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「多様化」と「多重化」



時代とともに、世の中のいろいろなことが「多様化」してきているとよく言われたりしますけど、「多重化」と言うことが言われる機会は、それに比べると少ないような気がします。


私は「芸術の多重化」を目指してやっているんですが、「芸術」だけじゃなくて、他のことでも、もう少し「多重化」と言うことが考えられていいような気がしているわけです。

もちろん、「多様化」がワルイと言うことではないんですが、「多様化」ばかりで「多重化」が少なすぎると言う気がするわけです。


「多様化」はいわゆる「ヴァリエーション」だと思います。
それに対して「多重化」は「密度」だと思うんですね。


まぁ、例えは悪いかもしれませんが、ハンバーガー・ショップで言えば、ありとあらゆる種類の「〇〇バーガー」があるのが「多様なバーガー・ショップ」で、種類を絞って、ベストな食材を組み合わせることで『これが美味しいよ!』と言うのが、「多重化したバーガー・ショップ」と言うようなことだと思います。

そういうと、「多重化した店」の方が、断然いいように聞こえますが、もう一方で、人間と言うのは贅沢にできていますから、どんなに美味しくても、一種類じゃ満足できないということがあるわけで、いろいろな種類の中から選びたいとか、今日は違う種類のものが食べたいということに成るわけです。

現に、チェーン展開しているような店舗では、ほとんどの場合「多様化路線」でやっていますよね。


ところが、なぜか、単独のお店だと、単品メニューの店が人気があったりすることも多くなります。


要するに、チェーン店には、もともと「多様化」を求めている人が行くわけですから、それでいいということでしょうし、単独店には、そういう「多様化」を、それ程求めていない人が行くわけですから、そちらもまた、それでいいということなんでしょうね。


つまり、「多様化」と「多重化」には、それぞれの「向き・不向き」があるということだと思います。


「多様化」と「多重化」の比重にやや偏りがあるために、その辺のところが、見えにくく成っているんじゃないかなと思うわけです。
つまり、「多様化に向いているモノ」と「多重化に向いているモノ」があると言うことが見えにくく成っていると思うんですね。


「芸術」は「多重化」に向いていると思いますし、ここで言う「多様化」には、それほど向いていないように思うわけです。


それなのに、「芸術」においても「多様化」が進められつつあるという印象があって、そういう場面に出会うと、なんとなく場違いな印象を受けることも多いわけです。


「多様化」がイケナイと言うことじゃなくて、「多重化」がソッチノケと言うのが場違いに感じるわけですね。


実際、「現在の芸術」においては「新しいヴァリエーション」を提示することが求められているような気がしますし、その「新しいヴァリエーション」を示しさえすれば、「内容の密度」はそれほど問題にされないという傾向はあると思います。

これは、「現在の芸術」が抱えている「行き詰まり」からきているような気がするんですね。
早い話が、「新機軸」が求められているわけです。

でも、今はもう、一つの「新機軸」が現状を打開する時代じゃないと思うんですね。
そうやって「多様化」することに頼って行ってしまうと、「幅」だけが広がって行って「密度」はドンドン薄まって行ってしまうんじゃないでしょうか?


現状においては、なるべく限られた領域で「多重化」していくことで「芸術の密度」を取り戻して、そこから、新たなスタート・ラインを仕切りなおすような気持ちが必要なんじゃないかと思うわけです。


そういうわけで、出来るだけ範囲を広げずに、狭い範囲で「多重化」していこうかなと。

そういう風に思ってやっておりますです。




「長い題」=詩のような題(その2)



絵に「長い題」をつけることについては前にも書いたんですが、いま、けっこう続けてそういう「長い題」を思いついていて、「絵」とはほとんど関係なく、たくさんの「長い題」がたまってしまっているので、取り敢えず、メモの意味もかねてここに記録しておきます。

とは言え、やはり恥ずかしいタイプの「題」もあるので、『まぁ、これなら人に読まれても耐えられるかな?』と言う範囲のものに成ります。
(前回の中では、『ゴッホへの手紙』と言うのがけっこう恥ずかしかった)

前回の「題」は、ほとんどのものが「作品」と一対に成っていたんですが、今回の「題」については、「作品」との対応関係はかなり希薄で、「題」に対応している「絵」が、まだ、ないものもかなりあります。

かと言って、その「題」に合わせて「絵」を描こうということもないので、順次できた「絵」に当てはまるものがあれば採用していこうと思っています。

『 』の中はその絵を呼ぶときの呼び名(「ニックネーム」)のようなものです。

あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

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ひめられた

そのものの うちに ひめられた
なかみと いうものが あるのなら

そういう なかみを みてみたい

はなの なかみや ひとの なかみ 
いしの なかみに うみやかぜの なかみ

そんな いろんな なかみを みてみたい


『きっと みんな そうおもって いる』んだと おもいます

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じつを いうと 
これが なにかなんて どうでもいいんです


『そんなことより あなたに』
このえのなかで さわって ほしいいのです

そんなことより あなたに 
このえのなかで いきをしてみて ほしいのです 

そんなことより あなたに 
このえのなかの すべてのものに つつみこまれて ほしいのです

つまりは あなたに このえのなかで いきてみて ほしいということです


そうすれば きっと 

これが なにかなんて もう あんまり きにならないと おもいます

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『じぶんより おおきな ものが あると おもって』

それが えがけたら いいだろうと おもって
それが みれたら うれしいだろうと おもって

なんとか えがこうと しましたが 
じぶんより おおきいので えがけるわけが ありません


つまりは そういうえって いうことです
つまりは なんにも えがけやしないって いうことです
つまりは とほうもない じかんを かけて
つまりは ぜんぶの ちからを つぎこんで
できもしないことを やろうとしただけって いうことです

でも それで いいんじゃないかと おもいます
わたしは それで じゅうぶんです


つまりは そういうことが つたえたかった ことなんですから

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みぎとひだりに うえとした
よのなか ふたつに わかれてる

みぎとひだりに うえとした
なんでも みんな わかれてる

みぎとひだりに うえとした
ひとつのものなんて ありゃしない


ひとつのものが みたいなら
つくりださなきゃ みられない

それでも ひとつが みたいなら
ふたつのままじゃ みられない


うん そんなことが できるなら
うん そういうふうに できたなら

ふたつのものは ひとつのもの
ひとつのものは ふたつのもの

ひとつは ふたつで ふたつは ひとつ


そう そんなことが できるなら
そうそう そんなふうに できたなら


みぎも ひだりも おなじむき
うえも したも おなじばしょ

よのなか すべてが ふたつで ひとつ
『そんな よのなかは きっと たのしい』

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もとにもどる そこにかえる

すべての ものは もとの かたちに もどっていく
もといた ところに かえっていく


なににもどる どこにかえる

すべての ひとは うまれた ばしょに かえっていく
じぶんが でてきた せかいに もどっていく


どうせ もどるなら 『なんで そこから でてきたのだろう』

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前回同様、「詩」としては、オソマツな感じがするんですが、「題」なんで、それでいいと思っています。
(私は「美しい言葉」を使うことは出来ないみたいですね)

まぁ、「絵」が少しでも伝わりやすく成ればいいかな?ということですね。

『・・・・・えっ、成ってない?』

「あー、まだ、もうチョットだねぇ」

「線で描けないモノ」は描かない(なるべく)



最近になって、考えるようになったことなんですけど、『「線で描けないモノ」は描かないようにしよう!』と思っているわけです。


以前は、どちらかと言うと「線で描けないモノ」の方に価値があると思っていたような気がします。
たぶん、そう言うモノの方が深みがあると思っていたんでしょうね。
(今でも、そういう絵も好きだったりはしますけどね)

それに対して「線で描けるモノ」と言うのは、どこか単純なモノだろうと思っていたわけです。


でも、最近になって、自分の絵に関する限り、「線で描けないモノ」と言うのは、ただ単に、自分が把握できていないだけなんじゃないか?と思うようになってきたんですね。

その辺を、やや誤魔化して「モヤモヤ」っとした感じに逃げているんじゃないのか?と思うようになったということですね。


それで、『「線で描けないモノ」は描かないようにしよう!』と思うようになったと言うわけです。


そういう考え方をするように成ってみると、確かに、「線で描けないモノ」と言うのは、どこか自分が掴みきれていないというところがあるらしく、「線」で現わそうとすると、思っていたのと全然違う感じに成ってしまったり、また、どう描いていいのかわからなかったりするわけです。

でも、そう言うモノでも、「モヤモヤ」っとした感じで色の変化をつけていくと、ある程度雰囲気が出せることが多いんですね。


そういうのがワルイと言うことではないんでけど、今自分が目指しているところとは、相性がワルイと思うので、『やめよう!』と思ったわけです。


そうやって、絵を描いていると、不定形なモノや流動的なモノでも、自分なりに掴めているものと言うのは、ある程度までは、『線で描けるもんなんだな』と言うことに気が付いたわけですね。


そんな感じで、『線で描けるモノを描いていこう!』
出来ない場合は、『線で描けるように成ってから描こう!』

そんな風に思っているわけです。

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追記:それで、その線で描けるように成ったモノに、
   線ではない「深み」を足していけたらもっと嬉しいですね。





「自立する額」は「額」と呼べるのか?



私は、「絵」だけでなく「額」も作っていきたいと思っているんですけど、それが、なかなか大変で「構想止まり」な状態なわけなんですねぇ。


にも拘わらず「構想」の方だけは、変化していくもので、現在、「二重の額」という「構想」も持っていますし、それに加えて、以前から「自立する額」と言う「構想」も持っているわけです。


「二重の額」の方は、「額」を作りはじめた後から、試行錯誤しているうちに出てきたものなんですが、「自立する額」の方は、どちらかと言うと実際的な問題として初めからあったもので、要するに、「額」が大きくて分厚く成ってしまいそうだったので、重量の問題などから、『こんなもの作ったら、壁に掛けるのは無理なんじゃないのか?』という考えが出てきたというわけです。


ただ、そこで一つ問題があって、『「自立する額」を「額」と呼んでもいいのだろうか?』という疑問があるわけです。


つまり、いくら「額」と言っても、また、いくら「絵」を収める枠であったとしても、自立していたら、それは一個の独立した立体物なわけで、「立体」としての性質が強すぎて、「額」とは言えなく成ってしまうんじゃないだろうか?と言うことですね。


昔の教会の祭壇画には、建築と一体化した、それ自体が建築物の一部でもあり、「額」でもあり、「祭壇」でもあり、「壁面」でもあるというような、大がかりなものもあるようですが、そういった祭壇画における「祭壇」は確かに「額」と呼んでいいモノだと思います。

日本の「床の間」や「屏風絵」や「襖絵」なんかも、それに近い解釈ができると思っています。


しかし、私の考えている「額」はそう言うモノよりも規模の小さいもので、あくまで、建築物の一部ではなく、「絵」の付属物であるという方向ですから、むしろ、「絵」を独立させるための「額」でもあるわけで、「より大きなものの一部分」という考え方はしていません。


そうなると、やはり「自立」=「独立した立体物」と言うことに成るような気がしてくるので、そこのところに、結論が出せないままに成っているわけですね。


まぁ、今のところ「絵」を描くのにいっぱいいっぱいで、「額」については棚上げ状態なので、「保留」のままでも問題ないんですけど、現時点で、自分の中での考え方としては、「自立する額」は「絵の付属物」である範囲で、「額」と呼んでもいいんじゃないか?ということに成っております。


要するに、「絵」にそれなりの「力」があれば、「立体」としての存在感が弱くなるので、それが「額」である範囲を上回ってしまうこともないのではないかと思うわけですね。
当然、「絵」が非力だと、「立体」に吸収されてしまうでしょうから、オブジェのようになってしまうだろうと思います。

つまり、「自立する額」というのは、「立体としての表現」と「平面としての表現」の中間にある状態を作るものなのかも知れません。
そういう「微妙な位置」は、「アリ」だと思います。







「意味」が希薄な部分に「意味」を補充するという作業



私が考えるところの「芸術の多重化」についての話です。


芸術作品に関することの中で、作品自体ではないけれど作品に影響があることっていうのが、けっこうあると思うわけです。


たとえば、私自身がやっていることで言えば、「額」もその一つですし、最近になって考えるようになった「長い題」もそうですね。
(こういうの、まだ、ほかにもあるんじゃないかなぁ?)


そう言う「作品周辺のモノ」って、これまで、かなりナイガシロにされてきたような気がするわけです。


『なんかオシャレじゃないんだよねぇ「額」って』みたいな感じですか?

「題」なんかでも、モノスゴク当たり前の「題」があるかと思うと、正反対に、どう考えても、見た人が作品と結びつけることが不可能な「題」もよくありますよね。


そういう「題」を見ると、たぶん、この作者は、『「題」なんて重要じゃないんだよ!』って言いたいんだろうなと思ってしまいます。


要するに、軽視されているっていうことなんでしょうね。
そういう「作品周辺のモノ」達がですね。


言い換えれば、「意味が希薄」なんですね。

作品との関わりとしては、かなり影響のある近い位置にあるのに、作品を重視することばかりが考えられてきたために、そういう「作品周辺のモノ」の「意味」が希薄になってしまったんだと思います。


そして、そういう「意味」が希薄な部分に「意味」を「補充」していけたら、一つの展開と成り得るんじゃないか?と思っているわけです。


実際は、作品を重視していくと、必然的に「作品周辺のモノ」にも意識が向くというのが自然なんじゃないかと思うわけです。
そういうことが、一つの「芸術の多重化」に成ると思っています。


「現在形の絵」においては、「額なし」が主流になってきていると思いますが、実際には、「額」がないということも、その絵の「見え方」に影響しているわけで、「絵の周辺」と言うスペースが存在する限り、必ずそこに影響が出てくるわけです。


「額装しないこと」も「額装の一種」であるという考え方もあるみたいですし、私もそう思います。
どっちみち影響があるんだったら、もうチョット見直してやってもいいんじゃないか?と思うわけですね。

つまり、そういう「影響がある部分」が、「意味が希薄」な状態のまま、放置されているのはモッタイナイと思うわけです。
(というか、気に成らない方がオカシイんじゃないの?)


いつの時代も、芸術においては、いろいろな人が、いろいろな創意工夫をしていると思いますが、それらは多くの場合「新しさ」を追求しているわけです。


私は、現在の芸術において、「新しさ」とは「スタイルの新しさ」だと思うのです。
「スタイル」は「形式」と言ってもいいと思います。
つまり、作品や表現自体と言うよりは、それらの「形式」が新しいことで「新しさ」を感じることが多いわけですね。

ということは、「新しさ」を追うということは、「作品の内容」とは必ずしも関係のない所での、「形式の新しさ」を追い求めるということなわけです。

そして、「新しさ」が求められ続けた結果として、「内容」が希薄になりつつあるという印象があるわけです。


現在、芸術において「ストレートな表現」を目にする機会が少なく成っていると思います。

みんな純粋な気持ちで始めるんだと思うんですが、その過程で、「新しさ」と「ストレートな表現」の二者択一を迫られますから、どちらかを選んで、どちらかを切り捨てなくてはならなく成るわけですね。


「新しさ」を選択した人は、比較的成功する確率が高くなります。
「ストレートな表現」を選択した人は、評価されにくくなります。
ドッチツカズの人は、絶対に評価されません。

だから、今は、「新しくてストレートじゃないモノ」が多いんだと思います。


芸術表現に、未開拓の領域がたくさんあった時には、作品自体の「ストレートな表現」で、同時に「新しさ」を追求することもできたのかも知れませんが、現在は、「新しさのサイクル」を上回るスピードで開拓が進められてしまうので、未開拓の領域が無く成ってしまったんだと思います。


そういうギュウギュウ詰めの状態の中に、「新しさ」を無理矢理ねじ込む過程で「ストレートな表現」が切り捨てられていってしまうわけです。


そこで、「スタイル」=「形式」の「新しさ」、の部分を、「作品周辺のモノ」でまかなえたら、いいんじゃないかと思うわけです。


それは「作品自体」ではないので、「作品自体」が「ストレートな表現」のために確保できるということですね。


そういったことから、「今まで意味が希薄だった部分」に「意味」を補充していけたら、チョットだけ、良くなるんじゃないのかなと。


そういうことを考えていたりもするわけです。




「カプセル画」という構想(その2):いろいろな「カプセル画」



先日も書いた「カプセル画」についての話の続きです。


前の記事を書いた後で、その記事を読み返している時に、「カプセル画」についての新たな構想が浮かんで来たので、それを書いておこうと思います。


まぁ、これなんかも実現性はまったく無視しての話になりますので、その辺はアシカラズ、ということで。


1 「穴あきカプセル画」構想

前回の記事で「カプセル画」の内部照明について書いているんですが(と言っても、『どうすればいいかわからない』と書いただけなんですけど)、その記事を読み返していて、『「内部照明」が難しいなら、いっそのこと外光を取り込めないか?』と考えたわけです。

それで、「カプセル」に穴を開けてもいいんじゃないか?と思ったというわけです。

ただ、「絵」にも穴開いちゃいますけどね。
まぁ、その辺は所詮「実現性無視」なんで。


2 「(半)透明カプセル画」構想:別名「金魚鉢構想」

これも「1」と同じで外光を取り込むための手段として、透明な「カプセル」に「絵」を描くということです。

でも、これは「絵」としては成り立たないような気がしますので(弱々しい「絵」になりそう)、『却下!』っていう感じですね。
(ただ単に「金魚鉢構想」っていうのが書きたかった!それだけ!!)


3 「球体ステンドグラス」構想

これも、元は外光を取り込むことから出てきているんですけど、「絵」に外光を当てるという発想ではなく、「外光」自体を「絵」にしてしまおうという発想です。

実は、これが今の時点で一番気に入っている構想です。
(と言っても、あくまで「実現性無視」ですけど)

なんと言っても、上も下も右も左も前も後ろも、全方向をステンドグラスに囲まれたらどんなだろうな?というのが気に入っています。

さらに、外側からあてる照明に変化をつけるといいんじゃないか?と思っていて、強い光を当てる部分と暗い部分を作ったり、照明を動かしたりすることで、いろんな可能性が生まれるような気がしています。

『おぉ~、これなかなかいいんじゃないかぁ?』

でも、「実現性無視」なんで、前回に引き続き、興味がある方はやってみてください。
実現出来た方には拍手を送らせていただきます。
(スイマセン、それだけです)

オワリ。

「カプセル画」という構想(その3):「額中球体画」と「チューブ額中立体画」構想



これも「カプセル画」から変化して出てきた構想についての話です。
と言っても、これは見る人が中に入れない「絵」なので、私の中での解釈としては「カプセル画」とは違うモノなんですが、「逆さ・カプセル画」といったところだと思います。


ただし、こちらは立体としての性質がかなり強くなってしまいそうなので、「絵」と言えるのかどうかはよくわかりません。
(『絵なんだ!』とは言いきれないけど、『絵じゃない!』とも言い切れないというところ)


「カプセル画」では、鑑賞者が絵の中に入って、絵に包み込まれた状態で絵を見るということに成るんですが、この「額中球体画」の場合は、絵が額の中に入っています。


絵が額の中に入っているというと「スゴク・アタリマエ」なんですけど、そうじゃなくて、絵が額に包み込まれているわけです。


つまり、透かし彫りのような隙間がある額の中に球体が浮かんでいて、

 ※本当に浮かんでいるのが理想ですけど、無理なんで、なるべく浮かんでいるよ
  うに見せるということに成りますね。
  ちなみに、額を含めた全体も空中に浮かんでいるのが理想ですね。
  『だから、無理だって!』

その球体の表面に絵が描かれているという感じに成ります。

鑑賞者は、外側から額の隙間を通して中の球体画を見るということです。


「チューブ状・額中立体画」の方は、そのまた変形で、同じように絵が額に包まれていますが、その額がチューブ状にいろんな方向にのびていたり、絡まり合っていたりして、その中をいろいろな形に変化する立体が伸びていて、やっぱり、その表面に絵が描かれているという感じです。

こちらも鑑賞者は額の隙間から絵を見ることに成りますが、チガイとしては、「額中球体画」では、鑑賞者が絵の周囲をぐるりと回って360度の方向から見ることに成るわけですが(縦方向でもあらゆる角度から見られます)、「チューブ状・額中立体画」の方は、どちらかと言うと、額や絵自体が重なり合ったり、絡み合ったりして、鑑賞者の視点を誘導します。

もちろん、鑑賞者が移動して見ることもできます。


どちらについても、平面ではないわけですし、「絵」とも言えないような気がしますけど、ただ、「額」に入っています。
ということは、『絶対に「絵」じゃない!』とまでは言いきれない所もあると思うわけです。

まぁ、それで、一応「~画」と言っています。


この二つは、(その2)までの「カプセル画・構想」と違って、「実現性無視」と言うほどではないです。
『やれば、出来る・・・・のかな?』と言う気がしています。

実際、『ちょっと、やってみようかなぁ』と思わないでもないんですけど、『そんなことやってたら、絵を描いてる時間なくなるよ!』ということですから、保留です。


だから、もし、『やってみようかなぁ』という方がいらっしゃれば、『お先にどうぞ』
私は、それよりイイのができそうなら、後から追いかけます。


いずれにしても、私にとって、「絵」は平面であることを前提としていますので、これらは、あくまで実験的な作品と言うことに成ります。


これは「カプセル画構想」全般について言えることですが、この手のモノは出来なくても特に悔いは残らないと思います。


まぁ、「アソビ」の部分と言うことですね。
「リクリエーション」だと思っています。
考えるだけでもけっこう楽しいですよ。

実際に創ったら、そうも言ってられなくなるでしょうけどね。

それでは。






「現実を壊すデフォルメ」と「異現実を創り出すデフォルメ」



「デフォルメ」と言うと「現実の形」を崩していくことを指して言う場合が多いと思うわけですが、「デフォルメ」には、「現実の形」とは根本的にチガウ「異現実の形を創り出す」というような「デフォルメ」もあってもイイんじゃないかと思っているわけです。

 ※本来の「デフォルメ」ではないのかも知れませんが、ここでは一応「デフォルメ」
  ということで話をします。
  「デフォルメ」は『形を崩す』あるいは『形を再構成する』というような意味だと思い
  ますから、『形を創り出す』の場合は「デフォルメ」ではないのかも知れませんが、
  『現実の形から離れる』と言う意味で、それを「一種のデフォルメ」と考えてみまし
  た。  
  おそらく、言語としては正しくないと思います。
   
「壊す」と「創り出す」の違いですね。
そこを重視していきたいわけです。


「デフォルメ」にも、『一度壊した形を再構成する』と言う前提があると思いますから、「創り出す」の要素もあるわけですけど、どうしても「デフォルメ」という言葉は「破壊的なイメージ」が強くなってしまうと思うわけです。

でも、そこを無視して、いっそのこと「破壊的な要素」をなくしてしまって、「創造的な要素」だけの「デフォルメ」を考えてみようというわけです。


そうは言っても、単なる「創造的な要素」だけでは、「デフォルメ」にはなりませんから、「現実の形を抜け出す」ということを前提にしているわけです。

まぁ、要するに、自分がそういう方向で作品を制作しているということなんですけどね。


そうは言っても、コジツケと言うわけでもなくて、そういう方向で制作していると、『これって、「デフォルメ」みたいな作業に成ってるんじゃないか?』と思うことがあるんですね。


一般的に言われているところの「デフォルメ」とは、まったく逆の経路をたどることに成るんですが、「現実の形」を崩すのとは逆に、なるべく何もない所から「異現実の形」を創り出そうとしていると、「現実のナニカ」に似て来るということがあるわけです。

『いやいや、現実の形に引っ張られてはいけないだろう』ということで、戻そうとするわけですが、どうしても戻れなくなる時が出てきます。

そういう「押し引き」の作業が、結果的に「デフォルメ」にとても近いように感じることがあるわけです。
(そういう絵は、「デフォルメ」された絵と似て見えると思います)

つまり、「現実の形」から始めて、それを崩していく過程と、何もない所から始めて「現実のナニカ」に近づいて行く過程が、順序は逆でも、結果的には似たような感じに成るんじゃないかと思います。


『だったら、普通の「崩すデフォルメ」でいいじゃないか?』と言われそうなんですけど、私はその「過程の違い」は大事だと思っているわけです。


「現実の形を崩すデフォルメ」によって制作された作品を見た人が、、最終的に辿り付く所は、やはり「現実の形」なんだと思うわけです。

結果的に、それがどんなに現実離れした形になっていたとしても、そこのところは同じだと思うわけです。
というか、それでないと嘘に成ってしまうと思います。

もしも、「現実の形を崩した作品」を見た人が、もしも、絶対に「元の現実の形」に行き着かないんだとしたら、その人は「何も見ていない」というのが本当のことだと思います。

つまり、「本当のこと」は、何も伝わらないということですね。


それに対して、「異現実の形を創り出すデフォルメ」によって制作された作品を見た人は、そこで「今までに見たことが無いナニカ」に出会うことに成るんだと思っているわけです。

たとえ、それが「現実のナニカ」に多少似ていたとしても、そこは同じなんだと思うわけですね。


もちろん、だからと言って、現実の模倣になってしまってもイイと言うことではないので、「自分の眼」をより厳しくしていかなければならないとは思いますが、少なくとも、それが模倣ではない所から生み出されたものである限り、それを見た人は「新しいナニカ」に出会うことに成るんだと思うわけです。


そこの所が、「異現実を創り出すこと」の「意味」なんじゃないのかなと。

そういうことを思うわけなのです。



「異・リアリズム」と「シュルレアリスム」



私は「抽象表現」の中に「モノを描くこと」を取り入れたいと思っていて、それを「異・リアリズム」と呼んでいるんですが、その「異・リアリズム」の内容を言葉で表すと「シュルレアリスム」に近い感じに成る場合があるわけです。


確かに、「シュルレアリスム」も、やや現実離れした「モノ」を描くという性質があるという点では同じところがありますし、「シュルレアリスム」から、その後「抽象表現」に移行した作家もいたみたいですから、「抽象」と「具象」の中間的な位置にあるという意味では近い所もあるのかも知れません。
(実際の「絵」としては、だいぶ違うと思いますけど)


そこで、自分の考えている「異・リアリズム」と「シュルレアリスム」のチガイを考えてみたいと思います。

ここでは、主に「シュルレアリスム」とのチガイについて考えますが、「他のスタイル」との違いについても、今後考えていきたいと思います。

 ※私の場合「芸術の20世紀」を喪失するという考え方をしていますので、なるべく、
  このブログの中では、「20世紀の芸術」について書かないようにしてきたわけです
  が、『喪失しました』と言っても、実際に消去できるものでもないので、まぁ、少しくら
  いならいいかなと思うように成って来たので、この記事を書こうと思いました。

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まず初めに、「絵」の中で実際に使われる「表現形態」についてです。


いちばん大きなチガイは、「異・リアリズム」(私が考えている表現)においては、「現実的なモノ」を描きません。
少なくとも、極力描かないようにしています。

どうしても、現実から逃れられない部分は出てきますけどね。


その点で、「現実と非現実の対比」という手法が使われることが多い「シュルレアリスム」とはかなりのチガイが出てきます。

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  ※こういうのを「画像」なしで書くのって、不親切かなとも思うんですけど、
   こういうことを「画像付き」で書いてしまうと、それを見た人がなんらかの
   影響を受けると思うんですよね。
   例えば、『マネしちゃう』とかですね。逆に『マネしないようにしちゃう』と
   いう場合もあるでしょうね。
   いずれにしても、ここに書いてあることに縛られることに成ってしまうん
   ですね。でも、「画像」が無ければ「マネ」できないですよね。
   というか、文章だけを読んで参考にしても「マネ」にはならないでしょ?
   「マネ」って、実は「された人」じゃなくて「しちゃった人」にとっての「悲しい
   こと」だと思うんですよね。
   「画像付き」だと、もし、読んだ人が『これ面白いんじゃない?』って思った
   としても、そこから先は「マネするかマネしないか」しかなくなってしまうん
   ですね。「マネしない場合」は読んでも「意味」が無いし、「マネした場合」
   「悲しいこと」ですよね。
   まぁ、私の絵なんて、誰も「マネ」なんかしないでしょうから、心配しなくても
   大丈夫なんでしょうが、やっぱりせっかく記事を書くんですから読んだ人が
   『いいんじゃない?これ』と、万が一にも思ってくれたときに、少しでも参考
   にしてくれたら『嬉しいな』と思うわけですね。
   それで、「画像なし」にもかかわらずこ、こういう記事を書いたりするわけな
   のです。

