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「芸術」に新しさは必要なのか?(続き)



前の記事の続きです。


さて、「芸術」における「新しさ」とはいったい何なのか?ということですが、これは、人それぞれの考え方だとは思いますけれど、私といたしましては、「芸術」における「新しさ」とは、「表現形態」の「新しさ」だと思っております。


「芸術」の本質は「自己表現」であると思うわけです。
ですから、表現するもの自体と言うのは、全ての人が皆違うものを表現しようとしているはずなわけです。

これは、まったく同じ顔をした人が居ないように、まったく同じ「自己表現」も存在しないのだと思うのです。
つまり、その時点では皆十分に「個性的」で「新しい」わけです。


それなのに、なんで似通った作品があるのかと言えば、「表現形態」が同じであるということによるのだと思うわけです。


もともと、同じ顔の人が居ないことも事実ですが、人の顔はだいたい同じような配置で目や鼻が付いているわけで、それと同じように、人の「個性」と言うのは大同小異であるともいえるので、「表現形態」が同じだと、「個性」による差は消されてしまうことが多いのだと思います。

逆に言えば、「個性」とは無関係に「表現形態」が違うだけで、まったく違うものに見えますし、それは”新しく感じる”わけです。


そこで、その「表現形態」とは何なのか?といえば、それは、ものの”捉え方”だと思っております。

「表現」の「形態」ですから、”表し方”と言うべきところですけれど、実際には捉えたものしか表せませんし、また、捉えられた時点で表される形が決まってしまうともいえるので、一応”捉え方”としておきます。


例えば、物を見たときにその物をどう”捉える”のか、物質としての形を”捉える”のか、それとも、何かそれ以外の本質を”捉え”ようとするのか、また、同じ形でも、それを面でとらえるのか、輪郭線で捉えるのか、さらには、物質的ではない”何か”を表現したい場合、目に見えないものを如何にして”捉える”のかということで、「表現形態」がだいたい決まってくるのだと思うわけです。

そして、その「表現形態」、即ち「捉え方」が新しければ、それが「芸術」における「新しさ」と成るのだと思うわけです。


ただし、ここで前の記事にも書いたのですけれど、「新しさ」が自分の目的であるのか、または、自分にとってそれが「手段」に過ぎないのかと言うことは、見極めておく必要があるのだと思います。


それから、「新しさ」を意識しすぎて、突飛なことをやっても、それがしっかり”捉えられて”いないと、「表現形態」とは成らないわけです。


結局、自分が制作を続ける中で到達した「表現形態」が、その時点での、その人にとっての、最新の「芸術」における「新しさ」ということなのだと思うのです。


だから、敢えて「新しさ」を追わなくても、もしかしたら「新しさ」は結果として付いてくるものなのかも知れないなと。
まぁ、かなり一所懸命にやればってことですけどね。


今、そんなことを思いました。




「抽象」は「具象」の反対なのか?



「抽象」と「具象」は、一応は反対のものということに成っているわけですけれど、この二つは、「二極」を成すものではあっても、正反対ではないのだと思っているわけです。

つまり、割と近い範囲での「二極」ということだと思うのです。


「抽象」と言うと、どうしても「具象」と正反対のことを思い浮かべててしまいがちなわけですけれど、でも、実は、「抽象」と「具象」は「表現」と言う狭い領域の中で両極にあるというだけで、世の中全体を見た場合は、むしろ近い所にあるものなのだと思うのです。


でも、「抽象」という概念が出現してきたときに、「既存の表現形態」を”破壊するもの”というイメージで捉えられてしまったために、『「具象」を”破壊するもの”が「抽象」である』という正反対の位置付けがされてしまったのだと思うわけです。


でも、実際には、「抽象」に当たる「表現」も昔からあったわけで、ただ単に、それに「抽象」と言う名前を付けたというだけのことだったとも言えるわけです。


ただし、名前が与えられて、それが概念として確立されて行く過程で、そこに「意味」が問われるように成っていったというところが、それまでの「単なる表現」としての「抽象的なもの」との違いなのだと思うわけです。

言ってみれば、「なんとなく抽象」だったものが、「はっきりした抽象」に成ったということだと思います。


でも、それは「具象」も同じで、「抽象」に名前が付けられたことによって、それに対峙するものとして「具象」と言う名前も与えられたのでしょうし、その時点から、「具象」も、また、その「意味」を問われることに成ったわけなのでしょう。


この双方に対する「意味」が問い詰められる前に、「破壊」=「抽象」や「具象」VS「抽象」という流れに成ってしまったのだと思うわけです。

そして、それは未だに問い詰められていないようにも思えるわけです。


この「意味」という「問い」から逃れられる者は居ません。


自分に名付けられた名前から逃れられるものは居ないでしょう。
それは、自分から逃れられる者は居ないということです。

それと同じように、日本人に生まれた者は、日本人であることからは逃れられません。

さらにそれと同じように、ある「問い」や、ある「意味」が、既にそこに存在する時代に生まれた者は、それらから逃れることは出来ないわけです。

この「意味」という「問い」を回避しても、それは果てしなく繰り返し、問われ続けます。


だから、この「時代の発する問い」を回避し続ければ、そのことに疲れ切ってしまうでしょう。
でも、「時代」は疲れるということが無いわけです。


話が逸れてしまいましたが、「抽象」と「具象」は対立するべきものではなく、共存するべきものだと思うのです。


「抽象」と「具象」に限らずどんなものでも、二つの要素を「対立」の構図で捉えると「引き算」的になりますが、「両立」や「共存」と言う考え方をすれば、「足し算」や「掛け算」的に成るのかも知れません。


「抽象」には「具象性」=「現実性」が必要だし、「具象」には「抽象性」=「真実性」が必要なのだと思うのです。

そして、そうなったとき、その二つはとても近い所にあるのかなと。


そんな風に思っています。



「現代美術的な視点」から見た「古典」とは何なのか



「美術」において「古典」と言うときに、だいたいの人がイメージする「時代」があると思うわけです。
でも、そういう「美術史的な観点」からではなく、「現代美術的な視点」から見たときの「古典」とは、どういうものを意味するのでしょうか?


「現代美術」の捉え方は、人それぞれで、いろいろだと思いますけれど、「現代美術」には、「古典」からの”脱出”と言う側面があったことは、多くの人が認めるところだと思うわけです。

そうだとすれば、その”脱出”したはずの「古典」を、同じ範疇のなかで「古典」と呼んでいることには無理があるように思われるわけです。

それらは、「現代美術的な視点」で見た場合、「古典よりさらに昔のもの」と考えた方がシックリくるように思うわけです。


更に言えば、「現代美術的な視点」をもって見た場合、「印象派」は勿論のこと「20世紀美術」も、もはや「古典」として考えるべきであって、それらはすでに、「”脱出”すべきもの」と成っているということになるわけです。

そして、現に、そういう考え方のもとに「コンテンポラリー」は進行しているわけです。


極端に言えば、「昨日のもの」は、すでに「古典」であるといってもいいような状況になっているわけです。
それは、つまり、例えて言うならば「オタク文化」も、もう既に「古典」であるということです。


それが世に現れた瞬間からとは言わないまでも、世間一般に認められた時点からは「古典化」が始まるわけで、言ってみれば、最も勢いがある時期には、それはもう「”脱出”すべきもの」と成っているというわけです。

つまり、この「古典からの”脱出”」と言う考え方を持ち続ける限り、「継続」や「継承」ということが出来ないわけです。

更に言えば、この「古典からの”脱出”」と言う考え方自体も、既に、世間一般に認められてしまっているわけです。

これは要するに、「古典からの”脱出”」と言う考え方自体が、もはや、「古典化」してきているのではないのかと思うわけです。


もしも、そうだとすれば、”脱出”すべきは、その考え方自体なのではないのかなと。
つまりは、「現代美術」の在り方自体を、その辺から根本的に問い直す必要があるのじゃないのかなと。


そのような考え方があってもいいんじゃないかと思います。




「迷い」について



前の記事の「迷い」の部分の続きです。


「迷い」は「芸術」においても”キーワード”になると思っています。
「迷うこと」は、これまで「芸術」の創作においては、マイナスと捉えられる傾向があったわけです。

と言っても、これは「芸術」に限ったことではなく、ほとんどのことにおいて、「迷うこと」がプラスと捉えられることはないと言えるでしょう。


確かに、「迷い」は非常に非効率的でもあり、「前進」とか「進歩」ということを約束してくれないものであるわけです。
むしろ、そういった「向上すること」をほとんど期待できないというべきかもしれません。


しかし、もう、その「向上」自体に意味がなくなってしまっているわけです。

一方向の「前進」や「進歩」と言った「向上すること」とは、一つの「完全」に向かって行くことに他ならないわけです。
そして、その「完全」は、もう何処にもないと思うのです。
現在「絶対的なもの」を設定することは誰にもできないと思うのです。

少なくとも「芸術」においては、そうした「原理」はもうなくなってしまっているし、それは無くなるべきものだったのだと思うわけです。


そんな状態の中で「迷わない」と言うのは、あり得ないことだと思うのです。
だから、もっと「迷う」べきなんじゃないかと思っているわけです。


「出口のない迷い」、つまり、答えを導き出すための「迷い」ではなく、「迷うこと自体」に意味があって、その中から現れて来るものこそが、その人にとっての「真実」なのだと思います。


その人にとっての「真実」を表現しなくて、何の意味があるというのでしょう?

『意味は必要ない』は、もう許されないと思っています。

『そこに意味を作り出さなければならなくなっている』と思うのです。


それでなければ、その絵がどんなに上手に描かれていても、それはただの平面に塗られた色に過ぎないのです。


それは上手なら褒められるし、下手なら貶されるというだけのものです。

「自己表現」である意味がないわけです。


「上手か下手か」なんてことじゃなくて、どこまでそれに”迫れるか”ということです。
「自分の中心」に”迫る”ということです。

そして、それが、その人に手が届く範囲で最も「真実に近いもの」ということです。


「迷い」のない所に「真実」はあり得無いわけです。
「真実」が無いということは、それは「嘘」ということに成ります。
「迷い」のないものには、必ず何処かに「嘘」が混じっています。


それが、例えほんの少しだったとしても、必ず「嘘」が混じってきます。
そして、そこからすべてが霧のように消えてしまうわけです。


「迷い」には、「誤り」や「未完」はつきものですが、「嘘」とは限りません。
「迷った」結果の「嘘」ですら、半分は「真実」かもしれません。


そんなわけで、「迷い」を「芸術」の”キーワード”と考えていると言うわけなのです。
「上手、下手」とかいう問題じゃないわけです。


そこを離れて、「迷い」を、どんな風に表現するかが大事なことに成って行くんじゃないのかなと。


そんな風に考えているわけです。




「芸術の再生」



「芸術」と言うジャンルは、現在、行き詰っていると思うわけです。
そして、それは「再生」されるべき時が来ていると思っているわけです。


こういうテーマについて、私のような権威のない人間が、何か言っても意味がないと考える人も居るかもしれませんが、私としては、言わないよりは言った方がマシだろうと思っているわけです。


「芸術の行き詰まり」については、人によって意見が分かれるところかと思われます。

ただ「現在の芸術」には、素直な気持ちだけで「スンナリと見通すことが出来ないような領域」があるということぐらいは言えるんじゃないかなと思うわけです。


人によって意見が分かれているのは、その「スンナリと見通すことが出来ないような領域」を、受け入れるかどうかと言うところだと思うのです。

つまり、そういう「スンナリと見通すことが出来ないような領域」について、それが”あった方がオモシロイ”と思う人と、そんなものは”無い方がイイ”と思う人が居るということなのではないのかなと。

でも、ここで私が言っている”行き詰り”とは、どちらが”よりイイか”でも、どちらが”よりオモシロイか”でもなくて、その「スンナリと見通すことが出来ないような領域」が”あるということそのもの”なわけです。


現在、「芸術」は一元的な方向性を捨てたことで、より自由で、無際限な方向性を与えられたといっていいと思うのですけれど、あまりに、一足飛びに「自由」や「無際限」が与えられてしまったために、現実の「創作者」や「鑑賞者」が付いて来れていないのだと思うわけです。

それどころか、実際には「芸術」の「創作者」や「鑑賞者」が、その「芸術」に置いて行かれて、どんどん「芸術」からの距離が離れて行っていると思います。
それで、「スンナリと見通すことが出来ないような領域」が生まれてしまっているのだと思うわけです。

ここで問題なのは、「創作者」自体が置いて行かれてしまっているという所だと思っています。

常に、「芸術」は加速しながら先へ先へと変化していますし、何らかの形で、その「変化」を捉えていないと「現在形の芸術」と看做されませんから、どうしても、「創作者」は現実に自分が居る位置よりも”先の位置”を読んで、つまり”ヤマを掛けて”創作するように成るわけです。

そのことが高じて、どんどん先へ先へと展開せざるを得なくなって、結果的に、自分自身が置いて行かれてしまうという理屈に合わないことが起きてしまっているというわけです。


私は、現在この状況から完全に逃れられている「創作者」と言うのは居ないと思っています。
結果的に、一番大変なのも「創作者」だと思います。

常に「新しい」を要求されますから、”ヤマを掛ける”しかなくなりますし、そうすれば、「本来の自分」と「自分の作品」が離れていくわけです。


「創作者」が、そういう状況なのだとすれば、「鑑賞者」としては、「芸術」を理解することは不可能でしょう。
と言うより、「芸術」を理解するという部分に関わる権利は与えられていないということに成ります。

つまり、「オモシロイ」か「オモシロクナイ」か、「スキ」か「キライ」かと言う短絡的な部分でしか「芸術」に関わることが出来ないということです。

そして、現にそう成っていると思うわけです。

※この点について、『芸術と言うモノは「好き・嫌い」しかないんだよ!』とか、
  『それ以外の基準なんて必要ない!』と言われることが非常に多いわけ
  ですが、この考え方は時代遅れだと思います。
  (こういうことを言う人に限って、芸術に上下を付けていたりしますしね)
  時代遅れと言うよりも、むしろ、そういう考え方自体には、はじめから無
  理があったと言わざるを得ないですね。
  そういう考え方は、基準を設定できなく成ったことに対する不安から逃れ
  るために捏造された「言い訳」のようなもので、「自己弁護」以外に何の根
  拠もないと思います。

これは、「鑑賞者」を責めるべきではなくて、「芸術」の置かれている位置がそういう所なのだということでしょう。

もちろん、そういう見方が悪いというわけではありませんが、”理解する”というかかわり方も、あるに越したことは無いと思いますし、その”理解する”の部分が、「芸術」を育てていくことにもなるように思われるのです。


以上のことから、「芸術の再生」が必要になっていると思うわけなのです。


つまり、「スンナリと見通すことが出来ないような領域」を、「スンナリと見通すことが”出来る”ように」するということです。
それ以前に、「なぜスンナリと見通すことが出来ないのか?」を考えるということでしょう。


その「なぜ?」に対して、いつも現れて来るのが「20世紀の芸術」だと思うわけです。

私の場合は、これに対峙してコンガラカッタ糸をすべて解きほぐすのは到底無理だと思ったので、「芸術の20世紀」を喪失してしまうことにしたわけですが、もし、それができる人が居るのであれば、そういう人がコンガラカッタ糸を解きほぐして、クリアに、そして「スンナリと見通せるように」なれば、それが理想だと思っています。


今でもまだ、「芸術」に「エンターテイメント」以外の何かを求めている人が居るのであれば、「芸術の再生」には意味があるのだと思います。


そうでないならば、「芸術の再生」は求められていないのかも知れません。
でも、求められていなくても「芸術の再生」は必要だと思っています。
人間には、まだ「芸術」が必要だと思うのです。


いま、「芸術」を失うと全てが間違った方向に行くような気がします。
だから、やっぱり「芸術の再生」は必要なのかなと。


そんなことを考えています。




「芸術が愛されること」と「芸術が理解されること」



『世の中の人が、皆「芸術」を愛するようになれば、きっと平和な世界になるだろう』という話を聞くことがあるわけです。


でも、私は「芸術」にしても、「哲学」なんかにしても、”愛された”だけでは、そういう風にはならないような気がするのです。


実際、悪人だって「芸術」を”愛する”人もいれば、そうでない人もいますし、逆に、いい人だからって「芸術」を、こよなく”愛している”とは限らないわけです。

これは単なる「好み」の問題になるわけです。


私は、「芸術」や「哲学」が世の中に影響を与えるのは、”愛された時”ではなく、”理解された時”なのだと思うわけなのです。

 ※とは言っても、「愛」が「理解」を前提にしたものだという考え方もある
  でしょうから、その場合は、「理解」もされて、さらに「愛」されてもいると
  いうことになるので、十二分なのでしょう。
  ただ、「理解」されていれば、「愛」されていなくても、それで十分だとい
  うことですね。

そして、それは、一般的にいう所の「愛」が「個」へ向けられる性質があるのに対して、「理解」は「全般(普遍)」へ向けられる性質があるからだと思うわけです。

つまり、「愛」は一つのものへ、そして一つの物の中のさらに一つの部分へと、一点に集約されていく傾向がありますけれど、「理解」は一つの点から理解し始めて、「全般」を把握できた時に、初めて「理解」に到達するわけです。

だから、「愛」だけでは「個」に影響を与えることはあっても、「繋がりを持った世界」には影響を与えることはないように思うのです。


この話は、人間同士の「愛情」にも置き換えることができると思います。


誰かを”愛して”いても、「いさかい」は起きますし、”愛して”いることは、その「いさかい」を鎮めてくれるとも限りません。
むしろ”愛して”いることによって、その「愛情」が「憎しみ」に反転してしまうことも多いわけです。

