるんでもないのと同じで、「社会」
  を「捨てる」んでも「破壊」するんでもなく「利用」する方法が考えられてこな
  かったということだと思いますよ。

  実際に考えられてきたのは、ほとんど「社会が人間を利用する方法」であっ
  たような気がしますね。

そして、現在、「不平等」という、根拠のなくなった原理を前提に「社会」を構成するという矛盾からは抜け出しつつあるわけですが、やはり、「社会を進歩・発展させること」が「人間にとって居心地のいい社会」につながるという考え方からは抜け出せていません。
(要するに、「カネを絶対原理にした社会」から抜け出せないんですね)

ということは、そこに数十年後の「問題の種」が潜んでいるということに成るわけです。

まず、今でもまだ、「物質面で生きやすい社会」が「精神面で生きやすい社会」につながると思われていないでしょうか?

確かに、「物質的な豊かさ」が「ゆとり」を生み出すことはあるでしょうが、でも、それは、あくまで「最低限の物質的豊かさ」の話であって、「物質的な豊かさ」に比例して「ゆとり」が増えていくということではありませんし、もちろん、それが「精神的な豊かさ」をどんどん生み出し続けてくれるということでもありません。

「物質」であっても「精神」であっても、それらに形を与えて、「ナニカ」を生み出すには「労力」を必要とします。

だから、際限なく「物質」を生み出し続けようとすれば、当然「労力」を使い果たして擦り切れてしまうわけです。
でも、それに比例して「精神的な豊かさ」が与えられることはありませんから、「擦り切れた精神」は癒されません。
それで、「物質面で生きやすい社会」と「精神面で生きやすい社会」がなかなか両立しないわけです。

「精神」を生み出すのにも「労力」が必要なのは同じですが、そこで生み出されるのは「精神的な豊かさ」ですから、そこで「擦り切れた精神」は「その豊かさ」に癒されるわけです。
そこで欠乏するのは「物質」の方ですが、現在「物質」は余っていますから、それほど大きな負担にはならないと思うわけです。

少なくとも、現在は「必要最低限の物質」を生み出すのに、それほどの「労力」を必要としない時代だと思うわけです。
要するに、現在という時代は「物質の価値」が小さくなっていて、「精神の価値」が大きくなっている時代なんだと思います。

それなのに、「物質の価値」に重点を置いた「社会の利用方法」を続けているために、「精神面」が置き去りにされて、「精神欠乏」の状態になってしまっているんじゃないでしょうか?
(どちらかというと、利用されているのは「人間」の方だし)

そうだとすれば、「精神的な価値」に重点を置いた「社会の利用方法」を実践していけば、きっと、いろいろな問題が消えてなくなってしまうような気がしますね。

もちろん、こんなことで、すべてのことがうまくいくわけじゃありませんが、少なくとも、「今」は「問題」を増やすために「社会」があるという状態になっているように見えるわけです。
そこのところの原因がこんなところなんじゃないのかなと、思ってしまうわけですね。

このまま「社会」を発展させていけば、おそらく、ドコカで、ナニカが、行き詰まると思いますから、そうすれば、きっと、ダレカが、ナントカするとは思います。
そういうことは、その時が来れば、どこからともなく「エライ人」がやってきて、やってくれるんでしょう。

でも、それでは、また、次の時代に「問題の種」を受け継いでしまうだけです。
この「追いかけっこ」を続けている限り、いつまでたっても「人間にとって居心地のいい社会」にならないんじゃないのかなと。

『どこかで、追いつかないとネ』


そんな風に思ったわけなのです。


 ※実は、「社会を抑制すること」は一人でもできることだと思います。
  例えば、「仕事」について考えるとき、「収入」をある程度まで無視し
  た考え方を取り入れることは、必ずしも不可能なことではないでしょう。
  現在の社会で生きることを前提にした場合、完全に「カネ」を無視す
  ることは、ある意味で「死」を意味しますから、それは難しいと思いま
  すが、自分の生活の中に「カネ」とは無縁の領域を増やしていくこと
  は可能なことだと思うわけです。

  「カネ」は「人間に与えられた道具」ではなく、「社会が人間を使役す
  るための道具」だと思うんですよね。
  だから、「カネ」から離れた領域を創り出さないと、一方的にコキツカ
  ワレルことに成ると思いますね。
  
  それから、「社会」の最小単位である「家族」に限定して、その「最小
  の社会」を抑制していくことは個人の判断でもできることだと思います。
  (簡単ではないですけどね)





「世の中のデジタル化」による「人間のテシタル化」



世の中が全般的に、ヤタラメッタラ「デジタル化」してきているわけです。

これに対して、反発を感じている人も、特に何も感じていない人も、それなりに居ると思いますが、何よりも驚くことは、「デジタル化」を大歓迎している人が、かなりたくさんいるということなわけです。

つまり、このあまりにも極端に急激な「デジタル化現象」を「とても便利になった」と思っている人が、けっこうたくさんいるということには、どうしても驚愕せざるを得ないわけなのです。