   と言っても、実を言えば「デジカメ」持ってないという、単なる貧乏人なので、
   エラソウなことを言うつもりはありませんけど。

   追記:その後、「プロフィール欄」の「イメージ画像」と「サムネイル画像」を追
       加しました。上に書いてあることとはやや矛盾するんですが、この記事
       は一か月ほど前に書いたもので、その後、オークションで激安だったの
       でデジカメを購入し、それらの画像を投稿しました。
       (と言っても、デジカメの性能について知識が無いので本当に安いのか
       どうかもよくわからないんですけどね)

       そちらの画像は私の絵ですが、全体像ではなく一部分を拡大して切り
       取ったものです。

  再追記:さらに、その後「一枚だけの展示室」というカテゴリに、自分の作品を、
       一枚だけ展示するようになりました。
       上記のこととは、矛盾すると思いますが、ここでの話とそちらの作品との
       対応関係が、はっきりしているわけでもありませんのでご容赦ください。

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どうでもいい説明(イイワケ)が長くなってしまいましたが、続けます。


「シュルレアリスム」の場合、イメージ的には「非現実的」ですが、「現実を使わない」という方向性は弱いと思います。
むしろ、積極的に「現実」を描いていることが多いです。

実際、「シュルレアリスム」の絵では「現実」と「非現実」の対比によって、不思議な世界感を生み出していることが多くて、「現実的なモノ」と「非現実的なモノ」を直接対比させていたり、「現実的な背景」に「非現実的なモノ」を描いたり、「現実的なモノ」を「非現実的な状況(状態)」の中に描いたり、と言った「現実」と「非現実」の「対比」に特徴があると言ってもいいと思うわけです。


それに対して「異・リアリズム」においては、出来るだけナニもない状態から始めて、『そこに、ナニカを創り出す』ということを目標にしています。

つまり、「形」も「色」も「空間も」世界」もない状態ですね。
そういう状態から、そこに「異現実」の「空間」や「世界」を展開できたらイイなと思っているわけです。

そして、「その世界」、「その空間」の中に、『今まで、どこにもなかった「モノ」を創り出して、描けたら嬉しいだろうな』と思っているわけです。

ですから、当然、「現実」は出てこないわけです。

ただし、これはあくまで「理想」ですから、そうウマクはいきません。
やっぱり「現実」に引きずられてしまいますし、一旦、「現実」にとらわれてしまうと、そこから逃れられなくなるということはあります。

でも、少なくとも、積極的に「現実」を使って表現するということはありませんし、むしろ、出来る限り「現実」から切り離して絵を描くようにしています。

この「現実の有無」ということが、見た目としては一番大きなチガイだと思いますね。


次に、「思考的な方向性」のチガイです。


「シュルレアリスム」では「人間の潜在意識」を重視していて、「潜在意識」が人間の「真実」や「本質」に近いという考え方だと思います。


ところが、私の場合は「世界全体の本質」について考えてしまったわけですね。

それで、「世界というモノ」を現したいと思ってしまったわけです。
まぁ、当然無理です。

大き過ぎますからね。

でも、現したいわけです。

自分より大きいモノなんて見ることすらできませんから、現わせるわけがありません。

でも、やっぱり現したいわけです。


それで、仕方なく、「現そうとすること」で我慢することにしたわけですね。
つまり、そういうのが私のやっている「異・リアリズム」です。


チョット長くなってしまったので、次に続けます。




「異・リアリズム」と「シュルレアリスム」(つづき)



前の記事の続きです。


私が考えている「異・リアリズム」と「シュルレアリスム」のチガイについて、「表現形態」としては「現実」を使うか使わないかというチガイ、「思考」的には、「人間の潜在意識の探求」と「世界の有り様の探究」というチガイがあるということを前の記事に書きました。


そして、もう一つ、これも「表現」についてのチガイなんですが、「リアリズム」と「異現実のリアリズム」のチガイについて書いておこうと思います。


一般的に言うところの「リアリズム」は「写実」ですね。

つまり、「現実」を写し取ることです。
でも、私の場合、「異現実」を創り出そうとしているわけですから、当然、写し取るべき対象が存在していないわけです。

だから、創り出さないとならないわけですね。


それで、その「創り出す作業」にすごく時間がかかってしまうわけですが、さらに、その創り出した「世界」や「空間」や「モノ」を現すのに、「現実」を現すのと同じ「リアリズム」でいいんだろうか?と考えたわけです。

それで、「リアリズム」自体も創り出すハメになったということです。


つまり、「写実」ではなくて、「写・異現実」ということです。
その「異現実」の部分だけでなく「写」の部分も創り出そうということですね。

と言っても、前述のように、「写し取るべき対象」がまだないわけですから、「出来たモノ」を「写し取る」というよりは、「創り出しながら現わしていく」ということに成ります。

そういう作業を「異・リアリズム」と呼んでいるわけです。

 ※これを「抽象」と呼ぶか「具象」と呼ぶかは、見た人の自由だと思いますが、
  私自身はどっちでもいいと思っています。
  ただ、『抽象寄りかな?』と言う程度の意味で、『抽象なんだけど、モノを描
  こうと思っているんだよ』と言っているわけです。


その「異・リアリズム」の特徴を言うと、前にも記事に書いたことがある【絵画空間における「空」と「壁」】とか、【絵画空間における「接地」と「浮遊」】とかといった、「現実の世界」では、どちらかに決まっていることを曖昧にすることで「現実感」から離れた「異現実感」を生み出そうとしていることです。


「空と壁」というのは「抜けていく空間」と「行き止まりの空間」です。

「接地と浮遊」は文字通り「着地している」か「宙に浮いている」かということです。

これらのことは、「現実の世界」では物理法則などの自然の法則が支配していますから、必ずどちらかにカッチリ分かれているわけです。


だから、そこを曖昧にすることで、『これは現実じゃないぞ』という「異現実感」が生みだせるわけです。
これは「平面(絵の中の世界)」でしかできないことだと思っています。

 ※「写真」や「映像」で、これをやると「トリック」=「だまし」になってしまうと思います。
  「絵」でも、やっていることは「トリック」なんでしょうが、「絵」自体が一種の「トリッ
  ク」なので、「絵の中の世界」という約束事の中で、それをやっても、「だまし」には
  ならないということだと解釈しています。


また、「質・量」というのもそれらと同じような性質があると思います。

「モノ」を描くときに、その「モノ」の「質感」や「量感」を曖昧にすることで、やはり「異現実感」が生まれると思っています。


「リアリズム」では、「モノ」を描くときに、その「モノ」の「質感」や「量感」を上手く現せると、「リアル」に成るわけですが、それとは逆に、「質感」や「量感」を曖昧にすることで「異・リアル」に成るわけですね。

つまり、「リアリズム」では、布を描くときは「布らしいソフトな質感」を描き出せば「リアル」になります。
金属を描くときは「金属らしいハードな質感」を描き出せばいいわけです。

「量」で言えば、「小さいモノ」が小さく、「大きいモノ」が大きく見えれば「リアル」になるということです。


でも、目指すのは「異・リアル」ですから、そこを曖昧にするわけです。
(と言っても、まだ名前が無いモノを現すわけですから、それ自体が曖昧とも言えるんですけどね)

ただ、そこで、ただ単に曖昧にしたんでは、表現としての力が弱くなってしまうので、その「曖昧さ」を「リアル」に描き出そうとするわけです。

それが、「異・リアリズム」に成ります。


こういう、二極を成していると考えられているような「遠・近」とか「大・小」などだけでなく、「陽と陰」・「物質と精神」・「定型と不定形」なども含めたさまざまな意味で、二つのモノを一つに出来たらいいなと思っているわけです。
(なかなかうまくはいきませんけど)


「臨場感」や「ナマナマしさ」はあるのに、「現実感」はない。
そういう「異・現実感」を創り出したいわけですね。


敢えて言えば、この『生々しいのに現実感はない』というところが、「シュルレアリスム」との共通項かも知れませんね。


以上が、「異・リアリズム」と「シュルレアリスム」のチガイについての大マカな説明です。


そのうちに、今度は「抽象表現主義」や「アンフォルメル」とのチガイを書こうと思います。

『いえ、もうケッコウです!』

どうも、ご意見ありがとうございます。

ではまた。




「画面の縦横比」について



私の場合、「画面の縦横比」に既製品の比率と少し違う比率を使いたいので、「木枠(パネル)」を自分で作っているんですが、その「画面の縦横比」についてです。

 ※「木枠」を作り始めたころは、ベニヤを貼ったパネル状にしていなかったんですが、
  ベニヤを貼っていない「木枠」の場合は、一番外側の辺に当たる部分よりも、その
  他の枠の高さが、少し低くなるように、木を斜めに切る必要があるので、その作業
  において、大掛かりな工作機械を使わずに、正確に切るのは大変なので、最近で
  は、表面にベニヤ板を張ったパネルにしています。

  ベニヤ代で、コストが少し上がりましたが、手間と時間は減らすことが出来ました。
  電動丸鋸と、その丸鋸のための正確なガイドがあれば、多くの人が「木枠」を自作す
  ることが出来ると思います。
  ガイドを自作する必要がありますが、「木枠」をとても安く上げることが出来ます。
  たぶん、一枚のパネルにかかる費用は、100号くらいの大きなパネルでも1500円前後
  だと思います。
  簡単な額ならば、それよりもずっと安くできます。
  貧乏な人はやってみてください。
  お金持ちの人はやらないほうがいいと思います。

私の場合、今の時点で使っているのは「16:17」と「7:11」の二種類です。
大きさには関係なくこの二種類の比率で統一しています。

先ず、疑問に思う方が多いと思いますので、「16:17」の比率についてですが、なんで正方形の「S・サイズ」じゃなく、わざわざ手間をかけて木枠(パネル)を作ってまで「16:17」にするのか?

『そんなの、同じようなもんだろ!?』と思う方が多いと思います。


これは、私が絵の中に「枠」を描き込むことを決めているからで、この「16:17」の比率の場合、基本的にわずかに縦長の向きで(「16」が上辺と下辺で「17」が左辺と右辺ということです)、絵の中に「枠」を「上・下」または「左・右」の二辺に描くということが決まっているので、その「枠」を描き入れた場合に「正方形」だと、どうしても、自分が気に入った感じに成らないので、仕方なく自分で木枠を作っているというわけです。

要するに、錯視効果で「正方形」に見えなくなるということなんですね。
その何ともチュートハンパな「正方形」がゆるせなかったわけです。
(了見が狭い人間なので)


「正方形」は安定した形だと思っているんですが、「枠」を入れるとどうも安定しません。

「上・下」に「枠」を描き入れた場合、非常に中途半端な横長に見えてしまうし、「左・右」に描き入れた場合は何となく構図がとりにくくなってしまうんですね。

構図の中に漠然とした部分が出来てしまうような気がするわけです。


つまり、「16:17」の比率に関しては、「枠」を上下に入れたときに、結果的に正方形に近い形に見える比率であり、「枠」を左右に入れたときは、「F・サイズ」に近い感覚で構図が取れる比率だということです。


「7:11」の方は基本的に長辺にしか「枠」を描き入れません。
それを縦長、または横長にして使います。

「7:11」の比率でもそれなりに細長いかたちになりますが(MとPの中間くらい)、そこに、さらに「枠」を描き入れますから、かなり極端な縦長または横長の構図に成るわけですが、それでも何とか構図が取れるギリギリの比率が「7:11」ということです。


つまり「7:11」の比率に関しては、出来るだけ細長い構図を使いたかったということですね。


要するに、縦横の長さが同じように見えるものと、縦横の長さの違いが最も大きいものの二種類ということです。


まぁ、私の場合は、たまたま「枠」を描き入れるということから、「画面の縦・横比」にこだわりが発生してしまったわけですけど、こういうことから、「自分らしさ」って言うモノは生まれてくるものなんじゃないのかなと。

そんな気もするんですけど、どんなもんなんでしょうか?


そういう「自分らしさ」を形作っていくことが、自分の「スタイル」につながっていくように思います。


「スタイル」は必ずしも「芸術表現の核」を成すものではないと思いますが、「自分らしさ」を突き詰めていけば、そういう「核」に行き当たることもあるんじゃないかと思っています。


だから、けっこう大変なんですけど、木枠の自作は続けていこうかなと。
   
まぁ、そんな風に思っていますよ。
(それにしても木枠作るの疲れる)



「複雑明快」 (その2)



だいぶ前に書いた記事で、「複雑明快」ということを目指していると書いたことがあるんですが、その「複雑明快」についての話です。


「単純明快」というのはあるのに、「複雑明快」や「複雑難解」や「単純難解」などはないですよね。
でも、その中で「複雑難解」と「単純難解」は無くてもイイかな?とも思うわけですが、「複雑明快」だけはあってもイイだろうと思っているわけです。

というか、私の場合は『あってもイイかな?』というだけじゃなくて、むしろ、そういう「複雑明快」を積極的に目指していきたいと思っているわけです。


確かに、「単純明快」はわかりやすくていいんですが、「単純明快」に現せることっていうのが、どうしても限られてしまうわけです。

当たり前ですが、「単純なこと」しかあらわせませんからね。


どうしたって「複雑なこと」をあらわそうとすれば、やはり、「単純明快」というわけにもいかなくなるということですね。


もちろん、「複雑なこと」を「単純明快」に表現出来たら一番いいんでしょうが、実際は、なかなかそうもいかない事の方が多いわけですよね。


それで、どうしても「複雑」に成らざるを得なくなるわけですけど、そこで、なんとかその「複雑」をチョットでも「明快」に表現できないだろうか?

というのが、私が目指している「複雑明快」ということなわけです。


そこで、実際の表現において、どういうことを「複雑明快と言っているのか?ということです。
私の場合は、「絵」を描いていますので、「絵画表現」における「複雑明快」についてということになります。


まず、「複雑」の部分ですが、「絵」に限らず、「芸術」がわかりにくくなる時というのは、ほとんどの場合「抽象表現」が関係していると思うわけです。

こういうことを「抽象がワカル人」と「抽象がワカラナイ人」が居るということにしてしまいがちですが、実際は、「誰にもワカラナイ」というのが本当だと思います。


具体的な表現力のないモノを『ワカレ!』というのは、「無理」と言うモノです。
そして、そういう「具体性のないモノ」を「抽象」と言っているわけです。

 ※少なくとも、現在、芸術の場において「抽象」と言われているモノは、
  「具象性を排除したモノ」ということに成っているわけで、表現としての
  具体性を持つことを、封じられてしまっているわけですから、仮に、作
  者にはワカッテいても、見た人には、まぁ、伝わりません。

  それでも「抽象がワカル人」が居るのは、一見、具象性が排除されて
  いるように見えている作品の中にも、目立たないように、かすかに具象
  性が隠されていることがあるからで、それを見逃さないように目を凝ら
  して見るような、そういう人も居るということに過ぎないわけです。
  その場合は、その人がワカッタのは「抽象」ではなく「かすかな具象」の
  部分ですね。「かすかな具象」を見つけ出す眼力には価値があると思い
  ます思いますけど、「抽象」がワカッタというのとは違うと思います。

  あとは、その人が、「抽象であること」それ自体を「芸術表現」であると
  考えている場合ですね。そういう場合は、作品の内容ではなく、「それが
  抽象であること」自体で、その人は『ワカッタ!』と思うわけですから、
  「抽象であること」を示しさえすればいいわけです。
  その場合は、その人は「抽象」を作品とは無関係に受け入れているわけ
  ですから、作品の中の「抽象表現」をワカルか否かということとは無関係
  に、はじめから「抽象」を受け入れているということですね。
  そんなことをする意味はないと思います。

「抽象表現」自体は、決して「複雑なモノ」とは限らないハズなんですが、それが、「誰にもワカラナイモノ」に成ってしまっているので、見る人は、「複雑な思考」を要求されてしまうわけです。

こういうのが、ここで言うところの「複雑」に成ってしまっているわけですね。


と、まぁ、こんな風に言っているんですが、私の場合は、「抽象画」をやっているわけです。
それで「複雑明快」が必要に成ってきたわけなんですねぇ。


「芸術表現」を推し進めるために「抽象表現」が必要だったのは間違いないことだと思います。

「具象」に固執していたんでは、「現実」の範囲から出られませんし、現在は、「現実」を「芸術」で表現する必要性が薄くなっているわけですから、「現実ではないナニカ」を表現するしかないわけです。

それで、物事の本質を表現しようという「抽象表現」が必要に成ったということだと思います。


まぁ、そこに、やや面倒な「複雑」がついて来てしまったということですね。


さて、そこで、今度は「明快」の方ですが、「複雑なモノ」をどうやったら「明快」に現すことができるだろうか?と考えたわけです。
そして、先ほど述べたところの「具体性」を見直してみようと思ったわけなのです。


「抽象」がわかりにくくなるのは、「抽象」だから仕方ないことなのではなく、「具体性」が排除されてしまうからではないか?と思うわけです。

つまり、「抽象表現」の中に「具体性」を取り込むことができれば、「ワカル抽象」に成るんじゃないか?と思ったわけですね。


「抽象」と「具象」を二極対立的な構図で捉えてしまうから、「具象」を排除しなければ「抽象」ではない!ということに成ってしまいますし、「具体的な表現」を使うと「抽象」ではない!ということに成ってしまいますが、実際には「抽象」と「具象」は両立してきましたし、むしろ、どちらも単独では成り立たないと言ってもいい程なわけで、無理矢理に、一方を排除しようとしてきたことの方がよほど不自然であったわけです。

だったら、「具体性のある抽象」があってもいいだろうと思うわけです。

つまり、「抽象的なモノ」を「具体的」に現わせたら、それが「複雑明快」に成るだろうと思っているということですね。


現時点で国語の辞書を引けば、「抽象」については、『物事の特殊な性質を除き、共通した性質を抜き出して概念を作り上げること』というようなことが書いてありますが、「抽象画」に成ると、『具体的な対象を描かず線・面・色などの総合関係の美を追求する絵画』となっています。

これ、微妙にズレていると思うんですよね。

本当は、『具体的な対象を描いても』イイと思うんですよね。
それが、『共通した性質を抜き出して』いれば「抽象」と言っていいハズですから。
つまり、普遍的で本質的なモノを現そうとしたのであれば、「具体性」があっても、それを「抽象」といって差し支えないと思うわけです。


そう言うのを「モノ」として現せば、少しは「明快」に成るんじゃないのかなと。

まぁ、そういうことを「複雑明快」と呼んでいるわけですが、そういうことを書いているこの文章自体が、まったくもって「明快」ではない!ということですから、「努力目標」ということです。

よろしく。                                                                                                     


「背景学」



いま「絵を描くこと」において、「背景」についての考え方がとても重要だと思っているわけです。
だから、この「背景」の部分を考える分野として、「背景学」というようなものがあってもいいんじゃないかと思うわけですね。
(もしかしたらあるのかも知れませんが、検索しても出てこなかった)


たとえば、「抽象画」においては「背景」という概念が否定的に捉えられる場合が多いと思いますが、そのことによって、「抽象画」が解りにくいものに成っているような気もします。


現在の「抽象画」は「モノを描いてはいけない」という考えに縛られていると思います。


「背景」は「モノを描くこと」によって発生する概念だと思いますから、『モノを描かない』ということに成れば、当然「背景」という概念も失われてしまいます。

逆に言えば、どんなに抽象的な絵でも、そこに「背景」を設定するだけで、「モノ」の存在が浮かび上がって来てしまいます。
つまり、「背景」との対比によって、どうしても「モノ」の存在が浮かび上がってしまうわけですね。
だから、、「モノを描いてはいけない」という縛りによって、「背景」も使えなくなってしまうわけです。


そして、そのことによって、「抽象画」は非常にわかりにくくなっていると思うわけです。

要するに、「背景」と「モノ」の対比が無いことによって、どうしても”漠然として”しまうわけですね。
つまり、『画面全体が純粋に絵である』ということだと思うんですが、これ、言葉の上ではとっても理想的なんですが、実際には、やはり”漠然とした”感じに成ると思います。

それを、『抽象画はワカル人とワカラナイ人が居るんだよ!』と言ってきたわけですが、でも、本当に『画面全体が純粋に絵である』というように成っていれば、みんなワカルはずです。

つまり、『画面全体が純粋に絵である』は、実現出来ていないということですね。
それで、「抽象画」が、「漠然とした絵」に成ってしまっているわけですね。


実際は、「抽象画」が、「ワカリニクイ」だけではなくて、「漠然とした絵」であることで一層わかりにくくなっているんだと思います。


こういう状況を打開するためにも「背景」を専門的に研究することが役にたつんじゃないかと思います。

また、具象的な「絵」においても、「背景」を問い直すことは役立つんじゃないかと思います。


現在、具象的な表現の絵においては、「描くモノ」にばかりに注目が集まる傾向があると思うわけです。
つまり、「描くモノ」で、「何かしらのオモシロサ」を提示することが求められているわけですね。

しかし、そのことによって、「気をてらったモノ」が主流を占めるようになってきているわけです。


「オモシロイこと」がワルイとは思いませんが、それは、「主流」に立たされると、オモシロク無くなってしまうような気もします。

そこで、「背景」によって「オモシロサ」や「アタラシサ」が出せれば、「気をてらったモノ」を描く必要が薄くなるんじゃないかと思うわけです。


つまり、「背景との関係性」で「オモシロサ」や「アタラシサ」が出せれば、「描くモノ」については『”マットウ”でもOK』と言うこと成るだろうということですね。

 ※実際に、「背景処理」によって、「絵」に独自性を出している作家は多いと思います。
  というか、「背景」に何等かの工夫がないと、ほとんどの場合、独自性を持ったスタ
  イルにはならないと言ってもいいような気もします。

  だから、「背景」を独立した分野として考えていくのは、けっこう有効なことだと思いま
  すね。

以上のようなことから、「背景学」というのを考えていきたいなと。

そんな風に思っているわけです。




「おウチ絵」と「おシロ絵」



一般的な「庶民の住宅」に飾るような絵と、宮殿や昔のお城のような、「すごく庶民じゃない場所(今で言えば、「大きな美術館」ということに成るんでしょう)」に飾るような絵を、同じように「絵」と言う単語で現してもイイもんなんでしょうかねぇ。

イイ・ワルイと言うよりは、その二つの「意味」が、かなり違うんじゃないのかなと思うわけです。


もちろん、空間的な広さや高さのチガイもありますが、「生活感のない場所」と「生活のための場所」というチガイもあるわけで、「その場所の持っている意味」が違えば、「同じ絵」でも「同じ意味」には成らないと思うわけです。


絵を描く人は、この「おウチ絵」と「おシロ絵」のどちらを選ぶのか?
という選択を迫られている部分があると思うわけです。


これ、要するに、「一般人の方を向いて描くか?」
それとも「専門家の方を向いて描くか?」という二者択一だと思うわけです。


もちろん、「専門家」も住宅に住んでいますし、「一般人」だって美術館に行くときはあるでしょうから、そこにキッパリとした境界線が引けるわけではありませんが、少なくとも、自分がどちらを向いて描いているのか?という問いに、即座に答えられるようにしておくということくらいは必要なんじゃないかと思うわけです。


現在の創作者や鑑賞者は、この「おウチ絵」と「おシロ絵」を、時と場合で使い分けないと成らないことがあるかと思いますが、そういう必要に迫られてとる行動とは別に、意識として、自分がどちらを向いて描く(見る)のか?ということをハッキリさせておくというのは必要なことなんじゃないのかなと。

まぁ、そんな風に思っているわけです。


ちなみに、私は「おウチ絵」を「一般人」の方を向いて描いていきたいと思っていますが、そういう「おウチ絵」の範囲が、「インテリア的な絵」から「自己表現としての絵」に、少しずつ広がって行くことを前提として、そちらを選択しています。


「生活の場」にも、「現在の芸術」の本質である「自己表現」」が、入って行くように成っていったら、きっと、いろいろな意味で、少し良くなるんじゃないのかなと。


まぁ、そんな風にも思っているわけですね。



「長い題」=詩のような題(その3)



「長い題」(その3)です。

『こんなの読む人居るんだろうか?』っていう疑問はあるんですが、『いや、そんなことは無い!・・・たぶん・・・』と言うことで。

『 』の中は、その絵を呼ぶ「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

とまっている 

ただ いきおいだけを もって とまっている

そうなんだ ひかりと ねつが まじりあって こおりついたとき
この せかいに かんきが なげこまれたんだ

『なにもかもが とまっているというのに』

よのなかの すべてのものが よろこびに みちて おどっているようだ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『まるいもの』に みえるじゃないか

あるときは これが とてつもなくおおきい 

そんなとき 

きみは うちゅうのことも 『まるいもの』と よぶのか

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ひとは みな ひかりの なかに いきている

やみの なかでは いきられない

やみの なかには なにもない

ひかりに うまれて ひかりに くらす


ひとは みな 『そうやって 生きている』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

すすめ すすめ まえへ すすめ

『まえだけを みつめて』 ちからを こめて まえへ すすめ


その まえは うしろ その うしろが まえ

そうだ その うしろのまえに むかって まよわず まっすぐ すすむんだ 


あぁ ぼくは どっちに むかって すすめば いいんだろう

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

かわっていくよ すべての ものが
ねじれているよ すべての ことが


ものでも ひとでも おんなじなんだ
 
かわりつづけて ねじれつづけて
それじゃないと いられない

ねじれて ねじれて はんたいがわに つながって 
それで よのなか できている

おかしなことも ふつうのことも
みんな それで できているんだ

ありとあらゆる ときに
ありとあらゆる ばしょで 
ありとあらゆる ものが
ありとあらゆる ほうこうから
ありとあらゆる ほうこうへ

みんな ねじれていく 

だから どんなに おかしなことも どんなに ふつうのことも
ぜんぶ いっしょに やっていられる


ぼくは 『それしか かんがえようがない とおもうんだ』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

たいようでもあり ほしでもあり つきでもあるという しょくぶつ

そういうものが えがきたかったと いうことなんです

そういうものは そこいらへんの みちばたに たくさん はえていますから 
それで そういうものを えがこうと おもったと いうわけです 

もしも あなたが そんなふうに おもわないと いうのなら
もういちどだけ みちばたの くさを みてごらんなさい 

そうすれば すべての くさやきに 
たいようや ほしや つきが やどっているのが みえますよ

そうすれば もう こまかいことは ほとんど きにならなくなっている 
そういうのが 『もっとも ふつうのこと』ですね


だって みちばたの くさやきに 

たいようも ほしも つきも みんなやどっているっていう このよのなかで

こまかいことなんて きにしたって しょうがないじゃないですか 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

こういうのを読んだ人って、どう思うんでしょうね?
わかりませんねぇ。




「盆栽のような絵」



最近になって感じるように成ったことなんですけど、『もしかすると、自分は「盆栽みたいな絵」を目指しているのかも知れないなぁ』と思ったりするわけです。


「盆栽」と言うと、やや「年寄りくさい」と言うようなイメージがあって、若者には敬遠されがちなようですが、自分が「年寄り・寄り」に成って来たから言うわけじゃないですが、というより、私の場合「年をとること」を尊敬していこうと思っているので(じゃないと、死ぬ時には、すべての人が必ず自分を尊敬できなく成るわけですから)、「年寄りくさい」ということ自体が必ずしも悪いことと言うわけでもないんですけど、まぁ、それはともかくとして、「盆栽」って、すごく小さいのに、ナニカこう『ギュッ!』っと凝縮した感じがして、『つまってるなぁ、じつに!』と思うことがあるんですね。


実際、「盆栽」って、チッチャクても『樹齢百年?』みたいなものもあるんだとすれば(よく知りませんけど)、本当の意味で、確かに時間が凝縮されていると言えるわけだし、本来ならば「大木」に成っているはずの樹木を小さくしているということは、物質としても「何十メートル」が「何十センチ」くらいに凝縮されているということですから、その「凝縮度」は相当なもんだろうと思うわけなのです。

それで、考えてみると、自分の「絵に対するスタンス」と言うのもこれに似ていて、出来る限り「長期間制作」や「小さい絵」や「芸術の多重化」と言うことを目指していますから、時間や空間や表現を凝縮していきたいなと思っているわけです。


このことに気づいたきっかけは、自分の描いた絵の中で、『まぁ、まぁ、気に入ってるかな?』と言う「絵」に、自分なりに「ニックネーム」のようなものをつけて呼んでいることがあったりするんですけど(「題」とは別にです)、そういう「ニックネーム」の中で、ある「絵」の「ニックネーム」が『盆栽くん』だったんですねぇ。


その「絵」は、たまたま、本当に「盆栽」みたいだったので、『盆栽くん』と呼んでいたわけですが、私の場合、偶然出来てきてしまった形を発展させていくことが多いので、これも全く偶発的に出て来た形だったんですが、あとで見ていると、だんだん「盆栽」に見えてきて、その後は、もう「盆栽」にしか見えなくなってしまったというわけです。

それで、その「絵」のことを『盆栽くん』と呼ぶように成っていたわけですけど、でも、よくよく考えてみると、偶然、「盆栽」に似ていたんじゃなくて、実は自分が「盆栽のようなナニカ」を求めていたんじゃないか?