でも、その人のことを”理解して”いる場合は、やはり「いさかい」は起きるのでしょうが、その「いさかい」は大方の場合、早々に鎮まってしまうでしょう。

ほとんどの人が「いいところ」も「悪いところ」も持っているわけですから、その人のことを理解していれば、もし、「悪いところ」と争いになっても、「いいところ」の部分も見えて来てしまいますから、それ以上に「憎むこと」ができないのだと思います。


ここで、話を「芸術」の話に戻すと、「芸術」は「美しさ」や「真実」といったものを求めるものですから(そのほかの定義でも、この話に大差はないと思います)、『それを”愛する”人同士が争うはずがない』ようにも思えるのですけれど、やっぱり、人間同士の「愛情」と同じで、求めている「美しさ」や「真実」自体に食い違いがあれば、「いさかい」は起きるわけです。

そして、やはり”愛している”ことでは、その「いさかい」を鎮めることはできないわけです。
というよりむしろ、「自分の美しさ」や「自分の真実」を愛すれば愛するほど、「違う美しさ」や「違う真実」を”憎む”ように成ってしまうわけです。

でも、「芸術」を十分に理解していれば、「その美しさ」と「この美しさ」が両方とも「美しさ」であることがわかってしまいますから、”違う”と思うことがあっても、”憎む”ことにまではならないと思うのです。

そして、「芸術」をどのぐらい理解していればそう成るのかといえば、多分、”理解しようとする”だけで十分なのだと思います。


以上のことから、『世の中の人が、皆「芸術」を”理解しようとする”ようになれば、きっと平和な世界になるだろう』
という風に思っているわけなのです。


ところで、【「愛しているもの」を”理解しようと”しないこと】、また、【「理解したもの」を”愛さずに”いられること】、そういうことが、”理解できない”なと。


そういう風にも思ってしまうわけなのです。




そこに「意味」を創り出すこと



私は「芸術」において成すべきことは、「意味」を創り出すことだと思っているわけです。
つまり、もともと「意味」のないところに、「意味」が創り出せたら『イイんじゃない』のかなと思っているわけです。


これは必ずしも「芸術」に限ったことではなくて、ほかの色々なことにも当てはまることなのだと思っております。


たとえば、経済活動には、「需要と供給の関係」と言う原則があるわけです。
つまり、初めから「需要」という「意味」があれば、そこに物を「供給」すれば儲かるわけです。
経済活動としてみた場合は、これで十分に成り立っているわけですし、均衡の取れた関係なのだと思います。


しかし、”よりイイ”か?というと、そうでもないようにも思うのです。


たとえば、砂漠の真ん中で、水も移動手段もなくて困っている人のところに、水を持っていって売れば、確実に儲かるでしょうし、それで、水を買った人たちも死なずに済むわけです。


ややアコギな商売ではあっても、命の値段だと思えば、高くはないのかもしれません。
そういう意味では均衡は保たれているともいえるでしょう。


でも、これでは、そこにあった「需要」=「意味」を利用して、そこに、物を「供給」しただけで、「意味」を創り出しているとは言えないわけです。

だから、”よりイイ”とは言えないと思うのです。
それで、人の心にわだかまりのようなものが生じるのだと思うわけです。


でも、そこで、とてもおいしい飲み物を無料で振る舞えば、その企業のイメージはグンと良くなるでしょうし、その商品の格好の宣伝にもなるでしょう。
そして、その商品が継続的に売れるようになれば、やはり結果的には儲かるでしょう。


今では、こういったことはどんな企業でも、よくやっているのだと思います。


ただ、現在行われているこうした企業活動は、常に、先回りして利益が計算されてしまう場合が多く、そうした損益の算段をすることなく、こうした活動をすることは、愚かなことだということになってしまっていると思うのです。

でも、それだとせっかく「意味」を創り出しているのに、また、元の形に戻ってしまっているわけです。

つまり、利益のありそうなところに、物を持って行って売るという形に戻ってしまっているわけです。
そこに、もう一つ工程が追加されただけです。

『のどが渇いている人のところに、水を持っていって差し出せば買うだろう』というのと、『そこで、飲み物を配れば後々儲かるだろう』というのが、ほぼ同じことになってしまっているわけですね)。


現状の経済というのは、こうした形でしか機能できないようになってしまっているわけですが、この「先回りして利益を計算すること」というのが、「意味」を生み出せなくなる最大の理由だと思うのです。


これは、もう一度、話を「芸術」に戻すとわかりやすいと思います。


「芸術」で利益を計算した作品に、人が惹きつけられるでしょうか?

前もって、流行るかどうか、売れるかどうか、コストパフォーマンスはいいか、と計算された作品と、純粋な「衝動」で生み出された作品のどちらに、人は惹きつけられるのでしょうか?

『そんなのは世間知らずの言うことだ』と言われればそうなのかもしれません。

でも、そう言う「世間知らず」な部分が、少し無くなり過ぎていることも確かなんじゃないのかと思うわけです。

昔の職人さんなどには、私など足元にも及ばないほどの「世間知らず」な人がいたような気もするのです。
そして、人の心を惹きつけるような魅力を持った品物というのは、決まってそういう人たちが創り出してきたわけです。

そして、その人たちも、なんとか生きて行ける世の中だったということです。


今となっては、もう、企業がそういう「損得抜き」「計算なし」で、「意味」のあるものを、創り出してくれるということには、だれも期待しなくなってしまいました。

だから、経済がインフレとデフレを繰り返しているのだと思います。

一言でいえば、景気が良くなれば高いもののほうが売れるし、景気が悪くなれば安いものしか売れなくなります。
つまり、物の「質」=「意味」で値段が決まるのではなく、すべてが景気で左右されてしまうわけです。


企業活動において、「意味」を創り出すことに「価値」が見い出されるようになれば、きっと、もう少し安定して、一般庶民が「ゆとり」を実感できるようになると思います。


そしてもちろん、「芸術」においても「意味」が問われるようになればいいんじゃないかなと。


そういうことを思っているわけです。




「時代の芸術」



「古典」から何かを受け継ぐことや、それをさらに「継承」していくことは、とても重要なことだと思っているわけです。


現在においても、「古典芸術」やそのスタイルを「踏襲」している人や、それを愛好している人は沢山居るわけですが、この「踏襲」と「継承」の違いが大きいように思うのです。

私は、「芸術」においては、そこに「意味」を創り出すことが不可欠の要素だと思っているわけです。

「何の意味もないもの」を創作して、それを「芸術」と言ってはいけないのではないかと思っているわけです。
(とは言っても「何の意味もないもの」を創るのは不可能だとも思いますが)


要するに、「ただ単にキレイ」とか「ただ単にオモシロイ」とかですね。

そこにも「意味」はあると思いますが、それは、ただ単に、そこにある「意味」であって、作者によって創り出された「意味」ではないように思うわけです。


そして、その作者による「四苦八苦」・「悪戦苦闘」・「七転び八起き」等々があって、ようやく、そこに創り出された「意味」に、人が心を動かされるのだと思っているわけです。


『それって、精神論なんじゃないの?』と言われてしまいそうですが、確かに、その通りなのかもしれません。
でも、私は「芸術」そのものが「精神的な世界」だと思っていますから、それは当たり前だと思っているわけです。


そこで、「意味」のあるものを作るという前提で考えるわけですが、すでに出来上がってしまっている「古典」を「踏襲」することでは、そこに「意味」を作り出すことが出来る領域は極めて少なくなってしまうわけなのです。

これは「古典」に限ったことでもありませんけど、既に完成されたものの中で、作者が「意味」を創作することは極めて困難なことなわけです。

まぁ、既に出来ていますから「四苦八苦」する必要が無いということかと思います。
(困難じゃないから困難になるという、ややこしいことになりますが)


そこで、「技術」で人を納得させることを「芸術」と言ってはいけないように思うのです。
それは、あくまで「技術」であって「芸術」ではないわけですから。


「技術」を見せつけられれば、人は納得しますし感心してくれるわけです。
しかし、その「感心」と「感動」を、作者が意図的にすり替えてはいけないと思うわけです。


「技術」を習得するのにも、それなりの努力は必要だとは思いますけれど、それは、「芸術」において特別なことではなく、他のどんな分野においても同じことなわけです。

どんな分野でも「技術」や「熟練」はひとを「感心」させはしますが、「感動」させるとは限りません。
人を「感動」させるのは、やはり「技術ではない芸術」だと思います。


どんなものでも、「芸術」に成り得ると思います。
でも、どんなものでも「芸術」だとは思いません。

つまり、「技術ではない芸術」に踏み込めば、どんなものでも「芸術」に成ります。
そこに踏み込んでいなければ、それは「芸術ではない技術」です。


「古典」や「歴史」は「継承」されてこそ、「意味」を持つものだと思います。
そして、それを「継承」することから、新たな「意味」が創作されるのだと思っているわけです。

「継承」することとは、それを理解して、さらに自分の中で再構成してから現すことだと思っています。


それから、どんなスタイルも、その時代にあってこそ「意味」を持つのだと思います。
「古典」の鑑賞者は、「古典の時代」に連れていかれて、「古典の時代」の中で「感動」するのだと思います。

「現代芸術」の鑑賞者は、「今の時代」に居てそのまま「感動」しているわけです。
どちらを選ぶかは、単に好みの問題でしょう。


「今の時代」に居て、「古典」を鑑賞することから生まれるのは「ノスタルジー」です。
それは「感動」ではなく「郷愁」や「感傷」です。

「古典」で「感動」するためには、鑑賞者の側から、「その作品の時代」へ行かなければなりません。
それでなければ、「郷愁」や「感傷」は得られても、「感動」は得られないと思います。

それも、「芸術鑑賞」の一つの形ではあるでしょうが、それを「現在形の芸術」と同列に並べるのは、問題があると思います。

もちろん、そういう鑑賞が悪いということではありません。
そこのところが、区別できているならば、何の問題もないのだと思います。
ただ、そういう「小さなズレ」から、「芸術」が本来の姿を失いつつあるというのが、現在の状況なのだと思うわけです。


ですから、創作者は、後の世代の鑑賞者を「今の時代」に連れてこられるような作品を作る必要があるわけです。
そして、それには、「現在形の意味」を創り出す必要があると思うわけです。

要するに、それが普遍性だと思うのです。

それでなければ、即時的、刹那的なものにとどまってしまうわけです。
それでは、後世の人を「今の時代」=「その作品が作られた時代」に連れてくることは出来ません。

そういうものは「今しか通用しない」でしょう。


そこで、やはり「今の時代」にあってこその「意味」を作り出さないとならないんじゃないのかなと。


そんな考えを持っているわけです。



「ことば」に実体を与えること



「ことば」と言うのは「論理」や「思考」をあらわす手段なわけです。
その「論理」や「思考」には「意味」があります。
しかし、それは実体を持っているとは限らないと思うのです。


「論理」や「思考」には、「意味」がありますから、それが実体を持つような気がしてしまうわけですけれど、その「論理」や「思考」が実体を持つには、それを物質化することが必要であると思うのです。


要するに、家に住むには、家の設計図と言う「ことば」を、実際に家を建てて物質化しなければならないわけです。
つまり、「ことば」だけでは、それを説明してはいても、実体がないわけです。


「ことば」と言うのは「論理」や「思考」の表面を覆って形を成している膜のようなものだと思うのです。
だから、「ことば」だけで構成された「理論」は、とても脆いものだと思うわけです。

これは、「ことば」に限らず、すべての「記号化された表現」に当てはまることだと思います。
つまり、記号による表現は、「意味」を持ちますし、それはわかり易い表現ではありますが、そこには、まだ、実体がないわけです。


これは、逆も言えていて、「記号化」されたものは、なんでも、その実体を失います。

物質的な実体を持ったものであっても、ひとたび「記号化」されてしまうと、場合によっては、その物質としての実体が失われて、「記号」としての説明的な役割に転換されてしまうということもあるわけです。

 ※例えば、標識や信号などは、間違いなく「物質」ではありますが、「実体を
  持った物質としての性質」よりも、「記号=ことばとしての性質」の方が強い
  ということですね。

だから、「ことば」や「記号」による表現と言うのは、針の先でつついただけで消えてなくなってしまうような脆さがあるわけです。


そこに実体を与える作業が「意味」を創り出すという作業であると思っているわけです。


「ことば」だけでも、そこに「意味」はありますが、それはまだ「設計図」ですから、実体を持ちません。
それを物質化して、はじめて、実体と成るわけです。


そして、その「意味の創作」と「実体化」を、両方一人の人間がやったとき、それを「芸術」と言うのだと思っています。


「意味」だけだと「論理」です。

「実体化」だけだと「技術」です。

両方で「芸術」かなと。


そんな風に思っています。




「人間の底」



人間には、それぞれに「人間の底」があると思っているわけなのです。
まぁ、一言で言えば「能力の限界」とでも言うんでしょうか。

そして、その「人間の底」が見えないタイプの人には、どこかミステリアスな魅力があったりするわけです。
また、そういう”底が見えない”タイプの人を「カリスマ」と呼んだりしているのだと思うわけです。
(宗教的な意味での「カリスマ」に限らずですね)


でも、この「カリスマ性」を、本当のその人の能力と見てしまうことは、間違いだと思うのです。

そもそも、ここで言う「カリスマ性」は”底が見えない”ということから生まれているわけですから、その場合、その人の「人間の底」はまだ確認できていないわけです。

そして、見えないと言うことで、それが”計り知れないほど”深い所にあるに違いないという印象を与えているわけです。
でも、逆に言えば、それは意外と浅い所にあるかもしれないということです。


そして現に、それは浅い所にあるわけです。

こんな言い方をすれば、『そんなことを、お前ごときが決めつけるな!』と言われるでしょうが、私は、「人間の底」はどんな人でも浅い所にしかないと思っているわけです。


まぁ、逆にどんな人でも深いところにあるとも言えるんですけどね。

要するに、”計り知れないほど”と言うのが問題で、それは、つまり「無限」を意味してしまうわけです。
どんな人でも、その人の持っている「人間の底」は、とても深い所にあるのだと思っていますが、それは「無限」ではないということです。

『まぁ、無限よりは浅いでしょう』というところですね。


やっぱり、人間のすることは「有限」であるわけですけれど、「人間の底」が見えないでいる間は、人の心の中に、それが「無限」であるかのような印象を創り出すことが出来るわけです。

そもそも、それが「カリスマ性」と言うものなんだと思うのです。


逆に言うと、その人の「人間の底」が見えてしまうと、「有限」であることが”バレて”しまうので、「カリスマ性」は失われて、魅力も半減してしまうと言うわけなのです。


でも、もう、人間はこういう「カリスマ」や「天才」と言う言葉の呪縛から解放されていいように思うのです。


「宗教」で言えば「神」、人間で言えば「カリスマ」や「天才」ということに成りますが、実は、これらはみな同じもので、言ってみればどれも「偶像」だと思うのです。
(「ことば」だけでも、十分「偶像」に成り得ると思っています)


もう、人間は自分たちの持っている「本当の魅力」に気が付かなければいけないように思うのです。
そして、それは、「無限性」ではなく「有限性」にあるわけです。

一人の人の「人間の底」は、その人にとっては「有限」ですけれど、その「有限性」こそが、他の人から見れば、一種の「無限」でもあるわけです。


つまり、人の心の中と言うのは、他の人からすれば、正に”計り知れないもの”に他ならないわけで、それが実際には取るに足らないようなものであっても、それを把握できる人は、本人を置いて他にはは居ないわけです。
(実際には、本人でも把握し切れないでしょう)


だから、「人間の底」を見えなくすることで生み出される「カリスマ」や「天才」に頼る必要は、もうないのだと思うのです。

本当ならば「人間の底」は、良く見えていた方が魅力があるはずのものなのだと思うのです。
そして、それこそが「底知れない魅力」に成るのだと思っています。


「無限」や「絶対」や「完全」を求めさえしなければ、その「有限」や「相対」や「不完全」が魅力的であることに気が付くのだと思うのです。
そして、それこそが「表現の自由」であり「自由な表現」でもあります。


「個」をつぶしてしまう「自由」などあり得ないわけです。
「個」と「個」の間に格差を作り出すような「自由」など何の意味もないのです。


すべての「個」が、同じ価値のものとして認め合うことが出来て、はじめて「自由」と呼べるのです。


そして、そうすれば「人間の底」は、もう隠して置くようなものではなくなって、みんなが「自分の底」を見せ合って生きられるようになるのかなと。


そんな風に思っています。




「哲学を持った芸術」と「芸術を持った哲学」



「哲学」と「芸術」という二つは、人間の精神活動の中で、最も重要な二本の柱だと思うわけです。
そして、この二つの要素がないと、他のどんな分野においても、「人間の精神」にとっての価値が高いものは、生み出されないのだと思っているわけなのです。


つまり、「哲学のない〇〇」や「芸術のない〇〇」というのは、「人間の精神」に十分な満足を与えてくれるようなものにはならないと思うのです。


もちろん、「哲学」や「芸術」がなくても、実用性や功利性において価値のあるものはたくさんあるわけですけれど、それらが、さらに「人間の精神」を満足させるようなものと成るには、この二つがどうしても必要になってくるのだと思うのです。


そして、この二つを同時に兼ね備えたものが理想的だということなんでしょう。
さらに言えば、「哲学」には「芸術」が、「芸術」には「哲学」が必要なんだとも思うわけです。


つまり、「哲学を持った芸術」と「芸術を持った哲学」が、「芸術」と「哲学」の理想形であるということに成るわけです。


そして、これらのものがあらゆる物事にかかわっていくことで、「社会」や「文化」が豊かになっていくんじゃないかと思っているわけです。


そう考えると、現在の日本の「学問」や「教育」のあり方というのは、どう考えても、片手落ちな気がしてしまうわけです。

まず、「哲学」に関しては「学問」としても「教育」としても、一般的には、あまり重要視されているように思えませんし、「学問」全体の中で「哲学」は孤立してしまって、唯我独尊の立場にあるように見えます。

「芸術」に関しても、その作品自体や有名な作家のことについては知られていても、「芸術」自体のことを考えるというような、「芸術の核」に当たる部分については、ほとんど、重視されることがないように思われるわけです。


もし、これから世界が一つにまとまっていくということがあるならば、「芸術を持った哲学」と「哲学を持った芸術」が実現されていくような「世界」を作っていけたら、それは、「今より少しいい世界」に成るんじゃないのかなと思うわけです。


つまり、そんな「世界」になったら、「人間の精神」にとって居心地がよくなるんじゃないのかなと。

そんな風に空想してみるわけなのです。
(そんなに、うまくはいかないか?)