 ※ここで「デジタル化」と言っているのは「デジタル技術」のことではなく「社
  会現象」としての「デジタル化」です。
  つまり、「情報の記号化」ということですね。
  「情報を記号化するシステム」が社会の中で、短期間のうちに、試されること
  なく、領域を拡大してしまったことを「社会現象」という意味で「デジタル化」
  と言っているわけです。

これは、なにも「デジタル化」に限ったことではなく、20世紀以降に成って現れてきた「技術」や「科学」などの「文明の利器」の類には全般的に言えることですが、それらの「新しいモノ」が、どれだけの「利益」に成っていて、どれだけの「不利益」に成っているのかが、かなり不明瞭なのにもかかわらず、とりあえず「新しいモノ」が現れると、もろ手を挙げて大賛成する人が、必ず相当数いるということが、私にはとても驚くべきことのように思えるわけなのです。

たとえば、「原子力」ですが、平和利用だけを考えた場合でも、「リスク」はかなり高いのに、『過去に製造された「核兵器」がどれだけで、その廃棄にどれだけの労力や費用が掛かって、それらが人類を含む地球環境にどれほどの影響を与えるのか?』
こんなこと、わかる人って居るんでしょうか?
そこに統計や試算なんて成り立つんでしょうか?

もちろん、既に存在している「核(原子力)」を、初めから無かったことにすることはできませんから、『今すぐ、非核化すべし!』ということを言っているわけではないんですが、少なくとも、それを「便利になったこと」と考えている人がたくさんいるという状況は”驚き”以外の何物でもありませんね。
(まぁ、これは反対する側にも言えることなんですけどね)

 ※もちろん、これには逆の立場からの話も成り立つと思います。
  核に反対する人は核廃棄物処理などの作業を自分で行うつもりなんでしょうか?
  もしも、その気がないなら、そこを考えてからじゃないと、いくら反対しても、だ
  れも「核」を廃棄することが出来ないということに成ります。
  (もしも、それを徹底してやるとすれば、「徴役制」が必要に成ると思いますよ)
  新しく「原発」や「核兵器」を作らないということはできますが、どんな形であっ
  ても「原子力」が存続しているということは、常に「核のリスク」が存在するとい
  うことに変わりはないわけです。
  (まぁ、完全に無くしたとしても、また作ることはできるんでしょうが)

  そういう状況の中で、『自分は処理作業はしないけど、反対!』というのは、説得
  力に欠けるようiな気がしますね。
  完全に平等な「国民の義務としての核廃棄作業」を制度化することが出来ない限り、
  「核廃棄」はできないと思いますね。
  つまり、「総理大臣」が「核廃棄作業」に回されるかもしれないということです。
  (こんな制度がある国に住んでみたいですねぇ)

  でも、「自分がソンなことは絶対にしない人達」が政治をやっているわけですから、
  そんな制度作るわけがありません。
  (政治家って、「自分が満足する世の中」を作るために成るんでしょ?)
  
  それから、その場合、天皇陛下はどういう扱いに成るんでしょうね?
  そう考えると、よくわかりますけど、「制度」が出来たとしても、まだ足りないと
  思いますねぇ。
  天皇陛下が、廃棄される核施設に送られるようなことがあれば、命がけで止める人
  が現れますよね。きっと。
  本人が行きたいといっても聞かない人が現れるでしょうね。きっと。
  その前に、たぶん「暴動」が起きると思いますけどね。いろんな所で。
  (『皇族廃止!』という話でもありませんよ。)

 ※それから、これは「核」のような「リスクが見えやすい技術」に関してだけ言える
  ことでもないと思います。
  例えば、「自動車」や「飛行機」を例にとっても、それらによる事故で命を落とし
  ている人の数は、それらが十分に「リスクの高い技術」であるということを示して
  いるのは間違いのないことではないでしょうか?

  「原子力」などと違って、それらの「乗り物」を、人命にかかわるような重大な事
  故が起きない範囲で利用していくことは、十分に可能なことであるはずなのにもか
  かわらず、現状において、それをしようとしていないということは、すなわち、そ
  れらの「文明の利器」が「人間」よりも重要視されているということに他ならない
  わけで、それは、本末転倒であると言わざるを得ないことではないでしょうか?
  (はっきり言えば、「原子力」よりも、直接的に死んでいる人の数は多い)
  
  そういった意味を含めて、「文明を抑止する技術」まで備えた技術を、「高度な技
  術」と呼ぶようにしていくべきではないかと思います。

  以上、この記事とは直接関係のない「長すぎる注釈」でした。

そして、「核」以上に、「便利になったこと」が怪しいのが「デジタル化」だと思うわけなのです。

「核」の話だと、「原発事故」や「核兵器」の話になる場合が多いので、「反対派」がかなり多くなりますが、「デジタル化」に関しては、やはり「賛成派」が大多数だと思います。
(「原子力」は「最もリスクが見えやすい技術」で、「デジタル」は「最もリスクが見えにくい技術」です)