そういう、心のどこかで求めていたナニカが、形になって表れて来たんじゃないのか?と。
そう思うように成ったというわけですね。

そして、そう考えると、「多重化」や「長時間制作」(これを「スロー・アート」と呼んでいます)など、いろいろと「パズルのピース」がピタリとハマる所があったので、『そういうことなのかな?』と思っているわけなのです。


というわけで、『やや渋すぎ?』な感もあるんですけど、今のところ「盆栽のような絵」を目指しております。


追伸

ところで、他の「絵」で『ホヤくん』っていうのがあるんですけど、「ホヤみたいな絵」は目指していませんので、そういったことで、お願いいたします!

 



「長い題」=詩のような題(その4)



「長い題」(その4)です。

読むと、きっとソンしますよ。
読むと、時間の無駄ですよ。
読むと、イライラしますよ。
読むと、『なんなんだよ!これは!!』って思うだけですよ。

『じゃ、読んでみようかなぁ』
そういうアナタって、ステキ!!!

ということで、「長い題」(その4)です。

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『たびに でます』 
この ながれに のって

そうです

ぼくじしんが この うごきつづける ものになって 
たびに でるわけです

そうすれば ぼくは もう どこにだって いくことが できます
ここが どこでも かまいません


ここが どんなに あきあきするほど ありきたりで つまらない ばしょでも

なんの かたすみなのかも わからないほど ちっぽけな ところだと 
ぼくが おもいこんでいる そんな かたすみの ばしょでも

そんなことは どうでも いいことことです


ぼくが この うごきつづけるものに なって たびに でることが できたなら
ぼくは どこにだって いくことが できるんです


だって もう ぼくの こころは このえのなかに あって 

えいえんに うごきつづけるものに なって いるんですから

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

おどろくほどに 
まったく びっくりするくらいに ふつうのこと

そういうことこそ すばらしく
そういうことこそ うつくしい
そういうことこそ ありえない

ありえないのに どこにでも
ありえないけど だれにでも

みんなに ひとつの ふつうのこと 
みんなに ひとつの すばらしい


そういうものが

ほんとは 『みんなが ほしがっているもの』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

いきもののように うごきだす
それまで とまっていた ものたちが 


めを こらして よくみれば 
ものの なかみが みえてくる

どんなものでも なかでは みんな うごいてる


そとがわの からを とおして なかみを みれば
なかでは みんな うごいてる

とまってるものは なにもない


ほんとは みんな うごいてる 
『それだけが ぼくに わかること』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ふゆには すべてが とまってみえる

くうきも ひとも こおりついて うごけなくなってしまうから


でも なつが くれば うごきだす
すべての ものが うごきだす

うごいていないと やけついてしまうから


そうは いっても はるやあきが いいかといえば そうでもない

そんなふうにして 『きせつが めぐって』いる
きせつが めぐると ときが すぎていく
ときが すぎると それが いきたことに なる


なにはともあれ いきたことが すばらしいことに なる

それだけは ぜったいに たしかなこと

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

にじにだって いろいろある

くろい にじもあるし くすんだいろの にじもある


そんな ときには それを にじとよぶ りゆうは もう どこにもない
『そう おもった しゅんかんに せかいは ぎゃくてんする』


とまっていたものが うごきだし
くすんでいたいろが かがやきはじめる


そう よのなか すべてが にじのように かがやいて うごきだす

そう よのなか すべてが まっくろに くすんでいるとしても





「長い題」=詩のような題(その5)



「長い題」(その5)です。
どうやら、「題」の方が早いペースで出来るみたいですねぇ。
困ったもんです。

たぶん、あまりこだわりが無いんだと思います。

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

うつくしいものなんて どこにもない

そんなものが あるのなら
ただ それを かってくればいい


みにくいものなんて どこにもない

そんなものが あるのなら
ただ それを すててしまえばいい


さて それなのに 

『よのなかの すべてのものは あまりにも うつくしく
よのなかの すべてのものが あまりにも みにくい』

きっと こういうふしぎなことは
ずっと わからないまま なんだろう

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

いま このえの まえに たっている あなたへ


このえを みてくれて ありがとう
こんなえを みてくれて ありがとう
このえを みても ひどく がっかりしないで いてくれて ありがとう
このえを みても くずのような えだと いわないで いてくれて ありがとう


もしも ちがっていたら とりけしますけど

でも 『とりあえず いまのところは ありがとう』

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えいえんという しゅんかんに とじこめられた くうかん
そんなせかいに いきている


そういうことは

だれの めにも あきらかで
だれの あたまにも あきらかで
だれの こころにも あきらかな
じじつと いっても いいことで 

えいえんという ときが いま この しゅんかんに すっぽりと 
ありとあらゆる すべての ものが ひとつの てんに すっきりと

おさまってしまうという あたりまえのこと


それこそが このよのなかの なりたちの
それこそが あらゆることの なりゆきの
それこそが すべてのいのちの ありかたの

『だいたいのことの もと になっている』

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なにかが できたことなんて いちどもない
なにも できなかったことなんて たくさんある

そんな ぼくが いまも なにかを しようとしている


だから そのぶんだけ ぼくは えらい


だから なにかを しようとしている ひとは 
みんな すこし えらい

きみが もし なんにも できない ひとならば
きみも すこし えらい


いま このえの まえに たっている きみは

『きっと なにかを しようとして そこに たって いるんだから』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『ねじれて ねじれて ひっくりかえる』
ひっくりかえって まっさかさま 


うえと したが まっさかさま
まえと うしろも まっさかさま
どこも かしこも まっさかさまで なにが なんだか わからない

わからないから かんがえる 
わからないけど かんがえる 
かんがえないと とまってしまう


とまってしまうと いきられない

つまりは そういうことなんですね

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『ひかりの ちから』 ひの ちから
ひかりの ちからは ひの ちから

ありあまるほど ふりそそぐ

みんなのうえに おなじだけ

ありあまるほど ふりそそぐ


そんな ひかりのちからが すべてをつくる

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『かえりたい かえりたい』 
どこかに むかって かえりたい

でも ぼくは いったい どこから やってきたのだろうか

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『きげんに かえろう』 きげんに

きげんに くらし 
きげんに いきて
きげんに しんでいく

そうすれば きっと なにかが わかるだろう

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『いろのかたちと かたちのいろ』


どんないろが うつくしい 
すべてのいろが うつくしい

どんなかたちが うつくしい
すべてのかたちが うつくしい


いろとかたちで 
すべてのものが うつくしく 
すべてのものが すばらしく

ひかりかがやいて いるようだ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ひかりのなかに やみがあり
やみのなかを ひかりがはしる

まぶしい ひかりが またたいて
その むこうでは どすぐろい やみが うずをまいている


『はたして そんななかで
ぼくは なにを えらびとることが できるだろうか』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

きみの すがたを みせてほしい
      
いや ちがうよ それじゃない

きみが じまんに おもっている その りっぱな すがたじゃなくて
きみの なかの かたすみで ちいさくなっている
そっちの すがたが みたいんだ
       
きみは それを みせるのが いやだから 
くすんだいろで ぬりつぶして いるけれど

ぼくは そっちが みたいんだ 
 

その いろは はじのいろ

そんなものじゃあ かくせない
どうやったって かくせやしない
 
かくして おくには うつくし すぎる
かくして おくには すばらし すぎる


だから その 
きみの ほんとの すがたを みせてほしい

みんな うつくしいものが すきだから

       
『きみが だれでも それは かまわない』




「絵の中」における「モノの役割」



私は「抽象画」でも「モノ」を描いていこうと思っているわけですが、それは、「絵の中」における「モノの役割」があると思っているからなんですねぇ。


「絵の中」における「モノの役割」を一言で言うとすれば、それは「チカラ」だと思いますね。
「物質的なチカラ」と言ってもいいでしょう。


「抽象画」は、もともと「精神性」を求めて生み出されたものだと思いますから、それで「物質的な性質」が、ずっと排除されてきたわけです。

それ自体は必ずしも間違いではないと思いますが、どうしても「チカラ」が無くなってしまうんですねぇ。

「チカラ」と言うもの自体が「物理的な概念」ですから、「物質性」を排除してしまうと、当然「チカラ」も無くなってしまうわけです。 

つまり、「物質であること」そのものが「チカラ」であると言ってもイイわけで、「モノ」はそこに在るだけで「チカラ」を持っているわけですし、「非物質的なモノ」はそういった「物理的なチカラ」=「実質的なチカラ」は持つことが出来ないわけです。


つまり、「モノ」を描けば、必ず何らかの「チカラ」が発生しますし、「モノ」を描かなければ、絶対に「実質的なチカラ」は現せません。
「モノ」を描かなくても、「精神的なチカラ」を現すことは出来るでしょうが、「肉体を持たない精神」で現せる「チカラ」は、「実質的」とは言えないわけですから、実体に欠けるわけですね。


さて、そこで、「チカラ」を犠牲にしても「精神的な純粋性」を取るのか?
それとも、「精神性」を犠牲にして「物質的なチカラ」を使っていくのか?
と言う二者択一を迫られることに成るわけですが、実を言えば、「精神」も「肉体」もどちらか一方では存在できないわけで、「肉体を持たない精神」と言うのは「「亡霊」のようなものだと思うわけです。
(「亡霊」が存在しているのか?っていう心霊現象の話じゃなくて)


それを「魂」とか「精霊」などと呼べば、「いいモノ」のように聞こえますが、「実質的な表現力」が希薄な点では「亡霊」とあまり変わりがありません。


やはり、「表現」と言うのは「チカラ」を必要とするものだと思いますし、そういう「力強い表現」のことを「芸術」と言うんじゃないかと思いますので、「絵の中」における「モノの役割」をもう一度見直していく必要があるのは間違いのないことなんではないのかなと。


そんな風に思っているわけです。



「芸術」は「最小限の物質」で、「最大限の心理的な作用」を生み出すということ



最近の美術を見て感じることの一つに、「作品」や「作品の展示」が大規模化しているということがあるわけです。


個々の作家単位の作品でも、けっこう「大規模化」を感じることがありますが、「アート系のイベント」と成ると「町を挙げて」のようなイメージで、「都市規模」と言う印象です。


そういうのがワルイとは思いませんし、「エンターテイメント」としては当然の成り行きなんだと思います。

ただ、その路線で行き続けると、「芸術」としての方向性を見失ってしまうんじゃないかとも思うわけです。
確かに、「芸術」にも「エンターテイメント」としての性質はあるとは思いますが、やっぱり「エンターテイメント」は「芸術(美術)」の本質からは、やや外れていると思うわけですよね。


現時点で、「芸術好きな人」に、『どんなことをきっかけに「芸術好き」に成ったんですか?』と聞いたら、きっと、多くの人が「どこかでたまたま見た一枚の絵」みたいな「ごく小さな出会い」をあげるんじゃないでしょうか?

少なくとも、現時点では「〇〇トリエンナーレ」のような大規模な「アート系のイベント」や、特別な展示場所にいかないと見られないような「大規模な作品」を挙げる人は少ないでしょうね。
(そういうのは「芸術好き」に成った後で行く人が多いと思います)

でも、このまま「芸術」が「大規模化」して行けば、今後は「アート系のイベント」などを「芸術好きに成ったきっかけ」に挙げる人が増えていくんでしょう。


そう言う人が増えること自体ががワルイとは思いませんが、反対側の人たち、つまり、それまで「ごく小さな出会い」を挙げていた人たちは、どこへ行けばいいんでしょう?
このまま「芸術の大規模化」が進んでしまうと、「小さな出会い」に心を奪われたことで「芸術好き」になった人たちが、行く場所がなくなってしまうんじゃないかと思うことがあるわけなのです。


そちらの人たちの行き場も保存されて、それでいて「大規模アート好き」の人たちも、両方とも増えるというのは、やはり、実際上はあり得ないことだと思います。

どうしたって、片方が増えれば、もう片方は減りますよね。
しかも、片方が爆発的に増えていこうとしているわけですね。

今はまだ、「ごく小さな出会い」をきっかけに「芸術好き」に成った人たちが、「芸術好き」になった後で、そういう「アート系のイベント」に行くというルートで人が動いていますから、「きっかけ」として「大規模アート」を挙げる人は少ないでしょうが、これからは爆発的に増えていくでしょうね。
(動員数が多いですからね)


何が良くないのかと言うと、「芸術」が方向性を見失ってしまうような気がするわけです。

やはり、「芸術」と言うのは、『「最小限の物質」で、「最大限の心理的な作用」を生み出すものである』と言いたいわけです。


たとえば、「絵」でも「音楽」なんかでも、そういう「芸術系」が好きな人は、生涯そういうものを愛し続けたりもするわけですが、よくよく考えてみると、「好きに成ったきっかけ」は、ただ単に、「テレビで見た」とか、「ラジオで流れてた」とか、それどころか「そこら辺にかかっていたカレンダーの絵」だったりと言うようなこともザラにあるわけです。

しかも、さらに、よくよく考えてみれば、生涯を通じて、愛し続けた「絵」や「音楽」の中でも、『けっきょく、本当に好きだったのは「その最初の一枚」や「その最初の一曲」だったんじゃないだろうか?』と思ったりすることも、まぁ、ちょくちょくあったりするわけです。


つまり、「芸術」と言うのは、物質的には「最小限」で、その「最小限の物質(作品)」が人の心に与える影響が非常に大きくて、とても長く持続する、そういう媒体なんだと思うわけです。

そして、その「物質的な小ささ」と「心理的影響力の大きさ」とのギャップ、こそが、、「芸術」に独特のインパクトを与えているように思うわけです。


ところが、物質的に大きくなってしまうと、そのギャップが無くなってしまうわけで、そうなると、どうしても物質性のより強いメディアとの相対関係において、「芸術の必要性」が薄くなってくるわけですね。

まぁ、本質から外れていけば、それが求められなくなるのは当然だと思います。
(実際にそうなってきているのかも?今、芸術って意外なほど求められてないのでは?)


「エンターテイメント」の領域は、ほかのメディアでもうめられると思いますが、「芸術」の領域は「芸術」でしか埋められないと思います。


そんなことから、出来れば、もう少し「小規模化」して行ってもらいたいもんだなと。

普通の生活の中で「一枚の絵に直面する機会」が増えていったらいいんじゃないのかなと。
(これを、私は「幻想の日常化計画」と呼んでいます)


そんな風に思っております。



「幻想の日常化計画」



「幻想」と言うと、どうしても「非日常」というイメージが強くなってしまうわけですが、わたくしといたしましては、「幻想」を、「日常化」できたら少しイイんじゃないかな?と思っているわけです。


要するに、「芸術」を生活空間の中に取り込むことが出来れば、「幻想」を「日常化」することが出来るんじゃないか?ということなんですね。

  ※「絵」を壁に掛けるということは、「日常生活」の中に「幻想スポット」を
   出現させることなんだと思います。

たとえば、旅行に行ったり、テーマ・パークみたいなところへ出かけたり、もう少しお手軽なことで言えば、映画館に映画を見に行ったりすることで、「非日常」が「生活」=「日常」の中に取り込まれるということがあるわけですが、そういうの、ちょっと手間ですよね。

まぁ、大した手間でもないので、それでいいということなんでしょうが、手間だけの問題でもなくて、どちらかというと、「人」が「日常」から「非日常」の側へ移動するんじゃなくて、「幻想」=「非日常」を「日常」の側へ移動させられたら少しイイのかな?っていうことなんですね。


「人」が移動するタイプの「非日常」を「リゾート」というんだと思います。
それに対して、「非日常自体を移動させること」は「リクリエーション」に近いような気がしますが、ここでは、さらにもう少し、それを進めて「白日夢」のような「日常の中に浮かび上がる幻想」と言うイメージのことを言っています。

そういうイメージで、「非日常」を「日常」の側へ移動させようというわけです。


一見、「日常の側」に移動してしまったら、「非日常」ではなく成ってしまうようにも見えますが、それは、「リゾート・タイプの非日常」つまり、「人が移動するタイプの非日常」に関して言えることで(確かに「リゾート地」で働いている人にとって、そこは「非日常」ではないんでしょう)、「非日常自体を移動させるタイプの非日常」においては、「その非日常」が「日常側」に有るか「非日常側」にあるかは問題ではなく、「その人」が「その非日常」を感じ取ることが出来るかどうかが問題になってくるんだと思います。

つまり、「幻想」の中に浸ることが出来るか?ということですね。


ただ、人間はその場の雰囲気に左右されされますから、「非日常空間」の中で「非日常らしく演出された時」の方が「幻想」に浸りやすいということはあるでしょう。

でも、「日常空間」の中でも、きっかけに成るモノさえあれば、割と簡単に「幻想」に浸ることが出来ると思うわけです。


そして、「芸術作品」がそういう「きっかけに成るモノ」として適していると思うわけですね。


たとえば、「本を読む」なんて言うのも、このタイプの「幻想の日常化」だと思うんですね。
「文学」も「芸術」ですからね。

「リゾート・タイプ」との違いは、「最小限の物質的要素」で「最大限の精神的距離」を移動できるということです。
(本を開いたとたんに物語の中の時代や場所へ移動できるわけですから)


「リゾート・タイプ」はやっぱり「物質的な要素」を必要としますよね。
それを「贅沢」と呼んでいるところがあると思います。
(「精神的な贅沢」もありますけどね)


でも、「美術作品」も「本」に負けないくらいに「幻想の日常化」に適していると思うんですが、いまは、「美術作品」の方は、まったくと言っていいほど、そういう機能を果たしていませんよね。

一言で言えば、「美術作品」が高すぎるんだと思います。


高額すぎるので、「日常化」できないわけです。

高額であるために、そうヤスヤスと買えないから「日常」に成らないし、高額であるために、無理して買うと「非日常」=「特別なモノ」になってしまうわけですね。


それで、仕方なく「美術館や美術イベントに行く」ということに成るわけですが、それでは、結果的に「人」が移動してしまっていますから、「リゾート・タイプ」になってしまうわけです。


そうなると、「芸術」が「旅行」や「テーマ・パーク」と同列に並べられることになるわけですが、「芸術」は、そちらの「リゾート・タイプ」には、必ずしも、適していないわけです。

要するに、『パァ-っ』と発散するような娯楽性についていえば、エンターテイメント性の高いほかのジャンルの方が適していると思うわけですね。

「芸術」は、本質的には内向的なジャンルだと思うんですが、どうでしょうか?
今は、そういうところを誤魔化して、ミョーに明るい振りをしているところがあるんじゃないかと思います。
『芸術って、こんなに楽しいんですよ!』みたいな演出ですね。

そういうのは、長くは続かないと思いますね。


もちろん、そういうところに行って、そういう場所で見ても(例えば美術館のような)、「その人」が幻想に浸ることが出来ればそれでいいんでしょうが、せっかく、「幻想の日常化」に適しているのに、それを無にしてしまうのもオシイような気がします。


それに、「本」が図書館でしか読めないとしたら、と考えると、それがいかに不自然な状態かがわかるんじゃないかと思いますよ。


要するに、「売り手の都合」や「市場の原理」によって、「鑑賞者」の「幻想を日常化する機会」が踏みにじられているということなんじゃないのかなと。


そんな風に思ってしまうわけですね。



「長い題」=詩のような題(その6)



「長い題」(その6)です。

今回のは、ぜんぶ「絵」に合わせて「題」をつけたものです。
ということは、前に出来ていた「絵」が決まっていない分の「題」の方はそのまま残ってしまうということですね。

「題」がたまっていって「絵」が追い付かないというのはどうなのよ?

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

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おちてゆく

いま まっさかさまに おちてゆく
ここにいると かなしくなるから


ならくのそこは どんなとこ

きっと かがやくせかいが まっている


だから ぼくは 
なんだか とっても たのしくなって
なんだか とっても おかしくなって

『いま おどりながら そこに おちていくとこ』

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いま きみに なまえを あたえよう ロミルラン

そう いまから きみの なまえは ミル・ロミルランだ
きみは これから ミル または ミルナルと よばれることに なる

『ときと ばあいによって ひとの なまえは へんかする』
だから ミルナルと よばれることも あるだろう


いずれにしろ いま きみには なまえが あたえられた
だから きみは もう まよう ひつようは ない

あたえられた なまえに したがって まよわず いきて いけばいい


いま きみに あたえられた ミル・ロミルランと ミルナル・ロミルランという なまえは 
じゅうぶんに うつくしい なまえだ

だから その あたえられた なまえに したがって いきて いくだけで
きみは じゅうぶんに うつくしく なることが できる

それでも きみが まよいたければ まよえば いい


そのとき きみは あたえられた まなえを こえて 
きわめて うつくしく かがやくことが できる


この ふたつのうち どちらの いきかたを えらぶかは

『かんぜんに きみの じゆうだ』

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『カーニバルは やってくる』
どこにでも やってくる

それは おまつりだから
それは みんなの よろこびだから

だから カーニバルは どんなところにだって やってくる

たとえば この オパールのような じめんと
きいろいかべのような そらが 
あかとしろの わくのなかに とじこめらた
こんな ところにだって それは やってくる

だれにも しられずに くらくかがやいている
こんな ばしょにも カーニバルは かならず やってくる

それは いつも なんのまえぶれもなく とつぜん あらわれて 
なにごともなかったように あとかたもなく きえてしまう

だから ふだんは みんな わすれてしまっているけど
いつのひか また カーニバルは かならず やってくる


だって それは おまつりだから
だって それは みんなの よろこびだから


だから カーニバルは どんなところにだって

きっときっと やってくるんだ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

しずかに ほのおが もえている 
この おとのないせかいで

かぜのおとすらしない その しずかさのなかで
つめたいほのおに てらされて 

ひやされるほどに あたたかく
こおりつくほどに やわらかく

その まるくて なめらかなはだは そだってゆく


『それが ほんとうに いつわりのない ひとのすがたと いうものです』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『さびしくて うつくしい』

あおじろい ひかりに つつまれて
じっと やすんでいる

ひとりでいることを ひそかに たのしんでいるように
かなしみに みたされることを すこしだけ よろこんでいるように


こんな さびしさのなかに 
こんな しっとりした やさしさが あるなんて

こんなに うつくしい くうきのなかで 
じっと やすんでいられるなんて

あぁ つめたくて やわらかい そんなやすらぎが ここにある

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『また ひとつ このせかいに 
あたらしい いみが あらわれる』


ほのぐらい せかいの かたすみに
ほのあかるい いろを なげいれて

それは とうとつに しゅつげんする


なんのいみかも わからない
なんのかたちかも わからない
なんのかがやきなのかも まったく わからない


それらのものは これから このせかいのなかで あたえられていくことになるだろう


そんな あたらしいいみが またひとつ 
このよのなかに しゅつげんすることが

いま けっていされたようだ

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二番目のなんか、相当恥ずかしいんですが、読んでる人がすごく少ないから書けるという感じです。

『閑古鳥ブログ万歳!』




「幻想大百科図鑑」という構想



いま、「幻想大百科図鑑」と言うのを作ってみたいと思っているんですよねぇ。
つまり、幻想の世界のことをいろいろ集めて、図鑑にしたら面白いだろうなということですね。

 ※こういうのは、他でいくつか見たことがあって、それぞれにオモシロイと思っていた
  ので、自分もやってみようかと思ったという次第です。
  こういうパターンの「図鑑」というのは、たいてい、かなりインチキくさくて最高にオモ
  シロイので、『それじゃあ、ひとつ自分も』と思ったわけですね。

これは、数か月前からやっている背景に金箔を使った絵の習作を見ている時に思いついたもので、今、このブログのプロフィール画像に使っている花みたいな絵の一連のシリーズ(?)を見ている時に、ふと、思いついた「題」が『金塊の中に自生する植物』という「題」だったんですが、その植物に『ヘンテコな名前を付けてもいいんじゃないか?』ということから、その「ヘンテコ名前」を考えているうちに、止まらなくなって、いろいろな「ヘンテコ名前」がたくさん出来てしまったので、『これをまとめて図鑑に出来るかも?』と思ったわけです。

まぁ、よくもこんなくだらないことを思いつくやつが居るもんだと思います。
(『あぁ、自分か?』)


そんなわけで、「幻想大百科図鑑」という構想です。

  ※非常に、バカバカシイので要注意

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『黄金空間に出現した「アマエリミ」の花束』:この前までプロフィール画像にしていた絵です。

『金塊の大地に自生する「タマロ・ケララの花』:今このブログのプロフィール画像に使っている絵です。

『金流大気の中に伸びる「ヤオマキリ」の枝』:上の二つと似たようなモノです。

『虹色銀河に現れた「ゴールデン・ホール」の中で生息できる唯一の植物「パラサウルス・フラワー」』

『金泥流の渦に翻弄される「ポリル・エティオン浮草」』

『金岩洞窟に繁殖する「ネヴァラジュール苔」』

『黄金丘陵の斜面に群生する「シコロユメイ草」』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

バカです。
しかも、まだたくさんある!

まぁ、前に書いた「カプセル画」と同じで「アソビの絵」だと思ってますから。

『ハハハ、こんなものを本気でやるわけないでしょう?』

「それでもバカには違いないですよ!アナタ」

『・・・・・・・』





「多重化」で「芸術表現」を広げられるだろうか?