もう「天才」は「芸術」の領域ではないと思うのです



「天才」と言うと、「芸術」には付き物のように成っているわけですけど、実は、この「天才」というのは、もう「芸術」の領域ではなくなってしまっているんじゃないかと思うのです。


本当のことを言えば、「芸術」に限った話でもなくて、他のどんな分野においても、もう「天才」の領域は小さくなくなっているのだと思うわけです。

例えば「政治」の場において、いま「天才」は居るでしょうか?
『居ないと思います』

それは、これから先、現れて来るのでしょうか?
『現れてこないと思います』

それは、何故なんでしょうか?
『もう、そこに領域が無いからです』


かつては、「政治」の場においても、「カリスマ的指導者」と言われた人が居たわけですし、「芸術」においても、「天才」と言われる人たちが居たわけです。

しかし、それが”出現”しなく成って来ているわけです。


さらに言えば、「宗教」の場においても、時代を遡れば、「カリスマ」は、繰り返し現れて、その時、生み出された「宗教思想」が、現代の主な「宗教」や「宗派」の基盤に成っているわけです。


しかし、今後、またキリストやシャカやマホメッドのような「宗教的カリスマ」が現れたりすることがあるのでしょうか?

『無いと思います』

『なぜなら、もう、彼らの領域が無いからです』


いまの世の中に、彼らのような人間が現れたとしても、「カリスマ」や「天才」にはならないでしょう。
(狭い範囲で強く支持されることはあるでしょうが、それはいわゆる「カルト」でしょう)


確かに、彼らには人の心を動かすような”ナニカ”があったのでしょう。

しかし、その前に、世の中に、彼らを「カリスマ」として受け入れる領域があったということ無くしては、彼らが「カリスマ」と言われることも無かったのだと思うわけです。

そして、いま、その領域が限りなく小さくなっていると思うわけなのです。


と言っても、「天才」や「カリスマ」がもう現れなくなってしまって残念だという話ではありません。
むしろ、「天才」や「カリスマ」の領域が無くなりつつあるということは、人間が、そういう段階を卒業したということなんじゃないかと思っているわけです。

つまり、次なるステップへ向かうために、そういうものから抜け出して「新たな人間」として、道を模索するべきなんじゃないかと思うのです。


そして、そういう作業においては、「芸術」は、いち早く道を切り開いて行くべきものなんじゃないかと思っているわけです。

「芸術」には、かつて無いほどの「自由」が与えられていると思うのです。
その、言わば特権的に与えられてる「自由」を、そうしたことに向けて使う義務のようなものが、「芸術」にはあるのだと思っているわけです。

義務と言うと、ちょっと違うのかも知れませんが、どちらかと言えば、『そうせざるを得ない』と言うことなんじゃないかと思います。


世の中に「天才」の領域が無くなっているのに、その「天才」を追い求めていたんでは、「芸術」とは言えませんし、むしろ、まだその領域が残っているうちに、先駆けてその偶像を消し去ることこそが、「芸術」に与えられている役割なんじゃないかと思うわけです。

そういう意味では、かなり”遅まきながら”の感もありますけれど、そういうところに力を使って行くのがいいんじゃないかなと。


そんな風に思っているわけです。




「美しさ」の追究



かなり昔まで(100年ぐらい前?)、「芸術」は「美しさ」を追究するものであったのだと思います。
しかし、その「常識」が崩されて、それと引き換えに「限りない自由」が与えられたわけです。


それは、それでよかったのだと思うのですが、なにも、ムキになってまで「美しさ」を捨てる必要はなかったんじゃないかと思うわけです。

確かに「既成の概念」を捨てることで「自由」に成ったのだと思うのですが、それは、目的ではなかったのだと思うのです。
「既成概念」を捨てた後も、そこに残った「美しさ」まで、なにも、そんなに律儀に捨てなくてもよかったんじゃないのかなと。

要らなくなった「既成概念」を捨てることが目的であったわけで、「美しさ」を捨てることは、決して目的ではなかったのだと思うわけです。

そして、凝り固まってしまった概念を捨てた後の状態から、「新たな美しさ」を創造することにも何の問題もないように思うわけです。


そう考えると、改めて、「美しさの追究」が、「芸術」の一つの「道」であるということは、疑いようのない自明のことなのではないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




「狙った所に行かない」



どんなことでも、「狙った通り」に成ると言うのは気持ちいいもんですけど、それが、なかなかできないということに成っているわけです。


そこで、「狙った通り」に決められるような能力を持った人のことを「天才」と言っているんでしょう。

でも、もう見飽きてきているんだと思うわけです。
そういう「天才」の「狙い通り」がですね。
いくら「天才」でも、「狙い通り」では、やはり「想定内」の域を出ないわけです。

つまり、「意外性」に欠けるわけですね。
と言うか、多いのは「意外なんだけど想定内」ですね。

これからは、もう少し”失敗したい”と言う気がするんですよね。
つまり、「狙った通りに行かない」、いや、むしろ「行けない」ということかなと。

そういう「失敗」や「できない」が生み出す「本物の意外性」が必要に成って来るんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。


私の場合、それは得意です。




「拡散する方向性」と「引き留める力」



「自由」とは、言い換えるならば「拡散すること」だと思うわけです。
つまり、果てしなく広がって行くことこそ「自由」を象徴することなんじゃないのかなと。

そして、それを引き留めようとする力が、「拘束」に成るわけですけれど、その「拘束」のない所で、広がって行くことは「自由」なことではあっても、最も「自由」なことではないと思うのです。


本当の「自由」とは「拘束」からの「解放」であり「脱出」であり、「解脱」であるわけです。

繋ぎ止める力が強ければ強いほど、そこからの「開放感」も強いわけで、 「拘束」が無いと、本当の「自由」は得られないのかもしれません。

「拘束」のない「自由」は、ニュートラルな「自由」で、「拘束」からの「自由」は、「意志」や「方向性」を持った「自由」です。

「拘束」と「拡散」のどちらか一方では、「自由」も「芸術」も成立しないのかなと。
その二つを拮抗させることで、「自由な芸術」に成るのかなと。


そういう風に考えています。





「芸術」は「立場」によって作られる



「芸術」っていうのは、「絵が上手い」とか「手先が器用」とかということじゃないと思うわけです。


「じゃあ、どういうことなのか?」ということなんですけど、一つには、「立場」なんだと思うわけです。
『作者の立場が芸術を作る』という要素があると思っているわけなのです。


世界の中で、その人が立っている位置っていうのがあると思うんですよね。

例えば、会社や職場だと、役職や担当部署で「立ち位置」が分かれてくるので、わかり易いわけですが、広い意味での社会全体の中では、その人がどういう位置に立っているのかが見えにくく成るわけです。

それでも人間は、無意識に服装や髪形などの外見的なものから、言葉使いや仕草などの行動に至るまで、あらゆることで自分の「立ち位置」を示しているのだと思うのです。


そして、「芸術家」の「立ち位置」はと言うと、常に「中立」であるということなんじゃないかと思っているわけです。
つまり、「普遍的な位置」にいるということですね。


「中立」と言うと、なんとなく簡単そうですが、あらゆる局面で「中立」でいるということは意外と難しいことなんだと思います。

そして、そういう「中立的な立ち位置」に立っているということで、必然的に「普遍的な作品」が生まれてくるようになっているんじゃないかと思うわけです。


つまり、「芸術」は「普遍的な立ち位置」によって創られるのかなと。
と言うことは、極端な位置に立っていることは、決して「芸術的な位置取り」でもないのかなと。


そんな風に思っているわけです。



「遺伝された能力」と「個人の能力」



「人間の能力」には、「遺伝された能力」と「個人の能力」があると思っているわけです。


「遺伝された能力」とは、親や先祖から受け継いだものです。

ただし、肉体や脳などの「ハード・ウェア」的な部分だけでなく、文化や民族特性のような「ソフト・ウェア」的なものも含まれるのだと思うわけです。
また、両親や先祖から直に受け継いだものだけでなく、社会から受け継いだものも、広い意味での「遺伝」だと思っています。

要するに、教育や仕事から与えられる知識なんかですね。


そうなると「人間の能力」のほとんどが、「遺伝された能力」ということになるわけです。


「人間の能力」にとって、「受け継がれること」は非常に大きな役割を占めていると思うわけですけれど、その中で、ほんのわずかな部分でも「個人の能力」があれば、それは結構大変なことなんじゃないかなと、そんな風に思ってしまうわけなのです。

そして、その「個人の能力」とは、何なのかと言えば、「気まぐれ」や「偶然」や「マグレ」のような、「人の意識」とは無関係なものから生まれるものなんじゃないかと思うのです。


「人の意識」によるものは、必ず「遺伝された何か」に依存しています。
だから、それは「個人の能力」とは言えないと思うわけです。

「人の意識」が入り込む余地のない、「偶発的」なものだけが「個人の能力」に成り得るわけです。
ただし、「マグレ」だけでは、それを能力ということはできないでしょうから、「マグレ」や「偶然」をきっかけにして、そこから「何か」を作り出さなければならないわけです。

そして、そこに生み出された「何か」を、自分のものとして修得したものが「個人の能力」なんだと思うわけです。


ただ単に「遺伝された能力」を「個人の能力」と勘違いしてしまうことが多いんじゃないかと思うのです。
でも、それはちっとも「自分のもの」なんかじゃないわけです。

「偶然」がもたらす機会は、与えられたものですが、それを「発見」して、意味を「創作」して、それを「習得」することは、その人による、その人の「個人の能力」なんだと思います。


これがほんの少しでもあれば、なかなか大したことなんじゃないかなと。


そんな風に思っているわけです。


「絵画」と「塗装」



「絵画」と「塗装」の違いは、どこなんでしょうか?
いや、そもそもこの二つは違うものなんでしょうか?


色を塗ることで何らかの効果を生み出して、見た人の心を楽しませると言う点において、この二つに違うところは見当たらないわけです。


そうだとすると、「絵画」と言うのは、ただ単に『これは芸術家が描いた絵なんだぞ』といって、”エラソー”にしてるだけなんじゃないのか?と言う疑問が出て来るわけです。


実際、そういう捉え方をしている人も居なくはないのかも知れませんが、やはり、「絵画」と「塗装」には、なにか分け隔てるに値するような”チガイ”があるんじゃないかと思うわけです。

それ以前に、芸術家がキャンバスに描いたら「絵画」で、塗装屋さんがペンキで塗ったら「塗装」と言う考え方は、ツマラナイなと思ってしまうわけですね。


そこで、キャンバスに描くとか、建物に色を塗るとか、画家が描くとか、塗装屋さんが塗るとか、上手く描かれているとか、単純に塗り分けられただけとか、そういうことを全部抜きに考えていったときに、それでも、まだ、そこに残る「絵画」と「塗装」の”チガイ”を見つけてみようと考えるわけです。


さて、そこで、まず考えられるのは、それを描いたり塗ったりした人自身の意識です。
つまり、本人が「絵画」だと思って描いたのか、「塗装」だと思って塗ったのかということですね。


本人が、嘘偽りのない気持ちで「絵画」だと思って描いたのならば、それを「絵画」と呼んで差し支えないんじゃないかと思うわけです。

また、本人が「塗装」として塗っているという意識である限り、それをあえて「絵画」であると言う必要もないんじゃないかと思うのです。


ただし、この考え方だと、とても技巧的に描かれたものを「塗装」だと主張する人が現れたときに、本人の主張に従えば、それも「塗装」だということに成るわけですが、いくら本人がそう思っていても、見た人が、誰もそう思わないという矛盾が出てきてしまうわけです。

要するに、みんなが「絵画」だと思っているものを、本人だけが「塗装」だと言い張ることに、何の意味があるのかということですね。


そこで、もう一つの規準として、その描かれたり塗られたりしたものが、独立したものとして成り立っているかどうかということが考えられるわけです。


つまり「塗装」と言うのは、その「塗装」とは違う目的をもって成り立っているものに、付加価値的に色を付けるという作業なんだと思うわけです。

それに対して「絵画」と言うのは、「絵画」であること自体が目的であるわけです。


ですから、キャンバスに描こうと、どこに描こうと、独立した「絵画」であることを目的として描かれたものは「絵画」であるし、そうでないものは、「絵画」とは言えないと言うことに成るわけです。


でも、そうなるとインテリアとして部屋に飾ることを,第一目標として描かれた絵と言うのは、「絵画」とは言い切れなくなってしまうわけです。


キリがなさそうなので、このへんでやめますが、こんなに簡単そうなことでも説明できないとなると、自分が描いているのは果たして「絵画」であるのか、それともキャンバスに施された「塗装」であるのか、そんなことすら定かではないということに成ってしまうわけです。


一応、本人「絵画」だと思って描いております。

それから、独立した「絵」として描いています。


それでいいのかも知れませんが、本当はもっと明確に分ける根拠があるんじゃないかなと。


そんな風に思っています。




「芸術」は一人では達成できない?



「芸術」と言うのは、一人では、なかなか達成できないものだと思うわけです。


それで、昔から「パトロン」と言われる人が居て、「資金」や「制作のための環境」を提供してきたわけですが、そういう「パトロン」のほとんどが、貴族階級などの裕福な人だったわけです。

ただし、ここでひとつ大事なポイントがあると思うのです。
それは、昔の「芸術のパトロン」に成るような人たちは、単に「お金持ち」なだけではなくて、働かなくてもいいぐらいに「お金持ち」だったということです。


自分で働いて「お金持ち」に成った人と言うのは、どうしたって「お金の有難み」が解ってしまうわけです。
だから、「お金」を出すときに、必ずどこかで「見返り」を計算してしまうわけです。
もともとは、純粋に「芸術」が好きで、損得抜きに援助しようと思ったんだとしてもですね。

つまり、彼らにとって、その「お金」は「資本」であり、「芸術」は「投資の対象」になってしまうわけなのです。


だから、仕事で稼いだ人や、財産を守る為に頭を巡らせているような人というのは、たとえ、どんなに「お金持ち」でも、純粋に「”伊達や酔狂”のパトロン」にはなれないのです。

そして、必要なのは、その「”伊達や酔狂”のパトロン」なわけです。
それでないと、「芸術」に何かしらの影響が出てしまいますからね。

要するに、「経済の力」が加わってしまうわけですね。

『それでもいいじゃないか!どこが悪いんだ?』と言う人もいるのかも知れませんが、わたしは『それでいい』とは思わないということです。


つまり、「お金の有難み」が解らないような、昔の「お金持ち」みたいな人じゃないと、「芸術のパトロン」には成れないということです。

 ※宗教団体が「パトロン」の場合は、「お金持ち」のイメージはないですが、
  やはり不労所得(寄付など)が資金源ですし、貴族階級とも結びついてい
  たのでしょう。

ところが、その反面、そうした庶民感覚を一切持たない「パトロン」たちが、「芸術の真価」を判断できるのかとなると、それもまた難しいでしょう。

おそらく、昔は「お金」が使い切れずに余っている階層の人が、正に”金に糸目をつけず”に、芸術家に好き放題やらせていたということなんでしょう。
そして、そういうことが彼らにとっての「ステータス」でもあったのでしょう。

そういう「時代の空気」があって、それが、その時代に求められていた「芸術の方向性」とも一致していたということなのでしょう。


でも、今はもう、そんな「のんびりしたお金持ち」もいませんし、そんな「のんびりした時代」でもなさそうです。
さらには、現在の「芸術」に求められる方向性は、そんなに「のんびりしたした芸術」でもなさそうです。


要するに、「芸術」は基本的に一人で達成しなければならないものに成ったということです。

これは、むしろいいことだったのだと思います。
世の中の「格差」が小さくなって、「お金持ち」も働かなければならなくなったということなのでしょう。

巨大な資本を受け継いだ者でさえ、それを維持していくには頭を使わなければならなくなったということでしょう。

「のんびりした時代」まで、失われることもなかったんじゃないかなとも思いますけれど、取り敢えず、社会全体にとってはいいことだったんじゃないかと思うわけです。

 ※「のんびりした時代」も、また、与えられるものではなく成って、
   一人一人の人が、自分の中に創り出していかなければならな
   く成ったということかもしれませんね。
   そして、これもまた、いいことだったのかも知れません。


そこで、「芸術家」は、自ら「経済の力」から逃れるべく”孤立”しなくてはならなくなったわけです。

でも、これがかなり厳しいわけです。
「芸術を一人で達成すること」が、ですね。

私の場合、今は妻が協力してくれていますから「二人で~」ですが、庶民以下なので、とても「パトロン」とは言えませんね。

とにかく、時間も手間もかかりますし、他のことはあまりできませんから、生活が成り立たなくなるわけです。

私の場合は、「生活」まで含めて「芸術」だと思うようにしていますが、どうしても「生活」に拘束されていることで、”チカラ”が奪われるように感じてしまうことが出て来るわけです。

足りないのは、”チカラ”と言うよりも単純に「時間」かも知れませんね。


そこで何とか思いとどまって、『いや、コレも作品の一部なんだ』と自分に言い聞かせるわけです。


これからの「芸術」と言うのは、その辺を克服していかないとならなく成っていくのだと思っています。

それでないと、いつまでたっても、

「ウレてるもの」=「スバラシイもの」

「ウレてないもの」=「シケタもの」

と言う構図から抜け出せないと思うのです。


それにしても、もう少し「芸術」を一人で達成できるような、即ち、「パトロン」に代わるような、「経済効果抜きの社会的な環境」があってもいいんじゃないのかなと。


そんな風にも考えてしまうわけなのです。




「鑑賞者」が「芸術」に加えるもの



「芸術」における「鑑賞者」の位置については、それを”受け身”であると考える人もいるでしょうし、「鑑賞者」が、今よりもっと「芸術」に”参加”できるようにした方がいいと考える人もいるのだと思うわけです。


ただ、そこで、参加してしまったら、その人は、単なる「鑑賞者」ではなくなってしまうはずですから、それを、「鑑賞者」と呼ぶことは出来なくなってしまうと言う問題が出て来るわけです。

それは、「体験者」または「共同制作者」ということに成るわけですが、どちらにしても、それらは「芸術」を鑑賞するのとは、少し違うことに成ってしまうのではないかと思ってしまうわけなのです。

例えばの話、「鑑賞者が参加することで完結する芸術」というのがありますけれど、では、その「参加者」に著作権はあるのでしょうか?