そこまでは、わかるんですが、「大賛成派」が、たくさん居るということが”驚き”なんですよね。
要するに、何の疑問も持っていない人が、けっこうたくさん居たりするというのが信じられないんですねぇ。
つまり、「デジタル文明」は、便利なだけのものであって、大きなリスクがないものだと思われているということが信じられないわけですねぇ。

でも、少なくとも、「デジタル化」によって「情報」は、管理されたり操作されたりする可能性が高くなったのは確かなことだと思いますし、それとは逆に、「ネット情報」ほどあてに成らないものは、この百年間ほどはなかったような気がします。
つまり、両方向のリスクがあるということですね。
(この辺で、すでに話が通じなくなってしまうことが多い)

要するに、「ネット情報」には、必ず何かしらの「オモワク」が入っているということですね。
一切「オモワク」を含まない「ネット情報」があっても、ほとんど人目に触れないようになってしまいます。

つまり、「情報」を「記号化」したことによって、管理したり操作したりすることに、ほとんど人的な労力を必要としなくなったわけです。
だから、「オモワク」を最小限のコストで全面的に押し出すことが出来るようになったということです。
それで、資本を持っている者の「オモワク」が極端に肥大化してしまうことに成るわけですね。
こう言ったことから、オモワクによって管理された「嘘ではないが真実性の極めて薄い情報」が大量に流通しているわけです。

さらに言うと、「デジタル化」は「記号化」であり「単純化」でもあるわけで、「デジタル化」された社会では、あらゆる局面において「単純化」が起きることに成るわけです。

「デジタル情報」」でも「アナログ情報」でも、問題なのは内容であって、「情報」が記号化されているか否かは内容とは無関係なはずなんですが、それはあくまで、「一件の情報」に関しての話で、「単純化」された情報が膨大な量になったときには、「内容」などはほとんど問題にされなくなって、とにかく「数量の多い情報」だけがすべてを覆いつくしてしまうわけです。

そして、「最も数量の多い情報」とは、常に「オモワクを含んだ情報」であり、「最も単純化された情報」なわけです。

これは、考えてみるとかなり恐ろしいことで、「情報」が「誰でも簡単に悪用できるもの」に成ったということです。

実際に「サイバー・テロ」という言葉が、普通に使われていたりするわけですし、それが、今言われているよりもさらに暴力的なものに成る可能性は十分にあるでしょう。

つまり、「原子力」と「核兵器」が不可分な存在であるのと同じように、「デジタル化」と「その暴力的な使用法」はセットなわけで、「暴力的な使用法」が開発されてから、『やっぱり、やめとけばよかったのに』と言っても、「核」と同じで、既に存在してしまったものを消すことはできないわけです。
(一度流れてしまった情報を完全に消すことはできません。これは意外と恐ろしいことだと思いますよ。)

これは、ほかのあらゆることにも当てはまることで、何をするにも「リスク」はつきものですから、「技術」が高度化するほどに、当然、「リスク」の方も高くなるわけで、「リスク」を先回りする習慣を身に着けていかないと、「技術」が進歩すればするほど面倒なことばかりが増えていくようになってしまうんじゃないでしょうか?

それに、「リスク」以前に、その「技術」が、『今の人類に必要なのか?』ということが、まったく問われていませんよね。
どう考えても不必要に高度化しているモノが多すぎるような気がするんですが、どうなんでしょうね?

といっても、「大賛成」の人は減りませんけどね。たぶん。

要するに、「進歩すること」や「高度化すること」が絶対命題に成っていて、それを止めようとすることは「ネガティブなこと」であって、「人類の進歩や向上」を妨げる「悪いこと」であるという「思い込み」が出来上がってしまっているような気がします。

でも、実際には、『今も、人類にとって進歩や向上は必要なのか?』ということは、だれ一人問いただそうとしないわけです。
つまり、そういう「前時代的な進歩・向上」が必要なのか?ということですけどね。

要するに、いまだに『進歩や発展が必要不可欠だ』と思っているのは、やや考え方が古いと思うんですけどね。
そういう、人達に限って、『自分たちは進歩的な考え方をしている!だからこそ、新しいものを率先して取り入れるんだ』と信じ込んでしまっているわけです。
まぁ、実際には、進歩的なわけではなくて、その場の流れに身を任せているだけなんだと思うんですけどね。

そして、なぜ、その流れに逆らう人が少ないのかといえば、「社会」や「経済」に要求されるからだと思います。
しかし、それらは、「社会の意思」や「カネの意思」に基づいた要求であって、「人間の意思」に基づいた欲求を無視していることが多いわけです。

つまり、「人間」が「社会」や「カネ」の「手下」にされてしまっているわけです。

というわけで、私は、この現象を「世の中のデジタル化」による「人間のテシタル化」と呼んでいるわけです。

『・・・・えっ、ダジャレ?』

『ええ』

プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

QRコード

QR