私が考えているところの「芸術の多重化」についての話です。

 ※「芸術の多重化」と言うのは、出来るだけ既存の表現形態の中で、多くの要素を
  取り込んでいくことによって、「芸術の領域」を広げることを目指して、私が使って
  いる言葉です。
  私自身の場合で言うと、「絵と額」とか、「絵と題」の間で「多重化」を目指しています。
  その場合、「既存の表現形態」に当たるのが「絵」で、「多くの要素」に当たるのが
  「額」や「題」に成るわけですね。
  つまり、「絵」という表現の中に、別の要素として、「額」や「題」を取り込むということに
  成ります。
  「絵」自体の中でも「多重化」しつつ、さらに別の要素も取り込んでいけたら、少しは
  「芸術の領域」を広げられるだろう、というようなことで、そんなことをやっています。


私は「芸術表現」は「多重化」していくしかないだろうと思っているんですが、それは、「多重化」で「表現の領域」を広げることが出来ると思っているからなわけです。

とは言っても「多重化」=「無限」というわけではないですから、所詮限りがあるわけですが、でも、それは「無限」ではありませんが、明らかな「有限」でもないと思うわけです。


「多重化」しない場合は、どうしても限界がすぐに見えてしまうわけですが、「多重化」することによって、「限界までの距離」をかなり延ばすことが出来ると思うんですねぇ。

実際、「現在の芸術」は、その「限界」に達した後、その状態を半世紀以上も続けて居るために行き詰ってしまっているわけです。

これは、他の分野に当てはめて考えれば当然のことです。


たとえば「料理」で言えば、大航海時代には、新世界が発見されるたびに「未知の食材」が旧世界に持ち込まれたわけです。

その頃までは、「料理」が「多重化」する必要がはなく、いつも「新素材」を使って「新しい料理」が生み出されていったんだと思います。
つまり、ほとんど同じ料理方法でも、「素材のチガイ」だけで、「チガウ料理」に成っていたということですね。


ところが、地球の全体像が把握されるに至って、もう「新大陸」は無くなってしまいました。
当然、「未知の食材」もネタ切れに成るわけです。


そこで、「多重化」が必要に成るわけですね。

つまり、限られた食材の中で、「料理」自体が「より複雑な料理」へと「多重化」していく必要が出てきたわけです。


単純に言って、「いい食材」に塩を振って焼けば十分に美味しくなると思います。
でも、それでは、すぐに「限界」が見えてしまいます。

まぁ、一言で言えば飽きてしまうわけですね。


そこで「未知の食材」が出現してくれれば、また飽きずにおいしく食べられます。
でも、もう「未知の食材」がなくなった段階に成ると行き詰ってしまうわけです。

それでも、また、しばらくして「同じ食材」に塩を振って焼けば、美味しく食べることは出来ます。
でも、それはもう「創作された料理」とは言えないわけです。


そして、この『創作されたものではなくなってしまう』という部分については、「すごく美味しくてまったく飽きない食べモノ」があったとしても同じことなんですね。
要するに、その段階に成ると、「美味しいだけ」じゃ物足りなくなってしまうということですね。


こういうことと同じことが、いま「芸術」で起きていることだと思います。


単純に言って、「美しいモノ」を見つけてきて、それをそのまま描けば「美しい絵」になります。
これが「塩だけの料理」に当たります。

十分に美味しいし、十分に美しいし、何か不足があるわけではありません。
ただ、今はもう、それらが「創作された料理」でも「創作された芸術」でもなくなってしまったということです。

それらは、いま食べても十分に美味しいし、いま見ても十分に美しいんですけどね。


少なくとも「創作された芸術」を目指す場合に限っては、それでは足りなくなってしまうということです。
そこで「多重化」するしかないと思うわけですね。


たとえば、「すき焼き」という料理がありますが、「多重化」の見本だと思いますねぇ。

「焼き物」でもあり、「煮物」でもあり、「肉料理」でもあり、「野菜料理」でもあり「豆腐料理」でもある。
しかも、「卵料理」とも言えなくもないという。

あんな料理を、「牛肉文化」を持たなかった日本人がいきなり創り出せたのはスゴイことだと思います。


「牛肉食文化」が無かったために、かえって自由な発想が出来たのかも知れませんね。

「すき焼き」の場合は、「新たな食材の出現」と「多重化」が同時に起きたということでしょう。


そちらはともかくとして、話を「芸術」に戻すと、「芸術」も「多重化」するしかないような気がするわけです。


出来ることなら、行き詰る前に「多重化」してもらいたかったモノですが、今からでも、「多重化」は有効だと思います。
というか、そこにしか行く方向が無いと思うわけですね。


「芸術」が「多重化」していくことで、「限界」を少し遠い位置に置くことが出来れば、「芸術」においても、ある程度の周期をもって、反復が可能になると思っています。


先ほど、ただ美しいものを描いても、それはもう「創作された芸術」とは言えないと言いましたが、一定の期間が過ぎて「完全に忘れ去られた食材」を復活させれば、それは「新たな料理」と言えるでしょうし、それと同じ意味で、「多重化」した「芸術」においては、ある一定の期間を経て、少しづつズレながら螺旋を描くように周期的に同系統のスタイルが繰り返されることは「創作された芸術」の範囲に含まれると思っています。


厳密に言えば「純粋な創作」とは言えないのかも知れませんが、逆に言えば、「厳密な模倣」や「厳密な伝統の踏襲」とも言えませんし、本当のことを言ってしまえば、「完全に純粋なモノ」なんて人間には創り出せないと思います。

だから、その辺の範囲までを「創作された芸術」に含めても問題ないように思います。


でも、芸術の流れがそういった「繰り返し」に成っていないところに問題があると思うわけです。


「芸術の20世紀」以降は、常に「最も新しい芸術」が賞賛されてきましたし、それは「次の芸術」が現れた途端に、「過去の芸術」とされてきました。


そして、「ポップ・アート」の後、その「次の芸術」は現れていません。
というか、「次の芸術であること」自体が飽きられてきています。

それで行き詰ってしまっているわけです。


そこで、『「多重化」しかないでしょ!』と言いたいわけです。


これからも、延々と「ポップ・アート」を焼き直し続けますか?
それとも、「多重化した芸術」を目指しますか?


と、そんな風に思うわけなのです。


「コンセプチュアル・アート」に飽きてしまった人はどうすればいいんでしょうか?



前の記事からのつながりで、「コンセプチュアル・アート」についての記事です。

私といたしましては、「コンセプチュアル・アート」を「芸術の中心」からやや離れた位置にピン止めしますということなわけですが、さて、私のように「コンセプチュアル・アートに飽きてしまった人」は、どうすればいいんでしょうか?

 ※よく考えたら、はじめからそんなに好きじゃなかったんですが、とにかく、そう言う
  「飽きちゃった人」もそれなりに居ると思うんですけど、なんで、誰も公にはそうい
  うことを言わないんでしょう?不思議ですねぇ。
  実は専門家の中にもけっこう居たりするんじゃないんですか?

「テレビ離れ」と同じように「芸術離れ」すればいいんでしょうか?
それとも、「現代美術」は諦めて、「チョット昔の美術」を見続けていればいいんでしょうか?
または、『えーい、もうオモシロければいいわ!』と言って、飽きていようがいまいがかまわず「コンセプチュアルの世界」に埋没していけばいいんでしょうか?
どうしても、どれもいいとは思えませんねぇ。

やっぱり、なんとしても「現在形」でありたいわけですし、「芸術」でもありたいわけです。
でも、「コンセプト」には飽きてしまったわけです。
そうなれば、「創り出す」か「見つけ出す」しかないと思うわけなのです。

「創作者」に位置する人は自分で「創り出す」ことに成るわけですし、「鑑賞者」の側に位置する人は自分で「見つけ出す」ことに成るわけです。

そこで、「ナニ」を創り出して、「ナニ」を見つけ出せばいいんだろうか?ということです。

いま、最も足りないものとは「ナニ」なのか?
今、最も「芸術」であり「現代」であり「コンセプチュアル」じゃないものとは、いったい「ナニ」なのか?

それは「普通のモノ」だと思います。

「芸術の20世紀」以来ずっと追い求めてきたもの、それが「普通じゃないモノ」ですから、そして、その結果として「コンセプト」に行き着き、さらに、その「コンセプト」に飽きてしまっているわけですから、やっぱり「普通のモノ」が、「今一番足りないモノ」なんじゃないかと思いますよ。

でも、「普通のモノ」と言ってしまうと、どこにでもあるという風に聞こえるかもしれませんが、実を言うと、今一番”ナイ”のが「普通のモノ」なんですねぇ。
そして、「普通」であり「現代」であり「芸術」でもあるとなると、かなり難しく成るわけです。

 ※「普通」というと、「一般的であること」のように聞こえてしまいますが、
  実は「普通」と「一般的」は、違う場合もあるということです。
  「普通」のモノ」は、「時代的に普遍的なモノ」ではありますが、必ずしも
  「数的な普遍性」を持っているとは限りません。
  逆に「一般的なモノ」は、「時代的な普遍性」を持っているとは限りませ
  んが、「数的な普遍性」は必ず持っています。
  現在に限って言えば、「一般的なモノ」が「時代的な普遍性」を備えて
  いることの方がまれなことだと言ってもいいと思いますし、「普通のモノ」
  が、「数的な普遍性」を持っていることは、ほとんどないと言っていいと
  思います。

  つまり、「普通のモノ」は、「少数派」であり、「一般的なモノ」は「今だけの
  流行」であるということですね。

でも、それが「今創り出したいモノ」なんだと思うわけですね。

ただ、残念ながら、どうすればできるのかがわかりません。
どこにあるのかもわかりません。
なにをすればいいのかもわかりません。

まぁ、その「何をすればいいのか?」を創り出さないとならなく成ってしまっているわけですから。

『ヤミクモ?』または、『テキトー?』
『いやいや、そんなんじゃないんだ!極めて堅実にアテズッポなだけだから』

ただ一つ、わかっていることと言えば、いま最も一般的で、いま最もたくさんあって、いま最も余っていて、いま最も飽きられているのが「普通”じゃない”モノ」だということですね。

というわけで、極めて堅実にコツコツと「アテズッポウ」をやって行けば、きっといつかは「普通のモノ」に出くわす時が来るに違いないと。


そんな風に思っているわけです。





「長い題」=詩のような題(その7)



「長い題」=詩のような題(その7)です。
この「長い題」の記事も『どうせ誰も読まないんだろうなぁ』ということがだいたいわかってきたので、『やめちまおうか』と思うんですが、よく考えたらほかの記事も同じようなもんなんで、取り敢えず続けようと思います。

そういうわけで、「長い題」=詩のような題(その7)です。

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『きょうは いいひか わるいひか』

そんなことは わからない 
ひゃくねん たたなきゃ わからない
でも しんでからじゃあ やっぱり けっきょく わからない


つまりは 
ひゃくねんたてば いいひに なるかもしれないひ
それが きょういちにちの ほんとのいみ 

そのとき ぼくが いきてたら 
それは ぼくにとっての きょうのいみ 
 
そのとき ぼくが しんでたら
それは だれかにとっての きょうのいみ


つまり いまこのときの ぼくにとっての きょうのいみとは

ひゃくねんまえの だれかが くれた きょうのいみ


だったら それは きっと いいひで あるに ちがいない

ひゃくねんごの だれかに むかって 
わるいひを おくる ひとなんて いるわけないから

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ここは どこ

ここは いったい どこなのか


だいとかいの まんなかの 
そのまた いちばん まんなかの
じめんの したを ほってゆき
さいごに でてきた ちいさな あな

その あなという ポケット

それが ここ


ひとで うずまく だいとしの 
みんなに ひとつ ここは ある

だれの なかにも かならず あって
なくなることは ほとんど ない


ここに くると じぶんのことが わかるから

ここを なくすと 

『もう にどと ほんとの じぶんに あえなくなってしまうから』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『せかいには ブルーの あめが ふることが ある』

その ブルーの あめには オレンジ色の つぶが まじることが ある


なぜならば それが うつくしいからに ほかならない

すべてのものが ただただ うつくしいから そこに そんざいしている


それが この せかいが なりたっている 

ただ ひとつの りゆうに ほかならない 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『ちょうの はね 
めが くらむほど いろめき
なんごくの はな 
むせかえるほど においたつ』


ひとの かげ 

やわらかくて あたたかい ひとの こころは
その いろと においの みつりんの まんなかに
ひとり ぽつんと とりのこされる

まるで くらい かげのように


この みつのように あまい においと
めまいが するほど あざやかな いろの なかで
ひとり おきざりにされて からめとられてしまった
やわらかい ひとの こころは


はたして そのときが くれば 

ここから ぬけだすことが できるのだろうか 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

もりの おく

なつの ひざしも とどかない もりの おくは
つめたい くうきで みたされて 
しんと しずまりかえっている


そこには あおじろい ひかりしか とどかない


それなのに その ゆらめく ひかりが 
おどるように ながれこんでいるのは 

そこに いのちが やどっているから


いや いま この しゅんかんにも
いのちが たんじょうしているからに ちがいない


『きっと もりとは そういう ばしょに つけられた なまえ なんだろう』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『それは じょうねつの ダンス』


こころの なかの なにかを みつめて
ほかの ものには みむきもしない
その いってんだけを みつめて
いっしゅんたりとも めをそらす ことはない 

そんなふうに いっしんふらんに
そんなふうに むがむちゅうで
もえさかるように おどりつづける 
じょうねつの ダンス

たいようのように さんさんと
つきのように たんたんと
くりかえされる こころの ダンス

それは おどりながら いきること
それは いきながらにして もえつきること

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ひみつとは みえないものの ことだから


それなら みえるように してみよう
だれにも みえるように してみよう

それで きっと わかるだろう
だれにも きっと わかるだろう

うつくしいから ひめられて
ひめられるほど うつくしい


でも それを かくしてしまう ひとが いる
ヴェールを かける ひとが いる
にどと あけてみようとはしない

それで また
ひみつが もとの ひみつに かえされて

まえより もっと ひめられて
まえより もっと うつくしく
まえより もっと いちだんと

ひそやかな かがやきを ましてゆく


そう 『ひみつとは みえないものの ことなのだから』







「仮想現実」と「現実の中の幻想」



「仮想現実(バーチャル・リアリティ)」という言葉は、いつの間にか当たり前になってしまいましたが(最近では当たり前すぎてあまり使われなくなったような気さえする)、この言葉が使われるように成った頃は、けっこう最先端なイメージがあって、CG合成された映像やそういう映像で創り出された世界という印象があったわけです。

でも、今になって考え直してみると、必ずしもそういう「デジタルな感じ」に限ったものでもないような気がしてきたわけです。
そして、そう考えると、実は「絵」って「元祖・バーチャル・リアリティ」なんじゃないのかなと思えてくるわけです。

 ※ここで言う「絵」とは手描きで描かれた「絵」という意味です。
  デジタル画やCGなどは外して考えます。
  それから、漫画やイラストなどのように必ずしも「一枚の絵」として独立している
  とは言えない絵は、ここでは含まないものとします。

「絵」はもともと「平面」の中に「現実には存在しない世界」を創り出すものですから、「仮想現実」と言って問題ないと思います。

「バーチャル・リアリティ」という言葉は、「写真」や「実写映像」に対する言葉として出てきたんでしょうから、それで「コンピューター・グラフィックス(C.G.」などのデジタル画像のイメージが強く成っているんだと思いますけど、実は、そういう「画像を合成する作業」を手でやっているのが「絵」であって、手法が違うだけなんだと思うわけです(動かないけど)。
しかも、「絵」はいつからあるのかわからないくらい昔からあるわけですから、「元祖」であることにも間違いはないと思うわけですね。

それはさておき、今はゲームなどに使われる「C.G.・アニメーションによる仮想現実」が、まさに全盛期と言えるほどの繁栄ぶりですが、そろそろ、その繁栄ぶりも終わりに近づいているんじゃないかという気がするわけです。

なぜかと言えば、『世界を一周しつつあるから』ということなんですねぇ。
つまり、日本から発信された(と言っていいのかな?)「アニメ&オタク文化」が、世界中に広がって、そろそろ世界を一周しつつあるんじゃないかと思うわけです。

まだ「オタク文化」が終わらないのは、そこに逃げ込んでいる人がたくさんいるからだと思うんですね。
まぁ、「現実逃避」ということです。

「アニメ&オタク文化」に「現実逃避的な側面」があるのは間違いないことだと思います。
だから、適度に「現実」過ぎない「仮想現実」の世界に逃げ込むんだと思いますよ。
これは、「アニメ&オタク」に限らず「芸術」や「創作」全般に言えることかもしれませんけどね。

いずれにしても、「現実逃避」自体が、そんなに悪いことだとは思いません。
どちらかと言えば、逃避したくなるような「現実」の方に問題があるような気もしますから。
それに、「リクリエーション」と言われるものには、ほぼ全て「現実逃避」的な側面があると思いますから、それを否定してもあまり意味がないと言う気がします。
要するに、「現実逃避」と「気分転換」の厳密なチガイなんてないということですね。

ただ、そこで問題なのは「戻ってこれなくなること」です。
まぁ、これが「現実逃避」の問題点でもあるんでしょうね。
つまり、「仮想現実」の世界に行ったまま「本当の現実」の世界に戻ってこれなくなってしまう人が増えていると思うわけです。

逆に言えば、簡単に戻ったり行ったりできるなら、大きな問題はないような気もするわけですが、やはり、完全に「オタク化」してしまった人はなかなか戻って来にくくなると思いますね。
生活に支障が出て来るって言うんですか?まぁ、そんなことです。

要するに、「現実」の方がその人にとっての「異世界」になってしまって、「仮想現実」の方が「実世界」のような錯覚が生まれてしまうんだと思います。
そして、その状態を続けていくと「現実」が「うっとうしいモノ」にしか思えなくなってしまうんだと思うわけです。

まぁ、やっぱり「現実」ですから、嫌なこともありますし大変だったりもするわけで、そういう「メンドウ」が一切ない「バーチャルな世界」と比べると、「うっとうしい」には違いないわけです。

最近では、『日本の「アニメ&オタク文化」は世界にも誇れるような独自の文化である』という風潮があると思いますが、その点について誰かが責任を取ってくれることは無いわけですから、戻ってこれなくなってしまう前に考えておいても損はないと思いますね。
要するに、いわゆる「アニメ&オタク文化」に代表されるような「バーチャルなモノ」というのは、戻ってこれなく成ってしまう確率が高いんじゃないかということなんですね。

そこで、はじめの話に戻るんですが、つまり「絵」ですね。
もしも、「絵」が「元祖・仮想現実」であるならば、「バーチャル・リアリティ」の代わりに成るんじゃないかと思うわけなんですね。

もちろん、すでに「オタク化」してしまった人たちは、「絵」なんかじゃ納得しないんでしょうが、まだ完全に「オタク化」していない人、すなわち「戻って来られる人」や、次の世代の人であれば「絵」でも代替可能だと思います。

「絵(タブロー)」は「仮想現実」でもありますが、「モノ」でもありますから、完全な「非現実」ではありえない所があると思います。
だから、完全に戻ってこれなくなってしまうということは無いんじゃないかと思うわけです。
(それで「オタク」の人にはピンとこないんでしょうね?)

要するに、「絵」には「肉体」があるんですね。

いま言われているところの「バーチャル・リアリティ」には、「肉体的な要素」を限りなく削り取ってしまう傾向があるわけです。
だからこそ、「オタク」にとってハマりやすいんだと思います。
そして、その「肉体的な要素」こそが「現実感」でもあるわけです。

つまり、「絵」は「モノ」でもあることで、完全な「仮想」ではあり得ないのに対して、「情報」であって「モノ」ではない「デジタルなバーチャル」はどんどん「現実味」をそぎ取っていくことが出来てしまうわけです。
その結果が「戻ってこれなくなること」なんだと思うわけですねぇ。

そういうことからも、「絵」というメディア(普通の絵ですね)を復活させていった方がいいんじゃないかと思っているわけですが、この場合の「絵」にはある程度の条件があります。

まず、「平面であること」ですね。
それから、「タブロー」であること、言い換えれば、「一枚の絵」として成り立っていることです。
もう一つは、やや不明瞭な言い方に成りますけど、「苦労して描かれた絵であること」です。

これらの条件と言うのをまとめると、「普通の絵であること」です。
まぁ、言ってみれば「昔からあるスタイルの絵」ということなんですね。

どうして「昔流の普通の絵」じゃないとダメかというと、「昔流の普通の絵」こそが、「仮想現実的な要素を持っていて、尚且つ肉体を持っている絵」だからです。
現在の芸術において、「普通の絵」として処理(排除)されるような絵というのは、必ずと言っていいほど「肉体を持った絵」なんですねぇ。
別の言い方をすれば、「肉体を持った絵」は「現代美術」とは扱われない確率が高くなるということです。
逆に言うと「肉体を失うこと」でいわゆる「現代美術」っぽく成るということがあるわけです。

つまり、「物質感」を消して、スマートにサラッと分かりやすく説明された絵は、平面であっても「現代美術」っぽくなる傾向があるということです。
これは、概ね「イラスト」や「マンガ」の性質と同じようなところがあるわけです。
だから、こういったモノでは、ここで言うところの「バーチャル」の代替にはなりません。
ほぼ同じジャンルですからね。

そういう「デジタルなバーチャル」に近いスタイルを、「芸術」において代表しているのが「ポップ・アート」と言えると思います。
「ポップ・アート」自体は半世紀も前のスタイルですが、現在形の美術は、すべてこの「ポップ・アート」やその前から続いている「コンセプチュアル・アート」の焼き直しであると言ってもいいくらいだと思います。

そして、これら二つの「アート」の特徴こそが、「デジタルなバーチャル」の特徴ともほぼ重なっているわけです。
まぁ、だからこそ「バーチャル」がいま全盛期を迎えているわけですけどね。

ということは、それらにも「戻ってこられなくなる性質」があるということです。
だから、やっぱり「バーチャル」の代わりにはなりません。
だから、「昔流の普通の絵」じゃないとダメだろうと言うことなんですねぇ。

「現代人のオタク化」と「バーチャル・リアリティの繁栄」と「芸術のポップ化」は、「肉体性=現実感の欠如」という点において共通性があると思います。
これらが同時進行的に起きてきたのは、偶然ではなく、過激化する「競争社会」が生み出し続けている「工業化」や「効率化」などのような「人間性」を無視した現状が「人間」を阻害しているために、「人間」がそこから「逃避」せざるを得ない状況に直面していて、しかも、その「現実逃避せざるを得ないような人」の比率が日増しに増えているということと深く関係していることだと思うわけです。

つまり、「社会による人間疎外」という「原因」があっての「結果」として現れてきているのが、「現代人のオタク化」であり「バーチャル・リアリティの繁栄」であり「芸術のポップ化」なのだと思うわけです。

しかし、「芸術」と言うモノを「社会現象」の「結果」としてあるモノではなく、「原因」となるようなものとして考えた場合は、これでは本末転倒だと思うわけです。
やはり、「芸術」が「原因」となるには、このような現状を崩して、「人間」が「阻害されるモノ」ではなく「尊重されるモノ」に成るような方向性を示す必要があるんだと思います。

そんなことから、「芸術」は人間的であり肉体的である必要性が出てきているんじゃないのかなと。

そして、さらにそういう「芸術」が創り出した「肉体性を兼ね備えた幻想」を「現実的な日常」の中に取り込んでいけるように成れば、少しいいんじゃないのかなと。


そんな風に思うわけなのです。




「芸術」は「日常空間」に持ち込まれたときに本当の意味がわかる



『芸術は美術館で見るもの』というのが、今は一般的な考え方なんじゃないかと思いますけど、今後は『芸術は生活空間で見るもの』、もう少し詳しく言うと『芸術は日常の中に非日常空間を創り出すもの』という考え方が重要になっていくんじゃないかと思っているわけです。

今は「見る人」が美術館などの「非日常空間」に移動して「芸術」を鑑賞しているわけですが、その移動の方向を反転させて「芸術」を「見る人の日常」に持ち込むことで「見る人の日常」の中に「非日常空間」を創り出すことが出来れば、「芸術」が人間にとって一定の価値を提供することが出来るように成るだろうと思うわけです。

 ※「芸術」にとっては、「価値」よりも「意味」が重要だと思います。
  言い換えれば、「役に立つこと」ではなく「純粋さを追求すること」
  が「芸術」の本来の姿だと思うわけですが、それでも、「価値」だっ
  てあったほうがイイには違いないわけです。
  つまり、人間にとって実質的に役立つ「価値」ですね。
  「芸術」がそういうモノを追求するために「芸術としての純粋性」を
  失ってしまうことは本末転倒だと思いますが、「芸術」が「芸術」の
  範囲内で「人間」に貢献しようと考えることには、「価値」があると
  思いますし、それは、「芸術の意味」でもあると思います。

  まぁ、早い話が、「結果的に発生する価値」はあった方がいいという
  ことだと思います。

現在の日本では、一般庶民の住宅で、『芸術だな』と思うようなモノを置いている家って少ないと思うわけですねぇ。
まぁ、複製品とか「インテリア・デザインや工芸品としての芸術」ということではなくて、「一点物の個人作品」であって、しかも『これは純粋な意味での芸術を追求して作りました』というような、いわゆる「ホンモノ」っていうことですけどね。

 ※有名・無名・とは関係ありませんし、もちろん値段とも関係ありません。
  自分で創作したモノや、友人や知人が創作したモノなんかも含まれると
  いうことで考えたとしても、そういうものが飾られている家ってあんま
  り見ないですよねぇ。
  これ、ちょっと寂しい気がするんですが、どうなんでしょうね?

こういう話で、『ヨーロッパなどの住宅では「芸術」が生活の中に溶け込んでいる』ということを聞いたりもしますが、それとは少し違う話だと思います。
確かに、日本の住宅に比べると、そういう国の住宅に絵がかけられていたりすることは多いという話を聞きますが、おそらくそれは「インテリアの一環として飾られている絵」であって、今ここで言うような『芸術を日常空間に持ち込んで、そこに非日常空間を創り出す』という意味ではないと思うわけです。

だから、これは日本の住宅事情とはほとんど関係が無い話ですし、また、日本人の「インテリア感覚」や「生活空間の演出に関する意識」の話でもなくて、もう少し根本的な意味での「芸術鑑賞に対する姿勢」についての話です。
つまり、「現在、芸術が置かれている位置」と「現在、人間が立っている位置」の間で、『どういう「芸術鑑賞」を模索していこうか?』というような話であります。
まぁ、「現在における芸術鑑賞のスタイルについての提案」みたいなものだと思っていただければいいんじゃないでしょうか。

さて、なんで「日常空間」に「芸術」を持ち込むことが「芸術の価値」に成るのかということなんですが、それは「現代社会」がある種のユガミを抱えていることや、そのことから「現代人」が常に「ストレス」を感じて生活せざるを得ない状況にあるということと深く関係しています。

 ※ここで言う「ストレス」とは、単なる「負荷」ではなく、『どっちに行って
  も逃れられない閉塞感』のようなものです。
  主にダブル・スタンダードやダブル・バインドによって産み出される
  「精神的な閉塞感」を指しています。
  要するに、「現代人」はいつも何かと何かの間で挟まれていたり、引
  き裂かれていたりして、片方に近づけば片方からは遠ざかってしまう
  という、ジレンマの中で生活しているということですね。

  このことこそが、「芸術」が20世紀に入った頃から大きく変貌したこと
  の、ひとつの原因でもあるんだと思います。

「現代人」が「ストレス」を感じて生きているということに異論がある人はそう沢山は居ないと思いますが、その「ストレス」を『昔からあったんじゃないの?』と思っている人はけっこう居るんじゃないかと思います。

もちろん、いつの時代にも、何らかの「ストレス」があったのは間違いないと思いますが、「現代のストレス」は「現代特有のモノ」だと思うわけです。
それは、「精神的なストレス」ということですね。
「ストレス」自体が精神的なものなんでしょうが、「現代のストレス」は「精神と精神の摩擦が生み出すストレス」だと思うわけです。

昔は、主に「肉体的な負担」を、人間が「重荷」と感じたときに「ストレス」が発生していたわけですが、現在は「肉体的な負担」が全くない場合にも「ストレス」が発生するようになっていて、しかも、その「精神的なストレス」が「肉体的な負担」よりもはるかに大きくなっているわけです。

ちょっと前の時代(50~60年前くらい?)までは、その「精神的なストレス」も「肉体的な負担」とだいたい同じくらいの大きさだったような気がしますが、この半世紀ほどの間に、社会が生み出す「精神的なストレス」は膨張し続けて、今に至って、それが「人間の限界点」」を超えてしまったという感じがあるわけです。
(100年以上前は、「ストレス」は、けっこう単純なものだったと思いますね)

とは言え、そういう中でも生きていかねばなりませんから、「ストレス社会」の中で「人間」は常にフラストレーションを抱えて生きていくことに成るわけで、当然、その「はけ口」を求めているわけです。

まぁ、悲しいことではありますが、こう言うことから、その「はけ口」として「イジメ」や「虐待」や「~ハラスメント」などの現象が起きてくるわけで、オオモトのフラストレーションが緩和されない状況のまま「はけ口」だけを何とかしようとしても、なんの効果もないと思うわけですねぇ。

なかなか、「現代のフラストレーション」そのものを緩和するのは難しいでしょうが、せめて、「イジメ」や「虐待」のような最悪の選択だけでも逃れられないだろうか?と考えるわけです。
そこで、その「はけ口」の代わりに成り得るのが、「幻想の日常化」だと思っているわけです。

もともと、「リクリエーション」とはこういう目的のものだと思うんですけど、「リゾート」や「リクリエーション」の場合は「人間が非日常空間に行くこと」や「人間が日常の中に楽しみを見つけること」を意味するところが大きいと思います。
つまり、「日常空間を離れることや、忘れること」に意味があるんだと思います。

しかし、「現代人」は常に「フラストレーション」を抱えていますし、その元をたどって行けば「逃れようのないストレス」という「絶対的な闇」があるわけですから、「日常空間を離れること」ぐらいで「日常を忘れること」なんてとてもできませんし、「ときどき行くリゾート」などでは、一年中いつも付きまとっている「フラストレーション」を解消することは出来ないわけです。
それに、そういった「リクリエーション」にも「おカネ」や「手間」がかかってしまうので、また、そこでも「ストレス」を感じてしまうわけですねぇ。
まぁ、それだから「逃れようのないストレス」なわけですけどね。

そこで、「幻想の日常化」が必要に成ってくるわけですねぇ。

という所で、前置きが長すぎて、本題に入る前に力尽きてしまったので、次の記事に続けます。




「芸術」は「日常空間」に持ち込まれたときに本当の意味がわかる(つづき)



前の記事の続きです。


「幻想」を「日常空間」に持ち込むことで、そこに「非日常空間」を創り出すことが出来れば、「現代人」が抱えているフラストレーションを少しは解消することが出来るんじゃないだろうか?ということですね。
(注:少しです)


昔から「芸術」が持っていた役割の一つは「人の心を癒すこと」だったと思いますが、現在、この役割が「芸術」に担えるでしょうか?
つまり、「現代ストレス社会の中で疲れた心」を「芸術」で癒すことが出来ると思いますか?ということですね。
『出来ますよ、余裕で』と言える人がどのくらいいるのかはわかりませんが、少なくとも、そう言える人というのは、よほど楽天的な人か庶民の中でも「やや上の立場」にある人じゃないかと思いますね。

そういう、「ストレス少なめの人」以外の一般庶民で、「それでも芸術で癒されたい一心で美術館に通う人たち」は、本当に癒されているでしょうか?