著作権の話はともかくとしても、本当のところは、その人が”受け身”の立場であると言うことは変わっていないように思うのです。

そこで、あくまで第一創作者と第二次的に参加した参加者の間に「格差」が出来てしまうのであれば、それは本当の意味で参加したことに成るとは思えないわけです。


そんな風に、参加したような気にさせられるだけなら、むしろ、「鑑賞者」としての立場が確立されていたほうがいいような気がしてしまうわけです。

そこに「能動的な受け身」と言う考え方があってもいいんじゃないかと思うのです。
つまり、「鑑賞者」というのは「鑑賞者」のままでも、「芸術」に対して能動的に働きかける”力”があるのだと思うわけです。

「芸術」に対して敢えて参加しなくても、「鑑賞すること」だけで、そこには、その「芸術」に対する解釈や理解や共感が生み出されます。

そして、それらの感性は、あくまで「鑑賞者の側」のもので、「創作者の側」のものではないわけです。


そして、それらの「鑑賞者の側」で生み出されたものと、「創作者の側」で生み出されたもの(=作品)とが、対峙することによって、
「芸術」による「感動」が生まれるということだと思うわけです。


例えば、「鑑賞者の側」で「創作者の側」が考えもしなかった解釈を加えることだってあり得るわけですし、「創作者の側」が自分でも気づかなかった「芸術性」を発見することだってあり得るわけです。

つまり、「芸術」においては、「作品」によって「感動」が生み出されているのだとしても、実は、その「感動」は「創作者の側」が一方的に創り出しているわけでも、一方的にコントロールしているわけでもないということです。

「芸術」はともかくとして、「芸術による感動」については、間違いなく「鑑賞者の側」が加えるものによっても成り立っているわけです。


こうした「鑑賞者の側」による作業は、確かに”受け身”でもありますが”能動的”でもあるわけです。


また、このような「鑑賞者の側」から加えられたものを受けて、さらに「創作者の側」も変化します。
その時は、「創作者の側」も、また、”受け身”でもあり”能動的”でもあると言うわけです。

こうした、「能動的な受け身」と言う立場が、「鑑賞者の側」から剥奪されてしまったのは、現代美術が、「ヒネリ」を加えることに偏りすぎてしまったからだと思うのです。

人がやったことの無いことや、新しいこと、画期的なことを追い求めるあまりに、本質を見失って、『ヒネッテ、ヒネッテ、ヒネリまくって』その結果、今自分たちがどこに立っているのかが分からなくなってしまっているんじゃないかと思うわけです。


「創作者の側」が自分の立っている位置を見失っていますから、「鑑賞者の側」が、それに対して「ストレートな解釈や共感」を加えることもできないわけです。


そこで、「鑑賞者の側」からは「能動的な受け身」の立場が奪われてしまい、「鑑賞者の側」は、「ただただアリガタク鑑賞する」か、または、「イミガワカラナイので放置する」というように成ってしまっているんじゃないかと思うのです。

つまり、「完全に受動的な受け身」になってしまっているわけです。


それを、前述のような「芸術に対する参加」と言う形で、埋めてしまうのは、ゴマカシではないかと、私は考えるわけです。


もちろん、「参加型の芸術」というものが、”イケナイ”と言う話ではなくて、それを、「鑑賞者」の立場と置き換えることは出来ないんじゃないかということですね。


やはり、ベースとして「鑑賞者」は「鑑賞者」として「芸術」に対峙するべきなんじゃないかなと。


そんな風に思っているわけです。




「本能」に近く、「欲望」から遠い



私は、「芸術」に対する自分自身の一つの指針として、『「本能」に近く、「欲望」から遠い』ということを考えているわけです。


『「本能」に近い』というのは、人間の根源的な部分に近いということです。
「心の一番深い所で感じるもの」ということですね。
これによって「普遍性」が生まれると思っています。


「欲望」と言うのは、人間が持っている欲求の中で「美しくないもの」だと思うのです。

たとえ、それが「本能」に近い所から発生していても、人間が、それを肥大化させて、自らそれに溺れてしまうことで、「本能」が持っている「真実性」が損なわれて「根源的な美しさ」が失われてしまうわけなのです。

したがって、『「欲望」から遠い』というのは、人間が自己を肥大化させて、自分の欲求に溺れてしまっている状態から遠いということになるわけですね。

これによって「真実性」が保たれて「根源的な美しさ」が生み出されると思っています。


現在の「芸術の在り方」は、非常に『「本能」から遠ざかって』しまっているように思うわけです。
反面、『「欲望」には接近して』しまっている傾向もあるように思います。

これを一言で『面白ければいいんじゃないの?』と言っているんじゃないかと思うのです。


要するに、「芸術」が「作者の個人性」の中に埋め込まれてしまっているんじゃないかと思うのです。
当然、それは、他人には理解しにくいものになってしまうわけですね。

もっと、普遍的で根源的なもの、言い換えるならば「本能に近いもの」ですね。
そういうところに「芸術」を引っ張り出してしまった方がいいんじゃないかと思うわけです。

「本能」は、ほぼ万人に共通のものでしょうから、多くの人に理解可能なわけです。

 ※これは「万人受けするもの」を作るという話ではありません。
  そういう「好みの問題」と言うよりも、それ以前の段階で、人に理解できる
  範囲で創作するということです。
  表現と言うのは、もともとそうしたものだと思うのです。
  「ウケル」かどうかは、そのあとの話でしょう。

そうした中で「本能に近い」ところに立ちつつ、『いかに”欲望にマミレナイ”ものを創り出すか』と言うのが、「芸術の立場」だと思っているわけです。

そして、この「本能」と「欲望」の駆け引きにおいて現れてくるものこそが、その人の本当の「個性」なのだと思っているわけです。


現在の「芸術」は、「作家の個人性」の中に埋没してしまっていますから、「普遍性」を持つことができません。

しかも、「作家の個人的な”欲望の表出”」こそが、「個性」であるとされる傾向がありますから、純粋に人の心を魅了するような「根源的な美しさ」を持つこともできません。

つまり、作家の自己が肥大化して、作家自身がそれに溺れてしまっていますから、もう、そこに「真実性」はないわけです。


これでは、「心の中心から湧き出る感動」は生み出されないと思うわけです。
それでも、それを「感動」と呼ぶことは出来るでしょうが、その「感動」が、人の心の中に占める領域は、あまり広くはないと思うのです。


どちらかといえば、人の心に残るようなものを「芸術」と呼んだほうがいいんじゃないのかなと。

そっちの方向で追究していったらいいんじゃないのかなと。


そういう風に思います。




「見ること」・「知ること」・「言うこと」



「表現」と言うのは、「見ること」にはじまって、「知ること」を経て、「言うこと」に至るのだと思っているわけです。


その最後の「言うこと」だけを取り上げて「表現」と言ってしまいがちなわけですけれど、その前に「見ること」や「知ること」が無ければ、その「表現」は意味のあるものにはならないのだと思うわけです。


「見ること」において、大事なのは「見たくないものを見ること」でしょう。
「見たいもの」だけ見ていても「見たこと」にはならないでしょう。

そして、人間が一番見たくないものは、「自分の姿」だと思うわけです。
「自分の中の嫌な部分」が、人間にとって最も「見たくないもの」でしょう。


「知ること」は、「考えること」とも言い換えることが出来るでしょう。
「見たくないもの」を見つめて、それについて考えて、何かの「意味」を見つけ出したら、それは一つの「智」となるのだと思うわけです。


「言うこと」で大事なのは、臆することなく「言うこと」でしょう。

それは、つまり、何かに対して「配慮すること」と、誰かに対して「へつらうこと」を混同しないことでしょう。

「媚やへつらい」を「人への配慮」に置き換えて、「媚びへつらっている自分の姿」を「見ないように」してしまえば、はじめの「見ること」の段階に引き戻されてしまうわけです。


さて、そこで、

自分の中の嫌な部分をよくよく見つめて、

そのことをよくよく考えて、意味を見つけ出して、

さらに、それを何者にも臆せずに言う。


ゴメンナサイ、無理です。


まぁ、一応の目安ですね。
理想形としての目標ということで、一応置いとけばいいのかなと。
置いとくだけでも、少しはイイのかなと。


そんなところです。





「芸術」の位置を引き下げること



『芸術の高みに向かって登っていく』みたいな言い方を聞くことがあるわけですが、これは、ちょっと考え方として違うんじゃないかなと思ってしまうわけなのです。


かなり昔(100~200年ぐらい前?)までなら、一つの目標に向かっていましたから、それでよかったんじゃないかと思うのですが、もう、今は一つの頂点に向かっていくということがなくなっているわけですから、その「上昇志向」には意味がなくなっているハズなわけです。


今、向かうべきは「上」ではなく、「中心」だと思うのです。

そして、その手の届く位置にある「中心」に、高いところにある「芸術」を引き下げて、低い位置に持ってこなくてはならなく成っているんだと思うわけです。


「中心」というのは、それぞれの人の「自分の中心」なのでしょう。
そして、それこそが、それぞれの「芸術の中心」に成るわけです。


それぞれの創作者が「芸術の中心」を「自分の中心」に持ってくることができれば、「芸術」が、だれでも手の届く高さにあるようになるのでしょう。

”エラク”成っちゃったら、「芸術」じゃなく成っちゃうんだと思うんですよね。


そうすれば、みんなの隣に「芸術」があって、誰でも手が届くようになるんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




「センス」と言われているもの



「センス」と言われているものがあるわけですけれど、この「センス」っていったい何なんでしょうか?


『センスがイイ』とか『センスないよね』とかと言っている時の「センス」って、実体としては何なんでしょうねっていうのを、いつも考えてしまうわけなのです。


本来は、「センス」は「感覚」とか「感性」に当たるものだと思うわけですけど、いま、一般的に言われるところの「センス」は、それとは微妙に”ズレ”ているようにも感じられるわけです。

現在言われるところの「センス」に一番近いのは、「要領の良さ」とか「スマートさ」に当たるものなんじゃないかと思うのです。

同じことをやるにしても、”コテコテ”やるんじゃなくて”サラッと”やること、”ムダが無く”て、最小限に”シェイプされて”いること、
これが「現在のセンス」だと思うわけです。(日本だけ?)


こういう「センス」が、私は少し嫌いです。


前には好きになろうとしていたように思いますが、やっぱり好きになれません。

それは、それであっていいのかも知れませんけど、どちらかと言えば、”コテコテ”したものが好きですし、”ムダ”なものに惹きつけられます。


”ムダ”なものの方が、「純粋」なような気がしてしまいます。

”コテコテ”したものの方が、「人間的」に思えます。

そういうものこそ、「本当のセンス」だと考えます。


だから、「要領のいいセンス」は、どんどん捨てていきたいと思っています。
最初から、そんなに持ってませんけどね。
それで、”ムダ”なことをどんどん増やしていけば、「本当のセンス」も見えて来るんじゃないのかなと。


そんな風に思っています。





芸術における「違和感」と「親和感」



芸術作品を見たときに、「違和感」を感じることは、よくあることだと思うわけです。
要するに、インパクトのある作品には、この「違和感」を感じることも多いということなのでしょう。


作者の表現しようとするところが突き詰められていって、凝縮していればいるほど、それは、第一印象としての「違和感」を与えやすいということがあるのだと思うのです。

だから、この「違和感」を毛嫌いしてしまうと、芸術の”肝(きも)”の部分を感じ取れなくなってしまうわけで、ちょっともったいないように思うわけです。


しかし、このことと、「違和感」自体が芸術の目的であるということとは、全く違うことなのだと思うわけです。

むしろ、芸術の本来の目的とするところは、「共感」であって、この「違和感」とは反対のものなわけですから、創作者は鑑賞者との間に「親和感」を生み出すことを目指しているはずなわけです。

もし、創作者が「違和感」を目指してしまっているのだとしたら、それは、言い換えるならば、「見る者を拒んでいる」ということに成ってしまうわけなのです。

だから、「見る者を出来る限り受け入れられる」ような許容量のある作品がイイんじゃないかなと。

「見る側の許容量を要求してくる」作品が持っている「違和感」と言うのは、チョット違うんじゃないかなと。


そんな風に思っています。



「芸術の中心」と「芸術の外枠」




何かについて定義する時には、そのものの「外側の境界線」を示すというのが一般的なんだと思うわけです。
つまり、どこからどこまでを「〇〇」と言うのか?ということに成るわけでしょう。

ところが、現在の「芸術」に関しては、この「外枠」での規定が難しくなってしまっているわけです。
「芸術」をどこまでも自由にしようという発想から、「外枠」を取り払ってしまったわけですね。


「外枠」を規定するということは、その枠の中にそれを閉じ込めるということに成るわけですから、「自由」とは言えないのだと思います。

確かに、そのことによって、「芸術」はある意味で「際限のない自由」を獲得したという形にはなっているわけです。


しかし、この「際限のない自由」と引き換えに「定義」や「規定」と言った、その物が存続するために必要不可欠なものを失ってしまっているということも、また、事実だと言わざるを得ないわけです。

つまり、最も厳密な意味で言えば、現在「芸術」と言う分野は存在していないということです。


そこで、私はこのブログの冒頭に掲げております「宣言」の中で、「芸術の仮定義」として「芸術の外枠」については、最大限に拡大可能な状態を維持しつつ、「芸術の中心」として「真術」と言う新たな名称を設けることによって、「芸術」を何とか規定しようと考えたわけです。
(あくまで、自分自身の中での規定ですが)


それにつきましては、あくまで試みとして考えたことですから、『これが芸術の定義なんだ』とか、『こういう形で芸術が規定されるべきである』とかと言うつもりは毛頭ありません。

ただ、いま言えることとしては、「芸術の外枠」を失くした状態で、「芸術の中心」をも、規定しないままにしておけば、「芸術」と言う分野は存続できないだろうということです。


中心(核)も外枠(輪郭)も無いものを、存在していると言い続けることは出来ないでしょう。
今は、それが存在しているに違いないという、人々の中の固定観念によって、それが存続しているように見えているにすぎないのかも知れません。


「芸術の中心」を規定するということが、「芸術における自由」を害するものなのかどうかはまだわかりませんが、少なくとも、「外枠」で閉じ込めてしまうことに比べると「自由度」は高くなるように思います。


そんなわけで、「芸術の中心」から「芸術」を定義、または、規定していきたいなと。

そんな風に思っているわけです。
(あくまで、自分自身の中での話ですけどね)





全ての人が「ワン・アンド・オンリー」であるということ



「芸術の20世紀」においては、沢山の「~イズム」が生み出されたわけですが、それらの中で、今なお芸術としての活力を保っているものは無いのではないかと思うわけです。


しかし、このことは当然と言えば当然のことだったんだと思うのです。

もともとあった「アカデミズム」を捨てたことで、ある意味で「拘束」を解かれたわけですけれど、「アカデミズム」を「伝統」あるいは「正統」と解釈するならば、それを捨てたわけですから、すべての「~イズム」は、「ワン・アンド・オンリー」つまり「唯一無二」に成るはずであったわけです。

それを「~イズム」を名乗って「〇〇派」や「〇〇主義」ととして、グループを形成したことによって、そこに新たな「伝統」や「正統」が築かれることが期待されてしまったわけです。

でも、その「伝統」や「正統」を否定することから始まっているのが、20世紀の「~イズム」ですから、当然、そこには自己矛盾を生じてしまうわけで、結果的に、それらはすべて消滅せざるを得なくなってしまったわけでしょう。


はじめから、一人に一つの「~イズム」であれば、何の問題もなく、その人がその「~イズム」を作り上げて、その人と共にその「~イズム」も終わって行くという、ごく当たり前の流れができていたんじゃないかと思うわけです。


それでももちろん、誰かの「~イズム」に、他の誰かが影響を受けたり、それを受け継いだりするということはあるんだと思いますし、それはむしろ大切なことじゃないかと思うわけですが、それは、誰かの「~イズム」が「伝統」や「正統」として、広く受け継がれることとはだいぶ意味合いが違うと思うのです。


いずれにしても、芸術における「~イズム」は消滅してしまうものだということですけど、それが「一人の~イズム」であるということが重要なんじゃないかと思うわけです。

つまり、「現在の芸術」においては、この自分一人の「~イズム」を創り出すことこそが、その人の表現であると言えるんじゃないかと思うわけです。


そこで、どうも、その「~イズム」が、『いかに特徴的なものであるか』とか、『いかに人がやったことがないことであるか』とかに、意識が集中しすぎているんじゃないかと思うのです。


そういう基準ではなく、『いかにその人らしいものであるのか』と言う基準で見る方がより「芸術の自由度」も高くなるんじゃないかなと。

そして、それこそが最も「唯一無二であること」すなわち、「ワン・アンド・オンリー」であることなんじゃなのかなと。


そういう風に思います。





「普遍性」とは「鮮度」である



「普遍性」は、「芸術」に必要なものだと思うのです。
でも、その「普遍性」が、どうも軽視されているように思うわけです。


例えば、”いつの時代にも通じる”ことや、”誰にとってもイイ”と思えることと言うのは、大事なことなんじゃないのかなと思うわけです。


もちろん、それは全ての人に好かれるとか、どんな時代においても高く評価されるということではなく、全ての人に対して”何かを訴えられる”とか、どんな時代にあっても”何らかの意味を持ち続けられる”ということなんだと思っています。


「斬新さ」を追いすぎると”キヲテラッタ”ものになってしまって、「普遍性」を失うんだと思いますけど、実は、「普遍性」こそが、「鮮度」=「新しさ」なんだと思うのです。


つまり、「普遍性」と言うのは、「目新しい」ことではないのに、常に「新鮮」であることなんだと思うわけです。


同じものが、何度見ても「鮮度」を持ち続けられることこそが、「普遍性」なのだと思います。


当然のこととして、「芸術」は変わっていくものだと思いますけれど、それはすべてのことにも言える事であって、また、変わらずにいることなどできないということでもあるわけですから、「変化」や「目新しさ」に関しては、成り行きに任せて、「普遍性」を追究していくことに集中した方がイイような気がします。


追究したからって”できる”とは限らないですが、”やろうとしない”よりは少しはイイんじゃないのかなと。


否、”やろうとすること”にこそ価値があると。


そんな風に思って、やっています。



「抽象」は「偶像」を壊すことから始まるのだと思うのです



現在考えられているところの「抽象芸術」と言う概念が、出てきてから約一世紀ほど経ったわけです。


「抽象」は「具象」から抜け出して、新たな領域を開拓するために生み出されたんだと思うわけですが、その為か、「具象」を破壊することが目的になってしまって、その後、方向性を見失ってしまっているように思えるわけです。


もともと、「完全な具象」も「完全な抽象」も、現実に成り立たせることは不可能でしょうから、「抽象表現」には「具象性」が、「具象表現」には「抽象性」が必要に成るわけで、「具象」を完全に破壊してしまうことは、「抽象」をも成り立たなくさせてしまうことに成ってしまうわけです。

それで、現在「抽象表現」はハッキリした方向性を見い出せなくなってしまっているんだと思います。


それでも、まだなお「芸術」には「抽象表現」は必要だと思うのです。
そこにしか、行く方向が無いんだと思います。

また、もしほかの方向が見えてくるとしても、それは、「抽象表現」が現状よりも、もう少し確かなものとして把握されてからなんじゃないかと思うわけです。

要するに、「具象性」を排除することに力を使いすぎてしまったために、それができなくなってしまったんだと思うわけです。


実際には、破壊すべきものは「偶像」だったんじゃないかと思うのです。

一つの頂点に向かって行くこと、その「頂点」こそが「偶像」なんだと思います。
つまり、「具象」を完全に壊してしまう必要は始めから無くて、「頂点」にマツリアゲラレタ「偶像」を破壊して、「芸術」を手の届く位置に引き下げればよかったんだと思うわけです。

そうすれば、「抽象」は今ほど「解り難いもの」でもなくなるでしょうし、「抽象」と「具象」の間に、現状のような不自然な隔たりも無く成るんじゃないかと思っています。


そして、その「偶像」を破壊するという過程で、もし「芸術家」自身が高い位置に居たとするならば、自らその位置を引き下げて、平地に足を置く必要があったということなんだと思います。

そして、それをした人が居なかったんじゃないでしょうか?
(本人も周りの人も含めてですね)


まぁ、居たとしても誰も気が付いてくれなかったんでしょうけどね。
みんな、「頂点」の方ばかり見ていたわけですから、低い位置にいる人のことなんか見向きもしなかったんでしょう。


結果的に「天才」という「偶像」は、以前にもまして「崇拝」されて、平地に降りるどころか、ミルミルと高い位置へと舞い上がって行ってしまったということでしょう。


ようやく、一通りの「天才」が出尽くした今、一度リセットして「偶像」を破壊することから始めるというのがいいんじゃないかと思います。

そうすることで、ほぼ一世紀の間見えなくなっていた方向性が見えて来るんじゃないのかなと。


そんな風に思っています。




「迷うこと」は美しい



「迷いが無いこと」は、だいたい「良いこと」と言われているんでしょうけど、これからの「芸術」においては、「迷うこと」が必要になるんだと思っているわけです。


と言うか、「迷わないこと」は、もうすでに「美しいこと」とは言えなくなってしまっていると思うわけです。


例えば、古典的な技法に基づいて絵を描くときには、努力や修練は必要ですが、「迷い」は必要とは言えないでしょう。
むしろ、迷わずに技法書に書いてある通りのことを練習するほうが、確実に上達するには、近道に違いありません。


もちろん、その絵を「より良い絵」にするには、さらに、自分なりの工夫や感性も必要になって、そこに「迷い」の余地もあるんでしょうが、古典技法そのものを「最善」と考えた場合は、「迷い」の領域は極めて小さいものになるわけです。

それは、それで一つの選択肢ではあると思いますけど、それが、果たして「美しい」のか?ということです。

昔は、それが「美しかった」んでしょう。
でも、それは「技法」自体が確立されていなかったことによる部分が大きいと思うのです。

つまり、人が確立した「技法」を習得するというよりは、「技法」を編み出しながら制作していく必要があったわけですから、当然そこに「迷い」が発生していたわけです。
そして、最終的にその「技法」にたどり着く「過程」が「美しいこと」だったわけです。


これは「芸術」を「精神的なもの」と考えるか、「物質的なもの」と考えるかで、見え方が違って来ることなのでしょう。


「物質的なもの」と考えれば、「美しい絵」は「美しい絵」に他ならないわけですから、その「過程」よりも「出来栄え」が重要になるのでしょう。

反面、「精神的なもの」と考えれば、その「出来栄えの美しい絵」は、「手の込んだ塗り絵」ということになるわけです。
「塗り絵」がダメだということではなくて、「塗り絵」は「精神性」を追求するものではないということでしょう。


実際には、「芸術」は「精神性」と「物質性」の両方を持っていなければ成り立たないものなわけですから、どちらか一方を捨ててしまえば、当然、「芸術として美しいもの」とは言えなくなってしまうわけなのです。


ほとんどの人が、「良くできた贋作」を「芸術として美しいもの」とは考えないでしょう。
「物質的なもの」としては、ソックリに描かれているわけですから、「本物」と同じ、またはそれに近い価値があるということになるわけですが、なぜ、そこには「芸術的な価値」を感じられないのでしょうか?

要するに、そこに「精神性」が欠如しているからでしょう。

極端な話、「本物」よりも「美しく」仕上がっていたとしても、そこに「精神性」がないために、それは「芸術」とはならないのです。

もし仮に、そこに「精神性」が導入されれば、その絵は、「本物」から離れて「贋作」としては成り立たなくなってしまうでしょう。
つまり、「芸術として美しいこと」と「贋作として美しいこと」は両立し得ないということです。


そして、その「芸術の精神性」と「迷い」が、深く関係していると思うわけです。


前述の、「古典的な絵」と「贋作」を一緒にするつもりはありませんが、「迷い」がない、あるいは「迷い」の領域が狭いという意味では、同じ性質があると思うのです。


これは、なにも「古典技法」に限ったことではありません。
どんな手法でも、そこに「迷い」がなければ「精神性」は生まれないのではないかと思います。


あえて、断言してしまえば、「芸術」における「精神性」の大部分が「迷い」ではないかと思っているわけです。
つまり、「迷うこと」こそ「美しいこと」なんだと思うのです。


ただし、先ほども述べましたように、「芸術」は「精神性」だけでも成り立ちませんから、「物質的な美しさ」も必要になるわけで、
そんな中で、「迷うこと」で遠ざかる「物質的な美しさ」を繋ぎ止めつつ、「迷い」という「精神的な美しさ」を手放さないようにすること、これが現在の「芸術」に課せられている課題なんだと思っているわけです。


『迷うことは美しい』

『いや、迷うことこそが美しい』


そんな風に思っています。





「GOLDEN JUST PAINT」



「JUST PAINT」と言うのは、主にアクリル絵の具を作っている「ターナー社」のサイトに不定期で刊行されている、画材やターナー社のブランド「ゴールデン・アクリル絵の具」等についての、研究結果や分析などを公開したりしている情報マガジンです。


これが、とても読みごたえがあって、役に立つので時々利用させてもらっています。

このマガジンは役に立つのもいいんですですが、何よりいいのは、画材や絵具に対する作り手の愛情がこちらに伝わってくるところでなんすね。
(≪その色に何が起こったか?!≫と言う記事なんかイイですね。)


そこで、ちょくちょく見せてもらっていたんですが、唯一残念なのが、訳文が読みにくいことなんですね。
よくあることですが、日本語訳が、ちょっと”カタイ感じ”なこともあって、読むと疲れるので、なかなか一気には読めないんですよね。

それで、必要があるときに、それに関する記事だけをピックアップして読んでいるわけです。


自分が、今、まとめて組み上げた木枠にキャンバスを張って、下地を塗っているところなんで、その辺のところについての記事を読んでみると、目新しいことがいくつかあったんですねぇ。


まず、キャンバス張りについてですが、私は今まで、キャンバス(木枠)の中心から張っていたんですけど(たぶん、このやり方の人が多いと思いますが)、この「JUST PAINT」に、キャンバス(木枠)の角から張って行くやり方が出ていて、なんとなく、説得力を感じたので、半信半疑で試してみたんですが、これは正解だと思います。

前にも、一度だけ角から張ったことがあるんですけど、その時はうまく張れませんでした。
どう違うのかは忘れてしまいましたが、この「JUST・PAINT」に出ていたやり方だとスンナリとできました。
(かなり、いい加減にマネしたにもかかわらず!)


その記事にも書いてありましたけど、『今までのやり方に特に不満はなかったのに、もう前のやり方には戻れない』と思ってしまいましたねぇ。


それから、もう一つ、気に成ったことがあって、下地についての研究結果が出ていた≪油絵具をアクリル絵の具と使う≫という記事の中に、「イエロー・オーカー」などの土系顔料を下地に置くと、剥離の危険性が高くなるということが書いてあったんですね。

なんでも、土系の顔料は湿度などに対する反応性が高い(伸縮するらしい)のだそうです。
そうなると、高温多湿の日本では、マズイんじゃないの?ということに成るわけですよね。

『おいおい、待ってくれよ!』と成りますよね。

と言っても、それほど強い調子で書かれていたわけではないんですけどね、でも、わりと安心して使っていた「土系顔料の絵具」だけに、『そういうの、やめてよぉ!』ということですよね。


その記事には、どういった使い方なら大丈夫なのか?と言うようなことは書いてなかったので、まだ、それについては、「保留」ですけど、いずれにしても、この「JUST PAINT」には説得力のある記事が多いので、今後も参考にさせてもらうつもりです。


画材や絵具についての「常識」や「非常識」について、実験データや、様々な視点からの考察をもって、実際に検証して、説明してくれているので、とっても嬉しいですね。


と言うわけで、絵を描いている人は、ほとんど読んでいない(たぶん?)このブログですが、そのうちに見る人もいるだろうということで、一応、おススメしておきますです。ハイ。






「自己を拡大すること」と「自己を表現すること」



「現代の芸術」と言うは、一言で言えば「自己を表現すること」なんだと思っているわけです。


過去においては、「芸術」と「技術」の区別が、今よりも曖昧であったように思いますから、必ずしも「自己表現」としての比率が高いとは言えないものでも、「技術的」に高い水準に達していれば、「芸術」とみなされることが多かったんだと思います。


しかし、「現代」においては、ある程度「芸術」と「技術」は区別されて来ていますから、いくら高い「技術」を示したとしても、「自己表現」が示されていなければ、それを「芸術」と呼ぶことは出来なくなってきているのでしょう。
(と言っても、そこのところが、未だにはっきりと示されていないという問題が無いともいえないわけですが)


つまり、「芸術」を規定するために、最も重要な要素が、「自己を表現すること」だと思うわけです。


さて、ここで、「自己を表現すること」が、「芸術の最も重要な要素」だとして、「現在の芸術」が陥っている「落とし穴」の一つが、「自己を拡大すること」ではないかと思っているわけです。

つまり、現代に成って、芸術の最も重要な要素が「自己を表現すること」に、かなりのところまで限定されたことによって、その部分を強化しようとしたために、「自己を表現すること」と「自己を拡大すること」がすり替えられてしまったんだと思うわけです。

現在に至っては、その”すり替え”が、もはや公認のものとなりつつあって、「作家が自己を肥大化させること」こそが「芸術」であるかのような錯覚が生み出されてしまっていると言ってもいいでしょう。


しかし、「自己を表現すること」と言うのは、あくまで、「自己」を”そのまま”「表現」することであって、本来、如何に”そのまま”であるかが重要なハズなのに、「拡大」したり「肥大化」させたりしてしまったら、その時点で”そのまま”ではなくなってしまうわけです。

ですから、作り手の側はもちろんのことでしょうが、「芸術」を鑑賞する側の人も、「自己を肥大化させること」を「自己表現」と同じものと思ってしまうと、「落とし穴」にはまってしまうんだと思うわけです。

それは「自己表現」ではなくて「自己主張」だと思うのです。
まぁ、より正確に言えば「自己誇張」かも知れませんけどね。


でも、そういう「自己主張」ならば、なにも「芸術の場」でなくとも、社会の中にイヤと言うほど溢れています。
むしろ、そういうことから逃れるためにあるのが、「芸術」と言う「場」なのではないでしょうか?

そういうところが「現在の芸術の落とし穴」なんだと思います。


作り手は「自己を表現すること」を目指して、「自己を拡大すること」に成ってしまっています。
鑑賞者は「ストレートな自己表現」を求めて、「肥大化した自己主張」を見せられてしまっています。


だから、創作者は「自己を拡大すること」にとらわれてはいけないし、鑑賞者は「肥大化した自己」の威圧感に屈服してはいけないんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。





「機能美」と「意匠美」



「デザイン」と言う言葉がありますけど、そもそも「デザイン」って何なんですか?と言われると、ちょっと困ったりもするわけです。


そこで、「デザイン」をまとめると、「機能美」と「意匠美」の二つに集約されるんじゃないかと思うんですね。


「機能」を追究していくと、「無駄のない美しさ」が生まれてきます。

それとは逆に、「機能」とは無関係の「意匠的な美しさ」を追究していくと、なぜか使いやすいものが出来てきたりもします。


もちろん、必ずそうなるというわけではありません。
でも、かなりの確率で、機能的なモノには「ある種の美しさ」がありますし、「美しい意匠」を凝らしたモノは「機能的」にできています。

そうなると、この二つは同じものなんじゃないか?と成るわけですが、やっぱり、どこかが違うわけですね。


まず、「機能美」の方は、無駄がないのでシンプルですね。
言い換えれば「簡素」です。

「意匠美」の方は、無駄があるんですね。
「簡素じゃない」わけですね。
良く言えば「コッテル」、悪く言えば「コテコテ」、もっと悪く言えば「ゴテゴテ」ですね。


単純化して言うと、「機能美」は「最小限の美しさ」で、「意匠美」は「最大限の美しさ」ですね。

どっちが好きかは、好みによって分かれるところだと思いますけど、私は、両方ともそれぞれイイと思うんですよね。
どっちも捨てがたいっていうんですか?


「一本の線の美しさ」みたいなのもイイし、「華美な装飾」みたいなのも”ハマッタ”時にはイイと思うわけですね。


この二つを融合することは出来ないのかも知れませんが、もしも、それができたら、さぞ美しいモノに成るんでしょうね。

そういうことをやろうとするのが、私にとっての「芸術」ですね。
そして、その時点で「デザイン」ではなくなるんだと思います。


そういうことを考えてみました。




「起源」に帰ろう!



人でも物でも、全てのモノはいつも変わり続けているんだと思うのですが、その根底にある「元」みたいなものは、そう簡単には変わらないんじゃないかと思うわけです。


まぁ、物質で言えば「元素」みたいなものですか?
人で言えば、「ルーツ」や「遺伝子」みたいなものに成るんでしょうか?

そう言った、その物の原初の段階で、根底の部分に刻み込まれた「起源」のようなものは、なかなか変わらないし、変えることが出来ないものなのだと思っているわけです。


本当のことを言えば、そういうものも、すごくゆっくりと変わり続けているというのが正しいのかも知れませんけど、それは人間の尺度からすれば、ほとんど変わらないと言っていいんじゃないかということですね。


そして、人の場合、その「元」の部分こそが、その人の「オリジナル」まさに「起源」なのだと思うのです。


つまり、「オリジナリティ」とは、あえて創り出すものではなくて、もともと持っていて、変えることが出来ないような、むしろ、隠そうとしても出てきてしまうようなモノなんだと思うわけです。

「オリジナリティ」が放っておいても出てきてしまうのだとすれば、そこに力を使うのは無駄なんじゃないかと思うのです。


私は、むしろ「意味」を創り出すことに力を使いたいと思うのです。

そして「意味」を創り出していこうとする過程で、いやでも勝手に出てきてしまうのが「オリジナリティ」なんじゃないかと思っているわけです。
どちらかと言えば、それを、隠したくなる時にも隠さないようにすると言うのが、意外とできないということなんじゃないでしょうか?