やっぱり普通の庶民の人たちは、「現代社会」の中で、かなりの「ストレス」を感じて生きているわけで、しかも、けっこう真面目に生きている人ほど、「社会」に適応しようとしますから、「社会のヒズミ」の影響をもろに受けてしまうわけで、当然、強いフラストレーションを抱えているわけです。

要するに、『こんな状況の下でも、「芸術」が人の心を癒すことが出来るのか?』ということです。

私は無理だと思いますね。
というか、そういう「逃げ場のないストレス」の中に居るような人に『まぁ、美術館にでも行ってみれば?きっと心が癒されるよ』というのは、むしろ残酷だと思ってしまいます。
つまり、「芸術」なんか見ている余裕が無いということですね。
現在の社会状況というのは、こういうことが決してオーバーではないと思うわけです。
じゃなきゃ、こんなにたくさん自殺者が出ていないと思いますよ。
しかも、こんな、食べるのに困らないような時代なのに。

確かに、そういう状況でも「芸術」に救われている人は居ると思いますが、そう言う人が少しづつ少なく成っているのも間違いないことのように思うわけですね。

なにが言いたいかというと、昔と今とでは「芸術」が担う役割のスタイルを変えなければならないんじゃないか?ということなんです。
まぁ、一言で言って、昔のスタイルじゃ役に立たないと思う人が多くなったということだと思います。

「アカデミズムの行き詰まり」と同時に、この「芸術の役割の変化」があったことで、「芸術の20世紀」において「芸術」が大きく変貌することに成ったんだと思います。

昔は、「きれいな花」や「美しい風景」、あるいは「神話的な題材の絵」を描いていれば、それを見た人の心が癒されていたわけですが、近代から現代にかけて、「ストレス」が増大するのと同調して、「芸術」も変貌していったのは、「強いストレス」を感じた人たちが、そういった昔のスタイルでは心を癒されなくなったということが一つの原因だと思うわけです。

「昔の癒し」とは、要するに「たのしみ」だったんだと思います。
言い換えれば「エンターテイメント」ですね。
昔は「エンターテイメント」が少なかったんでしょうから、「芸術」はその中心の一つだったんだと思います。

でも、現在は「エンターテイメント性」では「純粋な芸術」を上回るモノもたくさんあるわけで、敢えて「純粋な芸術」で「たのしみ」を追求する必要性は薄いんじゃないでしょうか? 
「純粋な芸術」は「たのしみ」を創り出すのには、そんなには向いていないんだと思います。

ところで、「純粋な芸術」は、ナニに向いているんだ?ということです。
たとえば、「幻想であること」ですね。
これは「純粋な芸術」に向いているんじゃないかと思うわけです。
もちろん、他の言葉で言い換えてもいいと思います。
たとえば、「異世界」でもいいわけですし、「感動」や「夢」と言ってもいいと思いますよ。
なんでも自分の好きな言葉を当てはめて考えることは出来るわけですね。

つまり、「現実ではないナニカ」ということなんだと思います。
そして、「自分が最も惹きつけられるナニカ」ということですね。
そういう「心を魅了するものであること」が「芸術」に向いていることなんだと思うわけです。

そして、そういうものを「日常空間」に持ち込むことで、「日常」の中に「非日常空間」を創り出すことが出来れば、「現代ストレス社会」における「癒し」と成り得るんじゃないかと思っているわけです。

つまり、「エンターテイメント」が「即効性の癒し」であるのに対して、「幻想の日常化」は「根本的な癒し」に成る可能性があると思うわけです。
「純粋な芸術」には根源的で普遍的な性質がありますから、「エンターテイメント」では物足りない人に対しての「癒し」に成り得ると思うわけですね。

なぜ、「非日常空間」に行って見るのではダメなのか?と言えば、『めんどくさいから』です。
「やられちゃってる人」は「めんどくさいこと」はもうできないんですね。
それに、もしも、少し無理して行ったとしても気持ちにゆとりがありませんから、『あぁ、いいよね』ぐらいで終わってしまうわけです。
それじゃ、「癒し」に成らないでしょうね。
それから、次に行くまで持ちません。
「ストレス」は常に付きまとっていますから、次にそういう場所に行くまで持たないんですね。
だから、いつどこに居ても「幻想」があるのが一番いいわけです。

でも、それが完全に「日常」になってしまうと意味が無くなってしまいますから、「日常」の中に「非日常」を創り出すことが必要に成ってくるというわけです。

その為に、「幻想であること」が必要に成るわけですね。


『現実を忘れさせてくれる』だけじゃなくて、『現実を圧倒する』ような世界が「日常空間」の中に造り出せれば、きっと「現実の中で起きている矛盾や不条理」に対して、『むしろ、そっちこそ「無意味な世界」であって、自分にとって本当に意味があるのは、こっちの「幻想の世界」なんじゃないのか?』という風に思えるかもしれません。
(これは、かつて「宗教」が担っていた役割ともリンクしていると思います)

というか、実際に「芸術が創り出す幻想」は「現実」よりも「真実」に近い可能性があるわけで、そうだとすれば、これは「虚構への逃避」ではなく、むしろ「真実への回帰」であるわけですから、本当の意味での「癒し」と成り得るんではないのかなと。

つまり、「現代社会」の持っている「人間性軽視」や「効率重視」や「拝金主義」などの性質は、実際にはだれにとっても無意味なモノで、実を言えば、誰も幸せになれない「虚構の論理」であるということがかなりはっきりしてきているわけですから、そちらが「虚構の世界」であると言っても、もうそろそろいいような気がするわけですね。

そして、そういう「虚構の世界」の「裏」という意味での「幻想の世界」を心の中に持っていることが「その人にとっての真実」を取り戻すことに成るかも知れないということです。

また、それだからこそ、「芸術」は少し無理をしてでも「真実」を追求する必要があるんではないのかなと。
「真実」に到達できることは無いにしても、そこへ向かう姿勢だけでも示すことが、「現在の芸術の責任」であるのかなと。

そういう風に思っているわけなんです。



「長い題」=詩のような題(その8)



「長い題」=詩のような題(その8)です。

『ええ、「題」だけですけど、なにか問題でも?』

「長い題」=詩のような題(その8)です。

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

そぼく すぎず 
じゅんすい すぎず

それでいて いとも きまじめで 
ひとに きをつかわずに なにかを することなど できるわけもなく 
したがって ろくなことなど ほとんど できたためしがない

そんな にんげんに うまれついてしまった ぼくが
こんなにも ふつうの じんせいを 
こんなにも せいじつに いきているというのに
どうして こんなにも ややこしくて めんどうなことに なるのか

なにゆえ もっと たんじゅんに いきられないのか


そういったことが まったくもって りかいできないと 
いつも おもっているような


『ソウイウ ニンゲンデ ボクハ アリタイ』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

かなしいときに なみだが でない

うれしくも ないのに わらってしまう

わるいと おもってないのに あたまを さげ

たいしたこと ないよと おもいながらも
かんしんした ふりをする


だけど ほんとは

じぶんが えらいと おもってる
じゅうぶん りっぱな ひとだと おもってる


でも もっと ほんとの ところでは

そんなこと いうほどの じしんは なく
いつも ひとの かおいろを みて いきている


そう これは ぜんぶ わたしの ことですが
そうです ぜんぶ あなたの ことでもあるわけです

あなたが だれでも おんなじです
ちがうと いっても かわりません


わたしも あなたも そういう いきもので あるのです


だから とっても いやなんだけど

『ソウイウ ニンゲンデ ワタシハ アリタイ』

きっと わたしたちは
そんなふうに おもっているに ちがいありません

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

うつくしいものも おもしろいものも もう いらない


うつくしいものは しぜんが ありあまるほど あたえてくれる

にんげんは おもしろいものばかり つくりつづけて 
よのなかを おもしろいものだらけに してしまった


だから もう そういうものを つくりだす いみは ない

いま にんげんが つくりだす いみが あるものといえば
それは じぶんじしんの すがただろう


にんげんの すべてを あらわすことは できないが

もし かりに 
それが ひゃくぶんのいちでも できたなら

にんげんの ほんとの すがたを 
いっしゅんたりとも みせることが できたなら


それは きっと

『なみだが でるほど おもしろく
ふるえるほどに うつくしいもの』に なるだろう

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『つやとは』 

いろとりどりの かじつや 
なんごくの しょくぶつの はの
はだのようなもの


つやとは 

ながれるような かたちの 
ガラスや とうきが はんしゃする ひかりのようなもの


そして つやとは 

ひとの こころが もっている 
ひとどうしを ひきつけあう みりょくのようなもの


ときに あいらしく
ときに なやましく
そして ときには ゆうゆうしく

ひとの こころを ひきつけて やまない


そんな つやが

だれの こころのなかにも かならず あるはずなのです

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

たのしくて たのしくて
いきているのが たのしくて

かなしくて かなしくて
いきていくのが かなしくて


しぬのなんて こわくない
いま いきて いるから

いきるのなんて こわくない
きっと いつか しぬから


それなのに
どうしても たのしくて
どうしても かなしい

どうしようもなく たのしくて かなしいので
だったら それで いいんじゃないかとも おもうんですが

それにつけても
『あまりにも たのしくて あまりにも かなしい』


それぐらいで いきていくには ちょうどいいんだと おもいます

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

はじめの二つは『宮沢 賢治』さんの『雨にも負けず』から発想したものです。
というか、出来てくる途中でそういう方向に持っていったという感じですね。
『宮沢 賢治』さんは、たぶん、けっこう好きなんで。

『たぶん』というのは、本を読んだりしたわけではないので、ハッキリしません。
っていうか、『雨にも負けず』自体、これを書いた後ではじめて「全文」を読みました。
ずいぶん長いんですねぇ。
最初の所と、最後の所しか知らなかったのかなぁ?(これも、たぶん)

『雨にも負けず』からの引用(少し違いますけど)であることがわかるように、その部分をカタカナにしています。



「ミニマム・アート」のススメ(「ミニマル」じゃないよ)



「ミニマル・アート」と言うのがありますが、私の場合は、どちらかと言うと「表現の幅」を広げたいと思っていますから、「表現」を「ミニマル」にしたくはないわけなんですねぇ。

でも、「表現の幅」は広げたいんですが、その「表現」においては、出来るだけ「精神性」を大事にしていきたいという気持ちがあるわけです。
言い換えると、「表現」の中の「物質性」を最小限にとどめたいということです。

つまり、単なる「最小限」じゃなくて、「物質的な意味に限っての最小限」を目指したいと思っていて、そういう「物質的に最小限の表現」を目指すことを、自分の中で「ミニマム・アート」と言っているわけです。

 ※もう一つ、私のおススメで「スロー・アート」というのがあるんですけど、
  それとワンセットのモノだと考えております。
  そちらは、『やたらとゆっくり時間をかけて制作する』という、とっても非
  現代的なスタイルです。

たとえば、「作品の大きさ」については前にも書いたことがあるんですが、『現実的な範囲で出来るだけ小さくする』という方向で考えていますし、「素材」や「メディア」についても、過度にそれに頼らないよにしているつもりです。
まぁ、要するに、『珍しい素材を使うことで新しさを出す』というようなことではなく、いつでも『そこら辺にあるモノでも表現することはできるでしょ』と言えるようにしておきたいということですね。

とにかく、「物質性に頼らない創作&表現」を目指したいと思っているわけなんです。

かつて「ミニマル・アート」が「最小限の表現」を目指してしまったために、「表現の幅」を狭くしていって、最終的には「表現」自体を見失ってしまったことは、現在振り返ってみれば、明らかなことではないかと思います。

そんな「ミニマル・アート」の作品が、いまだに「20世紀芸術の傑作」とされているのは、その「デザイン性の高さ」によるところが大きいと思います。
しかし、「デザイン」というのは「芸術」の中では最も工業的であり、かつ、最も「個人性の薄いジャンル」ではないかと思うわけです。
それを「芸術の中心」に置いてしまうと「芸術」の中の「個人表現」の部分がないがしろにされていくことに成ります。

そういったことから、私は「ミニマル・アート」を「芸術の20世紀の遺物」の一つだと思っているわけですが、「ミニマル・アート」が目指した方向はチョットずれていただけであって、根本的には正しい所もあったんじゃないかと思います。
つまり、その「正しい部分」に当たるのが「物質的な意味での最小限」ということなんじゃないかと思うわけなのです。

要するに、「物質的には最小限」であり、「精神的には最大限」であることが理想なわけです。
そして、「精神」を表現するためには「最低限の物質性」を必要とするということなんだと思います。
だから、「大きさ」は小さい方がいいし、作品を「モノ」として見たときに、出来るだけ「工業的」ではなく「手作業的」である方がいいように思うわけです。

ところが、「現在の芸術の世界」を見ると、どうも、それとは正反対の印象があって、どちらかと言うと「物質的」には「大型化」する傾向があるのに、「精神的」には「スマートなモノ」が歓迎される傾向があって、それを『センスがいい』と言っているような気がするわけです。
少なくとも「現在形の芸術」において「小さい作品」が一段低い扱いを受けているのは確かなことですし、いろいろな意味で、「スマートな作品」じゃないと「現在形の芸術」と見られない傾向があるのも間違いないことなんじゃないでしょうか?

でも、本来、「個人性」というのは、他人から見たら「異質感」や「違和感」を伴うものであるわけで、「鑑賞者」から見れば、「個人性」の高い作品ほど「トゲ」のようなものを感じるハズなわけです。
そういうゴツゴツした感触のある作品は、当然「スマート」じゃありませんから、「現在形の芸術」とは扱われていない場合が多いということです。

個人的に、そこのところを、逆転したいので「ミニマム・アート」ということを考えているわけです。
(まぁ、自分の中だけでも逆転したいと思うわけですね)

作品が「大規模化」したり「工業化」すると、一般人が「芸術」に近づけなくなってしまいます。
そうなると、「創作者」と「鑑賞者」はキッパリと分け隔てられて、常に「創作者」が優位に立つように成り、「芸術」は「専門家だけの世界」になってしまうでしょう。
でも、それで一番身動きが出来なくなるのは、実は「創作者」の方です。

「ミニマム」であることで、誰でも「芸術」の近くに立つことが出来ますし、「手作業」に立ち返ることで、誰もが「制作の過程」を理解したうえで「鑑賞」することが出来るようになります。
そこで、はじめて「創作者」と「鑑賞者」が対等に対峙することに成り、結果的に「芸術の世界」が開かれた世界と成れば、一番助けられるのは「専門家=創作者」達だと思いますよ。

「芸術」においては、「鑑賞者」は「創作の過程」をある程度知る権利があると思います。
それでないと、本当の意味で「芸術」を理解することは出来ないと思いますから。
どうやって作ったのかが、素人には絶対にわからないようなものを創ってはいけないんじゃないかと思いますね。
それだと、素人は『ありがたがって見る』しかなくなってしまいますから。

それでは、「マジック」に成ってしまうと思うわけですね。
「芸術」においては、手品のようなうに「タネ」を見せずに、見た人を『あっ!』と驚かすことではなく、『作者が、どこまで自身の「タネ明かし」を出来るか?』、つまり、いかに赤裸々な自分を提示することが出来るかが大事なんだと思うわけです。

そんなことからも、「ミニマム・アート」をおススメしたいなと。
(「スロー・アート」も!)


そういう風に思っているわけです。


「長い題」=詩のような題(その9)



「長い題」=詩のような題(その9)です。

「絵」が進まない時に限って「題」は出来るみたいですね。
困ってます。

まっ、「題」だって、なんにも出来ないよりはいいさぁ~。
「長い題」=詩のような題(その9)です。

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

たいこの むかしから 

あるがままという たいだを 
ただ まんぜんと つづけてきた だいしぜんの うずに 

さからうことすら できずに
もののみごとに まきこまれながらも

なんの こんきょも ないというのに
こんなにも パンパンに ふくれあがってしまった 
にんげんの とかいは

こうぎょうかの もたらす とてつもなく ふきんこうなきんこうを
いまも へいぜんと たもちつづけている

その じんこうという こざかしい くうかんの なかで
みずからの ちんけな ちせいと
ごうまんな りょうしんの かけらに うめつくされて 
おぼれしんで いきながらも 

にこにこと ほほえみを うかべて 
ていさいを つくろうことや 

せいろんという じょうひんな ぼうりょくを チラつかせて
じふしんを みたすことだけは かかさない


そんな あいらしい にんげんたちが とじこめられてしまっている 

『この ぜつぼうてきに へいさてきな くうかんを
いま ぼくの なかで かいほうする』

あの あおぞらの きれつに むかって
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

いつでも どんなときでも
にんげんらしい にんげんで ありたいと おもうわけですが

いつでも どんなときでも
ひとは みな フル・タイムの にんげんで 
いられる はずだと おもうわけですが

それが なかなか そうも いかないようで

ひとは すぐ にんげんいかを やってしまう
にんげんみまんに おちてしまう

つまりは 
ひとは みな 『パート・タイムの にんげん』で あるわけです

それなら それで しかたがないとも おもうわけですが
それなら それで がんばろうとも おもうわけで

それなら それで いまだけでも 
なんとか にんげんらしく していようと

いっしょうけんめいに おもうわけなのです

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『ぼくは ひとつぶ』

ぼくは すなはまの すなのなかの ひとつぶ
ぼくは うちゅうの ほしのなかの ひとつぶ
ぼくは ただよっている ほこりのなかの ひとつぶ
ぼくは しゅうかくされて あつめられた こめつぶのなかの ひとつぶ

つまらないと いえば つまらない
おもしろいと いえば おもしろい

どうでもいいと いうことも できるし 
たいしたものだと いうことだって できる

ひとつぶであることを ひげして なやむことも ある
ひとつぶであることを じまんして ひけらかすことも ある

ひとつぶのかちを ばかにして わらうひとも いれば
ひとつぶのかちを とんでもなく すごいことのように いうひとも いる

じぶんの ひとつぶを ひとの ひとつぶよりも 
おおきいと おもうことも できるし
ちいさいと おもうことも できる

でも ほんとうは みんな おなじ ひとつぶ


ぼくには そんな ひとつぶの かちが ある

そのかちを ひていできる ひとは いない

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ちゅうを まう
『あざやかに ちゅうを まう』

ときを とめ
くうかんを とじた このせかいの なかで
それは あざやかに ちゅうを まうのです

むかう さきもなく
なんの もくてきも ないというのに
けっして おちることは なく

まるで つきの みちかけのように せいかくに
そして ただ あざやかに

そうです

それは ただ ひたすら あざやかに 
ちゅうを まいつづけ

みごとに このせかいを おきざりにして しまうのです

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『できることは ひとつだけ』
できないことは たくさん

できることなんて ひとつだけ
できないことなんか やまほど

でも そのひとつだって わからない
できないときも あるから

でも そのひとつ
もし ひとつだけ できたなら
それは あなたの いみなのです

いえいえ ちがいます
たくさん できては だめなんです

ひとつ じゃないと だめなんです

ひとつだけには いみがある
ひとつじゃないと いみがない

そのひとつ 
いま あなたは それが できている

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ちなみに、この中で、出来ている「絵」があるのは一つだけで、なんとなくこんな絵を描こうと思っているのが一つです。
他のは、該当する「絵」がまだありません。
『いかん、いかん!』
『でも、まぁいいかぁ?』


「長い題」=詩のような題(その10)



「長い題」=詩のような題(その10)です。

いやぁ、マズイですねぇ。
ドンドン長く成ってます。
こんな「題」に見合う「絵」ってあるんだろうか?っていう疑問はあるんですが、いちおう、この「長い題」も作品の一部ということに成っております。

そんな感じで、「長い題」=詩のような題(その10)です。

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

アスファルトで おおわれた 
ちきゅうという はいいろの ほしが あるという

かつては あおと みどりの ひかりに つつまれていた その ほしには 

けんりょくは うばいあい
せきにんは おしつけあい

それでいて じょうひんぶった ちしきや
みえと じふしんだけで つくりあげた かんせいを
みせあって あそぶという とぼけた しゅうせいがある 

にんげんという いきものが いたという

その にんげんという いきものは
みずからが たんなる りゅうつうしゅだんとして うみだした
かねという もうそうに 
とらわれ しはいされ ほんろうされ
さいごには はかいされてしまった

しかし あらたな しゅうせいを みにつけたものだけが いきのこり
あたらしい いきものとして うまれかわった

その あたらしい いきものは 
いまも はいいろの ちきゅうに すんでいるが
いまでも ちきゅうが あおいひかりに つつまれていると
しゅちょうしている

かれらは いまだに かねを すうはいし
それに ぜつだいな ちからが あると しんじているが
それを ぶんめいと よぶことによって
そこに むじゅんは なくなるものと かんがえている

かれらは ありとあらゆることの なまえを よびかえることによって
じぶんたちが うみだした むじゅんを 
すべて わすれさることに せいこうした

かれらは かんせいされた せいかつを てにいれ
もはや なにひとつ こまることは なくなった

つまり かれらが みにつけた あらたな しゅうせいとは
すりかえに ほかならない

あらゆることにおいて ほんしつを ついきゅうせずに
ぶなんで ここちよいものに すりかえて 
つじつまだけを あわせる

しんじがたいことだが 
かれらは このしゅうせいを みにつけたことによって いきのこり 
いまや かつてないほど はんえいしているという


さて ところで
この あたらしい いきものたちこそが
いま ここにいる われわれであるとする ぞくせつが ある

もちろん おおやけに みとめられた せつでは なく
まったく こんきょの ない うわさで あって
すくいようもないほど こっけいな めいしんでは あるのだが


『その めいしんの なかに ねむっている 
しんじつのとびらを いま ぼくのなかで ひらこう』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

しんぴんの あおぞらに 
しんぴんの たいようが のぼり 
きょうも また 
しんぴんの まちの
『しんぴんの いちにち』が はじまる


しんぴんの ふくを きて
しんぴんの くつを はき
しんぴんの いえを でる

しんぴんの くるまに のって
しんぴんの みちを はしり
しんぴんの まちを ぬけ

しんぴんの ビルに はいり
しんぴんの オフィスの なかで
しんぴんの しごとを して
しんぴんの きゅうりょうを もらう

しんぴんの みせに ゆき
しんぴんの しょうひんを えらび
しんぴんの ふうとうから とりだした
しんぴんの かねで かう


そんな まあたらしくて ピカピカの
しんぴんの まちの くらしには
ちり ひとつ おちていない
どろの ついた ところは どこにもない

だから じつに かいてきだ


そんな まぶしいばかりの しんぴんの せいかつの なかで 
だれかが といただした


きみは どろの においが なつかしくないのか
その ちのけのない ビニールのような しょくひんは うまいのか
きずだらけの はしらがある いえに また すみたいとは おもわないのか
あの きふるして しなしなになった ふくの はだざわりを
いったい きみは わすれてしまえるとでも いうのか


そこで また べつの だれかが つづけた


ところで その しんぴんの みなりをした きみの なかみは どうなんだ

にんげんは いつまで しんぴんで いられるのか
そもそも しんぴんの にんげんなど いるのか
また いたとして それに いみが あるのか

この といかけによって
ひとの こころの なかの しんぴんの せかいが ほうかいした

ゆめの くらしは うしなわれ 
ふるびた げんじつが あらわれた

でも それなのに 
しんぴんの まちは いまも ここにある
いちど うごきだしたものが やすやすと とまることは ない

だれかの といかけぐらいでは とまらない
つまりは だせいで つづいていく

にんげんは もう げんじつを うけいれる じゅんびが できているというのに

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

よのなかは きかいじかけで うごいている


はぐるまは せいかくに ときをきざみ
すべての ぶひんは かんぺきに せいぎょされている

こわれた ぶひんは はずされて
すぐに あたらしい ぶひんに とりかえられる
しんぴんの ぶひんは いくらでも ある
だから だれも こまりはしない

だったら それは それで いいんだろう


さて そこで こわれた ぶひんは どうしよう

つぎから つぎへと はずされて 
ずいぶん たくさん たまってる
まがった ぶひんが たまってる


だったら なにか つくってみよう
まがった ぶひんを つかってみよう

もしかして おかしなものが できるかも
もしかして へんなものが できるかも

いや きっと たのしいものが できるだろう
そう きっと やわらかいものが できるだろう

だって まがった ぶひんで つくるのだから
やわらかいものが できるはず


その やわらかい ぶひんに つつまれて
きかいじかけの よのなかが すこしづつ うごきだす 

『やわらかく うごきだす』


そうしたら 

いつのまにか せいかくさは わすれられ
かんぺきさなど かげもない


でも それなのに
やっぱり だれも こまりはしない

だったら これも これで いいんだろう
そこだけ ちがう はずは ないから

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

きっと きみは さみしいんだね

だから こんなに かがやいている せかいのなかで 
ひとり ぽつんと かなしそうに しているんだね


それとも もしかして 

ほんとは とっても うれしいのかい
だから こんな とじこめられた ばしょで
ひとり かがやきを ふりまき つづけているのかい


それとも・・・


いいえ
わたしが ここに いるのは さみしいとか うれしいとか
そういうことでは ありません


ただ わたしは
どうしようもなく なやましくて
たえられないほど もどかしくて 
それで わたしの からだじゅうを
ぜつぼうてきな よろこびが くるおしく めぐっていて

だから わたしは 
ただ こころを しずめるために 

『ここに ひとりで さいているのです』


でも わたしのことを きにかけてくれて うれしい


ここに かくれて さいている わたしに
きづいてくれる ひとが いるなんて


わたしは そのことが ほんとに とっても うれしい

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『ほんせいに めざめよ』


いま ばんぶつに よびかけよう

おのれの おくに うめこまれた 
ほんしつを ほりだし みきわめよ

みずからの しんじつの すがたを みつめて 
それを はんだんせずに うけいれよ


みにくいとは はんだんせずに
なぜなら うつくしいのだから

はずかしいとは はんだんせずに
つまりは ほこるべきものなのだから


いっさいの はんだんを しりぞけて それが うけいれられたとき  

ほんせいは ねむりから めざめる


このよに ひときわの かがやきを はなって
しんじつの すがたを あらわし
それは せかいに あらためて しゅつげんする


その あまりにも まばゆい すがたを みつめることは
だれにも できない

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『長すぎ!!』



「外見」によって表現することができる範囲



抽象画を描いていると、よく人から『これは何を表現しようとしているんですか?』と聞かれるわけですが、『それを言葉で説明出来ないから絵を描いてるんですけどねぇ』と答えるしかないので、とてももどかしく思うわけです。