どうせ隠せやしないんだとすれば、それを隠そうとすればするほど、隠そうとしていることだけが見えてしまうということに成るわけで、そういうのは避けたいということですよね。


いずれにしても、「起源」という変わらない部分があるということを意識すると、とても落ち着いた気持ちになれるわけです。

そのことを忘れてしまうと、いつも何かに追われているような気持に成るので、とても落ち着いていられません。


だから、創作する時は、自分の中には、変わらない「起源」があるんだということをなるべく意識するようにしています。

そうすることで、自由に「迷う」ことができるようになるんだと思います。


どんな風に迷っても、どこに流れて行っても、変わらない部分が残っていると思うことが、行き詰まりを止めてくれるような気がしています。


「起源」は変わらない!
「起源」は変えられない!!
そして「起源」に帰ろう!!!

そんな風に思うようにしています。




「意味の塊(カタマリ)」を創り出したいのです



私は、「創作」に当たって、いつも「意味を創り出すこと」を考えているわけです。
それで、その「意味」って何なんだ?ということです。


例えば、「花の絵」を描くときに、「その花」を、そのまま写し取ろうとすれば、「その花の美しさ」自体が、「その絵の意味」に成るんだと思います。


でも、そこで、「本物の花」よりも「もっと美しく」描こうとしたり、「もっと力強く」描こうとしたりする場合、「その絵の意味」は「その花の美しさ」だけではなくなってくるんだと思うわけです。

つまり、そこに「新たな意味」が創り出されたということに成るわけですね。


こう言うと、「写実」には「意味」がないという話に聞こえてしまうかもしれませんが、決してそういうことではなく、「写実」にも「意味を創り出す領域」はあると思いますが、その範囲が限定されるということでしょう。

逆に言えば、出来るだけ「モノの形」や「モノの色」に頼らなければ、その分、「意味を創り出す領域」が広くなるということではあると考えています。


そして、この「意味を創り出す領域」を広げることこそが、私の考えている「抽象芸術の目的」でもあるわけです。

つまり、出来るだけ「何もない状態」に近い所から「意味を創り出すこと」が出来れば、それが一番ウレシイということですね。


「現在の芸術」という分野は、「自己表現」のためにあるのだと思うわけです。

そして、「自己表現」のためには、「如何なる意味を創り出すのか?」ということが、大きな割合を占めるようになるんだと思っているわけです。


要するに「その花の絵」の中の、「その花」の部分よりも「その絵」の部分の方に、「自己表現」としての性質が強く現れて来るということでしょう。


そういう「意味」をコテコテに固めたような、「意味の塊(カタマリ)」を創り出したいわけなのです。


それができれば、それを人に評価されなくても、十分満足できるような気がしていますし、それさえやりきることが出来れば、心残りはないと思っています。


だから、何度失敗しても、”ヘン”な絵が出来上がって来てしまっても、また、コテコテと「意味」を塗りこめて、「意味の塊」を創り出そうとしているわけですね。


そう思っていると「上手く描こう」なんてことは、遠くの方にあることのように感じられます。


「自己表現」であればあるほど、他人からは理解されにくいのかも知れませんが、それを塗り固めていって「塊」にすれば、きっと、『なんか言いたかったんだな』っていうことぐらいは、伝わるんじゃないかなと。


そんな風に思っているわけです。




「定型化」したもの




「芸術」の場で、「定型化」したものは「価値」が低いということに、表向きではなっているわけです。

でも、一般的に、「定型化」したものにこそ、安定した「価値」があるのは間違いのないことでしょう。
つまり、すでに試されて「価値」が確定しているわけですね。


そして、実は、「芸術」の場においても、常に、安定して評価されているのは、こうした「定型化」したものだったりもするわけです。


まぁ、大雑把に言えば、「抽象画」よりも「具象画」の方が売れる確率が高いし、「感性に頼った作品」よりも「技術に頼った作品」の方が、評価されやすいということに成りますね。

もちろん、「有名」になれば、話は違って来るんでしょうけどね。
その場合、「有名」と言うことが「一種の定型」に成っているということでしょう。

少なくとも、日本ではそんな状況だと思います。


なぜ、そういうことに成るのかと言えば、はじめに書いたように、「定型化」したものには、「確定した価値」があるからなんだと思います。

まぁ、皮肉な言い方をすれば、「人に自慢出来る芸術」或は「人から褒められる芸術」ということに成りますね。

もっと言えば、「売るときに高く売れる芸術」ですね。
「価値」が確定していますから、多くの人に共通の「価値」が、そこにあるということですね。


逆に、「確定した価値」を持たないものは、なかなか受け入れられにくいですね。

それもまた、当たり前のことですけど、「持ってると、人からバカにされる芸術」なんて、誰も欲しいと思わないですよね。
実際、「確定した価値」がないものと言うのは、持っているだけでも、そういう目に合う確率が非常に高いわけですからね。


ただ、ここで、大事なことは、「価値」は、「芸術」以外の分野でも生み出すことが出来るけれど、「意味」は「芸術」にしか生み出せないんじゃないか?ということなんです。


世の中に、「価値」のあるものは、たくさんありますし、人間が「価値」を生み出すことができる分野もいろいろとあるんだと思います。


しかし、世の中に「意味」のあるものは、いろいろとありますが、人間が「意味」を作り出すことが出来る分野と言うのは「芸術」だけなんじゃないかなと思うわけなのです。


そして、「定型化」したものには、「価値」はありますけど、「意味」は薄くなるんだと思うわけです。
つまり、すでに「価値が確定」していますから、どうしても「意味」が薄くなってしまうわけですね。


まぁ、例えて言うならば、まだ、一度も食べたことがないものをはじめて食べる時、「その食べ物」の「価値」は確定されていませんね。
従って、そういう「未知のメニュー」は注文される確率が非常に低くなります。

逆に、「定番メニュー」は人気がありますね。
「価値が確定」していますからね。


でも、ここで、「それを食べる意味」について考えた場合、どうでしょうか?

すでに、よく知っている味の「定番メニュー」を食べることと、どんな味なのか想像もつかない「未知のメニュー」を食べること、どちらの「意味」が大きいでしょうか?

”美味しい”とか、”好き”とかいう「価値」の部分を除いて考えたときですね。


おそらく、純粋な「意味」の部分だけで言うと、「未知のメニュー」の方が、「それを食べる意味」が大きくなると思うのですが、どうでしょうか?

そして、その「意味」が創作されると、「料理」も「芸術的」に成るんだと思うわけです。


「定番メニュー」を選ぶか、「未知のメニュー」を選ぶかも、「定型化した芸術」を選ぶか、「定型化していない芸術」を選ぶかも、最終的には「好み」の問題ですが、そこで、「価値」を選べば、「意味」はある程度捨てられてしまうということだけは、認識しておいたほうがいいんじゃないかと思います。

もしかすると、その部分こそが「芸術の中の最も芸術な部分」なのかなと。


そんな風に思っているわけです。




「自我」



人間は、ごく幼い時期に「自分」と言う存在を意識するように成るみたいですね。
いわゆる「自我」ですね。


「我が強い」とか、「我を張る」なんて言い方もあったりしますけど、そういうのなんかも、たぶん「自我」に含まれるんでしょうね。


この「自我」の使い方なんですけど、「自我」には、使い方によって「プラスの作用」と「マイナスの作用」が大きく分かれてしまう性質があるんだと思うんですよね。


さしづめ、「我が強い」や「我を張る」は「マイナスの作用」ということに成るんでしょうね。
じゃあ、「プラスの作用」の方は、どうなんだとなると、要するに、「個性」と言われているものが、それに当たるんだと思うわけです。


これは、このブログの「個性と才能」と言うカテゴリで何度か書いていることなんですけど、私は、現在の「個性」と言う言葉の使われ方に疑問を感じるところがあるので、この言葉はあまり使わないようにしているんですね。

 ※「個性」がある人とない人、あるいは、「個性的」な人とそうじゃない人、
  と言う使い方があまりに多すぎて、「個性」が、誰でもみんな同じくらい
  持っているものであるという考え方が全く通じなくなってしまっていると
  いうことですね。

でも、「個性」が「自我」の「プラスの作用」によるものだという考え方ならば、何の問題も感じないで、この言葉を使うことが出来ると思います。


つまり、「自我」は、みんなが同じように持っているものであって、おそらくは、かなり幼い時期に形成されている概念でもありますから、「個性」が「自我」による作用の一種であるとすれば、それが「ある人」と「ない人」が居るという話しが出てくる筈がないということですね。
(まぁ、それでも通じない人には通じないんでしょうけど)


実際には、「自我」がみんなに同じようにあるのと同様に(というか、「自我」を捨てる方がはるかに不可能的)、「個性」や「才能」も、みんなにほとんど同じくらいの「量」が与えられているんだと思います。

ただ、それぞれの「個性」や「才能」の「質」が違うというだけのことでしょう。
そして、その「質」には「上・下の差」はないということなんじゃないでしょうか?


さて、「自我」に話を戻すと、その「プラスの作用」と「マイナスの作用」の差が大きいんだと思うわけです。


人が「自我」の「マイナスの作用」にとらわれてしまうと、「自己肥大化」によって、自分のことしか考えられなくなって、まず、「他人」が見えなくなって、次には「自分」すらも見失ってしまうので、結局、最終的には、どんなことも判断ができなくなって、ものごとを理解するということが、ほとんど出来なくなってしまうわけです。


また、「自我」の「プラスの作用」について言えば、「表現すること」・「創作すること」・「コミュニケーションをとること」さらに言えば、「考えること」や「知ること」までも含めて、この「自我」の「プラス作用」に当たるんだと思うわけですが、これらは、人間の「精神活動」そのものと言ってもいいんじゃないでしょうか?

そんな感じですから、落差が大きいわけですね。

それなのに、この「プラスの作用」と「マイナスの作用」が容易には切り離せないわけです。
だから、どうしても「プラスの作用」を追っていくと、「マイナスの作用」もクッツイテくるんですね。
これが、とてもウットーシイわけです。

それで、「自我」を捨てて「解脱」に到達することを、宗教などでは「至上の目標」とする傾向があるんでしょう。


もし、人間に「自我」を捨てることが出来るのだとしたら、それも、一つの考え方として、「アリ」だと思いますが、「自我」を捨てるということは、「個」としての「存在」でなくなるということですから、「人間」と言う「個」に閉じ込められた形でしか存在できないモノには、それは無理なんじゃないかと思うのですが、どうなんでしょうか?

それに、「自我」を捨てようとする気持ち自体も、また、かなり強い「自我」なんじゃないかと思いますから、「自我」を捨てることよりも、「自我」の「プラスとマイナス」をどう使っていくかということの方が、考え方としては有効なんじゃないかと思うのです。


まぁ、要するに、「プラス」ばかりを追い求めるのではなく、一応「マイナス」も受け入れて、「プラスとマイナス」の「バランス」をとることが”イイ”んじゃないかと思いますね。


取り敢えず出来ることと言えば、「マイナス」にハマリそうになった時には、その辺にあまり固執しないようにすることくらいかなと。
それで十分だと思いますし、その辺でもけっこう”ラク”に成るんじゃないのかなと。

これは、「プラスの作用」についても、ある程度同じ様なことが言えるんじゃないかと思います。
要するに、どちらもハマってしまうと見えなくなってしまうということでしょうね。


たまには「我を張っても」いいんじゃないかと思うわけですね。
それもまた、人間的なことではありますし、必ずしも悪いことでもないんじゃないかと思うんですよね。

そういう「自分の自我」を受け入れるくらいが、人間には丁度いいんじゃないのかなと。


まぁ、そんな風に思っています。



「風景画」・「静物画」・「人物画」



「具象絵画」の代表的なものと言えば、「風景画」・「静物画」・「人物画」ということに成るでしょう。


私の勝手な持論ですけど、「抽象絵画」と言うのは、「風景画」でもあり、「静物画」でもあり、「人物画」でもあるというのがイイんじゃないかと思っているわけです。


つまり、これら三つの「いいところ」をあわせもっているのが「理想」ということですね。
当然、「現実的な話」ではないです。

 ※これら三つのどれでもないものが「抽象画」なんだという考えもあるかと思いますが、
  そう考えると、私には何もできなくなってしまうので、こちらの考え方でやっております。

「風景画」で惹きつけられるのは、「むこう側に抜けてゆく空間」と「横への広がり」ですね。

要するに、「風景画」が表現しているものは「広さ」なんだと思います。


「静物画」に感じるのは、「突き当りの密閉感」と「モノ性」ですね。
世界が閉ざされている分、「物質感」が濃厚になるんでしょうね。

「静物画」が表わしているのは、「密度」だと思います。


「人物画」はいろんなタイプがありますけど、実は、ほとんどの「人物画」が、作者の「自画像」と言ってもいいんだと思います。
(実際は、人物画でなくても絵はみんな「自画像」なのかも知れませんけど)

だから、「人物画」が表現しているのは、「作者自身の内面」と言っていいんじゃないでしょうか?


さて、そこで、「抽象画」ですけど、「広がり」と「密度」と「自分」を同時に表現できたらいいなと言うのが、私にとっての「抽象画」ということに成るわけです。


いやいや、「風景の中に浮かんでいる部屋の中にいる自分を描く」と言う話ではないですよ。


そうじゃなくて、「広がり」と「密度」を同時に現わせたら、”イイな”ということですね。
それで、さらに、そこに「自分」が自然に表現できていたら”もう言うことない”って言うことですね。

まぁ、出来ないですけどね。


でも、出来たら終わっちゃいますからね。
出来なくてイイんだと思っています。
少しでも近づければ十分ですね。


それにしても、「風景」を描かずに「広がり」を表現することや、「密室」や「静物」を描かずに「密度」を表現することが、なんとも、ムズカシイと感じてしまいますね。


実際には、それは「ムズカシイ」と言うよりも、「確かめられない」ということですね。

「抽象表現」には「モト」になっている「モノ」がないので、それが、良く表現できているのかどうかを確認するスベがないわけです。
だから、手ごたえを感じにくいんですね。


まぁ、それでも、これで行こうと決めたので、そこの所を変えるつもりはありませんから、あとは、どこまで、そこに力を注ぎ込めるかということに成るんでしょう。


『なにか”コレ”と言うモノ、残したいなぁ』

そんな風に思っています。




「理由」と「意味」



「抽象画」を描いていたりすると、人から『この絵は何を現しているのか?』と聞かれることがあるわけですね。

でも、なかなか、それを言葉で言い表すことが出来ないんですよね。


そして、そういうときに感じるのは、そういうことを聞く人が求めているのは、たぶん、「その絵の理由」なんじゃないか?ということなんですね。


「具象画」だったら、『〇〇の美しさに感動したから、その美しさを現したくて〇〇の絵を描きました』と言うことが出来るんだと思います。
つまり、「その絵の理由」が、ある程度までは、言葉で言い現せるわけですね。


ところが「抽象画」の場合は、その「〇〇の絵」の「〇〇」に当たる部分が無いわけですね。
もともと無かった「ナニカ」を創り出して、それを現すのが「抽象」だと思っていますから、その「ナニカ」には「名前」が無いということですね。


それで、『その絵の「理由」』を聞かれたときに、答えられることと言えば、『こういう絵が描きたかったから』というような、どうしようもない言葉しか思いつかないので、いつも、結果的には、何も答えられなくなってしまうわけなのです。


「抽象表現」に置いては、「理由」ではなく「意味」を伝えたいなと考えるわけですね。
(これは、本当は「具象表現」に置いても同じことなんだと思っています)


つまり、「その絵がそのように描かれた理由」ではなくて、「その絵がそこに存在している意味」ですね。


たとえば、「インテリア」として存在している絵もありますし、「説明図」として存在している絵もあります。
そして、「芸術」としてそこに存在している絵もあるというようなことですね。


完全に純粋に「芸術」である「絵」は無いでしょうし、「インテリア」としての「絵」にも「芸術性」はありますから、すべての「芸術」が、そういったものの間のどこかに位置しているわけでしょうが、そういう「その作品の存在している位置」とでもいうようなことが、「「その作品の意味」に成るんだと思うわけです。

そして、そういう「その作品の意味」を中心に見ていくと、その作品の「真の姿」が、見えて来るんじゃないかと思うんですね。


これは、「芸術」に限ったことでもないと思いますけど、「理由」よりも「意味」の方を重視していったほうが、その事柄の本質的な部分が見えやすいということは多いような気がします。

「理由」を追究することにも、十分に価値はありますが、ダイレクトに「意味」を考えることにも、それと同じくらい大きな価値があると思っています。


そういうことが「抽象」の「意味」でもあり、「理由」でもあるんじゃないかなと。

そういう風に思っているわけです。




「芸術度」



現在、「芸術」と言うものを、規定したり定義したりすることは、なかなか出来ないわけですが、そういった「規定」や「定義」が全く無いというのもどうかと思っているわけです。


それで、私は「芸術」を「度合い」で判断するのがいいんじゃないかと思っているわけです。
つまり、どのぐらい「芸術」であるのか?と言う「芸術度」ですね。


『芸術なんて言う名前にこだわらなくてもいいじゃないか?』と言う方もおられるんでしょうね。
その通りだとも思います。

でも、そういう話ができるのも、「芸術」と言う言葉に、何かしらの意味があってのことなわけですから、そこに最低限の拠りどころとなる意味くらいは必要なんじゃないかとも思うわけですね。


とは言え、現在の「芸術」が置かれている位置は、「限りなく自由であるべき」という、「自由なのか、不自由なのかよくわからない場所」であって、どうも、そこからは逃れるすべが無いようなので、「芸術」にキッパリとした「境界線」や固定的な「定義」をあたえることは、ほぼ無理ではないかと思うのです。


そんなことから、「芸術」を「芸術度」でユルイ感じで規定できたらいいんじゃないかと思っているわけですね。


それには、まず「芸術の中心」を設定する必要があるわけですが、たいていの場合、そこで、ショッパナからフリーズしてしまうんでしょうね。


「芸術の中心を設定すること」は、「芸術を定義すること」と大差ないですからね。

でも、「芸術の中心を設定すること」は「芸術を定義すること」よりも漠然としていてもいいんだと思いますし(この辺は、このブログの「宣言文」の中の「芸術の仮定義」と言うところで書いています)、意外と、ほとんどの人の中にある「芸術の中心」は、それぞれ、そんなにかけ離れているものでもないんじゃないかと思うわけです。


実は、そういう「かけ離れた芸術」を持ち出してくるのは、ほとんどの場合「ごく一部の専門家」に過ぎないのだと思います。


つまり、そういった方々が少し我慢してくれさえすれば、「芸術」に一定の「意味」と「方向性」が与えられるということです。

そうすれば、「芸術」が生き延びられますし、そうでなければ、「芸術」は消えていくと思います。

それでも、何らかの「美術的なモノ」は残るでしょうが、それは、その時点で「芸術」ではなくなっているのではないかと思います。


「芸術の中心」が設定されれば、そこからの距離で「芸術度」が測定できるようになります。


もちろん、「芸術の中心」に近いものが「芸術度」の高いものということに成ります。

しかし、「芸術度」の高いものが、「イイもの」ということではなく、「芸術度」が低くても「イイもの」はあります。

ただし、それは「イイ芸術」ではなく「イイナニカ」だということです。


逆に、「芸術度」が高くても「イイもの」とは限りません。
ただ単に、それが、「とっても芸術だ」というだけのことです。


これに相当するのが「芸術的」という言葉なんでしょうが、

「芸術的」と言う言葉には、既に「イイもの」と言う意味が含まれてしまっているために、この言葉は使えないわけですね。


こういった、「度合い」によるユルイ規定ができてくれば、「芸術」が、今よりもストレートな分野に戻るんじゃないかと思っています。

現在は、ヒネルことで「人をビックリさせること」が「人を感動させること」と、取り違えられてしまっているんじゃないかと思ってしまうわけですね。


「芸術」は本来ストレートな分野であるハズなんだと思うのです。

だったら、本来の「ストレートな芸術」に戻りましょうと。

そんな風に思うわけです。





芸術作品の「在り方」と「見せ方」



私は「絵」に合わせて「額」も作っていこうと考えているわけですが(まだ、できてませんけど)、「芸術作品」には、「見せ方」ということが必要になってくるんじゃないかと思っているわけです。


「芸術作品」と言うのは、それ自体がすべてであり、単独で完結している必要があると言うべきなのかも知れませんが、それでも、なおさらに、何か加えることは出来ないものだろうか?と言う気持ちがあってもいいんじゃないかと、そんな風に思って、「額」を作ろうと考えているわけです。

 ※ さらに言えば、「額」は「平面作品」を独立させるためのものでもあるとも
  思っているので、「単独」であるためにも必要なモノだと考えています。


たとえば、教会の祭壇画なども、教会にあるのと美術館にあるのとでは、かなり根本的に意味が違ってくると思います。


純粋に「絵画」として見たときと、「宗教的なアイテム」としてみたときとでは、当然、意味が違ってきますし、「見え方」も違ってくるということでしょうね。

これは、日本の襖絵や屏風絵などにも共通のことが言えていて、家具や建築の中の一部としてみる場合と、その平面を「単独の絵画」としてみたときとでは、「見え方」も「意味」も違ってくると言えるでしょう。


つまり、「見せ方」によって、「見え方」や「作品の意味」が違ってくるということに成るわけです。


本来、「芸術作品」と言うのは、独立して成り立っているものなのかも知れませんけど、厳密な意味で「独立」した「作品」と言うものは無いということも事実なわけで、そうした意味では、このように「見せ方」によって「作品」の「意味」や「見え方」が左右されるということも、当然と言えば当然のことなのかも知れませんね。

 ※例えば「絵」が、「一枚の絵=タブロー」として、独立した作品であったとしても、
  それが「物質」である以上、必ず「存在する場」を必要とします。
  それは、その「作品」に接している周囲の環境の存在を意味しますし、それを
  否定することは出来ないということです。
  だから、「芸術作品」は、いかに独立した「作品であっても、周囲の環境に必ず
  何かしらの影響を受けることになるわけです。

  それで、どうせ影響されるならば、その影響をも「作品」に取り込んでしまおう
  という考えですね。


さて、そこで、この「芸術」の「見せ方」についてなんですけど、これを、「演出」と言うのとは区別する必要があるんじゃないかと思っているわけです。


「見せ方」と言うのは「演出」に近い言葉だとは思うのですが、「演出」と言うのは、その「作品」の根本的な「在り方」や「意味」を揺るがしてしまうようなものではなく、あくまで、「モリアゲ効果」としての範囲にとどまるものであって、それ以上に逸脱して、「作品」自体の「在り方」や「意味」に影響を与えてしまってはならないモノなんだと思うわけです。


まぁ、そういう「過剰演出」を「エンターテイメント」の世界では「ヤラセ」と言ったりするということでしょうね。


つまり、その作品の本来の「在り方」を,変えることなく最大限に引き出すことを「演出」と言うのでしょう。


それに対して、ここで言う「見せ方」と言うのは、その「作品」の根源的な「在り方」を変えてしまうような形で、見る者の視点を転換することを言っているわけです。


たとえば、美術展で言うと、「展示方法」や「作品の並べ方」などが「演出」に当たります。


それに対して、ここで言っている「見せ方」の部分に当たるのは、美術展に行った時に、出口の先に「お土産コーナー」みたいなものが設けられていて、その日、展覧会で見た「作品たち」が、いわゆる「グッズ」になって販売されていることが多いですが、その「グッズ」に成った「作品たち」は、もはや、「作品」とは言えなくなっていて、マグカップはマグカップだし文房具は文房具なわけで、そこに取り込まれた「作品」たちは、マグカップの絵柄であり、文房具のデザインであるわけです。

つまり、「作品たち」の「在り方」が変わったわけですね。


こういうのは、「作品」から、むしろ遠ざかってしまっている例ですが(それが悪いということではありません)、それとは反対に、「作品」をより一層、その「作品」の目指すところに近づけるような「見せ方」と言うのもあるんじゃないかと思っているわけです。


「近づける」と言うよりは、「補完し合って完結させる」と言う感じでしょうか。


少し前までは、「芸術」に、このような「見せ方」と言う考え方は必要ではなかったんだと思いますが、現在は、「芸術」が確固たる拠り所を失ってしまっている時代なので、それを何かの形で「補完」する必要が出てきているんじゃないかと思うわけですね。


それが、私の場合は「絵画」における「額」なわけですけど、もちろん、他の「ナニカ」であってもいいでしょうが、拠りどころを失くした「芸術」が「芸術」として「存在」するためには「ナニカ」が必要なんじゃないかなと。


まぁ、そんなことを考えてやっているというわけなのです。


 ※ここでいうところの「芸術の拠りどころ」とは、「その作品の意味」とも言い換える
  ことが出来ると思います。
  「現在の芸術」においては、「意味」が求められると思っています。
  現在は、「独自の意味」を持たないものを「芸術」ということが難しくなっているん
  じゃないでしょうか?
  もしも、「独自の意味」がなくても、「芸術」と言えるのであれば、工業的に生産さ
  れたものでも、自然に産出されたものでも「芸術」であると言わなければならなく
  なりますが、そうなると、いかなるものも「芸術」ではないとは言えなくなってしまい
  ますから、その時点で「芸術」という言葉の意味が崩壊して、「芸術」は存在でき
  なくなってしまいます。

  その「意味性」を強化するために「見せ方」を使うことは出来ると思うわけです。

「芸術」や「エンターテイメント」を「一般人」の手に取り戻そう!



今や、「芸術」と言えば「芸術家」のもの、「エンターテイメント」と言えば、「芸能人」などの一部の「エンターテナー」のもの、ということに成ってしまっているわけですが、これらを「一般人」の手に取り戻さなければならないと思うわけです。


もともと、「芸術」だって、「エンターテイメント」だって、昔は、きっと「一般人」のものだったんじゃないかと思うのです。


マスコミもなく、情報伝達手段も限られていた時代には、「芸術」や「エンターテイメント」は、確実に「一般人」の手の届く所にあったんじゃないでしょうか?


たとえば、デビューする前の演歌歌手の人なんかが、地元の「のど自慢」の賞を総ナメにしていたと言う話しがありますけど、その時点では「一般人」だった人が、「プロ」に成った途端に、「一般人」ではなくなってしまうわけです。

そういうことで、「歌」と言う「エンターテイメント」が「一般人」から奪い取られていってしまうというわけです。


もちろん、今でも、地方の「のど自慢」はあるんでしょうが、それは、常に、「素人芸」として見下されてしまうわけです。
そこで優勝しても「素人」ですが、「プロ」になると「エンターテナー」に成るわけです。


でも、そもそも、そういう「一般人の中の一番」を超えるような、「一番の上の一番」って、どれほど求められていたんでしょうか?


たとえば、「お笑い芸人さん」の「一番」を決めるような「〇〇グランプリ」みたいなのがありますけど、そこで言う「一番」って必要なんでしょうか?

だいたい、「一番オモシロイ」って誰に決められるんでしょうね。


それに、人をよく観察していると、一日に一人くらいは「かなりオモシロイ人」に出会いますから、なにも「全国的に一番」である必要なんてないんじゃないかと思ってしまうんですよね。


いづれにしても、こういったことで、「芸術」や「エンターテイメント」が、「一般人」の手の届かないところに持っていかれてしまっているんじゃないかと思うわけです。


「芸術」にしたって、「〇〇展入選」とか「〇〇展大賞受賞」とかということで、すべてが評価され過ぎているんじゃないかと思うわけですね。


そして、そのさらに先にプロの「芸術家」が居て、やっぱり、そこからは、もう「一般人」ではなくなってしまうわけなのです。

こういうことで、「一般人」の手の届かないところに持っていかれてしまったものたちを、「一般人」の手に取り戻さなければいけないと思うわけです。


やはり「芸術」にしても「エンターテイメント」にしても、それから「スポーツ」なんかでも、一般人も専門家も含めた、それぞれの人からの距離が、等しい状態がイイんじゃないのかなと。


まぁ、そんな風に思っていると言うわけです。


「自分がナニモノなのか」を見出す



私の場合、「自分がナニモノなのか」を見つけるのに、随分と時間がかかってしまいました。
と言っても、今でも「自分がナニモノなのか」がハッキリとわかったということではないですけどね。

まぁ、どちらかと言えば、今までがいかに見当違いだったかに気が付いたって感じですか?


とにかく、5年ほど前に50歳くらいになった頃、ようやく『自分はこんな人間なんじゃないの?』と言う感じでした。

でも、こういうの、私だけでもないんじゃないかと思うんですよね。
「自分がナニモノなのか」って言うことが若いうちからわかっている人って、意外と少ないんじゃないかと思うわけです。


少なくとも、「周りの環境」や、「理解者」に恵まれている人ばかりでもないでしょうから、若いうちに、それが見いだせる人は限られていて当たり前なんだと思うのです。


昔(封建的な時代)は、生まれた環境や両親の職業などで、その人の人生が決まってしまう部分が、かなりあったんでしょうから、あえて「自分がナニモノなのか」を見出す必要自体が、あまり無かったのかも知れません。

しかし、今は、自由になった分、全ての人が「自分を発見すること」を要求されているわけです。
まぁ、いわゆる「自分探し」っていうやつですね。


でも、そこで、あまりにも情報が過多ですから、迷ってしまうわけですね。
その結果、「どうでもよくなってしまう人」がとても多いような気がします。


どうでもよく成ると、人は迷わなくなりますから、「自分探し」からは解放されますが、「自分がナニモノなのか」は見出されません。

これでは、ある意味で「昔と同じ」ということでしょうね。


また、それとは逆に「自分探し」から抜け出せなくなってしまう人も、かなりたくさんいるように思うわけです。


今の時代は、ほとんどすべての人が情報に振り回されていますから、必ずしも、自分とは関係ない「情報の中」ばかり探して、「自分の中」を探さなくなってしまうんですね。

それで、「自分探し」から抜け出せなくなってしまうわけですね。


「自分探し」ですから「自分の中」にしか「答え」がないのは、みんなわかっているんですが、どうしても「金色の答え」を探してしまうんですね。
それで、「渋い感じの色の答え」しかないと、「チガウ」と思って、また「自分探し」を延々と続けることに成ってしまうわけです。


でも、もともと「色」に「上・下」なんてないわけで、「金色」はただ単に、色が「黄金」の色に似ているというだけのことで、本当の意味で、「色の上・下」なんて、はじめから無いわけです。


その辺が「情報」で惑わされてしまっているわけですけど、そういった「迷い」も含めた「自分の色」を受け入れると、自ずから「自分がナニモノなのか」を見出すことが出来るんじゃないかと思います。


実際は、「ナニ色か?」が問題なんじゃなくて、「その色」を如何に受け入れて、いかに表に向かって出すかが問題になってくるわけです。

もともと、「その色」とは「自分の色」ではあっても、表面に塗られた色に過ぎないわけで、例え金色でもメッキのようなものですから、「その色」がナニ色であっても、「本当の自分の中身」とは必ずしも関係なくて、「自分がナニモノなのか」を知れば、表面の色のことなど気にならなくなるんじゃないかと思うわけですね。


まぁ、所詮人間ですから、全身、金で出来ているわけないんで、「その色」に惑わされる必要もないのかなと。


そうして、「自分がナニモノなのか」を見出すことが出来れば、少し、良くなるんじゃないのかなと。

それでも「迷い」が無く成るわけじゃないですけどね。

その「迷い」は、

『いいんじゃないですか』と。


そんな風に思っているわけです。



「抽象」と言う言葉はもう古い?



いま、言われているような意味での「抽象」と言う概念が現れてきてからでも、もう、100年ほどはたっているんだと思うわけですけど、その間、この「抽象」と言う言葉は、なんとなく、その場その場で解釈されて、”ボーッとした状態”のまま維持されてきたという感じがしているわけです。

しかも、そんな状態のまま、「抽象」と言う言葉が、「芸術」の中で、やや「古クサイ感じ」にすらなって来ているんじゃないかと思うのです。


ちょっと前までなら、「抽象芸術」と言えば、どことなく「先端芸術」な感じがあったし、印象として、「現代美術」に、一生懸命に取り組んでいるという雰囲気があったように思うのです。


でも、今はと言うと、そういった、「一生懸命さ」には、ややドンクサイようなイメージがあって、「もっと、スマートに行こうよ」っていう感じがあるわけですね。


これは、「乗り越えられないこと」に対するゴマカシに過ぎないと思いますし、そういうゴマカシを「センス」と言っていることには何の意味も感じませんが、そもそも、「抽象」と言う言葉に、どれほどの意味があったのかということについては、考え直してみる時期なんじゃないかなとも思うわけです。


もともと、「抽象」と言う概念は、「具象表現の行き詰まり」から抜け出すための「アイテム」、つまり、「非具象」として、考え出されたものなんじゃないかと思うわけです。
(「抽象的な美術」自体は、かなり昔からあったんでしょうが、現在考えられているような概念としての「抽象」ということです)


それで、「具象ではないこと」と言う漠然とした規定で、概念が形成されたために、「具象ではない」ということだけがハッキリしていて、『じゃあ、どういうのが抽象なんだ?』って言うことが、ややおろそかにされてきた感があると思うのです。


実際は、おろそかにされたわけでもなくて、いくら考えても結論が出なかったから放置されてしまったと言うことだと思います。

 ※これは、「芸術の20世紀」の落とし穴の一つだと思います。
  「芸術の20世紀」に置いて、「抽象」と言う概念が、根本的に追及された
  り研究されたりする前に、「芸術の競争」が起きてしまったために、みんな
  が人より先んじようとして、付け焼刃の状態で 「先へ先へ」と急き立てら
  れて、「抽象の理解」がホッタラカシにされてしまったような気がします。
      
  本来、学ばれるべきは「抽象は達成できないことにこそ意義がある」
  ということだったんじゃないでしょうか?
     
現在、「抽象」と言う概念は、個々の作家が、作風に独自性を出すための「アイテム」のように成っているような気がします。


これは、「抽象」の始まりの時点で、「具象の行き詰まり」から脱出するための「アイテム」としてスタートしたことと、基本的には、ほとんど変わっていなくて、違いと言えば、始まりの時点では、「非具象」や「具象の破壊」が目標とされていたのに対して、現在では、「具象性やデザイン性との折り合いのつけ方」に「オリジナリティ」を見出そうとしているというところでしょうか?


でも、「具象」と「抽象」の折り合いをつけること自体は、ちっとも悪いことだと思わないのですけど、それを、「アイテム」として使うというのがどうもシックリこないわけです。


「具象」とか「抽象」とか、また、それらに「どこで折り合いをつけるか」と言ったことは、単なる「アイテム」などではなく、もっと根本的なところで、その人が「芸術」や「表現」と言うものを、どうとらえているか?と言うような、「核」に当たる部分なんじゃないかと思うわけです。


だから、本来は、「オリジナリティ」を出すための「アイテム」ではなくて、その「核」に当たる部分がどこに位置づけられるかで、自ずから、その人の「オリジナリティ」が決定されてくるということなんだと思うのです。

「順番が逆」って言う感じがするんですね。


自分のことで言えば、「抽象」と言う言葉を使う必要性は、徐々に感じなくなってきていますし、また、それに替わる言葉が必要な気も、あんまりしませんけど、『じゃあ、今まで「抽象」ということばで言ってきたことをどう言えばいいんだ?』となると、やや困ってしまうのも事実なわけで、そんな感じで、「抽象」と言う言葉はもう古いのか?