そういう時には「抽象画」なんてやめて、誰もが難しく考えないでも見ることが出来る絵を描いた方が、少しはマシなんじゃないのか?と思うわけですが、『そういう絵では自分自身が納得できないんだから仕方がないよなぁ』と自分に言い聞かせるしかないというわけです。

で、『なんで納得できないのか?』というお話です。


それは、要するに「表現することが出来る範囲」の問題なんだと思うわけです。

「具象表現」というのは「現実のモノの外見」を使って表現することだと思いますが、その「外見」で現すことが出来る「範囲」に、やや不満があるということなわけです。
不満と言っても、実は「飽きてしまった」ということなのかも知れません。
つまり、「外見によって表現することが出来る範囲」に飽きてしまったわけです。

実際に、「外見」でもいろいろなモノが表現できますし、その表現力においても必ずしも「抽象表現」の方が上回っているということは無いように思います。
むしろ、「抽象表現」は非常に不安定で、伝わりにくい表現形式なんだと思います。
(これ、「抽象」をやっている人は認めた方がいいと思います)

それなのにどうして「抽象表現」を使うのか?と言えば、やっぱり『まだ出来ていないから』なんだと思いますよ。

 ※私は「抽象表現」は、まだ誰にも達成されていないと思っています。
  更に、おそらく今後も達成されることは無いと思います。
  つまり、「抽象表現」とは、達成不能な表現形式であるということです。
  この「不可能への永続的な挑戦」こそが「抽象」という作業であり、さらに
  その意義でもあると思っております。

確かに「外見」を使った「具象表現」でも、伝えられることもあれば伝えられないこともあるでしょう。
それは「抽象表現」でも同じです。
ただ、その「伝えられるもの」と「伝えられないもの」の範囲に違いがあるわけで、それで、まぁ『どうせだったら目新しいものを』ということに成るわけですね。

あとは、「チャレンジ」ですね。
「現在の芸術」において「挑戦する姿勢」を示すことは「芸術の重要な役割」の一つだと思いますので、「新しいこと」や「困難なこと」にチャレンジする姿勢は必要なんじゃないかと思うわけです。

それから、もう一つ「自己表現」ということがあります。
(本当のことを言えば「目新しいこと」よりも、こちらが重要ではあるわけです)
これも「現在形の芸術」においては、中心的な課題に成るわけですが、その「自己表現」には「抽象表現」が向いているということがあるんだと思います。
もちろん、「具象表現」を使っても「自己表現」は可能だと思いますし、「ナニカを表現すること自体」が「自己表現」であるとも言えるわけですが、「抽象表現」に「自己」が丸出しに成るというのは確かによくあることなんじゃないかと思います。
要するに、「自己」を隠す「外見」が無いので、「自己」が「丸出し」に成るんでしょうね。
逆に言うと、「具象表現」においては「外見」という「隠れミノ」があるために、「自己」が見えにくくなるということなんじゃないかと思うわけです。

さて、話を「外見によって表現することができる範囲」に戻すと、何が「外見で現すことが出来るモノ」で、何が「外見では現すことが出来ないモノ」なのか?ということですね。

まず、よく言われることで『感情のような精神的なものを現すために抽象表現を使うんだ』というのがありますが、実は、「感情」は「人間の表情」などの「外見」でも現すことが出来ますから、必ずしも、「抽象表現」でなければならないというわけでもないと思うわけです。

 ※「感情」をダイレクトに表現することは、「抽象」でも「具象」でもできないと思います。
  「具象」で言えば、「表情」や「しぐさ」を通じて表現するしかないので間接的な表現と
  ということに成ります。
  でも、「抽象」で直接的に「感情」を表現できるのか?というと必ずしもそうでもないわ
  けで、けっきょく使っているのは「色」や「形」でしかないわけですが、「その色や形」
  は「感情の色や形」ではなく『なんとなくこんな感じ?』という曖昧な根拠に基づいて割
  り出された「色や形」なわけですから、直接的に「感情」を表現しているわけではあり
  ません。
  ただ単に、『「他のナニカの色や形」ではない』というだけです。

では、「抽象表現でなければならないもの」とは、ナニなのか?
私は、それを「普遍的なもの」だと思うわけです。

 ※ここで言う「普遍的」とは、いろいろなモノに遍在している性質というような意味です。
  「個別のモノ」の中にあるような「特定の性質」ではなく、あらゆるものの中にある「世
  の中の本質」に近い意味で言っております。
  実際には、そんなもの現わせませんが、そこに向かって『頑張ります!』ということで
  すね。

「精神」と言っても、所詮は「物質に宿っている精神」なわけですから「物質」によってあらわせるはずです。
つまり、「人間の精神」であれば「人間の外見(肉体や表情)」によってあらわすことが出来るということに成るわけです。

その逆に、「外見」で現すことが出来ないのは、「複数のもの」に共有されている「性質」であるわけです。
それが、「普遍的なもの」です。
「精神」であるか「物質」であるかということよりも、「個」であるか「普遍」であるかということの影響の方が大きいわけですね。

例えば、人間を描こうとすれば、必ず「男性」を描くのか「女性」を描くのか選ばなければなりませんし、花を描こうとすれば、「何の花」を描くのかを選ばなければならなく成るわけです。
そこで、もしも、「男性」と「女性」の両方を同時に表そうとすれば、「男性の外見」も「女性の外見」も、どちらも使うことが出来なくなってしまうわけです。
花であっても、二種類の花を一つの絵で現わそうとすれば、「どちらの花の外見」も使わずに表現しなければならなくなるというわけです。

そこで、「中性的な人」を描けばいいかというと、そうでもなくて、それだと表現されるのは「男性」でも「女性」でもなく「中性的な人」です。

たった二種類のモノを同時に表そうとしただけでも、「外見」が使えなくなってしまうわけですから、より一層「普遍的なもの」を現したいと思うならば、「いかなる物質の外見」も使うことが出来なくなるということです。

という所で、長くなってしまいそうなので、次の記事に続けます。




「外見」によって表現することができる範囲(つづき)



前の記事の続きです。


「外見」によって表現することが出来ないのは「普遍的なもの」だろうというところからです。

 ※ここで言う「普遍的」とは、いろいろなモノに遍在している性質というような意味です。
  「個別のモノ」の中にあるような「特定の性質」ではなく、あらゆるものの中にある「世
  の中の本質」に近い意味で言っております。
  そういう性質が「普遍性」で、それを持っていれば「普遍的」です。
  実際には、そんなもの現わせませんが、そこに向かって『頑張りましょう』ということで
  すね。


一般的には、「精神」などの形が無いものを表現するのには「抽象表現」が向いているということに成っているかと思いますが、実は、「無形のもの」は、どんな表現形式を使ったとしても決してダイレクトには表現することが出来ないと思うわけです。
『形が無い』ということは、「像」が無いわけですから、ほとんど何も表現できないわけです。
というか、伝わりません。
というか、それ以前になにも描けない!

やはり、「無形のもの」であっても、何らかの「形」を使って表現するしかないわけで、その点では「具象」であっても「抽象」であっても、そんなに決定的な違いは無いと思います。
「抽象」では、多くの場合『形をボヤカシテいる』」ので「形」を使っていないように見えるだけだと思います。
それに、実を言えば「精神」や「感情」も「具象表現」の方が、むしろ人に伝わり易かったりします。


だから、「精神」のような「無形のモノ」を表現するには、必ずしも「抽象表現」である必要はないと思いますが、同じ「無形のモノ」でも「普遍的なモノ」を表現しようとした場合は「抽象表現」である必要があるわけです。


前の記事に書いたように、たった二つのモノでさえ、その二つのモノを同時に表そうとすれば、「外見」を使うことは出来なくなってしまいます。
「現実にあるモノの外見」というのは、必ず「一つのモノの外見」を指しているわけで、そこに「普遍性」を持ち込むことは不可能です。
(それでないと「そのもの」が「一個のもの」として存在できませんから)
だから、「普遍的なもの」を表現するには「現実の外見」を使うことが出来ないということです。

それで、「抽象表現」を使うことに成るわけですね。

要するに、「外見によって表現することができる範囲」は、「個別のもの」までということに成るわけです。

つまり、「普遍的なもの」を表現したい場合は「現実の外見」を諦めて「現実の外見ではないナニカ」を使わなければならなくなるということですね。


現在「抽象」と言われているものの多くは、その「現実の外見ではないナニカ」として「ボヤケタ形」を使っていることが多いわけですが、実際には「ボヤケテいること」には大した意味は無いと思います。
『現実のモノの外見ではない』ということが重要なわけで、「形」がハッキリしていても特に問題は無いと思うわけです。
確かに、「ボヤケタ形」は「現実のモノの外見」ではあり得ない所がありますが、「ボヤケテいること」で、「表現」としてもボヤケテしまうことが多いわけです。

 ※このことを「抽象」では「形による表現」ではなく、純粋に「色の表現」を目指してい
  るというような言い方をすることがよくありますが、「形のない色」というものは存在
  しません。
  ただ「形」をボヤカスことは出来るというだけです。
  その「形をボヤカスこと」で、確かに「現実の外見」からは離れられますが、表現自
  体もボヤケテしまいますから、表現力が弱くなってしまうわけで、それが現在「抽象」
  と言われている表現形態の最大の欠点に成っているわけですね。

要するに、「現実ではないモノの形」であればいいということです。
この「現実ではないモノ」のことを、私は「異・現実」と呼んでいますが、「非現実」と違うのは「現実ではないが生々しいモノ」というような意味で「ありそうなのに存在しないモノ」を作りたいので、「非現実的なモノ」ではなくて、「現実でないのにリアルなモノ」を「異現実」と呼んでいるわけです。

いずれにしても、「普遍的なモノ」を表現するのは、実際には不可能なのかも知れませんが、そこに向かう姿勢を示すことだけは出来るわけで、それこそが「現在の芸術」に与えられている領域なんじゃないかと思うわけです。

つまり、「ほぼ不可能なこと」に対して挑戦し続けること、そのことから「成果」を得ようとするのではなく「挑戦すること」自体を目的とすること、そういう行為こそが「現在の芸術」が示すことの出来る唯一の「純粋性」なんじゃないのかなと。

だから、「不可能」か「可能」かではなく、その創作者がほんの僅かでも「可能性」を感じたところに自分の表現の方向を持って行って、そこに向けて最大限の力を注ぎ込む、それこそが、今「芸術がやるべき仕事」なんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけなのです。


 ※「現在形の芸術」においては、この記事に書いたことのような「不可能性」を追求
  しているところがあると思うわけですが、それを、如何に『スマートに』つまり「労
  力」ではなく「才能やセンス」を使って表現するかということを追求してしまってい
  ます。
  そして、そのことによって、現在の「芸術の行き詰まり」が生じているということは間
  違いのないことではないでしょうか?

  それは、つまり、「不可能性」の中に「可能性」を見を見つけ出そうとするという「芸
  術が本質的に持っている方向性」を放棄することに成るわけですから、当然の結果
  だと思います。
  
  要するに「才能」で出来ることは「可能なこと」までだということですね。
  「不可能なこと」を早い段階で切り捨てて「可能なこと」を人一 倍に上手く達成する
  のが「才能」と言うモノだと思いますね。

  だから、「不可能性を追求すること」と「それを才能でやろうとすること」は、初めから
  矛盾しているわけです。
  「現代美術」は、その矛盾を「如何に上手く誤魔化すか』を競い合ってしまっていると
  ころがあるわけです。
  『まぁ、そんなことやってれば行き詰りますよね』ということでしょうね。



「似た形」よりも「似た性質」



「抽象画」を描く時や見る時に、『ナニに似ているか?』ということを考えてしまうことがありますよね。

このことについて、『抽象画がわかっていない人はそういう捉え方をしてしまうモノなんだよ』と言うことがよくありますが、本当は「抽象画がワカッテイル人」なんて居ないと思います(本当を言えば作者にもわかっていないと思いますよ)し、そういう見方をするのはむしろ自然なことだと思うわけです。

 ※「抽象」は「人間にはわからないモノ」を表現するための手段だと思います。
  もしも、それがハッキリわかっているのであれば、それは「具象」ということに
  成るんじゃないでしょうか?

『しかし!』です。
あえて、そこで言わしていただきますと、「抽象画」を見る時に、『ナニに似ているか?』という見方をするということは、『抽象の中に具象を見つけようとする』ということに成ってしまうわけで、それだと、「抽象である意味」がほとんどなくなってしまいます。
創作者が苦心して「抽象画」にした意味もなくなってしまいますし、鑑賞者がせっかく「抽象画」に触れた意味もなくなってしまいます。

「見たことがないモノ」を見たときに、『これはナニなのか?』と思うのは当然だと思います。
そして、『ナニカに似ていないだろうか?』と探してしまうのも自然なことでしょう。

そこまではいいとして、その次に、もしも「そのナニカ」を特定できなかった場合に、つまり『これはいったいナニ?』という疑問が自分の中に残った場合ですね(この疑問は残る場合が多いと思います)、そういう場合には、「似た形」ではなく「似た性質」を見つけてみてはいかがでしょうか?と思うわけなのです。

「モノ」には必ず「性質」があります。
それはどちらかと言うと「外見的な形」よりも「本質」に近いと思います。
それで、「抽象表現」においては「形」よりも「性質」(もっと言えば「普遍的な性質」ですね)を重視する傾向があるわけです。

ということは「性質を鑑賞すること」が「抽象画を鑑賞すること」であると言ってもいいわけですね。
つまり、「その絵の中に表現されている性質」が伝われば創作者としては満足できるわけだし、そういうものが受け取れれば鑑賞者にとっても「その絵に触れた意味」があると思うわけです。

 ※鑑賞者が「性質」を意識して鑑賞した場合でも、創作者の意図と違うモノが伝
  わってしまうことはあるわけですが、そういう時も残念ではありますが、そういう
  場合は諦めがつけやすいということですね。


『性質を鑑賞する』と言うと難しく聞こえてしまうでしょうが、元をたどれば単純で「硬い・柔らかい」とか「強い・弱い」とか「嬉しい・悲しい」とかと言った「性質」を鑑賞すればいいだけです。
というよりも、ほとんどの人が、絵を見る時には、そういう「性質」を鑑賞しているはずです。

それが「抽象画」を見るときに限って出来なくなってしまうということですね。

要するに「抽象画」には、「ルール」が無いんですね。
だから、「ルールに従って見る」ということが出来ません。
それで、どうしても戸惑いが出て来るというわけですね。

そんな中で『性質を鑑賞する』ということを意識することで「芸術の見方」にトッカカリが出来れば、見た人にとってトクなことはあってもソンなことはないんじゃないかと思うわけです。
まぁ、「ルール」が無いなら、せめて「ヒント」ぐらいあってもいいんじゃないかということですね。

と言ったことから、「似た形」よりも「似た性質」を探してみてはいかがでしょうか?ということを言ってみたわけです。


もちろん、「形」を鑑賞するという見方もあっていいと思いますし、むしろ「形」を鑑賞の対象から外すのは無理があるような気がします。
当然、「色」を鑑賞するという見方もあっていいでしょう。

でも、それと同じように「形ではないナニカ」を鑑賞するという見方もあってもいいと思いますし、また、「ナニでもないナニカ」を鑑賞するという、そんな見方もあっていいんじゃないのかなと。

絵の見方が、たくさんあっても、困ることなんてないんじゃないのかなと。


そんな風に思ったわけなのです。


「幻想に触れること」によるストレス



私は、現在「芸術であること」と「幻想であること」はほとんど同じようなことなんじゃないか?と思っているわけなんですが、その「芸術≒幻想」を創作することや鑑賞することは「ある種のストレス」を伴うことがあると思うわけです。
つまり、「芸術≒幻想」は、それに触れる人間にとっての「快楽」でもあり「癒し」でもあると同時に、「一種の負担」でもあるということですね。

そして、そのことによって、本当の「芸術」に近づかなくなってしまう人がすごく多いような気がしているわけです。
つまり、「心地よいモノ」というキーワードだけで検索していってしまうと「いい作品」に出会うことは出来ても「本当の作品」に出会う機会は極めて少なく成ってしまうということです。
「負担」であるわけですから、当然、「心地よい」というキーワードから探していけば、『これはチガウだろう』ということに成るわけですね。


これは「芸術」が中心的な課題として「自己表現」を追求するように成った時からのことだと思うわけです。
「作者にとっての自己表現」は「鑑賞者にとっての他者」に成りますから、当然違和感を伴うわけですが、その「自分の中には無かったモノとの出会い」こそが、「現在形の芸術の意味」なんだと思いますので、その「違和感」を避けることは出来ないんだと思うわけです。

そこで、「鑑賞者」にとって「心地よい他者」と「心地よくない他者」が居て、その「心地よい他者=共感できる創作者」こそが「鑑賞者」にとっての「すばらしい創作者」であって、そういう「すばらしい他者」との出会いこそが、「鑑賞者」の「すばらしい芸術」との出会いであると思うのは、現時点では間違いだと思います。

と言うか、昔の「究極的な美しさを求める芸術」という考え方が残ってしまっていると思いますね。
今は、そういう一元的な意味での「美しさ」を求めることは出来なくなってしまっているわけで、もしも、そういう「一辺倒な美しさ」を求めて鑑賞するのであれば、「古典芸術」を見続けるしかないんだと思います。


一見すると「心地よい人」に見える人でも、それは表面上の体裁だけで、その人の「本当の姿」というのは他人にとっては必ず「心地よくないモノ」を含んでいるわけで、その人がその人であればあるほど「違和感」を感じるものだと思います。

そして、その「他者との間の違和感」こそが、「現在の芸術」の持っている最も大きな意味だと思います。
だからこそ、それを美しいと感じるんだと思うわけですね。

逆に言えば、「違和感のない心地よい他者」であっては「芸術表現としての他者」である意味が薄くなってしまうわけです。

少なくとも、「現在の芸術」においては、ということですね。
現在、「芸術が置かれている位置」が、「そういう位置」なわけですから、それは個人ではどうすることもできないことだと思います。

つまり、今は、「心地よくない他者との出会い」と言う「違和感」と対峙することが、「鑑賞者」に求められているということですね。
これは、「現在の芸術」が求めていることなので、そう簡単には変えられないことだと思います。

 ※これは「音の共鳴作用」などと同じようなモノで、ちがう音の組み合わせから「共鳴」
  が生まれるように、自分とは異なる「他者」と直面することから「共感」や「感動」が生ま
  れるわけです。
  まったく同じような精神から受けられるものは「同情」や「同感」だけで、それ以上に相
  乗的な効果は期待できないんだと思うわけです。
  つまり、それは「音」で言えば音量が大きくなるだけですし、「精神作用」で言えば「みん
  なと同じであること」が安心なだけです。
  そういうものがあってもいいとは思いますが、「現在の芸術」はその場所にはないと思い
  いますね。

 ※また、既に評価が確立している有名な作品に対して「違和感」を感じる人が少ないのは、
  鑑賞者が「違和感」を感じる前にその作品や作者が情報として刷り込まれているからであ
  って、その時点でそれは「純然たる他者」ではなくなっているからだと思います。

「心地よい人」というのは、どこかで『相手に合わせている』ということだと思います。
「相手に合わせること」が悪いということではありませんが、少なくとも、「芸術」を「自己表現」であると考えるならば、「鑑賞者」との間の「共通言語」を探すのではなく、「創作者のオリジナル言語」を何とか伝えようとすることが必要なんじゃないかと思うわけですね。
(はっきり言うと、「オリジナル言語」はほとんど伝わらないと思いますけど、それでもそれを続けることに意味を見出せるのか?ということじゃないでしょうか)


だから、「現在形の芸術」を「本当の芸術」として鑑賞したいと思うのであれば、「心地よいモノ」とはむしろ反対の「どこか神経を逆なでされるようなモノ」とか「心がざわざわするようなモノ」とか、もっと言えば「ものすごくイライラするモノ」のような、見る人の心に「負担を加えて来るようなモノを、敢えてチョイスして行く必要が出てくるわけです。

そう言うモノこそが「芸術≒幻想」であるモノなんだと思うわけです。

「幻想の世界」は、なんと言っても「異世界」ですから、それ相当の抵抗感があるわけで、そこに入って行くのにもその中に居続けるのにもある程度の「負担」がかかるわけですし、また、そこから「日常世界」に戻るのにもある程度の「負担」を強いられることに成るわけです。

でも、これは何も「芸術≒幻想」に限ったことではなく、「リクリエーション」と言われるものは、だいたい何らかの「負担」を必要とすることが多いと思います。
そして、その「負担」を負ったことによって、「疲労」するのではなく「カタルシス」と言われるような「精神的解放感」が生み出されることを「リクリエーション」というんじゃないでしょうか?

『なんで、わざわざ「いやなモノ」を見なきゃいけないんですか?』と言われそうですが、そう言うことではありません。
しかし、「カタルシス」という言葉は、もともと「悲劇」などを見た人が感じる「ある種の解放感」による「浄化作用」をそう呼んだようですから、やはり「喜劇」からは得られない効果がそこにあったんだと思います。
でも、そこで『なんで、わざわざ「悲しいモノ」を見なきゃいけないんですか?』と言ってしまえば「カタルシス」は得られません。

それに「悲劇」の中にも悲しいだけではなく、「美しい悲しさの悲劇」もあれば「「単なるお涙頂戴的な悲劇」もあるわけで、そこから先は「鑑賞者」の独自の規準で吟味していけばいいことだと思うわけです。

現在の芸術鑑賞は非常にエキセントリックな方向の人(変わったものが好きな人)と、非常にオーセンティックな方向の人(王道的なモノが好きな人)に分かれてしまっていて、エキセントリックな人は、ただただ目新しいモノだけを見つけようとしますし、オーセンティックな人の方は、判で押したように既に決まっている評価に基づいて「芸術」を判断してしまいます。
それだと、どちらも「カタルシス」を得ることは出来ないような気がするわけです。
エキセントリックな人は、いつの間にかいつもいつも「喜劇」だけを見ていたりするわけですし、オーセンティックな人はいつの間にか「感動」や「浄化作用」とは無関係に「定番」だけを繰り返し見続けることに成っていたりします。

そこは一つ、ちょっとだけ「負担」を負って、その「異世界」に入って見て、そこから「鑑賞者」としての自分の「独自の観点」で鑑賞してみてはいかがでしょうか?と思うわけですねぇ。

そういう見方をしてみると、『もう「有名な作品」なんて見ている時間無いよ』と思う人も出て来るんじゃないかなと思うんですけど、どうなんでしょうか?

まぁ、そんなわけで、「芸術≒幻想」な作品を探すという「芸術の見方」も試してみてもいいんじゃないのかなと。
(探せばけっこうありますが、探さないと出会う機会が少ないですからね)


そんな風に思ったわけです。




「長い題」=詩のような題(その11)



「長い題」=詩のような題(その11)です。

『これって絵の題なんですか?』

「絵の題なんです!!」

・・・・的な?感じで、「長い題」=詩のような題(その11)です。


『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
二か所あるものもあります。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『かがやきの せかい』

しきさいと こうたくが しはいする 
この さんらんする ひかりの せかいでは
あかるさは なんのいみも もたない

しろは しろに すぎず
くろは くろに あまんじるしかない

ここは まさに しきさいと こうたくが しはいする
かがやきの せかい なのだから

ほかのものが いみを もつことは いっさい ゆるされず
すべてが かがやきの ために
ぜんめんてきに ほうしさせられることに なるのだ

この はんきょうする ひかりが じゅうまんする せかいが
しきさいと こうたくのみによって 
きずきあげられ しはいされて いることには

なんの りゆうも ひつようないのである

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ぼくたちには じゆうが あたえられた
すくなくとも ぼくたちは それを じゆうだと おもうことが できる

だったら それを つかってみよう
こころの じゆうを つかってみよう

じゆうとは なにものにも しばられず
じゆうとは なにものにも たよらずに
じゆうとは ただ あてもなく ちゅうに ただよいつづけること

つまりは じゆうとは
なんの よりどころも なく
むじゅうりょくの くうかんに ほうりだされる ということだ

どんなに ひっしで もがいても
どんなに れいせいに かんがえても
できることは なんにもない

そんな なかでこそ ちからを つかって かんがえつづけよう 
たのしく

そんな なかでこそ いっしょうけんめい もがきつづけよう 
よろこんで

それが 『じゆうの つかいかた』

それが せかいを うごかす ことは ないけれど
でも それが ひとの こころを うごかしている
ただひとつの ちからなのだから

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『やみに およぐ』

くらやみに およぐ いきものに かおは ない

めは ひつようない
どうせ なにも みえないのだから

はなも いらない
そこに においなど ないのだから

みみが やくに たつことも ない
その おとのない せかいでは

いや じつは そこに ひかりや おとが ないわけではない
そう じつをいえば 
そこは あかるく はなやかな せかい

そうそう じつをいうなら 
くらやみは かおのない いきものの うちに ある

みたくないから みようとしない
みようとしないと みえなく なって
みえなく なると めが なくなる

やがて かおの すべてを うしなって
かおだった ところの うちがわに
まっくらやみが できあがる


なんと かなしいことに
かおのない いきものが みたくなかったのは
その じぶんの なかの くらやみの せかい

そのために かおを うしなって
くらやみを およぎつづけている

ただ めを ひらいて みるだけで よかったのに


さて この あわれな じぶんの すがたを
ぼくたちは みつめることが できるだろうか

ずっと とじてきた このめを いま はじめて みひらいて

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

やくそくする
ぼくは きみに やくそくする

どんなときにも きまじめであることを

ぼくは いついかなるときにも 
きまじめに いき
きまじめに かんがえ
きまじめに かたり
きまじめに こうどうすることを
きみに やくそくする

つまりは
きみを いちずに あいし
きみの すべてを うけいれ

きみに すべてを ささげることを
いま ぼくは きみに やくそくする 

きみが だれであっても それは いっこうに かまわない

いま ぼくが きみと よんでいるのは 
このせかい すべての ことだから

それじゃないと このやくそくを まもることは できないし
それならば このやくそくは かならず まもられることになる

だからこそ ぼくは このせかいに たいして 
『いつも いっしょうけんめいに いきる ということを やくそくして いるんです』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~









「コンポジション」は「多重化」によって、さらに有効になる




「芸術」において、「コンポジション」という言葉は「構成」とか「構図」などと訳されますが、要するに「ナニカとナニカを組み合わせること」を「コンポジション」と言っているんだと思うわけです。


主に「絵」についていえば、それは「構図」と訳されることが多いわけですが、「色と色の組み合わせ」や「線による表現と面による表現の組み合わせ」など、単に「構図」とは言い切れない意味も含まれていると思います。

いずれにしても、この「コンポジション」は「絵」においては、全体のイメージを決定づける重要なものなんだと思います。

そして、その重要な要素である「コンポジション」を、「多重化」と結びつけることによって、さらに「有効性」を高めることができるんじゃないかと思っているわけなんですねぇ。

いろいろな話にしてしまうと、ややこしくなってしまいそうなので、一応、ここでは「絵」に限定した話とします。


「絵」における「コンポジション」は「構図」と訳されていることが多いようですが、「構図」は間違いなく「絵」の全体像を決定づける大事なものだと思います。

ただ、現在において「構図」というものは、もう出尽くしてしまっているということがあるわけです。
ありとあらゆる人が、数百年にわたって、ありとあらゆる「構図」を考案し続けてきて今日に至っているわけですから、当然、「新しい構図」に残された領域が極めて少なくなっているわけです。

それは、なにも「構図」だけに限ったことでもなくて、「芸術表現全般」において言えることではあると思いますけど、なにせ「構図」は、先述のように「絵の全体像を決定してしまうような重要な要素」であるわけですから、その「構図」が似ていると、どうしても同じようなものに見えてしまうわけで、創作者の「そのヒト性」が見えにくくなってしまうわけなのです。


特に「抽象画」においては、『構図で決まってしまう』という性質が強くなると思いますね。
「抽象画」は、基本的に、ナニが描いてあるのかは伝わらないことが多いので、「ディテール」の部分で勝負するのは難しくなるわけです。
「ナニかわからないもの」の「ディテール=詳細な部分」では、やはり表現できるものが限られてしまいますよね。
(「抽象」は「ナニでもないものを創り出すこと」だと思いますので)

そうなると、どうしても、「全体像」で勝負することに成るわけです。
それで、「構図」の影響が大きくなるんだと思います。


少なくとも、「絵」を「平面」と考えるなら、基本的に「四角い(丸でも)平面」の中に、取ることができる「構図」というのは、ある程度限られてくるわけで、それはもう出尽くしてしまっているといってもいいんじゃないでしょうか?