と言う自問については、「保留」ですね。


でも、取り敢えず、「抽象」と言う言葉の意味がどんどん希薄になって来ているということはあるんじゃないかと思っています。


そんな中で、「抽象」と言う言葉を使い続けるのか?と言われれば、

『もう、やめようかなぁ』と言う気もするわけです。


それで、今の時点では、

『「抽象」って、言葉はもう古いのかもね』

と言う風に感じています。


 ※その後、私自身は、「抽象表現」に代わる言葉として「異・現実のリアリズム」と
  いう言葉を使うようになりました。
  その辺は、「異・現実の世界」=「異リアリズム」というカテゴリに書いてあります。

  とはいえ、それは、個人的な言葉として使っているものですから、「抽象表現」
  =「異リアリズム」ということではありません。
  だから、まだ「抽象」という言葉を完全に捨ててしまったわけではなく、並行して
  使い続けております。

いま、「スタイル」と言えるのは「クセ」だけかもしれない



「芸術」には、「オリジナリティ」があるに越したことは無いんでしょうね。


私自身は、「オリジナリティ」は絶対に必要なモノだとは思いませんし、どちらかと言うと、イヤでも現れてきてしまうモノなんだと思っていますから、なにも無理してまで、創り出さなくてもいいような気もするんですけどね。

だから、そういった「オリジナリティ」は、それぞれの人がもともと持ってはいるはずなんですが、ところが、それが、なかなかどうして「作品」を見た人に、スンナリトは伝わってくれないわけです。

どうしても、見る人はハッキリした「スタイル」の方に目が奪われてしまうので、本当の「オリジナリティ」よりも、そういう無理に作られた「スタイル」に持っていかれてしまうわけですね。


そこで、やっぱり「自分のスタイル」を身に着けていく必要があるんじゃないかと思うわけです。
まぁ、出来ることなら無理しないで出てきた、本当の「自分らしいスタイル」ですね。
そうすれば、「自分らしさ」が伝わり易いだろうということです。


それで、「自分のスタイル」を見つけるにはどうすればいいだろうと考えるわけですが、現在「芸術」に置いて、「新たなスタイル」に残されている領域は少ないといっていいでしょう。


少し前までは、「画期的な目の付け所」や「斬新な手法」や「誰も使っていなかった素材」と言った、「未開の地」が、まだまだ、たくさん残されていたわけです。
でも、みんなが競って、それをいち早く使おうとし続けて来たわけですから、残された「未開の地」の領域が、少なくなっているのは当然と言えば当然なんでしょうね。

で、いま、「スタイル」と呼べるものと言えば、そういう「新しさ」や「珍しさ」のように「ハッキリしたもの」ではなくて、もう少し「普通なもの」に成るんじゃないかと思うわけです。


もともと、「芸術」っていうものが、そこまで「画期的」である必要もなかったような気もしますし、もう少し「普通なもの」でよかったような気もするので、過去に置いては、「画期的」を、一応、一通りやってみる必要があったのだとしても、もう十分にやりつくされた感もあるわけですから、そろそろ、「普通なもの」を再発見していく時期なんじゃないかと思うわけです。


そこで、いま現在、「スタイル」と呼ぶのに、最も近い位置にあるのは、その人が生まれつき持っている「クセ」の部分なんじゃないかと思うわけです。


「クセ」は「技術」にとって邪魔になるということもありますし、「クセ」が出てしまうと、それが「アラ」に見えてしまう可能性も高いので、どうしても排除されてしまいがちですけど、そういう「クセ」をなんとかイイ方に向けて、「アラさ」を残しつつも、「質」を高めていくようにして、「クセ」を生かしていけたら、それが、いま現在「スタイル」と呼べるものに成るんじゃないかと思うわけですね。


そういう、自分の「クセ」を強く出した、言ってみれば「手癖の手法」を使って行けば、それが「自分のスタイル」に成るんじゃないかと思うわけです。


おそらく、それは、誰にもマネできないモノでしょうし、それ以前に、誰もマネしたがらないでしょう。

そういう「スタイル」だと、誰もが皆「唯一無二」なわけですから、マネする意味がないですからね。


「芸術」と言う分野は、突出した「スバラシイ作品」を鑑賞して、そういう「偉大な作品」の「与えてくれる感動」を享受するモノのように成っているような気がしますが、それも一つの側面ではあるとして、もう一つの面として、「誰にでもあるクセ」のような「普通なもの」の中に、見る側が、「感動を見つけ出すモノ」と言う側面もあるんじゃないのかなと。


そういう風にも思うわけです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

※2019年7月に追記
 
ここで「スタイル」と呼んでいるのは、「形式」としての「スタイル」というよりは、
どちらかというと、「その人性」のようなものです。
「芸術作品」自体というよりも、その人の「芸術表現」において、「その人らし
さ」を表現するための要素として「スタイル」という言葉を使っています。

読み返してみて、ほかの記事との間に、意味の行き違いがあるように思えた
ので、追記しました。

「洗練」とは?



「洗練」されているモノと言うと、「オシャレ」だったり、スッキリして「無駄のないモノ」だったり、そういう「最小限の美」と言うようなイメージがあると思うわけです。

確かに、「洗練」と言う言葉には、そういう意味があるんだと思います。


でも、いまの世の中で、そういう意味で「洗練」が使われているのを聞くと、『ちょっと待てよ』と言う風に感じることがあるわけですね。


「洗練」と言う言葉は、文字から察するところによれば、たぶん、「洗い清めて不純物を取り除いた」とか「鍛錬の末に仕上げた」とか、

とにかく、そういった、、『意外に執念深く、徹底的にネリアゲタ』と言うよな意味があるんだと思うのです。
(よくわかりませんが、鉄の鋳造や、刃物の鍛造からきている言葉でしょうか?)


つまり、そういう「執念」の”アゲクの果て”にたどり着く「最小限の美」なわけで、「そうヤスヤスとはいかないモノ」のハズなんだと思うわけですね。


ところが、この言葉を、今の時代の中で耳にすると、「スンナリト行ったモノ」を思い浮かべてしまうんですね。

つまり、そういう「執念」とか「鍛錬」とは対極的な、「スマートさ」や「上品なセンス」みたいなものですね。


そういうものは、そういうモノで、あってもいいとは思いますけど、チョット、「執念」や「鍛錬」の方が、軽視され過ぎているんじゃないかなとも思うんですね。

世の中から、そういうモノが無く成って、「オシャレ」で「センスのイイ」モノばかりになってしまうと、吹けば飛ぶような世の中になってしまうような感じがして、やや、心もとない気もして、でも、チットモ「洗練」されてる気はしないなと。


そんな風に思ってしまうわけなのです。



[20世紀以前の美術」と「20世紀以降の美術」



「芸術」にとって、「20世紀」と言う時代が決定的な転機であったということは、多くの人が認めることだと思うわけです。


それで、何が変わったのでしょうか?

「20世紀以前」と「20世紀以降」とでの、”決定的なチガイ”って何なんでしょうね。
こういうのって、意外と考えないんですよね。

あまりにも”チガイ”過ぎるんで、どこが”決定的なチガイ”なのかなんて、どうでもよくなってしまうのかも知れませんね。


実際、「20世紀以前の美術」と「20世紀以降の美術」は、『こんなにもチガウものを、同じ「芸術」とか「美術」として扱っていいんだろうか?』と思うほど、全く違う性質があるようにも見えるわけです。

だったら、その”決定的なチガイ”も簡単にわかるんだろうと思うわけですけど、それが、そうでもないんですね。


あまりに根本から違っているために、どこでどう違って、こんなにぜんぜん違うものになってしまったのかが、かえって解りにくく、そして説明し辛くなっているんでしょうね。

それで、どうしても「多様性」や「抽象性」といった、やや漠然とした言葉を使って説明してしまうために、いっそう、わからなくなって、けっきょく最後は、『そんなこと説明してもしょうがないだろ!』とか、『そういうことを考える暇があったら、自分の作品を作れ!』ということに成りがちなわけです。


でも、私の場合、その辺が漠然としていると、どうもスッキリしないタチなので、そこのところを考えてみるわけです。



まず、「芸術の20世紀以前」には、「芸術」にも、「枠」があったと思うのです。
つまり、「規定」ですね。


「絵画とはこういうモノ」、「彫刻とはこういうモノ」、「ここまでは芸術と言えるけど、ここからは芸術ではない」、と言う、一種の「暗黙の了解」が成立していたということでしょう。
(それ自体にもアヤフヤなところがあったのかも知れませんが)

これは「芸術」に限らず「社会全般」にも言えることだと思いますけど、19世紀から20世紀にかけて、様々なことで、それまで、「暗黙の裡に了解されていたこと」や、「無条件に信じられていたこと」が、覆されるという事態が起きてきて、ナントナク成り立っていた「枠」が成り立たなくなってきたんでしょうね。

それでもって、「メンドクサイから、枠なんて全部トッパラッチマオウ!」となったみたいです。


これが、いわゆる「多様性」に当たる部分だと思うわけです。
つまり、「なんでも芸術と言っていいですよ」ということに成ったわけですね。
それだけ「自由」に成ったのは確かでしょう。


実際、「芸術の20世紀」を通して、それまで「芸術」ではないと思われていたモノのなかに「芸術」を見つけ出すことや、「芸術性」を与えることといった「行為」を「芸術」と言う傾向はあったように思います。


ここで、前述の「あまりにもチガウ」に成ったんでしょうね。


また、ここで、少なくとも「美術」に関する限り、それまでは「作品」をもって「芸術」としてきたのに対して、「行為」自体を「芸術」とする考えが現れてきたことで、「芸術」が、より「精神的なもの」として考えられるように成って行ったわけでしょう。

つまり、「物質」の枠を抜け出して「精神性」を高めようとする傾向があったのだと思います。
おそらく、この「精神性」が「表現形態」としての「抽象」に至ったのでしょう。

この「抽象」と言う概念が「考える芸術」に発展して行くことに成ったということだと思います。


確かに、この「多様性」と「抽象性」の二つは、「20世紀以前の美術」と「20世紀以降の美術」を分ける重要な要素なんだと思います。


しかし、それ以上に”決定的なチガイ”は、「創造の芸術」と「破壊の芸術」の違いです。


「20世紀以前の美術」に置いては、誰もが「創り出すこと」しか頭になかったと思います。
それが、やや凝り固まって、行き詰って行ったわけでしょう。
要するに、「アカデミズム」が、あまりに権威的になってしまったわけですね。


それで、一度「壊すこと」が必要になったんでしょうね。
ところが、今度は「壊すこと」しか頭になくなってしまったみたいですね。


どちらにおいても、結果的には、「創造~破壊~再生」という、自然界が持っている「サイクル」が失われてしまったわけです。


「20世紀以前の美術」=「創造の芸術」
これを言い換えれば、「創造に行き詰った芸術」とも言えるでしょうし、

「20世紀以降の美術」=「破壊の芸術」
これを言い換えれば、「破壊に行き詰った芸術」と言うこともできるでしょう。


つまり、「20世紀以前の美術」と「20世紀以降の美術」の”決定的なチガイ”は、「破壊」と「創造」と言うチガイですが、その二つの共通点は、「それらを極めようとしたこと」で、どちらも、反対側の視点を失ってしまったために、最終的には行き詰ってしまったということでしょう。


そこで、この「行き詰まり」を脱して、次の世紀に生き残っていくには、「破壊」と「再生」を”ワン・セット”のものとして、一連の流れの中で考えていく必要があるんじゃないかなと。


こういった「思考」と「作業」の繰り返しが、今後の「芸術」に成るんだと思うわけですが、そこのところを、ハッキリさせずに漠然とやっていると、またしても、同じ轍を踏むことに成るような気がするので、そのへんを、ハッキリと意識していこうかなと。


そんな風に思うわけなのです。





『わるい作品なんてない!』・・・・でしょ?



「芸術作品」と言うと、どうしても「スバラシイ作品」と「マアマアの作品」と「ダメな作品」があって、「スバラシイ作品」を作った人は”エラクて”、それ以外の人は”ドウデモイイ”って言うことに成っているところがあるわけですけど、私は、基本的に「芸術をやろうと思うこと」自体が、すでに「スバラシイこと」なんだと思うわけです。
だから、その結果、出来てきた「作品」に「出来のイイモノ」と「出来のワルイモノ」があったとしても、それは「たまたま、そうなった」と言うだけのことであって、「わるい作品」なんて無いと思うわけです。


たぶん、全ての人が、純粋な気持ちで、『絵を描こう!』とか『芸術的な表現や鑑賞をしよう!』とかと思っていたら、いろんな意味で、世の中が今よりも楽しくなるんじゃないかと思うわけです。


だから、もっともっと、たくさんの人が「芸術」や「芸術的なこと」に対して、興味を持って、近づけるように成ったら、少しはいいんじゃないかなと思っているわけです。


出来るだけ、たくさんの人が「表現すること」や「鑑賞すること」に向かえるようになるためには、『この世の中に「わるい作品」なんてない!!』と言い切ることが必要なんじゃないのかなと。


どんな作品も『本当にスバラシイし、それよりなにより、そういうアナタが絶対にスバラシイ!!』と、みんなが言われていいんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけなのです。



「考える芸術」



「芸術」が考えるものに成ったのは、いつの時代からなんでしょうね?


少なくとも、ルネッサンスの時代の工房制作に置いては、「芸術」は「職人仕事」に近いものだったんだと思うわけです。
(職人が考えないということではないですけどね)

それが、徐々に専門性を高めていって、技術的な研究を通して、「考える」と言う要素が多く成って行ったんでしょうね。

そして、その後、「芸術」の中で、「作家個人の表現」と言う意味合いが強く成って行ったことで、「芸術」は「考える芸術」に成ったんじゃないかと思います。


現在においても、「技術」を重視した「芸術」は存在しますが、「思考」を重視した「芸術」が、次の時代につながって行く可能性は高いでしょう。
(と言うよりも、「芸術」の中で二分化していくのかも知れませんね)


もともと、「考える分野」としては、「ギリシャ時代」或はそれ以前から「哲学」がありました。


また、東洋に置いても、「芸術」とは別に「考える分野」はあったでしょうし、「工芸」や、現在で言うところの「芸術」に当たる分野が、「思考」よりも「技術」に重きを置いていたと言う点も、西洋とそれほど差はなかったんじゃないでしょうか?

そして、必ずしも「考える分野」ではなかった「芸術」が、「作家個人の表現」としての性質を持つように成ったことで、「考える芸術」に成ってきたということに置いても、「東洋」と「西洋」が、同じような道筋をたどってきたと言ってもいいんじゃないでしょうか?


そう考えると、「個人の表現」であるということが、「芸術」を「考える芸術」にしたということに成るわけですね。

また、そのことが、「哲学」における「考える」と、「芸術」における「考える」の”違い”になっているんだと思うわけです。

 ※「哲学」に置いても「自分」を表現することはあるでしょうし、「芸術」に置いても、
  「哲学的な思考」は必要なんでしょうが、どちらに重きを置くのか?ということで
  しょうね。

となると、「自分」のことを「考える」ということが最も重要になってくるんだと思うわけです。
「自分」の中の、「一番自分な部分」とは何なのか?ということが、表現するべきことのように思えるわけですね。


そういう、「自分」の中の最も根源的に刻み込まれたモノを表現できたらイイんじゃないのかなと。
つまり、「後から身に着けたようなモノ」じゃなくてですね。
言い換えると「考えてわかったこと」じゃなくて「考える前からわかっていたこと」とでもいうんでしょうか?

これは、先天的な能力と言う意味ではなくて、どちらかと言うと、「自分の中心」と言うような意味ですね。

そういう「考える前からわかっていたこと」=「自分の中心」について『考えましょう』

と思っているわけです。



「本能」と「欲望」と「芸術」



私は、自分の「芸術に対する指針」の一つとして、『本能に近く、欲望からは遠い』ということを念頭に置いているわけなんですね。


要するに、人間の根源的な部分に訴えかけるようなものであって、尚且つ、それに溺れていないモノを目指しているわけです。


「性欲」や「食欲」や「睡眠欲」などは、人間の「本能」であると言われていますが、そうした「欲」が「欲望」に成る「変わり目」と言うのがあって、その「変わり目」を超えたモノは「本能」から遠ざかって「欲望」となり、最終的には、それすらも腐敗して、「邪気」のようなモノになってしまうのだと思っています。


まぁ、例えばの話、「美しい女性」を描けば、確実に男性の目を引くことは出来るでしょうが、そういった「エロティシズム」だけを追究していけば、そこで、満たされるものは、「欲望としての性欲」であって、「本能的な性欲」とは言えないと思うわけです。

つまり、それは、「芸術」と言うよりは「ポルノ」と言うべきモノでしょう。

「ポルノ」が悪いということではなくて、『「芸術」とは、求めるモノが少し違うんじゃないか?』ということですね。


ですから、出来ることなら、「本能」には近くて、「欲望」からは遠いモノを目指していきたいなと思っているわけです。

「本能」から離れてしまうと、「オモシロイモノ」は出来ても、人の心の深い部分を動かすことは出来ないんじゃないかと思っています。

また、「欲望」に近づきすぎてしまうと、人を誘惑したり陥れたりすることは出来ても、人を魅了することは出来ないんだと思うわけなのです。


とは言っても、必ずしも、たくさんの人の心を動かすとか、あらゆる人を魅了するとかということを目指すものではありません。


一人の人の心でも動かすことが出来れば、「上出来」だと思いますし、誰かを魅了するようなものができれば、「十分満足」です。


そこで、『もちろん、人数が多ければそれに越したことは無いですよ』ということは、なるべく言わないようにしています。
(つい言ってしまうこともありますけどね)

なぜなら、それが「欲望」になってしまいそうだからですね。


『誰か一人の人でもいい』と思い続けることが出来れば、「本能」に近く、「欲望」からは遠い「芸術」に成るんじゃないのかなと。


一応の目標として、

そういう風に思っているわけです。




プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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