そんな中で、「絵」に自分なりの「独自性」を見つけ出そうとすることが、かなり難しいわけです。

こう言ったことから、「現在形の美術」においては、「平面を離れた創作」へ向かう傾向があるのは確かなことだと思うわけです。
そういう方向性自体が間違っているとは思いませんが、そこに、やや安直な傾向があるのも否定はできないような気がするわけです。

確かに、古くからある「絵画」とか「彫刻」とかといった「既存の表現形態」を離れることには、ある種の解放感を感じることでもありますし、ある種の可能性も、そこにあるとは思いますが、それは『なんとなく、こっちのほうがオモシロそうだから』ということではないと思います。

今後、このような方向性がますます強調されていき、「平面」という意味での「絵」というジャンルが、「芸術の領域」の中で徐々に小さなジャンルになっていってしまうと、「芸術の広さ」は限りなく広がっていくのかもしれませんが、「芸術の深さ」は限りなく浅くなってしまうんじゃないかと思うわけです。
つまり、密度が薄くなっていってしまうような気がするわけですね。

とは言え、前述のように「構図」には限界がきているわけです。

そうなると、「コンポジション」を重視しつつ「構図」には頼れないという厳しい状況になるわけで、そこをなんとかしないと「芸術の密度」を取り戻すことは難しいということになってくるわけですねぇ。

さて、そこで、使えるのが「芸術の多重化」という発想だと思うわけです。
(まぁ、『私はそんなことをやってます』という話ですけどね)

「構図」というものを、「一様な平面における構図」と考えれば、その一つ一つの「平面」を重ね合わせて「多重化」すれば、「構図」と「構図」による「構成」、つまり、複数の「多重化」した「構図」どうしの「コンポジション」が可能になるわけですね。
つまり、「一様な平面」の中で、新しい領域がなくなってしまった「構図」に、「複数の平面」を重ね合わせていくことで、新たな「コンポジションの領域」が生み出せるんじゃないか?ということです。

といっても、簡単ではないですが、少なくとも、そこに新しい「空き領域」があることだけは間違いないと思います。

もちろん、こんなことを言っていても、自分が「多重化」をうまく使いこなせているのか?というと、まったくそんなことはなく、雲をつかむような作業を繰り返しているだけなんですが、それでも、そこに「空き領域」があることだけは見えてきています。
そのことで、とりあえず向かうべき方向があるわけですね。
「空き領域」だけは見えていますから、そうそう見失うこともありません。

それから、この「空き領域」は、現在に至って、はじめて「芸術に与えられた領域」なんじゃないかと思っています。
要するに、「抽象表現」というものが、ようやく人の意識の中に、抵抗ないものとして定着して来たことによって、この「空き領域」ができてきたと思うわけです。
(ある意味で、「抽象」が飽きられたことで「空き領域」が出来てきたと言ってもいいかもしれませんね)

つまり、「コンポジション」における「多重化」を考えるとき、「具象表現」ではむずかしいと思うんですね。
(これは「芸術の多重化」全般においても言えることだと思います)

と、ここで、話が長くなりそうなので、次の記事につなげます。




「コンポジションの多重化」は、今だからできること(今しかできないこと)



前の記事からの続きです。

「コンポジション(=構図や構成)」における「多重化」は、「平面」としての「絵」に「新たな空き領域」を提供してくれるんじゃないか?
そして、その「空き領域」は現在に至って、生み出されるべくして生み出された「芸術の領域」なのではないのか?
つまり、「抽象表現」というモノが一般的に抵抗なく受け入れられるようになりつつある現在に至って、その「一般化した抽象表現」を使うことで、はじめて生み出され、また、使うことができるようになった「領域」なんじゃないだろうか?
という話の続きです。


まず、はじめに、「具象表現」では「コンポジション」を「多重化」することができないということがあるわけです。

「具象表現」においては、主に「現実」が基準になりますから(「非現実」の中にも「具体性」は在り得ると思いますが、「現実」を伴わない「具体性」を使った表現を「具象表現」とは言えないと思うわけです)、「モノ」とか「空間」とか「距離」とか「大きさ」などという現実世界においては、消すことができない「存在」というものを無視することができないわけです。

ということは、「具象画」の中では「存在しているもの」を描く必要があるし、いかなるものでも「具象画」として描くということは、それが「存在していること」を基盤にして成り立っているということに成るわけです。

ということは、「具象画」においては、「ある一つの空間に存在しているもの」を描くことになるわけで、それは「同じ平面に描くこと」とほぼ同じことなわけですから、どうしても複数の平面を組み合わせて「多重化」するということが難しくなってしまうわけですね。

そこのところを、やや無理して、「具象表現」の中に「違う空間」や「複数の平面」を作り出すことは可能だと思いますが、どうしても無理がありますから、「いろいろな事象の多重化」というよりは「一つの事象のなかでの折衷」というような形になってしまうことが多いと思います。

 ※これは、たとえて言えば、夢の中で、いろいろなことがとっかえひっかえ
  現れてくるような感じになるわけで、それは「多重化」とは違うことだと
  思います。 
  それは、「コラージュ」のような感覚になると思いますが、「コラージュ」
  が面白いのは、「バラバラ」だからであって、融合された一つのものに成
  っていないという所なんじゃないかと思うわけです(夢も)。
  この場合の「多重化」は、そういう複数の局面を「融合する手段」として考
  えていますから、やはり少し違うものだと思います。

その反面、「具象画」の中に「非存在的なもの(存在であることを無視しているもの)」を描きこめば、それは「絵の中」とは認識されなくなってしまうわけで、当然「絵の外」という認識をされてしまうことになるわけです。

そうなると、つまり、「具象画」においては、「絵の中」と「絵の外」との間での「多重化」はできても、「絵の中」同士の「多重化」はできないということになるわけです。


ところが、その点、「抽象表現」を使った場合は、その絵に描かれているナニカが「存在している」という必要はありません。
というよりも、「非存在的なもの」を創り出す作業を「抽象」というんだと思いますから、むしろ「存在していること」を排除したいという感じもあるわけですね。
だから、「抽象画」の中では、「非存在的なもの」を「多重化」することが出来るわけですね。

そして、「存在」という束縛がない分だけ、自由な「多重化」ができるということです。
つまり、「ある一つの空間」とか「ある一つの世界観」とか「ある一つの事象」という「具象(具体)的なもの」に縛られることなく、その時々で、勝手に「事象」を入れ替えても、それを「一つの絵」の中で表現することができるということだと思うわけです。

まぁ、要するに、「具象表現」においては「多重化」が「違和感」につながってしまうわけですが、「抽象表現」においては、「多重化」が「違和感」を感じずに見られるということなんだと思います。
(「抽象画」は、「多重化」とは別の所での「違和感」を伴うわけですが)

以上のようなことから、「芸術の多重化」には「抽象表現」という形態が適していると思うわけですが、さらに言うと、その「抽象表現」が一般に普及して、かなりのところまで「違和感」なく受け入れられるようになった現在においてこそ、「芸術の多重化」がより有効になるということもあるんじゃないかと思うわけです。
(「抽象」は「違和感」を残したままの状態で飽きられて来ていると思いますけどね)

つまり、「抽象表現」が現在ほど普及していなかった頃までだったら、せっかく「違和感」なく「多重化」できても、それ以前に「抽象に対する違和感」が大きすぎて、意味がなかったんじゃないかと思うわけです。
(「芸術」は「鑑賞者」から拒否されてしまえば、そこで「行き止まり」ですからね)
(それでいて、「鑑賞者の評価」を目指してしまっても、やはり、そこで「行き止まり」です)

だから、「芸術の多重化」は、「今だからこそできること」なんじゃないかなと思うわけです。

さらに言うと、この時期を逸してしまうと、もしかすると、また意味を失ってしまうような気もするので、そうならないためも、それは「今しかできないこと」なのかもしれないなと。


そんなことを言いたかったわけなのです。



「幻想美」と「理想美」



昔から、「芸術(美術)」は、「理想美」を追求してきたんだと思います。

でも、今の時代において、『その「理想美」って、どんなものなの?』と聞かれて、答えられる人がいるでしょうか?
この質問に答えられる人がほとんど居ないとすれば、おそらく、「今という時代」は「理想を失った時代」なんじゃないでしょうか?


この「理想を失った時代」を、「理想が相対化した時代」」という考え方に置き換えることもできるかもしれません。
つまり、「常に変わらないような普遍的な理想」ではなく「人それぞれの理想」や「その時々の理想」を追求するようになったという考え方もできるということですね。

でも、それだと『相対的なものを「理想」といえるのか?』という別の疑問が出てきてしまいますから、一応「理想を失った時代」といってもいいのかな?と思うわけですね。

さて、そこで、「今」が「理想を失った時代」であるとすれば、やはり「理想に代わるナニカ」が必要になるんじゃないだろうか?ということがあるわけです。
その「理想に代わるもの」を、「幻想」と考えてみたわけです。


かなり昔の時代までなら、「理想美」=「美しい人」とか、「理想美」=「美しい自然」などということに何の抵抗も感じなかったのかもしれませんが、「今」となるとどうでしょうか?

「今」でも、「美しい人」や「美しい自然」の中に「理想美」を見つけ出すことはできますし、「それ以上の美」が必要であるということでもないと思うわけですが、少なくとも「芸術(美術)」において、『それでいいのか?』と言われれば、『それでいいんです!』とは言いにくい状況があるわけです。

つまり、「理想が失われた時代」において「理想を追うこと」が「芸術」と成り得るのか?ということですね。

確かに、「芸術が追及するところの真実」について、「時代」とは無関係の「普遍的な真実」であると考えることはできるでしょう。
そう考えれば、「現在」が「理想を失った時代」であることと、「芸術が追及するもの」とは無関係であるとも言えるのかもしれません。

しかし、そういう考え方に基づいていくなら、常に、「すべての芸術」がほとんど同じものを追求していくことになってしまいます。
要するに、「一つの理想」に向かっていくということになるわけですね。
それは、一つの考え方としてあるでしょうし、そう言う考え方を否定するつもりはありませんが、実際には「芸術」には多様性もあっていいと思うわけで、多様性がなければ「芸術」は、とても狭くて堅苦しい、つまりは『こういうのが一番いいんだ!!』というような面白みのない世界になってしまうような気もします。

「芸術が古典的であった時代」までは、それでよかったのかもしれません。
そういう「時代」であれば、「理想」という一つの方向に向かっていく過程での、「小さなチガイ」の中にも、十分に多様性が感じられたんだと思います。
(だから、必ずしも「堅苦しくて面白みのない世界」に成らずにいられたんでしょうね)


しかし、そういう意味での多様性は、もうかなり前に出尽くしてしまいましたし、まさに、その結果こそが、現在の「理想を失った時代」なんだと思うわけです。

だとすれば、やはり、「理想に代わるもの」があっていいんじゃないのかなと。

それで、私の場合は、「幻想」を「理想に代わるもの」として考えているわけです。

「幻想」には、「実体」がないという欠点がありますが、実を言えば、それは「理想」も同じで、もともと「理想」にも「現実に存在するという意味での実体」は無いわけです。

その点については「理想」も「幻想」も似たようなものなのかも知れませんね。

で、どこが違うのか?

「現実」からたどって行って、より確固たる「頂点」を目指すのが「理想」なんだと思います。
それに対して、「現実」から「確固たる」を取り除いて、むしろ「曖昧」にしていくのが「幻想」なんじゃないでしょうか?

 ※もっと言えば、「現実的なこと」は考えずに「ゼロ」から「幻想の追求」を
  始めることもできるでしょう。
  そう考えれば、「抽象表現」は一種の「幻想美の追求」であるとも考えられ
  るような気がします。

だから、「理想」と聞いたときには、必ずしも『実体がない』とは思わないのに、「幻想」という言葉を聞くと「フワフワとした実体のないもの」という印象が出てきてしまうわけです。
まぁ、要するに、そこが「幻想の弱点」ではあるわけですね。

でも、いいところもあって、「幻想」は「曖昧」であるために、自由度が高いということがあるわけです。

「理想」は、一つの頂点に向かって行くという性質から、どうしても狭い領域に閉じ込められてしまう傾向があるのに対して、「幻想」は「曖昧」にしていくという性質があるわけですから、限りなく自由である可能性を持っていると言えなくもないわけです。

さて、そこで、その「曖昧」で「自由」だけど「実体が希薄」な「幻想」に、「実体」を与えることができれば、と考えるわけです。

もしも、「曖昧さ」や「自由度」を保ったまま、「幻想」に「実体」を与えることができれば、それは「理想を失った現在」において、「理想に代わるもの」に成り得るんじゃないかと思うわけですねぇ。

まぁ、私の場合そういう方向でやっております。
というだけの話なんですけどね。

一応、自分では、そういうのを「異・現実の世界」とか「異・リアリズム」とかと言っています。

そして、さらには、その「異・現実の世界感」を「日常空間」に持ち込んで、『日常生活と幻想の空間が一体化したらいいんじゃないの?』ということを「幻想の日常化計画」と言っているわけなのです。

まぁ、そんなわけで、お読みになられた方には『ナニ言ってるのか、サッパリわからなかった』のかもしれませんが、私といたしましては、一方的に、そんな方針でやっておりますです。ハイ。
(本当はわかってほしいです。うまく説明できないだけ)


「異現実の世界」は、創り出すもの



「幻想的」とか「幻想の世界」とかというと、現実離れした世界観というイメージがあると思いますが、実際の「幻想」は、けっこう「現実」をもとにしている場合が多いように思うわけです。
というか、「現実」との間の「小さなズレ」のことを「幻想」と言っている場合が多いという気もします。

 ※例えば「妖精」は「幻想」の代表的なものだと思いますが、ほとんど人間と
  同じ姿をしていますよね。
  (まぁ、羽くらいは生えてますけど)

だから、「幻想」は、必ずしも「現実」と対立するものとは限らないと思います。
とは言え、「幻想」を「幻想」たらしめている要素といえば、やはり、「現実離れした部分」ということになるのも確かなことだと思うわけです。


そして、その「幻想を幻想たらしめている要素」だけを集めていったらどんなものができてくるんだろうか?というようなものを、私の場合は「異現実の世界」とか「異・リアリズム」と言っているわけです。

つまり、「現実ではないもの」をかためて作り上げた世界ということです。
それが、「最も幻想であるもの」なんじゃないのかなと思うわけですね。

ただ、そこで問題なのは、その「異現実の世界」を見つけ出すための『ヒントがない!』ということなんですねぇ。

「現実」ではないので、「現実」の中に「ヒント」はありません。
それで、「自分」の中に「ヒント」はないかと思って探すわけですが、人間って「自分」のことが見えないんですねぇ。
「自分」の中には、きっとたくさんの「ヒント」があるんでしょうが、なかなか見つけ出すのが難しいわけです。
そうなると、あとは『ヤミクモ?』ということくらいしかなくなってしまうわけです。

そんな感じですから、きっと、人から見たら、テキトーにやってるようにしか見えないんでしょうが、自分といたしましては、なかなか四苦八苦しながらやっているわけで、楽しいと思うことなどほとんどなく、達成感もない中で、雲をつかむような作業を繰り返すのは、やったらめったら疲労感だけが残ることなわけですが、なぜか止めることだけはできないという、何ともどうしようもない状態と言えなくもないわけですが、それはそれで、けっこういい方なのかなと。

そんな風に思っております。

『勝手にやれば』

「ラジャ!」




「家に飾りたくない絵」を家に飾ったら、どうなるのか?



先日、自分が描いた絵を、ある初老のご婦人にお見せしたことがあったんですが、その時、その方が『うふふ、この絵は家には飾りたくないわねぇ』と言っていたんですねぇ。

ごくごく個人的レベルではありますが、私にとっては・・・・大災害です。
(言う方は、何の気なしに言ってるんでしょうが、言われた方にしてみれば大惨事です)

しかも、たぶん、そのご婦人にまったく悪気はなかったと思いますし、なにせニコニコしながら言うもんですから、『あははぁ、まぁ、そぉーですよねぇ、こういうの、家に飾りたくはないですよねぇー、気持ち悪いしぃ』と言うしかなかったというわけです。
(「二次災害」的な?)

まぁ、それは、まったくもって個人的なことですから、とりあえず置いといて、そういう「家に飾りたくない絵」を家に飾ったらどうなるのか?と考えてみたわけです。


「家に飾りたくない絵」というのは、本当に家に飾らないほうがいいんでしょうか?
また、そういう絵は、どうして、家に飾りたくならないのでしょうか?
どいうことで、「家に飾りたい絵」と「家に飾りたくない絵」が分かれているんでしょうか?ということですね。


ここで、まず、言っておきたいのは、「絵」は「家に飾るための絵」でなければいけないのか?ということなんです。
つまり、「家に飾るのに最適な絵」が「いい絵」なのか?ということですね。

 ※ここでは「現在形の芸術を考える上で、その方向性に沿った絵」という意
  味で、そういう絵を「いい絵」と言うことにして話をすることにします。
  だから、「良く描けている絵」という意味ではありませんし、「評価され
  るべき絵」ということでもありません。

「家に飾るのに最適な絵」とは、要するに「インテリア性の優れた絵」ということだと思います。
果たして、「インテリア性の優れた絵」は、本当に「いい絵」なんでしょうか?

確かに、「インテリア性の優れた絵」は、人の心を落ち着かせて、楽しませてくれるでしょうが、それだけで「いい絵」の条件を満たしていると言えるのでしょうか?
もし、そうなら、「とてもセンスのいい壁紙」も「いい絵」と言うことができるということになります。
しかし、実際には、やはり「壁紙」は「いい絵」とは言えないわけですから、そこには、何か違いがあるわけです。

詰まるところ、「壁紙」と「いい絵」の違いは「生産されたもの」と「創作されたもの」の違いなんだと思うわけです。

どんなに、美しくてすばらしいものでも、「生産されたもの」は「製品」であって「作品」ではありません。
要するに、そこに作者の意識が込められていない、または、その意識が薄いということです。
だから、それを「その作者の作品」と呼ぶには、「不足な感じ」がするんだと思います。

ということは、「いい絵」の条件には「作者の意識が込められていること」という条件も含まれているということです。

ところが、そうなると、「いい絵」が「家に飾るのに最適な絵」とは限らなくなってきます。
『作者の意識が込められている』ということは、「その作者そのもの」に近くなりますから、「好き・嫌い」も分かれるでしょうし、インテリアとのなじみも無視されることになるわけで、当然「家に飾るのに最適な絵」とは言えなくなることが多くなるわけです。

そして、これは、「壁紙」だけでなく「作品として創作された絵」についても言えることで、「作品として創作された絵」であっても、「作者の意識」が希薄な作品もありますし、それが濃厚な作品もあるわけで、やはり「作者の意識」が濃い作品は「家に飾るのに最適な絵」とは言えない場合が多くなるわけです。

そういうことを前提にして考えると、「家に飾りたくない絵」とは、「インテリア性が低い絵」ということになりますが、そういう絵の中に「作者の意識が濃い絵」も含まれているということになるわけです。

さて、そこで、そういう「家に飾りたくない絵」を、もしも家に飾ったらどうなるのか?ということですね。

私は、「家に飾りたくない絵」こそ「いま家に飾る意味」があるんじゃないか?と思っているわけなのです。
これは、私が勝手に言っていることですから、もちろん『誰が、見たくもない絵を家に飾るんだよ!?』という方もいらっしゃるでしょうし、『そういう絵は美術館で見るものだ!』という考え方もあると思いますし、それらの考えもごく当然だとは思います。

しかし、「現在」ということを前提に考えた場合、人間にとって「幻想」の必要性が高くなってきているように思うわけです。
そして、その「幻想」に最も近いのが「芸術」であり、その中でも「作者の意識が濃い作品」なんではないのかなと思うわけです。

一昔前の時代までは、「幻想」を「日常」に持ち込む必要はなかったかもしれませんし、「幻想であること」よりも「美しいこと」や「技術的に完成されていること」の方が、人の心を癒していたんだと思います。
でも、「現在」ということになると、それでは足りないというか、違うというか、どこかがズレているように思うわけですね。
だからこそ、「現代美術」と言われているジャンルが「非日常」を演出しようとする傾向があるんだと思います。

でも、どちらかというと、「演出された非日常」ではなくて、「日常の中に普通に存在する非日常」が必要なんじゃないかなと思うわけです。
つまり、「非日常の日常化」ですね。
それを、私は「幻想の日常化」と呼んでいるわけです。
(「現在形の美術」で、主に行われているのは「非日常のエンターテイメント化」ですね)

そういう意味でも、『みんな「家に飾りたくない絵」こそ、どんどん家に飾ろうよ!』と言いたいわけです。

『ん?そう考えると、あのご婦人は褒めてくれていたと考えるべきなのか?』

「いえいえ、褒めてませんわよ、うふふ」

『・・・ですよね』

っていう・・・。




創作を途切れさせないようにするための工夫



これは、あくまで、私のように「怠け者」で「根性がなくて」「三日坊主な」人に関しての話です。
だから、「いつも創作意欲にあふれている人」には、全く必要ないことだと思います。
(そこのところを、心して読むように!)

まぁ、要するに、自分で言うのもなんですが、私には「根気」というものがないんですねぇ。

とにかく、何をやっても続かないし、ちょっといいところまで行くと『もう、イイかな?』という感じでやめてしまうんですねぇ。
だから、今までに、なに一つ実績と言えるものがありません。
(『優秀な実績がない』という意味ではなくて、創作に限らず「ほぼ実績0」)

いや、「不真面目」なわけではないんですよ!
たぶん、「かなり真面目な方」だと思います。
たぶん、「真面目過ぎる」んだと思います。
たぶん、いろいろ「真面目に考えて」いると、いろいろな意味でやる気がなくなってきてしまうんだと思います。
不必要なところに限ってオクユカシイ人って居るんですね。
『べつに活躍しなくてもいいだろう』みたいな?
たぶん、持って生まれた性質なので変わりません。

「真面目さ」と「勤勉さ」は、必ずしも一致しません。
要するに、コンスタントにできないんですね、なんでも。

『ダ・カ・ラ!』
『自分の作品を創作しよう!』と思い立ったときから、いろいろ工夫してきたわけです。

まぁ、50歳を過ぎたころに、ふと『ナニカ残したい』と思って、「自分の絵」を描き始めたわけですが、自分が「怠け者」で「根性なし」だということは、よぉーく知っていたので、何か工夫しないと、きっとまた中途半端で終わるに違いないと思って、いろいろ考えたというわけなのです。

そこで、その時以来実践している「創作を途切れさせないようにするための工夫」というのをご紹介しようと思ったわけですねぇ。

以下、かなり情けない感じに見えるでしょうが、今のところ功を奏しています。

 注:「怠け者」じゃないと役に立たないと思います。
   でも、あまりにも「怠け者」だと実践できないと思います。
   つまり、「ほど良い怠け者」向けの工夫になります。
   
   とりあえず、今のところ「サル脳&実績0人間」でも、不思議
   なくらいに続けられています。
   もしかすると、かなり効果的なのかもしれません。
   でも、ただの勘違いかも知れません。

そんなわけで、「怠け者の人限定」の「創作を途切れさせないようにするための工夫」です。

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1.「創作の過程」の中に「ルーティン・ワーク」の工程を作る

これは、一番実用的なことのような気がします。

「創作」という作業は、なんだかんだ言って、いろいろと迷います。
そして、しょっちゅう、そういう「迷い」から抜け出せなくなるわけですねぇ。
というか、すんなり「迷い」が解決できることなんかめったにありません。

そういう時に、「創作」が途切れてしまうわけですねぇ。
そして、一度途切れてしまうと、なかなか戻れなくなってしまうわけです。
そんなことを繰り返しているうちに、どうでもよくなってしまって、そこで終わってしまうというパターンです。

このパターンを防ぐには、「ルーティン・ワーク」が有効なんですねぇ。

本来、「創作」は「ルーティン」であってはならないと思いますけど、それはあくまで「創作」の中の「コアな部分」だけでもいいんじゃないかと思うわけです。
つまり、「コアじゃない部分」に関しては、「ルーティン」であっても差支えないんじゃないかと思うんですね。
「創作」の中に、そういう「ルーティン」の工程があると「迷い」にハマった時にも、とりあえず、「迷わずやれること」があるわけです。
それで、とりあえず、そういう作業をやっているうちに、また、何かしらの「創作に向かう意欲」みたいなものが出てくるというわけです。
『毎日何かしらやることがある』というのがいいんじゃないかと思いますね。

 ※「コアな部分」まで「ルーティン」にしてしまえば、さらに「楽」に成ると思います。
  そういう考え方で、いったん「ルーティン」を確立した人は、非常に「楽になる」と
  思いますし、そういう人が長続きすることは多いと思いすけど、それでは本末転倒だ
  と思います。
  でも、「コアな部分」は残して、そういうやり方の中の「楽になる」所だけを使えた
  ら、少しいいんじゃないかと思うわけですね。

私の場合は、「絵」の四辺のうち二辺に、「枠」と呼んでいるストライプの部分を描いているんですが、その部分は、単なる様式的な性質が強いので、完全にパターン化して描いていますから、ほとんど考えないでも描くことが出来るわけです。
(それなりに時間がかかるので、かえって好都合だったりする)

自分の制作過程の中に、そういう「パターン化した部分」を見つけ出して、『そこだけは考えなくてもできる』という工程を作りだしておくと、かなり「創作の習慣」をつなぐことが出来ます。

こういう「パターン化できる部分」は、見つけ出そうとすれば、見つかるもんだと思いますよ。
(あえて、見つけ出そうとしないと、なかなか見つからないかもしれません)
たとえば、「背景の部分」とか、何か「決まったモチーフ」を入れるとか、自分の作品の中には、たいてい自分の「癖」みたいなものがあって、いつの間にかいつも同じような感じになってしまう部分があると思うんですね。
そういう部分を、もう一歩踏み込んで、かなりなところまで「パターン化」できる可能性はけっこうあると思います。
(そういう「癖」が強調されることは、必ずしも悪いことじゃないと思いますよ)

『毎日何かしらやることがある』と「根性なし」でも、仕方なくやるみたいですねぇ。


2.「創作する場所」を作る

どんな場所でも、『ここが自分のアトリエである』と思えるような環境を作って、『そこに行ったら「創作」するしかない!』という風に気持ちを持って行けるようにしておくと、やるしかなくなりますから、「怠け者」でもやります。
「三日坊主」でも、四日目にもやります。
その「三日坊主の四日目」を続けていくという感じですね。
(なんか、自分で言ってて、情けない気がしてくるけど)

「場所」って意外と大きいんですね。
人間は、「場所」によって、「気持ち」を左右されていると思います。
「トイレ」に行けば、することは決まっています。
(『大か小かで迷うぅ~』という方は、とりあえず両方で)
(「たとえ」が、どんどん情けなくなっていくけど、そんなことは気にしないで!)

それと、同じで、「自分のアトリエ」でやることと言えば、「創作」しかありませんから。


3.毎日、必ず一定の時間制作する

まぁ、「仕事」みたいなもんですね。
(『タイム・カード打とうかなぁ・・・』)

これには、反発を感じる人も多いと思いますけど(私自身もそうでした)、意外なんですけど「仕事」だと思うことで「楽」に成ることがけっこうあるんですねぇ。

「お金をもらうこと」を前提にした「仕事」ではなくて、「自分のやるべきこと」としての「シゴト」ですね。
「役割」と言ってもいいでしょうが、「人に押し付けられた役割」ではなくて「自分で見つけ出した役割」です。
本当は、「仕事」にはそういう性質があるんじゃないでしょうか?

とにかく、ある程度、時間を決めてしまうと、「グッと楽」になると思いますよ。

私の場合、昼食後から夕食前までの7~8時間ほどの間の3~5時間くらいを制作にあてることにしていて、平均4時間ぐらい描いていますが、去年一年で創作活動を全くしなかったのは一日だけでした。
自分みたいな人間が、そんなことできるというのが信じられないんですけど、たぶん、夕食後はほとんど描かないようにしているのが、功を奏していると思いますね。
(というか、それ以上長い時間、描こうとすると、頭がぼぉーっとして来る)

「コンスタントにできない人」に限って、やるとなるとガンバッテしまうんですね。
どこかで、自分がコンスタントにできないのを知ってますから、『いけるときに行っとこう!』という気持ちが出てしまうんでしょうね。
で、力尽きてしまうわけです。

まぁ、考えたら、そんなの続くわけないんですよね。
「天才」じゃないんだから。
ところで、その「天才」って、どこにいるんです?
はっきり言えば、「凡人でも出来ること」を、やるだけで十分なんだと思いますよ。
それを、ただ単に、たくさんやったり、人が認めるまでやり続けた人が「天才」と言われるんだと思いますね。
だから、「やるだけ」で十分だと思いますし、「やり続ける」なら十二分だと思いますし、「凡人」でも十一分くらいまでなら行けると思いますよ。


4.「迷うこと」も「創作のうち」ということにする

それでも、どうしても「迷い」から抜け出せなくなる時は出てくるわけですが、そういうときは「迷うこと」自体も「創作のうち」だと考えるのがいいと思います。
(『「言い訳」?いや、ちがう!!』←ここは言い切りましょう)

というか、「迷うこと」は、もともと「創作のうち」だと思っています。
むしろ、「創作」の中でも「最もコアな部分」だといってもいいと思っているくらいです。

そういう時には、ただただ「作品」の前に座って(立っててもいいけど)「迷い」続けます。
その時間は、絶対に無駄ではないと思いますし、そう考えることで、「創作」がつながっていると言えると思いますよ。
(『いつも、いつも座ってるだけだとチョト厳しい!いや、時々立つと楽ですよってことじゃなくて』←これは言い切らなくていい)


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

以上、「ほど良い怠け者の人限定」の「創作を途切れさせないようにするための工夫」でした。
『これさえ守っていれば、きっと「創作」をつなげることが出来る!』というほどでもないですけど、まぁ試してみてくださいナ。

『えぇー、自分なんか「ほど良い怠け者」だから、やってみようかなぁ』
てな感じ?




「捨てられない絵」が目標



私といたしましては、「捨てられない絵」を目指していこうと思っているわけなんですねぇ。
(本当にゴミとして捨てられてしまわないように!という意味です)

『それ、ハードル低すぎだろ!』っていう感じもするんですけどね。
逆に、『いやいや、そう簡単でもないんじゃないのか?実は』という気もするわけです。


実際問題として、自分が死んだ後も、評価額などの「経済的な価値が全くない絵」を、『頼むっ!捨てないで大事に保管しといてくれ、ヨロシク!!』と言っても、だれも聞いてくれる人なんていないですよね。

そうなると、なんとかして、「捨てられない絵」を目指すという方向で行くしかなくなるわけです。
つまり、「ソン・トク抜き」に、『この絵は捨てないほうがいいんじゃないか?もしかして』と思われるような絵ということですね。

で、さらに言うと、そういう絵こそ「普遍性を持った絵」なんじゃないかとも思うわけです。

たとえば、「流行の絵」というのは、その流行が終われば「最も捨てられやすい絵」に成ってしまうと思います。
また、最初に言った「経済的な価値」についても、それがいつまで続くかはわかりませんから、ほとんどの場合「今価値がある絵」でも「いつかは価値がなくなる絵」であるわけで、そうなったときには、けっきょく「流行の絵」とほとんど同じで、やはり「捨てられる絵」に成ってしまうということです。

まぁ、よほどの名画であれば、価値が落ちるということもないんでしょうが、実を言えば、そういう絵こそが「捨てられない絵」でもあるような気もするわけです。
つまり、価値が落ちないから捨てられないのではなくて、「捨てられない絵」であるから価値が落ちないんだと思うわけですね。

そう考えていくと「捨てられない絵」というのは、『ハードル低すぎ』どころか、かなりの難題ではないかとも思えてくるわけで、自分がいなくなった後まで残るような絵を描くというのは、それなりに大変なことなんだと思います。

で、その「大変なこと」を目指してしまったもんですから、大変なわけです。

『そんなこと目指さなくてもいいんじゃないか?』って気もするんですけどね。
でも、どうしても浮かんできてしまうんですよねぇ、自分の描いた絵が捨てられる光景が。
(こういうの、ホントにリアルです。売れる見込みが薄い者にとっては)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『あぁ、もしもし、廃品回収業者さんですか?』
『えーと、絵なんですけどぉ、いくらぐらいで引き取ってもらえますぅ?』

「あー、うちは古物商じゃないんで、買取りはできないんですよ」
「でも、絵だったら普通に燃えるゴミで出せますよ。〇〇センチ以内の長さに切ってあればね」
(お住まいの地域の分別ルールに沿った長さに、お切り刻みくださいませ)

『えっ、燃えるゴミでいいんですか、つまり無料ってこと?ヤッター!』

燃えるゴミ?
つまり、邪魔?
要らないってだけじゃなくて、邪魔ってことなの?
(しかも、タダで捨てられることが喜ばれてる)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

どーしても、この悲しさに耐えられないんですねぇ。

それで、「大変なこと」なのは、わかってるんですけど、「捨てられない絵」を目指しているというわけです。

でも、そんな風に考えていくと、いろいろ見えてくることもあって、「捨てられない絵」のことを考えていると、当然「捨てられてしまう絵」についても見えてくるわけです。

先述のように、「流行のスタイル」はどちらかと言えば「捨てられやすい絵」ということに成りますし、「評価額」のような「金銭的な価値」も絶対的な要素とは言えないでしょう。
それどころか、「いい絵であること」もほとんど役に立たないような気がします。
「いい絵であるということ」は、要するにバランスがいいということですから、逆に言うと突出した部分がないということでもあるわけで、やはり、印象が薄くなってしまうということがあるわけです。
(「とんでもなくいい絵」であればいいんでしょうが)

けっきょく、この「印象」というのが「捨てられない絵」の条件なんじゃないか?と思うわけです。
見た人の中に「強い印象」を残せれば、その絵が捨てられる確率が低くなるだろうということですね。

もちろん、それが「いい印象」であれば一番なんでしょうが、それは「他人の好み」ですから、自分にはどうすることもできないことでしょう。

でも、とりあえず、「イイ・ワルイ」を抜きに「強い印象」ということだけを考えていくことはできるような気がするわけです。
「自分のスタイル」や「自分の感覚」を尊重したままでも、「強いインパクト」を追い求めていくことは可能だと思います。

要するに、「自分というモノ」を表現するうえで、「より自分であること」や「自分を強く表現すること」は、「印象を強めること」にもつながるし、結果的に「捨てられない絵」を残すことにもつながっていくんじゃないのかなと。
(だったら嬉しいんですけどね)


そんな風に思います。

それでも、捨てられた場合どうすればいいんでしょうか?私は...

1.まぁ、イイか?とあきらめる
2.誰か人のよさそうな人物を見つけて、絶対に捨てないように頼んでおく
3.『このゴミは、高額有料回収です』と書いて貼っておく

答え:自分で捨てる  『捨てられてないよ、捨てたんだもん』

「お前は一休さんかっ!?」





「スロー&瞬間」



私は、創作に関しては、できるだけ時間をかけて制作するという考え方をしていて、それを「スロー・アート」と呼んでいるわけですが、その反面、『瞬間的に人を引き付けるような作品を目指したいなぁ』という気持ちもあって、いつもその間で迷い続けているわけです。

 ※一般的には、同じぐらいのクオリティの作品であれば、短時間で仕上げられる
  ことの方が『良し』とされることが多いわけですが、そこのところを逆転して、
  同じくらいのものを創作するのに『どれだけの時間や労力をかけられるか?』
  という方向で創作していこうというのが、私の言っている「スロー・アート」
  です。
  「エコロジー」や「自然回帰」的な意味で、この言葉を使っている場合がある
  ようですが、そちらとは少し違う意味に成ると思います。
  (まぁ、そんなに違うわけでもないんですけどね)

それで、どうせ迷うんだったら、「スロー&瞬間」でいいんじゃないか?という話です。


「スロー・アート」は文字通り『無駄でもいいから、創作にかける時間を惜しまずに、むしろ積極的に長い時間をかけるようにしよう!』ということなんですが、「瞬間」の方は作品を見たときの第一印象を重視するというところからきていて、それを「一瞥(いちべつ)の力」という風に言っているわけです。

人間には、ほとんどのことを「一瞥(いちべつ)」で判断する能力があると思うわけです。
いわゆる「野生的能力」みたいなものだと思いますけど、そういう能力は、だれでも持っていて、普段から日常的に使っているんだと思います。

たとえば、食べ物なんかでも「一瞥して美味しそうなもの」は、たいてい「実際に美味しいもの」でもあるわけです。
要するに、食べてみなくても見ただけで「美味しいこと」がわかるということですね。
そういうのは、普通に日常的にやっていることですから、普段は意識されませんが、実はかなりの「野生力「」だと思うわけです。
しかも、そういうことは、多くの場合「一瞥の瞬間」に判断されているような気がするわけなんですねぇ。

ということは、やっぱり、なんだかんだ言って、「芸術作品」でも、けっこう「一瞥の瞬間」で判断されているんじゃないか?と思うわけです。

「有名な作品」に成れば、じっくり見てもらえるんでしょうが、「無名な作品」を『まぁ、そういわずにじっくり見てくださいよ』と言っても、なかなか見てもらえないわけで、瞬時に判断されてしまうのもやむを得ないことなんだと思います。

そういうことから、「一瞥の力」がある作品を目指しているということなんですが、そのために一番考えることは、「強い色」ということですね。
「いい色」ではなくて、「強い色」を使うことをいつも意識しています。

それから、一つの画面の中に「白」から「黒」までの幅を、なるべく広くとることも意識していることです。

こういうことを考えて絵を描いていくと、どうしても「いい絵」から少しづつ離れていってしまうんですけど、そこを何とかこらえて、「一瞥の力を備えた絵」を描きたいと思ってやっています。

そして、それを『馬鹿なんじゃないか?こいつ』と思われるくらいに、長い時間をかけて制作しているわけですね。
それが、この「スロー&瞬間」です。

たぶん、ウレません。
もし、億が一(?)ウレても、絶対に採算が取れません。

 注:「億が一」=「万が一」×「万が一」

だから、ウレてもウレなくても、あまり変わりませんね。
だから、そんなことはぜんぜん気にならないわけなのです。

『強い!!』
(確かに、何かがズレていると思う)

そういう「スロー&瞬間」のお話でした。

こういう話を『いいんじゃないの』と思った、あなたって!

『とっても素敵よ!』



「オーバー・ワーキング・スロー」と「アンダー・ワーキング・スロー」



私は、「スロー・アート」すなわち、「芸術作品の制作にできるだけ多くの時間を費やすこと」を、一つの目標にしているわけなんですねぇ。
(あぁ、無視してください。イカレタ人間のやることですから)
そして、さらに言うと、「時間」だけではなく、「労力」についても出来るだけ費やしていこうと思っているわけです。
(あぁ、気にしないでください。頭がサルなんで)


最近は「スロー・フード」に代表されるように、「スロー〇〇」という言葉が使われることが、けっこうありますけど、そういうときに、どちらかというと「自然回帰」とか「エコロジー」的なスタンスで語られることが多いと思います。

そして、その場合の「スロー〇〇」とは、「アンダー・ワーキング〇〇」であることが多いわけです。
まぁ、一言で言えば『無理しないで、のんびりやりましょうよ』ということなんだと思います。

それはそれで、私も大賛成なんですが、「現在の芸術」に限って言うと、それでは足りないような気がしてしまうわけなのです。


つまり、「現在の芸術」には「オーバー・ワーキング」が求められているように思うわけですね。
要するに、「現在の芸術」が、ある種の「行き詰まり」の状態になっているということです。
だから、そこから抜け出すためには、少しだけ「無理」する必要があるような気がするわけです。
それで、「オーバー・ワーキング」であることが求められてしまうんだと思います。

 ※ここで言う「オーバー・ワーキング」は、『かなりのところまで一所懸命にやる』という
  ことで、『死ぬまでやる』とか『命を削ってやる』ではありません。
  それを、やってしまうと芸術が不幸を生み出すという公式が出来上がってしまうので、
  それは、避けた方がいいような気がします。
  あくまで、その「オーバー・ワーキング」が創作者の幸福に還元できるギリギリのところ
  を目指すということですね。

本来ならば、『のんびりやりましょうよ』で、何の問題もないんだと思うわけですが、「現在形の美術」は、のんびりやっていたら、腐ってしまうんじゃないか?っていう感じがするわけです。
つまり、「賞味期限切れ寸前」に成っているようなところがあると思うわけですねぇ。
(「もう過ぎちゃってる?」の感もありますけどね)

そうなると、いくら「スロー・アート」とは言え、のんびりやっているわけにはいきませんから、「一所懸命」にやることに成るわけです。
その「一所懸命」を『ガンガンやっていこう!でも、時間はかけてネ』というのが「オーバー・ワーキング・スロー・アート」です。


でも、一般的に言われている「スロー・〇〇」も、一見すると、「アンダー・ワーキング」に見えますが、、実は、けっこう「一所懸命」なところは同じだったりします。

たとえば、この文明社会の中で、「自然回帰」や「エコロジー」を実践しようとすれば、意外と「ハード・ワーキング」に成ってしまうわけだし、それ以前に、現代は「忙しい時代」ですから、「スロー」であること自体が時代に逆行しているわけで、流れに逆らう分「ハード・ワーク」が必要になるわけですね。


ただ、違うのは、私が考えている所の「オーバー・ワーキング・スロー・アート」においては、必要性から「ハード・ワーク」が発生してしまうのではなく、「ハード・ワーク」であること自体も「芸術表現の一環」であるという考え方があるというところです。
「スロー・フード運動」などにも、これと少し共通した部分はあると思いますが、それを、より強調したのが「オーバー・ワーキング・スロー」という形です。
(いや、私が言ってるだけです)



もともと、「芸術」においては、「オーバー・ワーキング」であることが、「芸術表現の一環」として捉えられて来たところもあると思います。
それを、もう一歩進めて、『シャカリキに成って大量の作品を創作する』ではなく『シャカリキに成って少量の作品に力を注ぎこむ』にまで持っていくというのが「オーバー・ワーキング・スロー・アート」に成ります。
(「最後のサル脳保持者(ラスト・モンキー・ブレイン)」と言われています。ほっといてください。)

つまり、むしろ「オーバー・ワーキング」の方が目的で、「スロー」は結果ということに成ります。
一般的な「スロー〇〇」は、どちらかというと、「スロー」が目的で、「ハード・ワーク」が結果でしょうから、そこは逆ですね。

まぁ、それにつけても、「アンダー・ワーキング・ファスト」なものが、非常に多いような気がするのは、私だけなんでしょうかねぇ?

そういうものが、そんなにいいいんでしょうかねぇ。
そういうものには、それほどの「意味」も「価値」もないと思うんですけどねぇ。
なにせ、「低コスト&大量生産」ということですからね。

それなのに、なぜか流行るものは、ほとんど「アンダー・ワーキング」で「ファスト」なものなんですねぇ。
(売り手にとって都合がいいということなんでしょうか?)
なんで、みんな拒否しないんですかねぇ?


そんな風に思いますねぇ。
(以上、「サル脳だより」でした)




「美しさのモト」



「美しさ」というモノがあるとするならば、その「美しさのモト」に成っているのは、何なんだろうか?と思うわけです。
まぁ、そんなことに答えなんてあるわけではないんでしょうが、それでも、一応は考えないと収まりがつかないということですね。


そういうわけで、いつもそんなことを考えているんですが、私自身にとっての「美しさのモト」とは、「本質に向かうエネルギー」だと思っているわけです。


ありとあらゆるモノには、そのモノの最も根源的な性質である「本質」があると思うわけです。
そして、どんなモノでも、一番根源的な姿が一番美しいんじゃないだろうか?と思っているわけです。
(『自分がそういうことにしている』といった方がいいのかもしれませんけど)

そういうことで、その「本質」を表すことが出来れば「美しさ」を表現できるんじゃないだろうかと思うわけですね。


ところが、「本質」を直接表そうとすると、まったく何をすればいいのかわからなくなってしまいます。
おそらく、「本質」は根源的過ぎるし、純粋過ぎるし、普遍的過ぎるので、人間の表現力を超えているんだと思います。

そこで、何とか「そこへ向かうエネルギー」だけでも表せないだろうかと思っているというわけです。


どんなものにも、必ず「本質」はあると思いますので、そこには「本質に向かうエネルギー」も必ずあるんだと思います。

そして、私の場合、「本質に向かうエネルギー」は「ブラック・ホール」のような感じでイメージしていることが多いんですね。
つまり、中心に向かってあらゆるものが吸い込まれて行ってしまうようなイメージです。
渦を巻きながら、中心の一点に向かって集約されていくというような感じです。

そういうイメージがあると、その「中心に向かうエネルギー」を乱すようなものは、「美しさ」を妨げるように見えてきますし、「中心に向かうエネルギー」をさらに増すようなものは「美しさ」も増幅するように見えてくるわけです。

そういう感じでやっているわけなんですが、なぜか出来上がってくる絵は『美しい?これが?』というようなものに成ってしまうわけで、そこのところの原因は何なんだろうか?と考えるわけなんですが、それは、おそらく「描いているモノの本質」ではなく、「描いている者の本質」によるところが大きいんじゃないだろうか?と思うわけです。

要するに、描いている「自分の本質」が、「そんな感じ」なんだと思います。
でも、それもまた、「本質」であることには違いないわけですから、『それも、きっと美しい!』・・・たぶん。


という風に思うようにしています。




「理解できない絵」と「理解されない絵」



「抽象絵画」においては、あえて「鑑賞者の理解」を求めないような絵が多いと思います。
『「理解されること」が目的ではない』ということなんでしょうね。

でも、私自身のことで言うと、やはり『理解してもらいたい』と思ってしまうわけなのです。
(「理解されること」は第一の目的ではありませんが、一つの目標ではあります)

ところが、です。
そんな気持ちで、『「理解される絵」を目標にして「抽象画」を描いていこう!』と思って描いていくと、不思議なくらいに、「理解されない絵」に成ってしまうという、『非常に悲しいジレンマに陥ってしまうんだよね』と思っている今日この頃なわけなのです。

と言うわけで、初めから「理解されること」を目標とせずに描かれた「理解できない絵」と、私のように「理解されること」を目標にして描いているのに、結果的に「理解されない絵」に成ってしまうという、この二つのパターンには、いったいどんな違いがあるのだろうか?と考えてみたわけです。


まず、この「理解できない絵」や「理解されない絵」と言うと、「抽象画」をイメージすることが多いわけですが、実は「具象画」であっても、『一般的には、とうてい理解されないだろう』と思うような絵は、けっこうあると思います。

まぁ、どちらにしても、一般的にいう所の「美しいモノが描かれている絵」ではないということだと思います。

そういう「理解できない絵」や「理解されない絵」が急激に増えてきたのは、「芸術の20世紀」に入ってから「芸術」が「作者の自己表現であること」を求められるようになったことに因るんだと思います。
つまり、その「作者の自己表現」が、必ずしも「一般的に言う所の美しいモノ」ではないということなわけですね。

だから、必ずしも「抽象画」とは限らなくて、「具象画」であったとしても、「作者の自己」が強く表された絵は「理解できない絵」や「理解されない絵」になることが、多くなるわけです。


さて、そこで、「理解できない絵」と「理解されない絵」のチガイと言うことです。

作者自身が、「理解されること」を求めていない場合、当然、「理解されにくい絵」と言うことになるはずなんですが、実を言うと、現時点では、必ずしも、そうとは限らないような気もするわけです。


少なくとも、現時点では、「抽象画であること」を完全に否定する人は、かなり少なくなってきています。
本当の意味で「抽象表現」を理解したり、肯定したりしている人は、ほとんどいないような気がしますが、反対に、完全に否定する人もかなり少なくなったというわけですね。

まぁ、要するに、『抽象画とはこんなものだ』と言うような漠然としたイメージが、既成事実として一般的に広まっているので、その「一般的な抽象画」に当てはまっているものは、なんとなくではあっても「理解される絵」になるわけです。
つまり、「抽象画らしい抽象画」でありさえすれば、「その絵」や「その表現」が具体的には理解されなくても、「なんとなく理解される絵」には成ることが出来るというわけです。
(『これはきっと抽象画なんだろうな』ということが理解されるだけですけどね)


ところが、一方で、理解されようとして「抽象画」を描こうとすると、その「抽象画らしい抽象画」のイメージから外れた絵になる可能性が強くなるわけです。
と言うか、「抽象画」のイメージの中に「理解できない絵というイメージ」が組み込まれてしまっていますから、「理解できる絵」は「抽象画」ではないということにされてしまいますし、「理解されようとすること」も「抽象表現」ではないということにされてしまうわけです。


結果的には、「理解されること」を求めないで描かれた「抽象画らしい抽象画」は、「理解できないこと」によって「理解される絵」になり、「理解されること」を求めて描かれた「抽象画らしくない抽象画」は、ほんのわずかながら「理解できること」によって、かえって「理解されない絵」に成ってしまうという、何とも不可解なことになってしまうわけなのです。


しかし、ここで、「抽象画らしい抽象画」と言うことに、やや問題があるような気がするわけです。
要するに、「~らしい」と言うことが、「既成概念」に成ってしまっているわけですね。

「既成概念」から抜け出したくて「抽象表現」を使うようになったのだとしたら、「抽象らしいこと」はむしろ避けるべきことであって、「抽象画らしい抽象画」を描いたのでは、そういう意味で「既成概念から外れたれた抽象画」ではなくなってしまうわけです。

そうなると、「抽象らしい」を求めるのではなく「抽象らしくない」を求めるべきなわけだし、「理解できないもの」ではなく「理解できるもの」を求めるべきなんじゃないのかなと。

そんなことから、なんとか理解されるように描いているつもりなんですが、これが、まったく理解されないという、現実の壁があるわけで、その辺のところは、いったいどうしたらいいんでしょうか?と。


そんな風に聞きたいわけなのです。
(いったい、誰に?)




「長い題」=詩のような題(その12)



「長い題」=詩のような題(その12)です。

最近に成って、ようやく、この「長い題」ができるペースが落ちてきて、なぜかホッとしています。
ペースが落ちてホッとするのもおかしいんですけどね。

こんな「題」の付け方をするようになって、初めて気が付いたんですけど、「題」ばっかりできるのは考えもんですね。
(絵に合わせて「題」を作るとは限らず、独立した「絵の題」として作っています)
なんか、自分がすごくバカなんじゃないか?っていう気に成ってきます。

でも、めげずに「長い題」=詩のような題(その12)です。

『  』の中は「題の題」のようなモノです。
その絵を呼ぶのに使う「呼び名」だと思ってください。
「ニックネーム」のようなものです。
(本当は、フルネームで呼んでもらったら最高ですけどね。落語の「寿限無」みたいで!)

あぁ、言い忘れてましたが、「絵」の「題」です。
あくまで「タイトル」として作っています。
その辺はこのカテゴリの最初の記事で説明しています。

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『うつくしくは ないが かいぶつでは ない』

こわそうにも みえるが 
おそろしいと いうほどでは ない

どこか さみしそうに しているのに
ないている わけでは なく
ただ ひとりで そこに たっている

つめたくて するどい はもののような ものなのか
やわらかくて あたたかい もうふのような ものなのか
その しょうたいは わからない

そういうものが いつも ひっそり たっている

だれの なかにも ひとりづつ

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『もしも はなに なれたら』

たいように せを むけて はしりだそう
その ぎゃっこうの なかで 
せっかく さいた あざやかな いろを うしなって しまうとしても

もしも はなに なれたら

つきあかりに てらされよう
その あおじろい ひかりに
いま はなひらいたばかりの みずみずしさを
すいとられて しまうとしても

もしも はなに なれたら

よろこびに みちて
おどるように はしりつづけよう

こんな くらやみの かたすみに 
この はなびらの いろで すこしだけでも あかみを うつすことが できたら
きっと それは はなさくことの よろこびに ちがいない

だから もしも ぼくが はなに なれたら
そんなふうに さいてみたいと ひそかに おもっているのです

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さめのように つめたく なりたいと おもっては いないだろうか


とりのように
じゆうに そらを とびたいと おもうのと おなじく

はなのように
うつくしく さきみだれたいと おもうのと おなじく

そして くうきのように
とうめいで ありつづけたいと おもうのと おなじく

こおりのように つめたく
たった いってきの なさけをも もたない
そんな かんぜんむけつな いきものに なりたいと おもっては いないだろうか

そんなものには だれひとり なれない というのに


ひとは ちきゅうじょうで ゆいいつ 
『さめよりも れいこくな いきもの』だと いうのに

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『こんとんと めいかいの あいだには』 しんじつが あり
しんじつが ないところには うそが つくりだされる

ひとたび うそが つくりだされて しまえば
それは またたくまに せかいを おおいつくし
この よのなかは うそに そまる

しかし うそにも かならず
こんとんが あり めいかいが あり
その あいだには しんじつが ある

だから この せかいは しんじつで おおわれている ということもできる

それならば なぜ しんじつのないところが あり
そこに うそが つくりだされて しまうのか

おそらく そのとき そこには
こんとんと めいかいだけが あり 
その あいだが ないのだろう

つまりは こんとんと めいかいの あいだに
だれひとり しんじつを みつけだそうと しなくなったとき

この せかいは すくいようのない あざやかさで
うそに そめあげられて いくことになるのだ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

すべての ルールを すてさろう
あらゆる ほうそくを ぬけだして ちゅうに まいあがろう

すべての かいりつを ぬぎすてよう
あらゆる おきてから かいほうされて あしばを うしなおう


『もう それを じゆうと よぶのは やめよう』
ぼくたちは もう じゆうが なにも あたえてくれないことを まなんだのだから

じゆうが なにかを あたえてくれるのは
そのひとの なかに じゆうが ないとき

じゆうが なにかを あたえてくれるのは
そのひとの なかに ルールという あしばが あるとき

じゆうが なにかを あたえてくれるのは
そのひとの なかに かいりつという ふじゆうが あるとき

だから ぼくたちは 
『もう にどと じゆうに なにかを のぞむことは ないだろう』

すべての かいりつから ときはなたれて
すべての ほうそくから とびだして
ちゅうに まいあがった ぼくたちの こころに
じゆうが あたえうる ものなど なにも ないのだから


じゆうが あたえうるものは 
ぼくたちの こころのなかに すべて そろっていて

そんな ぼくたちの こころは
もう すでに 
くうかんと じかんを こえて ちゅうを まいつづけて いるのだから

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ひとには みな 
『いってきの いろ』が ある

その いってきを うみにながせば
たちまち うすまって きえてしまうだろう

その いってきを そらに むかって まいてしまえば
かぜに ふかれて きりのように かすんでしまうだろう

その いってきを つちに おとせば
すなぼこりに まみれて いろなど みえなくなってしまうだろう


そんな いってきの いろで せかいが うめつくされている

どの いってきも ほかの いろに そまってしまうことは ない
ほんとうは きえてしまうことも ない

ほんとうは だれの いろも みな おなじくらいに きわだって うつくしい

だから その いってきの しずくを
けっして つぶしては ならない
つぶしてしまったら ほんとうに きえてしまうから

だから その いってきを けっして つぶしては ならない

いかなる りゆうが あっても






プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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